●柄谷行人著『遊動論 柳田国男と山人』/文藝春秋/2014年1月発行
柄谷行人の柳田国男論が相次いで刊行されている。若い頃に執筆した論文を集めた『柳田国男論』はすでに紹介済みだが、本書は二〇一三年に四回にわたって《文學界》に発表した論考と書き下ろしの付論を加えたもの。つまり柄谷の最新の柳田論である。 柳田は初期の段階で、山人、漂白民、被差別民などを論じていたが、後期にはそれらから離れ「常民」を対象とするようになり、一国民俗学を提唱した。そのことが七〇年以後に批判の的となった。しかし柄谷は、柳田の活動に一貫した問題意識を見出し、テクストをその可能性の中心において読もうとするのである。キーワードは「遊動性」。それは柄谷の近年の仕事である『世界史の構造』や『哲学の起源』の文脈にも位置づけられるものであり、その意味でも本書の柳田論はスリリングな読み味を醸している。 柳田が山人に見出したことの一つは、その遊動性であった。一九〇八年からの九州四国旅行で訪れた椎葉村は焼畑と狩猟で生活している山村だったが、そこに住む山民は平地における農耕民とは別の思想をもっていると柳田は考えた。「彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居る」。 柳田にとって貴重だったのは、彼らの中に残っている「思想」である。山民における共同所有の観念は、遊動的生活から来たものだ。彼らは異民族であると見なされない。ゆえに、山人ではなく、山民である。しかし、「思想」において、山民は山人と同じである。柳田はその思想を「社会主義」と呼んだ。柳田のいう社会主義は、人々の自治と相互扶助、つまり、「共同自助」にもとづく。それは根本的に遊動性と切り離せないのである。(p72) ところが柳田は後期にいたって、山人について書くのをやめた。しかし、考え方そのものを放棄したわけではない。柄谷によれば、日本古来の「固有信仰」を探求することで、遊動的な共同自助の思想を探り出そうとしたのである。柳田がいう「固有信仰」は、稲作農民の社会では痕跡しか残っていない。それは、むしろ、それ以前の焼畑狩猟民の段階に存在したものである。ゆえに、固有信仰を求めることは、実は、山人を求めることにほかならない。 柳田が「我々は公民として貧しい」というとき、それは、西洋には成熟した市民社会があるが、日本にはないというようなことをいっているのではない。彼は「公民」の可能性を、むしろ前近代日本の社会に求めている。ゆえに、民俗学となるのだ。(p103) このあたりの柄谷の読解を要約するのは容易ではないのだが、あらためて柳田の思想の深さを示すものとして、多くの読者を柳田ワールドへと誘うものであることは確かだろう。柳田の民俗学は、来るべき民主主義社会のすがたを構想するうえで少なからぬヒントを与えてくれるものなのである。
by syunpo
| 2014-02-02 19:38
| 思想・哲学
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