●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上下巻』(幾島幸子訳)/NHK出版/2005年10月発行
アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『〈帝国〉』に続く第二弾ともいうべき著作。二冊ともに今や現代の古典ともいえるほどに引用される機会は多い。前著で新しいグローバル秩序──〈帝国〉的秩序──の分析を行なったネグリ=ハートは、本書において〈帝国〉的秩序に対するオルタナティブの可能性と抵抗の主体性の探究を行なっている。ここで鍵言葉となるのが書名にも採られた〈マルチチュード〉だ。 マルチチュードとは何なのか。それは「大衆」や「労働者階級」とは区別される。マルチチュードとは「さまざまな社会的差異はそのまま差異として存在しつづける」ような人びとの開かれた関係性とでもいうべきものである。それは現在のポストモダン的な生産体制のもとで主流となっている非物質的労働や生政治的労働が必然的に創り出すあり方でもある。 マルチチュードという概念が提起する課題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互いにコミュニケートしつつともに行動することができるのか、ということである。(上巻p20) 従来の政治哲学においては、君主制であれ貴族制であれ民主制であれ、主権は一者が担うものとされてきた、というのが本書の認識である。〈帝国〉的秩序の時代にあっては、単一の者が統治する必要はないだけでなく、一者が統治することはありえない。単一の主権主体が社会の上に君臨するという超越的モデルが不可能となれば、マルチチュードの出番となる。マルチチュードは一者たりえない。差異は差異として相互に認め合うのが原則だからだ。ゆえにマルチチュードが〈帝国〉的秩序の主権を担うことはない。それは〈共〉的なものとして、〈共〉的なネットワークの運動体として存在する。 〈共〉にもとづく社会的諸関係を創造するマルチチュードの力は主権とアナーキーの間にあり、したがってそれは新しい政治の可能性を指し示しているのである。(下巻p231) 「新しい政治の可能性」として本書では、メキシコ・チアパス州におけるサパティスタ運動や、一九九〇年代に活躍したイタリアでの「白いツナギ」運動など多くの実例を引いている。あるいは反戦運動や環境問題の活動家グループ、性的少数者たちが時に連帯してグローバルな規模で運動を行なっているようなケースもマルチチュードの可能性の発現として好意的に紹介している。 本書の認識にあっては、自分の頭だけで考えるというような個人的な思考のあり方にも懐疑の目が向けられる。「思考とは本来、単独でなされうるものではない──どんな思考も過去や現在の他者の思考との共同作業によって生み出されるのだ」と。 とはいうものの率直にいってマルチチュードなる存在が政治の具体的な場所で主導的に政治決定していくすがたを明瞭にイメージすることは私にはむずかしい。それはマルチチュードが本書において適当な日本語が見つからずそのままカナ書きで表記されていることにも表れているかもしれない。著者たちのいう「代表制を超えた新しい民主主義の形態」がいかなるものなのかも判然としない。末尾において「愛」を持ち出しているのも日本の読者には今ひとつピンとこない表現ではなかろうか。本書の大振りな分析に異論を唱えることはさほど難しいことではなかろうし、現に多くの異論反論が提起されてもいる。 ただそれにしてもマルチチュードがよくも悪しくも様々な方面に多大な影響を与えたこともまた否定できない事実だろう。オープンソース社会という本書の比喩に注目するなら、ドン・タプスコットとアンソニー・D・ウィリアムズのいう『ウィキノミクス』は、マルチチュードの〈共〉的な活動のビジネス版という感じがするし、シャンタル・ムフに代表される闘技的民主主義理論が合意よりも差異を重視するという点でいえばマルチチュードの政治に通じる面があるように思われる。また昨今、日本でも少なからぬ政治学者が提唱している「多数性の政治」も本書の影響を抜きには考えにくいものだろう。 本書の分析が目指すのは「民主的なマルチチュードがいかに形成され、人びとが日常生活や労働活動においてすでにもっている能力と知識によって、それがいかに活気づけられるかを明らかにする」ことだと冒頭に述べている。日本の某政治哲学者がナショナリズムの不可避性をいうだけのために本書に執拗な批判を加えている、その退屈な書物に比べれば、来るべき民主主義のためにマルチチュードの潜勢力を浮かび上がらせようとする本書の試みは充分に創造性にみちたものではないかと思う。
by syunpo
| 2013-12-21 19:05
| 思想・哲学
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