●寺山修司著『寺山修司全歌集』/講談社/2011年9月発行(文庫版)
演劇、映画、写真、文学……あらゆるジャンルをまたいで自在に活躍した寺山修司が定型詩からその創作活動を開始したというのは興味深いことである。寺山は自身の歌集のなかで述べている。「縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語の自由をもたらした」と。本書には三つの歌集《空には本》《血と麦》《田園に死す》と未刊歌集《テーブルの上の荒野》の作品、及び初期歌篇が収められている。底本は同じタイトルで一九八二年に沖積舎より刊行され、二〇一一年に講談社学術文庫の列に加えられた。 寺山が他界してすでに三十年。その後に登場した俵万智や穂村弘らの軽いノリの口語短歌を読んでしまった二十一世紀の現在地点から寺山を読み直すと、あらためてその言葉のみずみずしさとともに濃厚なドラマ性に圧倒される。 ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし 飛べぬゆえいつも両手をひろげ眠る自転車修理工の少年(初期歌篇) 夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(《空には本》) 麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース 壁越しのブルースは訛りつよけれど洗面器に湯をそそぎつつ和す(《血と麦》) 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥 村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ(《田園に死す》) ところで処女歌集《空には本》の歌に出てくる数詞は「一匹」「一粒」「ひとり」などなどすべて「一」である、という穂村弘の指摘には思わず唸らされた。「……これは作中の世界が、作者という神の手によって、完全にコントロールされていることのひとつの証だと思う」。〈私〉を規定し〈私〉を歌いつつ、寺山の目は常に映画のカメラのように世界を鮮やかに創作していたのだ。
by syunpo
| 2013-08-03 12:07
| 文学(詩・詩論)
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