ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

私たちが得て、失ったもの〜『明治維新150年を考える』

●一色清、姜尚中、赤坂憲雄、石川健治、井手英策、澤地久枝、高橋源一郎、行定勲著『明治維新150年を考える 「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2017年11月発行

b0072887_1024131.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」。本書は第五期の講義を書籍化したものである。講師陣は、民俗学の赤坂憲雄、憲法学の石川健治、財政社会学の井手英策、ノンフィクション作家の澤地久枝、小説家の高橋源一郎、映画監督の行定勲。モデレーターは一色清と姜尚中。二〇一八年は明治維新から百五十年目にあたる。この歴史上の画期に様々な観点から、近代日本の歩みを振り返ろうという趣旨である。私たちは、この間に何を得て、何を失ったのか。

 赤坂は渡辺京二の『逝きし世の面影』をベースに江戸時代末期の日本社会のあり方を再吟味する。渡辺の本は日本を訪れた外国人たちの手記をもとに当時の人びとの暮らしぶりを推察した本。漁から帰ってきた漁師たちは、老人や働き手のいない人たちにも蔑む様子も見せずに魚を分け与えていたというような具体的な描写が紹介されている。当時の日本人たちは一様に「幸せで満足そうに見える」という外国人たちの観察はなるほど興味深い。そこから今後の指針を導き出そうとする赤坂の着眼には賛否両論ありそうだが、近世で一般的に行なわれていた「相互扶助」には確かに一つのヒントがあるように思われる。

 井手の講義は同時期に刊行した『財政から読みとく日本社会』の内容を要約したような内容。経済格差を富裕層から貧困層への分配というようなやり方で解消しようとするのではなく「みなが家族のように助け合う」財政政策を構想する。私自身はあまり賛成しないが、財政社会学からの一つの提案として議論の叩き台にはなるだろう。

 行定は同郷(熊本県)の姜との対談という形で登場している。子供の頃の在日コリアンの少年との付き合い、彼の死にまつわる挿話から、映画作りの意味を探っていく行定の語りは痛切な色を帯びている。在日コリアンを描いた『GO』のような作品が生半可な問題意識から撮られたものでないことがわかり、行定作品への関心もより深まったような気がした。

 石川は「国民主権と天皇制」を考えるにあたって、京城帝国大学で教鞭をとった二人の法学者──清宮四郎、尾高朝雄──にスポットを当てる。朝鮮半島に住む人びとをいかに統制していくかは、学者にとっても大きな関心の一つであったらしい。専門的な議論が展開されているので詳細は省くが、「京城帝国大学における学問が『象徴的行為』に着目する現天皇の論理構成と抜きがたい関係にある」という指摘は重要だと思う。戦後も影響力を維持した清宮の学説はそのような背景から生み出されたのであった。

 澤地はノンフィクション作家らしく自身の体験をベースに、自分たちの体験を語り伝えていくことの大切を切々と説く。身内の若者に向けて書いたつもりの本が読まれないことの無念を語っているくだりはほろ苦い読み味だが、それでも「よそのお孫さんあるいはよそのひ孫さんにあたる人たちに働きかけることはやめません」と締めくくって力強い。

 高橋は明治百五十年を小説誕生百三十年と重ね合わせる形で日本の近代史を振り返る。人間が生きているように、小説もまた生き物であるという。「僕たちは文学や小説を一人一人の作家が書いた個別の作品だと考えがちですが、実は、もうちょっと大きい、時代という生き物、文学という一人の身体を持った者が生み出した作品としてとらえたほうがわかりやすい」という認識は名前こそ出てこないけれどネグリ=ハートが打ち出した「マルチチュード」を想起させる。

 政府が推進している明治百五十年の関連施策には批判的な声も少なくない。政治の側からの一方的な広報宣伝に振り回されないためにも、本書のように様々なアングルから検討を加えることは意義深いことだろう。
[PR]
by syunpo | 2018-01-27 10:31 | クロスオーバー | Comments(0)
<< カラーが示す深い意味と味わい〜... 伝統思想の重層的な相貌〜『日本... >>