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堺利彦を再発見した渾身のノンフィクション〜『パンとペン』

●黒岩比佐子著『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』/講談社/2010年10月発行

b0072887_1058154.jpg 日本社会主義運動の父といわれる堺利彦の評伝はすでにいくつか刊行されているが、当然ながら社会思想史の観点から書かれたものが多い。本書はもっぱら文学の方面から光を当てたもので、古書マニアとしてもならした著者の本領が遺憾なく発揮された労作である。

 堺利彦とは何者であったのか。
 外国語に堪能で翻訳にも少なからぬ業績を残した海外文学の良き紹介者。言文一致運動の推進者。女性解放運動にも取り組んだフェミニスト。稀代のユーモリスト。……黒岩は堺のそうした多面的な相貌を活き活きと描出しているのだが、なかでも注目したのが堺の立ち上げた「売文社」という会社である。

 幸徳秋水らが処刑された大逆事件に象徴されるように政府の弾圧が厳しさを増してきたなか、若い社会主義者たちの中には生活の糧を得ることじたいに苦労する者も出てきていた。売文社は堺が同志たちを食わせていくためにつくった会社であった。「売文社のペンはパンを求むるのペンである」。そこでは、雑誌原稿のほか、外国語文献の翻訳、新聞広告や引札の文案意匠、選挙候補者や応援弁士の演説草稿、大学生の卒業論文などなどマルチな事業が展開されていた。衆院議員の著作のゴーストライティングも行なった。今日の編集プロダクションや翻訳エージェンシーの草分け的存在ともいえるだろう。

 社会思想史の研究者は、社会主義運動と分離した売文社を、意味がないものとして切り捨ててしまうかもしれない。だが……私が興味を惹かれたのは、社会主義運動の「冬の時代」と呼ばれる苛酷な時期に同志の衣食を支えた、この売文社である。(p318)

 こうして黒岩は売文社が手がけた多彩な仕事を偏見をもたずに拾い上げていく。たとえばジャック・ロンドンの訳者として、堺の訳業を歴史的に吟味する。あるいは『地球の歩き方』の先駆的書物として売文社が編纂した旅行案内記『世界通』について言及する。売文社とその会社を回していた堺の活動を振り返ることで、堺利彦という存在が出版史・文学史のなかに位置づけられる。そしてその記述のなかから彼の人間味にあふれたキャラクターも立ち上がってくるのだ。

 また売文社の解散の要因となった堺と高畠素之らの対立についてもそれなりの紙幅を費やしていて、当時の社会主義運動の内部対立の一端を浮かび上がらせている。社会主義とひと口にいってもそこには様々なバリエーションが存在した。

 それにしても黒岩の調査・取材ぶりはじつにきめ細かい。堺利彦の孫など関係者へのインタビューを行なっているほか、膨大な文献の読み込みにも手抜きをまったく感じさせるところがない。堺と夏目漱石や松本清張との関係など、日本文学の正史に埋もれた興味深いエピソードもふんだんに盛り込まれていて、ノンフィクションとしては一級品の味わいといえるだろう。

 ちなみに黒岩は本書執筆中に膵臓ガンを宣告され、最後は病体に鞭打って完成させたことがあとがきに記されている。二〇一〇年に五十二歳の若さで他界した著者にとって、これは最後の著作ということになる。
by syunpo | 2013-02-27 11:14 | ノンフィクション | Trackback | Comments(0)
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