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ブックラバー宣言

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文学と映画を凌駕するジャンルとしての〜『1968[3]漫画』

●四方田犬彦、中条省平編『1968[3]漫画』/筑摩書房/2018年5月発行

b0072887_208027.jpg 四方田犬彦が中心になって編集した『1968』シリーズを締めくくる第三弾は漫画がテーマ。一九六八年、漫画は言語と映像が協同する最新のメディアとして、文学や映画を凌駕しようとしていたのだ。多くの才能が次々と現われ、彼らは壮大な領野を自在に駆けめぐり、驚くべき実験を試みた。本書はその一端を現代に甦らせるアンソロジーである。

 その時期にそのような実験的創作が可能になったのは、後押しする媒体が登場したという事実も見逃せない。四方田犬彦は次のように書いている。

 1960年代後半に漫画界で始まったのは、従来の漫画という概念を解体寸前にまで追いやってしまうような実験であり、これまで子供の読み物としてしか考えられてこなかったこのジャンルに、哲学的、また民俗学的、深層心理学的な主題が導入されるようになったことである。『ガロ』と『COM』がこうした新しい漫画を支持する急先鋒であった。(p14)

 佐々木マキの《ヴェトナム討論》には驚かされた。渥美清や水前寺清子など、当時の著名人の画像がコラージュされ、さしたる文脈も形成することなくただ羅列されていくのだ。吹き出しには偽の中国語の台詞が書きこまれ、何やらヴェトナム戦争を非難している風である。

 興味深いのは佐々木マキの登場に際して、手塚治虫が過敏な反応を示したことである。手塚は佐々木が連載を開始した雑誌の発行元に電話し、ただちに連載を中止するよう警告したことはつとに知られている。そのような事実はいかに佐々木マキの作風がいかに既存の作家たちに危機感を覚えさせたかを証し立てるものであるだろう。

 吉本隆明が称賛したという岡田史子の作品からは《墓地への道》が収録されている。四方田によれば郷里である北海道静内の風景に材を採った作品という。「手持ちカメラの長回しであるかのように」映像が進展していく展開はえも言われぬ不思議な魔力を醸し出している。

 つげ義春の《ゲンセンカン主人》の不気味さはどうだろう。寂れた温泉町に一人の男がやってくる。彼は安宿ゲンセンカンの主人に似ていると言われ、その主人に対面しようと考える。だがそれは町の老女たちの共同体にとって、侵してはならない禁忌であった──。

 赤塚不二夫の《天才バカボン》からは、バカ田大学のOBたちが当時の女性闘士を徹底的に嘲弄している一篇が選ばれている。左翼活動家特有の常套句をパロディ化する精神はいかにもギャグ漫画家にふさわしいといえるかもしれない。

 水木しげるの《涙ののるま》は死神を主人公とした人情(?)喜劇である。私が真っ先に想起したのは落語との親和性だ。落語には文字どおり《死神》という古典落語があるし、落語作家の小佐田定雄が桂枝雀に提供した《貧乏神》という名作もある。本作はそれらと共通するペーソスを感じさせる。小佐田の新作落語は水木のこの作品を参考にしたのかもしれない。

 淀川さんぽは今日ではすっかり忘れ去られた漫画家である。大阪近郊を舞台にした作品で『ガロ』誌上において短い期間ではあるが活動したらしい。《たこになった少年》は小学校におけるいじめを描いた作品。いじめが深刻化している現代にはいっそうのアクチュアリティを有した作品といえそうだ。ラストが素晴らしい。

 藤子不二雄Aの《ひっとらぁ伯父さん》は四方田に言わせれば「戦後漫画史において画期的な作品」であるという。これまで明るい市民社会に生きる子供たちをユーモラスに描くジャンルであると考えられてきた漫画の世界にブラックユーモアを導入したからである。藤本弘とのコンビで知られる藤子不二雄(のち藤子・F・不二雄)名義の人気作品《ドラえもん》とは一味もふた味も異なったテイストである。

 池上遼一の《三面鏡の戯れ》は、化粧品会社の女子寮に住む女性が大学生とデートをするという設定で、ラストはやや考えオチ的ではあるが秀逸。四方田によれば池上の初期作品は「ボードレールから横光利一まで、さまざまな文学作品が織りなす残響のなか」で創作されたものらしい。

 楠勝平の《臨時ニュース》も一筋縄ではいかない作品。一見平穏な家庭のなかで、ペットとして飼われている犬が不気味な存在として登場している。正直、一回読んだだけでは今ひとつピンとこなかった。同時代に台頭しつつあった「内向の世代」の文学に対応する漫画であるとの四方田の指摘になるほどと納得した次第である。

 随時引用してきたように、本書に収められた作品の読解にあたっては、四方田の解説がとても参考になった。また鶴見俊輔や村上春樹、天沢退二郎の論考、中条省平のエピローグ的な解説もそれぞれに貴重である。

 ジャン=リュック・ゴダールの映画を観るような知的好奇心を抱いて、佐々木マキやつげ義春の漫画を読むという体験がそう遠くない時代に存在していたという事実。そのことはやはり記憶にとどめておくべきことではないか。

 こうして振り返ると、一九六八年とは政治のみならず文化の領域においても自由奔放でスリリングな時代だったといえる。とにもかくにも種々雑多な実験的創作が自在に生み出され発表されていたのだ。ヘイトスピーチのような暴力的な言説と、少しでも規範から外れた表現とみるやただちに批判を差し向けるような優等生的批評が二極化している現代からみれば、戦後日本史における一つの奇跡ともいえる時代だったのかもしれない。
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by syunpo | 2018-07-31 20:13 | 漫画 | Comments(0)
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