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ブックラバー宣言

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小説仕立ての国家論〜『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』

●高橋源一郎著『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』/集英社/2017年12月発行

b0072887_1944437.jpg 子どもたちが「くに」をつくる。国ではなく「くに」。
 くにづくりに参加する四人の子どもたちはそれぞれ個性的だ。本をたくさん読んでいて頭のいいアッちゃん。マインクラフトというゲームが好きなユウジシャチョー。食べるのが好きで太っているリョウマ。そしてランちゃんと呼ばれている語り手のぼく。

 どうすれば「くに」を作ることができるのか。だれでもつくれるものなのか。くにのつくり方なんか、どこにも書いてない。とりあえずモンテヴィデオ条約やらアメリカ建国宣言やら、いろいろなものが参照される。

 彼らを見守る先生(学校では「おとな」と呼ばれている)は子どもたちに比べるとやや類型化されている。肝太先生はカント、理想先生はルソーを想起させる人物だ。

 くにについて学び、議論し、手足を動かす。くにを作っていくプロセスがそのまま彼らの学びにつながっていく。折に触れて、先生たちは子どもたちのアイデアにゴーサインを出したり、ヒントになるような簡単な助言をしたり。

 とりあえずくにの名を「名前のないくに(仮)」と決めて、ネットにくにづくりの様子をアップしたあたりから事態が動き始める。「名前のないくに(仮)」に関心を抱いたアイちゃんという女の子からリアクションがとどいた。いつか「こく民」になりたいという。何度かネット上でやりとりしているうちに、子どもたちはアイちゃんから招待を受ける。「わたしの家に遊びにきませんか?」

 アイちゃんの家のおとうさんは伝統的な職業に就いているようだが、詳細はわからない。子どもたちはランちゃんのおとうさんと一緒にでかけていく。そこは都心の真ん中にあるとは思えない森に囲まれた広い家だった。

 気がついたらランちゃんは広い家のなかでひとりになっていた。広い部屋の中にはずらっと書棚が並んでいる。アイちゃんの家の「図書館」の奥で出会ったのは、裸の男のひと。関西弁で話すその男のひとは顕微鏡で粘菌を観察したりしている。南方熊楠を思わせる愉快なおとなである。

「本を読まねば、世界のことはわからん。だがな、少年。本を読むこともたいせつやが、戦うことはもっとたいせつや」という。そうしてキャラメルの箱をくれる。その男は気に入った人にだけキャラメルの箱をあげるらしい。それが何を意味するのかはわからないのだけれど……。

 たった一つのキャラメルの箱なのに、それは、あらゆることを教えてくれているような気がした。このキャラメルの箱の秘密がわかったら、そのときには、世界の秘密もわかるのかもしれない。……ランちゃんはそう思うのだ。

 それから一週間後、ランちゃんたちは「建国のことば」を発表した。そして、ある国から「名前のないくに(仮)」と国交を結びたいとの連絡が入る……。

 本書は小説仕立ての国家論であり教育論であるといえる。ヴォルテールやルソーが得意とした「小説的社会批評」の二一世紀版ともいえようか。
 通常の学校からドロップアップした子どもたちによる、くにづくりのプロジェクト。皇室を思わせるアイちゃん一家との交流。そのようなお話に託して高橋源一郎は国家や教育のあり方を考えようとするのである。もちろん全体としてはもっと多様な読みに開かれていることは付け加えておくべきだろう。

 高橋は〈あとがき〉で吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』に言及している。小説にしては、ちょっと説明が多すぎないか。そう思ってしまうのは、「小説(あるいは文学)というものが、だんだん狭く、ちいさいものになってきたから」なのかもしれないとの考えが本書に反映されていることは間違いない。

 狭く、ちいさいものになってしまった小説をもっともっと広く開かれたものにしたいという高橋の考えが本作において成功しているのかどうか、私には確言できない。しかし国家や憲法について考えようとする小説家が今の時代に存在することの意義はけっして小さくないと私は思う。
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by syunpo | 2018-06-09 19:48 | 文学(小説・批評) | Comments(0)
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