![]() ──人間の自由意志はどこへ向かうのか? その問題を平野啓一郎が多角的に考えていく。三人の異なる分野の専門家との対論をはさんで、前後に平野の問わず語りの論考を配置するという構成をとる。対論の相手は、製品デザインを手がける田川欣哉、法哲学者の大屋雄裕、システム生物学者の上田泰己。 田川はデザインエンジニアリングという新しい手法で、ソフトウェアからハードウェアまで幅広い製品のデザインと設計を手がける人物。対論では、テクノロジーと人間との関係から近未来社会における自由を考える。 ちょっとした刺激や不便をデザインの中に埋め込むことで、人間はより健康になれるかもしれない。そういう観点から見ると、いわゆるアフォーダンスや人間工学のように、客観に預けることが正義のように言われていたのが、ここ十年、二十年だったと思うんですけど、それもある程度一巡して、次のタームに向かい始めているところがありますね。(田川、p59) これからのキーワードの一つは「混在」だと田川はいう。SFで描かれているようなピュアな都市は多分実現しない。ゆえに継続性の中で新しいテクノロジーを導入していかなければならない。それは新旧のテクノロジーが混在する状況である。「その混在状態を、誰がどういうやり方で補助線を引いていくかというところなんですよね」。 社会の多様性・複数性を前提にする田川の考え方は、個人レベルでの多元性を謳歌せんとする平野の「分人主義」とも響き合うものだろう。 大屋との対論では、主権者たる国民の不安とセクリュティ政策との関係が自由のあり方を決定することを確認していく。大屋自身も「自由」に関する法哲学的な考究をつづけてきた研究者なので、本書の趣旨にもっともフィットした議論になっているように思う。 自由がどこまで残るかというのは、人民がどこまで不安に耐えて、実際の危険と安全をマネージできるかという心の強さ次第ということになると思います。(大屋、p101~102) 大屋はまた業界団体や利益団体などの中間団体の解体を否定的にとらえている。すなわち「中間団体を解体していった結果として、バラバラの個人からなる多数者の声が政治プロセスに流入してくる。その圧力を止めるものがどこにもなくなってしまった」と。 むき出しの個人だからすぐに煽られる。それが現代のポピュリズムのすがただと大屋はいう。いかに社会の組織性を再建するか。古くて新しい課題が来るべき日本社会にあらためて突きつけられているといえそうだ。 上田は、概日時計(体内時計)や睡眠・覚醒リズムなどをテーマに生命の時間の問題に取り組む研究者。対論では遺伝と環境のあいでゆれるヒトのあり方があらためて議論される。遺伝か環境かという問題は、文学的には決定論か自由意志かという問いに置き換えることができるだろう。 上田によると概日時計は細胞の中に存在していてほぼ全身に分布している。それはヒトが生きていくうえで有効な「環境予測システム」なのだという。ただしガチガチにシステム化されているわけでもなく柔軟性のあるものらしい。生物学の最前線の話は興味深い。同時に科学の限界や世界の不確定性を繰り返し強調する上田の語りにむしろ一つの知性のあるべき姿を感じた。
by syunpo
| 2018-10-26 19:15
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