●ベルトルト・ブレヒト著『アンティゴネ』(谷川道子訳)/光文社/2015年8月発行 アンティゴネとはギリシア神話に登場する女性である。テーバイの王オイディプスとその母イオカステとの娘。盲目となった父に従い諸国を放浪した後、新王クレオンの禁に背いたことで地下の墓場に生き埋めにされ自害する。ソフォクレスはその挿話をもとに悲劇《アンティゴネ》を書いた。 ベルトルト・ブレヒトはヘルダーリンが訳したテキストを下敷きにして、戦後ナチスやスターリン主義の蛮行に重ね合わせて改作した。訳者の谷川道子によればソフォクレスの原作よりも「合理化」「先鋭化」されているのが特徴だという。 テーバイの暴君クレオン。アルゴスへの侵略戦争のさなか、勝敗は未だ決していないのに兵を残して祖国に帰還する。戦意高揚のために「勝った、勝った」とデマゴーグを発して、バッカスの祭りを催す。 アンティゴネの兄エテオクレスはアルゴスで戦死し、弟のポリュネイケスは怖れをなして逃亡したところをつかまり殺害される。クレオンは見せしめにするため二人を埋葬してはならぬとお触れを出す。アンティゴネはそれに逆らって埋葬したためにクレオンの怒りを買うのだ。 クレオンの前に引き立てられたアンティゴネが彼と論戦する場面は本作の読みどころの一つだ。「この女、テーバイの国を分裂させようとしてやがる」というクレオンに対してアンティゴネは言う。「統一を叫ぶあなた自身が、争いを糧に生きている」と。 よその国に暴力をふるうときは、自分の国にも暴力をふるわねばならないもの、という彼女の台詞は現代社会にもあてはまる真理ではないか。 クレオンは国家を表象する存在であり、アンティゴネはヒューマニズムやデモクラシーの理念を体現しているように読める。だが、話はそう単純ではない。 終結部における長老たちのコロスでは、アンティゴネもまた貴族として奴隷たちの焼いたパンを食べ、ぬくぬく生きてきたことが指弾される。さらに「だが、あの女、すべてを悟りはしたが、ただただ敵を助けたばかり」と歌われる。アンティゴネの宗教心にみちた勇気ある行動も長老たちによって相対化されるのだ。「長老たちの日和見主義は、何も行為しないが故に自由あるいは無責任に本質をあばく鏡となる」という谷川の解説は示唆に富む。 ここでは私たちは権力をふるう者とふるわれる者という単純な二分法が成立しない世界のありようを見出すことになる。ブレヒトの生きた時代に照らしていうならば、全体主義を支えるのは民衆たち自身でもあるという命題を想起するのもよいかもしれない。複雑に入り組んだ世界を生きていくのに単純明快な道標などあるはずもない。 何はともあれ、本作は二一世紀の日本においても一層のアクチュアリティを感じさせる作品である。神話に込められた思念がブレヒトの才気を得て時空間を超え鈍い光を私たちに投げかけている。
by syunpo
| 2019-11-13 20:00
| 文学(翻訳)
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