●平野暁臣著『万博の歴史 大阪万博はなぜ最強たり得たのか」/小学館/2016年11月発行 二〇二五年、大阪で二度目の万国博覧会が開催される。EXPO70の時と比べて、地元での期待感はほとんどない。どころか開催に否定的な声が未だによく聞かれる。万博で人やカネの流れを活性化する手法は前世紀までのもの、その歴史的使命は終わったという意見も多い。 本書は二〇二五年大阪万博開催の決定前に刊行されたものだが、万博の今日的意義を再考するには有益なテクストといえるだろう。 万国博覧会とは何か。本書ではまず何よりも近代化と帝国主義の産物であると規定する。 国民を消費者として啓蒙するために最先端の技術に触れさせることは極めて効果的であった。 同時に西洋諸国にとって、植民地の文化を紹介することも重要であった。 ……植民地をもつのは一等国の証。自国が支配するエキゾティックな辺境とそこに息づく非文明社会をディスプレイすることは、もっともわかりやすい国力の証明であるとともに、近代社会の正当性をアピールするものだったわけです。 文明化された民と未開で野蛮な民。その強烈なコントラストは、西洋文明の優位性と非西洋社会の劣等性を浮き彫りにします。同時に、野蛮が教育により解放されて進化するイメージを喚起します。万博は帝国主義と植民地主義の正義を証明する舞台でした。(p48) 平野によれば、万博は一九三三年シカゴ博〜一九三九年ニューヨーク博の時代を境に、その性格が大きく変化したという。平野は、それ以前を【万博1・0】、以後を【万博2・0】と呼んで区別する。端的にいえば、前者は「モノで語る万博」、後者は「物語で語る万博」だ。 さらに第二次世界大戦後にも曲がり角を迎える。産業技術の進歩が人類を幸福に誘うという命題を無条件に信奉することが難しくなったからだ。 そこで、一九五八年のブリュッセル博では、テーマを設定することが万博の存在証明であるとの立場を鮮明にする。しかし八年後のニューヨーク博では、集客を第一に考えたアミューズメント重視の姿勢に再び転じた。 一九七〇年の大阪万博は、その両者のいいとこ取りをすることで成功をおさめたと平野は見る。すなわち理念はブリュッセル、見せ方はニューヨークを踏襲したという。 岡本太郎を「対極主義」の観点から論及する批評的分析もまことに興味深い。 しかしそれ以降の万博は、世界の環境変化の荒波を受けて、存在価値を低下させていく。「情報エリートが大衆に知識をわけ与える」という「情報の非対称性」が小さくなり、大衆が保有する体験情報の質が向上したことで万博の「体験の非日常性」も低下したというわけだ。 以上のように、万博の歴史を振り返ることはそのまま世界の近代史を概観することでもある。全体を通して理路整然とした記述で万博の歴史がコンパクトにまとめられている。 ただ著者自身がビジネスとして万博に深く関わってきたためか、万博に対する思い入れが強く出過ぎという印象なきにしもあらずだ。 本書の歴史観からすれば万博の歴史的役割は終わったと見るのが自然な総括だと思うのだが、平野自身は「博覧会をオワコンだとは考えていない」と記している。ただしその論拠が具体的に示されているわけではない。 もちろんそのような点を差し引いても、本書の価値は充分に保証できる。著者と同じ世代である私には、とりわけ大阪万博を回顧するくだりには懐かしさ以上の熱いものが感じられたのもまた事実である。
by syunpo
| 2019-06-12 19:30
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