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ブックラバー宣言

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少しずつ自由に近づいていく〜『中動態の世界』

●國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』/医学書院/2017年4月発行

b0072887_1854230.jpg 薬物やアルコールの依存症は本人の「意志」や「やる気」ではどうにもできない。これは医療の現場では常識的な認識となっているらしい。「絶対にもうやらないぞ」と思うことが治療への出発点のように素人は思いがちだが、「むしろそう思うとダメ」なのだという。

「意志」とは、私たちにとっては一般的にポジティブな概念であるけれど、むしろマイナスに作用する場合もありうる。言い方を変えれば、意志とか責任という言葉で考えている限り、解決しない問題がある──。
こうして國分功一郎は「意志」をめぐる哲学的な思索に入っていく。

 中動態。能動態でもなく受動態でもない。書名が示すとおりこの聞き慣れない文法的概念が本書のキーワードである。

 言語学者のエミール・バンヴェニストによれば、言語には能動態と受動態の区別に先立って、能動態と中動態の区別があったという。それがいつのまにか能動態と受動態の区別にとって代わられ今日に至ったのだ。

 では、中動態とはいかなるものなのか。
 バンヴェニストの定義では、「在る」「生きる」などの能動では「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。対して「生まれる」「享受する」などの中動では「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題となる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるというわけだ。

 ここで興味深いのは、能動態と中動態が対立していた古代ギリシアでは「意志」の概念がなかったという点だ。意志の概念はあくまでも能動態と受動態の対立と結びつけられることによって生まれた。近代司法制度の基礎となる責任という考え方もその線上にあらわれる。

 ……意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p26)

 能動と受動という対立図式は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化する。では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのか。

 ハンナ・アレントやマルティン・ハイデッガーは、能動と受動の対立が意志なる概念を生み出すことを認識していたが、アレントは意志の概念を神学的に擁護してしまう点で、國分は批判に転じる。

 一方、ハイデッガーは、能動と受動に支配された言語の外に出るという問題に対して「きわめて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いをもって答えた」。ハイデッガーは「放下」という言葉で何事かを語ろうとしたけれども、それはいかんせん難解であった。

 そこで國分はあらためてスピノザを参照する。

 スピノザが「中動態」という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。(p236)

 スピノザは中動態だけの世界を記述しようとした。そこでは神すなわち自然は無限であり、その外部は存在しない。スピノザのいう内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

 ……神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。(p236)

 神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは「様態」と呼んだ。

 スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができる。

 ここでさきほどの問いかけに戻ろう。中動態の概念を再構成することで何がわかるのか、という問いに。それに対する一つの答えはこうだ。──自由になるための道筋が見えてくるのだ、と。

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p263)


 以上みてきたように〈能動態/受動態〉の対立図式と結びつけられた意志の概念を疑問視するところから本書は出発し、中動態の考察から自由へといたる道を提示することでひとまず一つの結論をみることになった。

 哲学史的には近代的な責任主体としての「意志」はつねに批判的に検討されてきたといってよい。その意味では本書の問題意識それじたいにとりたてて斬新さはない。國分の考察が優れているのは、その問題を中動態との関連で歴史的に深く掘り下げた点にあるといえるだろう。

 前述したように國分は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症をめぐる「意志」の問題を対話形式で記している。それは中動態の考え方がそのような依存症の治癒にも貢献できる可能性を示唆している。つまり中動態の世界は、単に思考のあり方を鍛えるだけでなく、実社会の臨床現場においても寄与しうることが示されているのである。

 哲学の研究者でもない私が本書を完全に理解したと断言できる自信はないけれど、本来なら地味で辛気臭いはずのインド=ヨーロッパ語における文法の話から、広汎な哲学的思考へとつなげていく本書の叙述がきわめて知的スリルにみちたものであることは確かである。余談ながら読了後に本書が今年度の小林秀雄賞を受賞することが発表された。一読者として心から祝福したい。
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by syunpo | 2017-08-20 18:56 | 思想・哲学 | Comments(0)
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