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リスク社会と向き合うための〜『「科学的思考」のレッスン』

●戸田山和久著『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』/NHK出版/2011年11月発行

リスク社会と向き合うための〜『「科学的思考」のレッスン』_b0072887_208140.jpg 科学の知識よりも科学についての知識。科学や技術の営みの特性を知ること。科学者たちの活動をきちんと評価・批判できること。専門家の信頼度をチェックできること。つまり社会のなかでの科学・技術のあり方に適切にツッコミを入れることのできる能力。そのようなメタ科学的知識こそが市民にとって重要なのではないか。本書はそうした基本認識にたって、科学リテラシーの重要性と中身を解説し、さらにその応用のあり方までを論じる。著者・戸田山和久の専攻は科学哲学。

 とりわけ私には科学的思考の枠組みを科学史から実例を引いてきてレクチュアする前半のパートから学ぶところが多かった。
〈理論/真実〉〈仮説/真理〉という二分法的な思考の危うさを説き、〈より良い理論〉を求めていく姿勢に科学的思考の特性をみる。科学的説明には「原因をつきとめること」「一般的・普遍的な仮説/理論から、より特殊な仮説/理論を導くこと」「正体を突き止めること」の三類型あるが、共通するのは「裸の事実」を減らしていくということ。これにより科学は全体として世界を一枚の絵につないでいく。ここに参加しようとしない分野は擬似科学的といえる。
 推論には演繹的推論と非演繹的推論があり、後者はさらに「帰納法」「投射」「類比」「アブダクション」などに類別できる。それらをうまく組み合わせることで、世界について新しく且つ正しいことを言うという科学の目的が果たされる。

 仮説の検証にためには、検証条件だけでなく、反証条件もはっきりさせることも重要である。反証条件をきちんと与えなかったたり、アドホックに仮説を修正することによって仮説を守ることができる。後者は科学のなかでも時々起こるが、やりすぎるるとこれも擬似科学的になる。
 仮説や理論を確かめるための実験は、対照群を置いたコントロールされた実験でなければならない。重要なのは、高確率ではなく相関だからである。しかし相関関係がわかってもそこから因果関係に簡単に飛躍してはいけない。この誤りは日常的にみられるもので注意が必要である。

 以上のような科学リテラシーの中身を明らかにする過程で言及される落とし穴の実例も興味深い。自分が予測している仮説に当てはまる例ばかりを探してしまう「確証バイアス」。曖昧なことや両義的な言明に触れると、自分に当てはまると思い込んでしまう「バーナム効果」などなど。

 後半のパートでは、科学リテラシーを用いて一般市民のなすべきことが説かれる。
 社会の問題の解決を科学・技術の専門家にゆだねることの弊害は、原発事故などによって顕在化した。そもそも今日では科学と政治の領域が区別しにくくなってきており、両者の交わる領域が広がってきている。それは〈トランス・サイエンス〉と呼ばれる。米国の核物理学者、アルヴィン・ワインバーグは〈トランス・サイエンス〉の領域は「科学に問いかけることはできるが、科学によって答えることができない問題」から成っていると述べた。
 ちなみに原発問題で一般市民にもおなじみとなったシーベルトという単位に関して「一見ニュートラルで科学的に見える単位のなかにも、組織荷重係数の見積もりを介して、政治が入り込んでいる」という指摘は重要だろう。

 いずれにせよ、そのような領域の問題を解決していくためには、一般市民が科学リテラシーを身につけ、決定の場に積極的に関与していかなければならない。
 科学リテラシーをもった市民の具体的な実践のあり方として、著者はコンセンサス会議などの具体例を挙げている。このあたりの議論は熟議民主主義論や今年他界したウルリッヒ・ベックのリスク社会論とも重なり合う。結局は一般市民の政治意識や科学リテラシーの向上なしには、民主主義の血肉化も覚束ないということなのだろう。
by syunpo | 2015-01-20 20:11 | 科学哲学 | Comments(0)
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