●松竹伸幸著『「日本会議」史観の乗り越え方』/かもがわ出版/2016年9月発行
安倍内閣との深い関係が取り沙汰されることの多い日本会議。一民間の任意団体にすぎないが、閣僚の多くが日本会議に名を連ねていることもあって、その政治信条は互いに近しいものと考えられている。本書ではとくに日本会議の歴史観を批判的に検討する。そのうえでその歴史観をいかに乗り越えていくかを示す。 「日本会議」史観とはいかなるものか。 その大きな特徴は、東京裁判史観を批判し、明治以降の日本の歴史を全体として「栄光の歴史」として描くところにある。日本が欧米列強の植民地にならなかったことを誇る一方で、朝鮮半島を植民地にしたことについては「現在の民族自立を尊重する価値観からすれば、韓国統治は遺憾であったといえる」との留保をつけながらも「内容的にも法律的根拠においても、正当なものであった」と述べている。 また太平洋戦争についても「米英等による経済封鎖に抗する自衛戦争」と主張する。つまり侵略戦争という一般的な見方を否定しているのである。 さて、松竹伸幸はそのような史観に対して、頭ごなしに批判を展開することはしない。日本会議の見解は矛盾だらけなので、論難するのはさほど難しいことではないのだが、それでも国際政治史や国際法制史を参照しつつ、その歴史観を細かく吟味していく。そのうえで日本会議史観を斥けるのである。 議論は精細を極めているので、安易な要約は本書の味わいを損ねてしまいかねない。具体的な検討とともに語られる、良い意味で政治哲学的なことばが私にはより強く印象に残った。変則的ながらそれを中心に記してみたい。 たとえば植民地支配をめぐる考察は現代史を学ぶにあたってすぐれて示唆的である。 日本が独立を保ったという栄光の歴史は、日本が韓国の独立を奪うという負の歴史と一体のものだった。不平等条約が改正されたのは、日本のいろいろな外交努力の成果もあるが、根底にあるのは日本が韓国を植民地として支配できるだけの「力」を持ったことにより、ようやく欧米から主権国家だとみなされたということ。当時の欧米諸国のアジアに対する見方というのは、そういう水準のものだったのだ。 ですから日本は、独立を保ったということを誇りに思えば思うほど、その影には韓国を抑圧した歴史があったことに思いを馳せなければならないのです。日本会議の「七〇年見解」や安倍談話のように、光と影の両方があるのだというだけでは、現実を正確に捉えることにならないのです。(p54) また「侵略」の定義や法制化をめぐる議論では日本の特殊な歴史的位置を力説する。すなわち、侵略の定義が確立される原因となったのは、ひとえに日本やドイツが行なった武力行使にあると指摘するのである。日本が侵略したことを重要な原因として、国連憲章がつくられ、日本国憲法がつくられた。松竹はこの歴史的経緯を重くみる。 日本は、侵略政策とはどうやって生み出されたのかを、自分の体験として語れるのです。その責任を問われてはたすことによって、戦後は侵略をしなかった経験も語れるのです(侵略に加担はしたので、その反省も必要ですが)。侵略を企む国に対して、その両方の体験を語る国として対峙することができるのは、世界のなかで日本だけだといっていいでしょう。 その大事な立場を放棄してはならない。切実にそう思います。(p103) 以上のような認識を示したあとにつづく「日本が戦争の過去に否定的に縛られていることは、決してマイナスではないのです」という言葉は含蓄に富む深い認識ではないだろうか。 そうして日本会議史観を最終的に「乗り越え」るために、最後の難問へと向かう。それは戦争の犠牲になったさまざまな死者たちとどう向き合うか、という問題だ。 日本会議は「国民が享受する今日の平和と繁栄」が「英霊の尊い犠牲の上に築かれた」ことを強調する。これは「国民が享受する今日の平和と繁栄」がありがたいものだということを前提にしている。だからこそ英霊に感謝の念を持たねばならないというわけである。けれどもこれは日本会議の現状認識とは正反対である。たとえば日本会議の設立宣言には現状を次のように規定している。 「しかしながら、その驚くべき経済的繁栄の陰で、かつて先人が培い伝えてきた伝統文化は軽んじられ、光輝ある歴史は忘れ去られまた汚辱され、国を守り社会公共に尽くす気概は失われ、ひたすら己の保身と愉楽だけを求める風潮が社会に蔓延し、今や国家の溶解へと向かいつつある」。 ならば「英霊の尊い犠牲の上に築かれた」のはそういう社会だと素直に言わなければならない。本音では日本の現状を忌むべきものと捉えているのに、英霊を持ち上げる時だけは日本がいい社会になったことにしているわけである。これはご都合主義というべきであろう。 ただ、それをいくら批判しても問題は解決しない、という。日本の侵略を批判する立場の人にとって、アジアの死者と日本兵の死者との扱いは分裂したままである。これを放置していては「日本会議」史観の広がりを防ぐことはできないと松竹は指摘する。 そこで最後に結論的に「死者の分断の克服」なるものが提起される。それが具体的にいかなるものであるかは、あえてここに記さないでおこう。是非本書を読んでご確認いただきたいと思う。
by syunpo
| 2018-03-09 18:28
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