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この国を捨てる準備として〜『法と掟と』

●宮崎学著『法と掟と』/洋泉社/2005年12月発行

この国を捨てる準備として〜『法と掟と』_b0072887_1751391.jpg これは、実に面白い本である。
 「アウトロー」の人生を歩んできたと自認する著者が、実体験に即して社会規範のあるべき姿について鋭く論じている。

 宮崎の考えによれば、社会規範とは「個別社会」にみられる「掟」と「全体社会」における「法」の二つある。「個別社会」とは、家族・血族、地域、同業者組合など、一般に「中間団体」と呼ばれるものを指す。「全体社会」は、国民国家のような抽象的な組織をいう。

 個別社会の掟は、はっきり明文化されたものでは必ずしもなく、運用も「融通無碍」に行なわれる。生活基盤に密着した仲間内の規範であるから、それは相互扶助の精神に基づいた「仁義」のようなものである。
 一方、全体社会における法とは、人為的に構成されるものであり、その意味で形式的・抽象的な規範である。

 通常、掟と法は、異なる次元において作動するものであり、両者は融合するものではない。掟ではカバーできない場面において参照されるべきものが法なのである。
 ところが、日本では、明治維新以降、前近代における個別社会を解体し、国民をいきなり全体社会に組み入れることによって、急速に近代化を推し進めた。その結果、近代日本では、社会といえば、そのまま全体社会である国民国家を指し示すような事態を招いてしまった。
 ならば、日本社会における社会規範として「法」が十全に機能しているかといえば、さにあらず。近代化の過程で「法」と「掟」が癒着してしまったために、「世間」の「曖昧で流動的」な「規範のようなもの」が幅を利かす社会となってしまった、というのが宮崎の見立てである。

 グローバル化が進む世界にあっては、個人が個人として自律していくためには、個別社会の再構築が必要である、と著者はいう。それは、たとえば中国人社会にみられる「幇」や血族組織がもつ国際的なネットワークのようなものである。中国の個別社会が強い力を発揮するのは、それが中国人の徹底した個人主義に根ざしたものであるからだ、という。
 この「実践的部分」の記述に関しては、著者ならではの一見挑発的なアピールのようにもみえる。しかし、日本の近代化の過程を大づかみながら検証した後の提言として虚心に読むならば、決して奇を衒ったものではなく、むしろ一つの道理にかなったものだと思える。

 若年層の倫理観の欠如の改善策を、教育基本法の改正や道徳教育の強化に求めたがる昨今のわが社会の短絡的な時流に対抗するためにも、本書は力強い指針を示したものではないだろうか。
by syunpo | 2007-02-16 18:06 | 社会全般 | Comments(0)
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