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絵の修復という仕事〜『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した絵のお医者さん』

●岩井希久子著『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事』/美術出版社/2013年6月発行

絵の修復という仕事〜『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した絵のお医者さん』_b0072887_09213551.jpg 絵画修復家として活躍している岩井希久子が自らの仕事を語りおろした記録である。修復の具体的な方法のレクチャー、女性としてキャリアを積むことの苦労話、日本における絵画修復・保存のお寒い状況などなど話題は多岐にわたる。俳優の宮本信子、金沢21世紀美術館館長の秋元雄史との対談も興味深い。

 修復の基本は汚れのクリーニング。いろいろな方法があるが、いちばんオーソドックスなのは唾液を使う方法だというのは初めて知った。綿棒に唾液をつけて絵の表面をくるくるっと転がす。酵素が含まれていて適度の粘り気と温かさがあり、すぐに乾くのが利点。「修復用の液体石けんなどもありますが、水溶性の汚れは、唾液のほうがきれいに落とすことができます」。

 名画の八割は、過去の修復によってオリジナルの状態をとどめていない。衝撃的なのは、過去に行われた不適切な修復が絵にダメージをあたえていることがあまりに多いという指摘。とくに一九六〇〜七〇年代にアメリカで主流だったやり方には弊害があるという。キャンバスの裏側に布などを貼って、絵を補強し平らにする古いやり方だ。接着剤を使って熱と圧力を加えるため、絵具の表情がつぶれてしまい、さらに接着剤によって絵全体が暗色化してしまう。こうした過去の「修復」を修復するのも現代の修復家の仕事のひとつである。

 修復もさることながら、作品を劣化させないための予防の重要性を力説しているのも本書の核を成すメッセージの一つだろう。「個々の作品に適した状態で隔離して展示するのが、これからの美術館の展示方法」で「低酸素密閉」するのが理想だという。直島の地中美術館でそれが実践された。

 ただし日本の美術館は欧米に比べると、修復や保存に関してはかなり危機的状態にあると警告を発している。二〇〇九年に開かれた「日本の美術館名品展」でコンディションチェックを担当した時にそれを実感したらしい。出品された作品のなかには、ガラスの内側が曇っていたり、破れたまま送られてきた絵もあった。学芸員が絵の状態に気づいても必要な予算が取れないようだと推察している。日本では修復部門のない美術館が多い。建物を作るのは熱心だが、それを維持していくための予算措置も人材教育も後回し。「まさにうつわ行政の典型です」。
 現場からの声だけに文化行政への批判にも説得力が宿る。

 さらにもう一つ印象に残ったのは、東日本大震災による津波によってダメージを受けた版画作品に施した処置だ。泥をかぶった作品をそのままの状態で低酸素密閉することを提案し実現した。「辛く苦しい体験は、伝えていかないといけない」という考えに基づくものだ。

 修復とは何か。絵を保存するとはどういうことか。そのシンプルな問いに対する答えは一つではない。

 絵画修復家とはすぐれて職人的な技術を駆使する者であると同時に、深い思考をも求められる哲学者的な存在でもあるのだろう。それが本書をとおして得た私なりの理解である。

by syunpo | 2019-06-06 19:40 | 美術 | Comments(0)
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