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母語は精神そのもの〜『日本語教室』

●井上ひさし著『日本語教室』/新潮社/2011年3月発行

b0072887_11333339.jpg 井上ひさしは日本語について深く継続的に考察を続けた作家である。言葉そのものと格闘し続けた記憶に残る現代文学者の一人として井上ひさしの名を挙げる人は多いのではないか。本書は母校の上智大学で行なった四回の講演をまとめたものである。

 第一講では、母語の重要性を唱えたうえでアメリカ中心のグローバリズムに言語の面から反対を唱える。英語を中心とする外来語の氾濫を危惧するなど、その結論的な主張は残念ながら紋切り型の域を出ないけれど、「母語は道具ではない、精神そのものである」という認識は本書の基調となるものであるだろう。

 母語を土台に、第二言語、第三言語を習得していくのです。ですから結局は、その母語以内でしか別の言葉は習得できません。ここのところは言い方がちょっと難しいのですが、母語より大きい外国語は覚えられないということです。つまり、英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語より大きい母語が必要なのです。だから、外国語が上手になるためには、日本語をしっかり──たくさん言葉を覚えるということではなくて、日本語の構造、大事なところを自然にきちっと身につけていなければなりません。(p19)

 第二講では、日本語の成立過程を考察していく。原縄文語から原弥生語を経て現日本語へと至る長い道のりを井上らしい学識と想像力で類推していく話はそれなりに面白い。
 日本語の音韻について語った第三講は数多くの戯曲を手がけてきた井上の本領が最も発揮されているといえようか。とりわけ「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」という斎藤茂吉の歌を音韻の面から分析していくところは説得的である。

 第四講は、言葉の文法に関する考察。母語の文法については誰もが無意識に習得しているものであり、学者が整理することによってそれぞれの文法が組織化されると述べ、そのうえで日本語の不確かさを指摘する。おもしろいのは、第一講で語った外来語の氾濫に対する見解を訂正している点である。

 ぼくは外来語をできるだけ使わないようにしてきましたが、少し考えが変わってきました。誰もが意味を知っていて、それを使ったほうが便利だという言葉については排除せずにきちんと使う。しかし、わかっているつもりでも本当のところはわかっていない言葉を使って考えるのは非常に危険なことかだから、乱発はしない──今はそういう態度で外来語に向き合おうと思っています。(p172~173)

 井上ひさしの名が冠せられた本にしてはいささか薄味という印象は拭えないが、話の脱線ぶりも含めて随所に井上らしいユーモアもまぶされていて、リラックスした雰囲気のなかで日本語の現状や特質を学べる本といえるだろう。
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by syunpo | 2014-11-16 11:40 | 文学(小説・批評) | Comments(0)
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