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ブックラバー宣言

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翻訳と土着化の重要性を説く〜『英語化は愚民化』

●施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』/集英社/2015年7月発行

b0072887_18294485.jpg 昨今、日本では国策レベルで英語を重視する動きが目立つようになってきた。公用語を英語とする英語特区をつくるという提言、小学校における英語教育の早期化などの動きはその極端な実例といえる。本書ではそのような動向全般を「英語化」と大括りにして批判的に検討する。著者の施光恒は政治理論、政治哲学を専攻する研究者である。

 英語化の根底にあるのは「グローバル化史観」である。その史観に基づけば、英語化はビジネス上の要請のみならず「平和で安定した世界を築くため、政治的・文化的統合を進める」うえでの必須だという。そのためには今や世界標準となっている英語を積極的に導入すべきだというわけである。

 しかし実態はどうであろうか。
「効果が疑わしく公正さにも欠ける新自由主義的な経済政策を無批判に信奉し、子供たちを外需奪取競争の一兵卒とするために英語偏重の教育改革に躍起になっている」のが実情ではないか。

 また国家戦略特区構想のなかには、海外投資家を意識したサービスが多い。政策的に「資本を持ち込んでくれる海外投資家がビジネスを展開しやすい環境を作る」ことも同時に目指されている。
「単一言語使用の誤謬」「母語話者の誤謬」が広まった原因についても、著者は、英米の各種業者のビジネスのうえでのうまみを受け入れたもの、つまり「商業上の理由」にすぎないと断じる。

 そのような実態を覆い隠す役割を果たしているのが「グローバル史観」であり、およびその言語版としての「英語化史観」だというわけである。

「グルローバル史観」に基づく英語偏重政策に対する批判は、さらに歴史的な観点や国際政治的な見地からもおこなわれている。そのような検討を加えることによって本書の記述はより立体的・説得的になっているように思われる。

 歴史的な考察では宗教改革に始まるラテン語と各国の国語との関連を考える。かつては宗教・学術的にはラテン語がヨーロッパの共通語だった。そこでは知識人と一般庶民の断絶があった。しかし宗教改革によってラテン語で書かれていた聖書がドイツ語やフランス語などの土着語に翻訳されるようになり、そのことを通して土着語は国語へと発展した。自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた言語で、知識を得ることが容易にできるようになったことは歴史上、画期的なことである。ヨーロッパ近代の民主化への道はそうして開かれたのである。

 ひるがえって日本ではどうだったのか。近代化の初期においては、森有礼らによる英語公用語化論が提起された一方、翻訳の努力によって日本語を豊かにし、近代国家の基盤たる国語を整備していく道も示された。明治日本が選択したのは後者である。明治の近代化成功のカギは日本語の発展にあったといっていい。

 ちなみに、科学技術立国を支えてきたのは日本語で高等教育を受けることが可能だったからという見解は、本書とほぼ同時期に刊行された松尾義之の『日本語の科学が世界を変える』の基本認識と重なりあうものだろう。

 国際政治的な考察では、グローバル化史観に基づく政治的統合の象徴とみられるEUの問題が検討に付される。EUに対する疑義の代表的なものは、加盟各国の民主主義を危うくするというものである。エリート層と一般庶民との分断が強化されるのだ。

 EUのように国際的な共同体を動かす人々は英語に習熟したエリート層だけに限定されていく傾向にある。ウィル・キムリッカは、欧州の言語上の小国デンマークを例に挙げ、使用者の少ない言語を母語とする人々がEUのなかで不利な立場に置かれていることを指摘している。もしEUの「民主化」が徹底されるとデンマーク国民は他のあらゆる国の国民と議論する必要が生まれるが、それは困難なことである。つまり「選挙制の欧州議会を通じてEUの直接的な民主的責任を拡大することはかえって、最終的に民主主義的シティズンシップを掘り崩してしまう結果となってしまう」。

 そこでEUの失敗は「リベラル・ナショナリズム」理論の台頭を促すことになった。すなわち「国民意識やその共有がもたらす国民相互の連帯意識、ナショナルな言語や文化、それらへの愛着(愛国心)などが、実は自由民主主義の政治枠組みを成り立たせるために大いに必要なのではないか」とする考え方である。そのようなリベラル・ナショナリズムは本書が批判するグローバル化史観と相容れないことはいうまでもない。

 また英語の世界標準語化は「自然な流れ」ではなく、人為的なものである、とする指摘も重要。英米が植民地を手放す際、国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち推進するよう努めてきたことは周知の事実だろう。

 実際、イギリスの文化戦略を事実上担っている機関「ブリティッシュ・カウンシル」が発行した『英語の未来』という書籍には英語の国際戦略が堂々と示されている。「世界の人々が、母語で教育を受け、生活する権利、つまり『言語権』の考え方に目覚めたり、言語的多様性の保護に意識的になったりすることに、イギリスとしては警戒しなければならない」とディヴィッド・グラッドルは書き、イギリス英語のブランドイメージを慎重に守っていく必要性を主張しているのだ。

 以上のような議論を総合すれば、日本で現在進行中の英語化に対してはおのずと「否」という結論に至る。本来なら国家百年の計として重視されるべき教育までビジネスの道具と見てしまう新自由主義的な「英語化」路線は、子供たちから質の高い教育を受ける機会を奪い、日本人の愚民化を進めることだろう。英語化の行き着く先には「誰も望まない未来」が待っている。それが本書の結論である。

 ただし、筆が走り過ぎている箇所も散見されるのが少し気になった。たとえば「言語が異なれば、連帯意識の醸成が難しく、民主国家の運営は困難を極めると言ってよい」というのはやや粗雑な議論ではないか。多言語国家は今も世界中にいくらでもあるし、カナダのように日本以上に民主制を機能させている国もある。肯定的に引用されている鈴木孝夫のいう「タタミゼ効果」(日本語を学ぶと性格が温和になるとする仮説)にしてもかなり主観的なもので、それを英語化愚民論につなげるのは強引な気がする。

 とはいえ、新自由主義的な英語化に代わる世界のあり方として「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」を目指すべきとする主張に反対する理由はない。たとえ月並みな理念であったとしても実現されていない理念はいつだって新しい、との至言をここで想起するのも意義深いことだろう。
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by syunpo | 2018-05-12 18:50 | 社会全般 | Comments(0)
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