●井上章一著『京都ぎらい』/朝日新聞出版/2015年9月発行
嵯峨で育ち、宇治に住んでいる京都府民・井上章一の京都論である。と書くだけで、京都人ならその微妙に屈折したニュアンスを感受することができるだろうか。 京都といっても京都の中心部である洛中と洛外では大きな相違がある。というか洛中の人びとにとっては洛外に住む者は行政上は「京都市民」「京都府民」であってもけっして〈京都人〉とは認めないらしいのだ。ひぇ〜。洛外に生まれ育ち、洛外に住んでいる井上はこれまで何度も洛中の人たちから差別的な扱いを受けてきたことを明かしている。その結果生まれた「洛外生息の劣等感」が本書執筆の原動力になっているとも述べている。本書が京都周辺に住む者からみた「京都ならではの、街によどむ瘴気」から語り起こしているのもそれゆえだ。 洛中の人々(=京都人)の何が洛外の人に嫌悪感をもたらすのか。一言でいえば彼らの中華思想ということになろう。梅棹忠夫のような文化人でさえ、そうした中華思想を隠さなかったという。「先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下してはりましたか」という井上の質問に対して梅棹は答えた。「そら、そうや。あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな」。今ならいじめとして非難されるであろう体験談を梅棹は悪びれずに当の嵯峨出身者に語ったというのだ。その種のエピソードをいくつか紹介したあとに、井上は嫌味たっぷりに書きしるす。 私に屈辱をしいた洛中の中華思想にも、ついでだが、ひとことお礼の言葉をのべておく。京都の子として成人していきかねない私の脚を、洛中の人々はひっぱってくれた。お前は京都の子じゃあないと、私はくりかえし、念をおしてもらえたのである。おかげで、私はやや癖のある著述家になりおおせることができた。ありがとうございます。(p52) このような〈洛中/洛外〉の二項対立図式を基調にしつつ、井上は京都の諸相を斬っていく。京都における仏教寺院のあり方をアイロニカルに論じるかと思えば、東京中心史観に基づいた明治維新解釈を相対化する。平安京の副都心として洛外を位置づけ、梅原猛の法隆寺論に肩入れしたりするのも興味深い。また天龍寺に象徴されるようなかつての怨霊思想をあとづけながら、強権的な現政権への批判へと向かう筆致にはとりわけ井上らしさが十二分に発揮されているように思う。 結局のところ、なんだかんだと〈京都ぎらい〉を装いつつ京都への愛を披瀝した本とでもいえばよろしいか。いずれにせよ部外者の私にはふつうにおもしろい本であった。
by syunpo
| 2016-01-17 10:05
| 地域学
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