ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

永続敗戦のその先へ〜『国体論』

●白井聡著『国体論 菊と星条旗』/集英社/2018年4月発行

b0072887_20333024.jpg 明治維新から現代に至るまでの日本近代史を「国体の歴史」としてとらえる。本書のコンセプトは明快である。戦前の国体は、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」として規定しうる。戦後のそれは、対米従属を旨とする国家体制とみなすことができるのではないか。一九四五年の敗戦に伴ってもたらされた社会改革によって「国体」は表面的には廃絶されたにもかかわらず、実は再編されたかたちで生き残った──というのが白井の見立てである。

 もともと戦前戦中に使われた「国体」にしても曖昧模糊とした概念であり、人によってその指し示す内容は微妙に異なるだろう。とはいえ白井の認識に従えば「いずれの時代にあっても『国体』が国民の政治的主体化を阻害する」ものとして捉えうることは重要である。

 だとすれば、これからの日本社会が正常な政治的主体として生きていくためには「国体護持の政治神学」を徹底的に解体するほかないだろう。そのためには国体の構造を可視化し、その実態を見極めることから始めるしかない。ゆえに本書の記述の大半はその作業に費やされる。その際、戦後の国体のありようは戦前戦中の国体からアナロジカルに描出されていくところにとりわけ白井の才気が発揮されているように思われる。天皇が日本人にとっての「憧れの中心」だった時代から「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が「憧れの中心」となった戦後社会へ、というワケである。

 日本がポツダム宣言を受諾するにあたって「国体護持」が最優先課題とされたことはよく知られている。その交渉に際しては、当然ながら「国体」なる概念の客観化が迫られた。公式的な定義は「天皇ノ国家統治ノ大権」とされた。

 当然ながら、戦後は新憲法によって主権者が変更されたのだから、国体は変更されたと考えるのが一般的であった。それに対して長尾龍一は国家統治の権限はGHQに隷属する以上、主権の所在をめぐる国体護持論争は不条理な論争との認識を示した。いうまでもなく白井の考察もそれに即したものである。ただし「本当の主権の所在」は公然と論じられることはなかった。GHQの占領時代が終了しても事情は本質的に変わらなかった。白井のいう永続敗戦レジームを支えているのは、そのような欺瞞的な態度である。

 いずれにせよ、天皇制を維持することは米国側が早い段階から決めていたことである。象徴天皇制とはとりもなおさず「大枠としての対米従属構造の一部を成すものとして設計されたものだった」。

 ところで日本人が対米従属構造を受け入れるにあたっては、ひとつの物語が必要だった。それは「天皇を理解し敬意を持ったアメリカ」という観念である。白井はその観念にこそ、日本の対米従属の特殊性の原点を見出す。

 対米従属国家は無数に存在するが、「アメリカは我国を愛してくれているから従属するのだ(だからこれは別に従属ではない)」などという観念を抱きながら従属している国・国民など、ただのひとつもあるまい。(p127~128)

 戦後の国体は具体的には日米安全保障条約とそれに付随する日米地位協定によって固定化された。その文脈で重要なのは砂川事件判決である。一審では「日米安全保障条約は憲法違反である」との判断がくだされる。伊達判決といわれるものである。しかし最高裁は伊達判決を完全に否定し、統治行為論をもって「違憲かどうかを司法が判断することはできない」と主張した。注目すべきは、この判決が出される過程で米国側が最高裁長官にも圧力をかけたという事実である。
 これにより日本の法秩序は、長谷川正安のいう日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。

 かくして、ポツダム宣言受諾から占領、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約を通じて、主権の放棄と引き換えに、国体護持が得られたのである。もっとも、日本人の主観において国体が護持されたにすぎないのだが。

 いうまでもないことだが、東西冷戦が終結した現代では対米従属レジームはその歴史的意義を失った。本来ならば日本がそうした構造に執着する理由はないはずである。しかし安倍政権はむしろ愚直にもその強化に務めている。存在根拠を失ってなお生き延びるところに「国体」の「国体」たる所以があると白井は説く。

 二〇一六年八月の今上天皇の「お言葉」は、本書にあってはそのような戦後の国体の崩壊過程における危機という文脈で解釈される。端的にいって、それは「天皇による天皇制批判」として読むことも可能だという。

「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。(p338)

 ただ、そのような解釈は天皇の言動に政治性を読み込むことであり、ある種の霊的権威を認めることでもあるだろう。白井はそのことを否定しない。「かかる解釈をあえて公表する最大の動機は、今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意である」とさえいう。

 天皇の「お言葉」がもつ潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である」という結びの言葉は簡潔だが、本書の読者には、それ以上の処方的な提題はむしろ蛇足というべきかもしれない。

『永続敗戦論』から『国体論』へ──。日本政治に関する白井の考察は本書によって新たなステージに入ったといえる。むろん「国体」概念をもって近代日本を串刺しにする見方は必ずしも白井の創見というわけではない。「天皇にとって安保体制こそが戦後の『国体』として位置づけられたはずなのである」との認識を示したのは豊下楢彦だった。また戦後の文化全般における米国のプレゼンスの強さについては、吉見俊哉の著作が参照されている。それにしても、戦後死語化したと考えられてきた国体なる用語をもって日本近代の奇態を照らし出した本書の意義はいくら強調してもしすぎることはないだろう。
[PR]
by syunpo | 2018-05-30 20:55 | 政治 | Comments(0)
<< 後ろ暗さと快楽の矛盾を思考する... 謎をもらえる人が重要なのである... >>