●西村義樹、野矢茂樹著『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学』/中央公論新社/2013年6月発行
「雨に降られた」はよくて「財布に落ちられた」がおかしいのは何故か?──この問いに従来の言語学は答えることができなかった。というよりもそのような問題は最初から封じられていた。そのような問いにきちんと答えるためには、私たちのものの見方・感じ方・考え方、さらには生き方や行動様式という観点から言語を捉え直さねばならない。それが認知言語学である。 本書は認知言語学を研究する西村義樹に哲学者の野矢茂樹が教えを乞うというスタイルで交わされた対論である。 認知言語学はノーム・チョムスキーが提唱した生成文法理論を乗り越えようとする形であらわれた。認知言語学の特長をよく感じさせるのは使役構文をめぐる問題である。かなり専門的な議論が展開されているのだが、使役構文を認知言語学的に分析していくと「文法は意味と結びついている」ことが具体的にみえてくる。とりわけロナルド・ラネカーが提起した「参照点能力」は興味深い。たとえばメトニミー(換喩)の基盤には言語に特化されない人間の一般的な認知能力があると考えるのだ。 ラネカーは、人間には参照点能力というものが備わっていて、メトニミーをその能力の現われだと考えるんですね。たとえば、遠くにいる猫を見ていて、隣にいる人にその猫を見てほしいと思ったときに、直接は見つけにくいので、猫の横の木を指して「あそこに大きな木があるでしょう。その下に猫がいるじゃないですか」と言ったりする。その場合に、まずとっかかりとして注目する対象を参照点、それを利用して最終的に指示する対象を標的と言います。いまの例だと大きな木が参照点で、猫が標的です。(p154) 「村上春樹を最近また読んでいるんですよ」というメトニミーの場合には、村上春樹という人物が参照点で、彼の作品が標的ということになる。 ちなみに冒頭に紹介した問題に対する認知言語学の回答はどういうものか。──間接受身を作る条件というのは三つあって「受苦」「諦念」「他者性」が揃っていると、日本語ではそれを受身で表現する、どれかが欠けていても受身は不自然になる──というのが認知言語学による回答である。 以上のことからもわかるように「言語の違いはそれを話す人々の思考様式・行動様式の違いを反映している」とする言語相対主義の考え方は、認知言語学によって再評価されているという。 野矢も認知言語学のそのような傾向については「ぼくは哲学的な相対主義を引き受けているので、そういうところでも認知言語学には惹かれるんだな」と賛意を示している。 本書ではこのほか認知言語学独自のカテゴリー観やプロトタイプ意味論と呼ばれるものについても細かく議論されている。 〈認知◯◯学〉という学問分野は昨今よく見聞するようになったが、個人的には、入門書的なものを読んでもその真価が奈辺にあるのかよくわからないというものもあったりする。けれども本書に関しては、野矢が遠慮なくツッコミを入れることで認知言語学のコンセプトや面白味がうまく引き出され、初学者にも理解しやすい対話になっていると思う。
by syunpo
| 2019-01-27 20:00
| 日本語学・辞書学
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