●國分功一郎著『来るべき民主主義』/幻冬舎/2013年9月発行
近代の政治理論は「立法府こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な決定機関すなわち主権である」という前提にたっている。ゆえにその関わりが不十分であっても民衆が立法府に何らかの形で関わっていれば「民主主義」が実現されていると考えられてきた。民主主義について考えるとき、もっぱら立法府たる議会と民衆の関係ばかりが議論されてきたのはそのためである。しかし現実に決定しているのは執行機関たる行政府ではないのか。 本書の結論的な主張は著者もいうとおり至極単純である。 立法府が統治に関して決定を下しているというのは建前に過ぎず、実際には行政機関こそが決定を下している。ところが、現在の民主主義はこの誤った建前のもとに構想されているため、民衆は、立法権力には(部分的とはいえ)関わることができるけれども、行政権力にはほとんど関わることができない。 ……(中略)…… ならば、これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。(p17〜18) 國分功一郎は以上のような認識を自身が関与した市民運動をとおして導き出すに至った。本書がおもしろいのは政治哲学をベースにしながら実践的な内容を含んでいる点にあるだろう。 従来の政治理論の欠陥を補うために、國分は議会制民主主義そのものを否定することはもちろんしない。つまりそれを根本から変えることを志向しない。「制度が多いほど、人は自由になる」というジル・ドゥルーズの言葉を引用しつつ、住民の行政権関与を制度化すべく既存の政治機構に強化パーツを足していくという発想を採る。國分が本書で掲げている強化パーツの提案は以下の三つである。 (1)住民の直接請求による住民投票 (2)ファシリテーター付きの住民・行政共同参加ワークショップ (3)パブリック・コメント 國分が最初に提起した従来の政治哲学批判はなかなかに鋭いものだ。ところが具体的な制度設計の段になると斬新な提案といえるものはなく、その意味では率直にいって腰砕けの感もなくはない。本書では批判的に言及されている熟議民主主義理論の研究者たちが提起しているコンセンサス会議や討論型世論調査、政策課題を議論するための市民陪審制などとたいして変わらないのではないか、というのが素人的な印象である。また根本的な変革を斥けて、強化パーツを付加していくという類いの社会工学的なアプローチにも批判はありうるだろう。 むろんだからといって本書の価値を貶めるつもりは毛頭ない。小平市都道三二八号線問題に関わった体験から出発した本書は政治哲学上の考察にとどまらず現場からの肉声を伝えているという点においても意義深い本ではないかと思う。なお書名はジャック・デリダが晩年に使っていた表現をそのまま借用したものである。
by syunpo
| 2013-10-31 20:52
| 思想・哲学
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