●廣瀬純著『絶望論 革命的になることについて』/月曜社/2013年4月発行
廣瀬純の本はこれまで愉しく読ませてもらってきたけれど、本書はかなり手ごわい。スピーチを加筆修正したもの二篇と対談の筆記録が一本。基本的にはジル・ドゥルーズ論といえる内容である。革命、厳密にいえば革命的になることをめぐるドゥルーズの思想。それは本書のタイトルに即していえば「絶望の創出」論とでも名づけ得るものだ。 ドゥルーズにおいては革命はあくまでも不可能であるとされ、人々は革命の不可能性に対する抵抗として革命的になるだけなのです。(p40~41) これが本書全体を貫く基本認識である。ドゥルーズ=廣瀬によれば、どんな創造も不可能性に「強いられる」ことなしにはありえない。しかし不可能性とは誰にとっても自明に存在するのではなく「知覚」すべきことなのである。絶望の創出こそが重要だと本書が述べる所以はそこにある。最初の〈ドゥルーズ、革命的になること〉は、そのようなドゥルーズの革命論をあとづけていくものなのだが、ただし一般読者にはいささか難解といわねばならない。 ゴダールの《中国女》を論じた〈明晰な世界に曖昧なフィルムを対峙させよ〉は、ドゥルーズ思想の具体的なかたちをゴダールのフィルムに見出そうとする試み。六〇年代のフランス、中国の文化大革命の影響を受けたマオイストの若者たちを描いたこの作品はかつて保守的な批評家によって論難されたように「何も開くことなく終わってしまう」ものかもしれない。が、本書の文脈においてはむしろそこにおいてこそ読み解くべき「不可能性/可能性」を有していたということになる。 「閉じることによって終わる」ということのゴダールにとっての賭け金は、革命の不可能性を革命の──あるいはより厳密には「革命的になること」の──絶対的な「始まり」そのものとして創設することにこそ存していたのです。(p90) ドゥルーズ=アルチュセール的な視点を導入してゴダールを読み解こうとする廣瀬の考察の過程をたどっていくと、なるほどある種の知性に触れている感じはする。が、その批評が巧緻であればあるほどに、ゴダールをこのような図式におさめてしまうことへの違和感を覚えずにはいられなかったことも率直に述べておこう。もちろん廣瀬の洞察があらためて《中国女》という作品への関心を喚起する論考であることは否定しない。 水俣病に関して独自の運動を行なっている緒方正人との対談〈絶望が個に返されている〉は「革命的になること」の具体的一例として捉えうるもので、本書のエッセンスを理解するうえでは格好の記録といえる。 良くも悪しくもドゥルージアンたる著者の特徴が色濃く出た本といえるだろう。
by syunpo
| 2014-02-24 20:05
| 思想・哲学
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