●内田樹著『下流志向』/講談社/2007年1月発行
これは惨憺たる悪書である。途中で投げ出したくなった。話題のベストセラーということで手にとってみたのだが、ここに展開されている議論の主要部分はほとんど与太話といいたいくらいだ。現代若者論としては、まことに意表をついた奇抜な筋立てで、それなりの話芸を感じさせはするものの、アカデミックな言説としての説得力はまったく感じられなかった。社会学者や教育学者、たとえば、本田由紀や内藤朝雄、宮台真司、上野千鶴子らの一人とサシで議論すれば、本書の根幹を成す主張はたちどころにメッキが剥がれることだろう。 内田によれば、現代の若者は「学びからの逃走」の道に踏み込み、さらには「労働からの逃走」の道を進んでいる。その要因を経済学の「等価交換」の概念を援用しつつ、内田はそれらしく解釈してみせる。 教室における生徒も、労働市場における若者も、ともに「等価交換」としての消費行動のスキームの中にあるとみなして、彼らは時間を勘定に入れ忘れているがゆえに、等価交換の価値を感じえないような行為すなわち学びからも労働からも確信をもって逃走している、というのである。内田の見立てによれば、仕事に就かないのも家に引きこもるのも、すべて「経済合理性」のうちにある。 しかし。 そもそも「ニート」の問題については、若年雇用の低迷が「ニート」を生み出した主因である、という決定的な論証研究がすでに提出されている。雇用情勢の推移など社会状況を完全無視して、現代若者の消費マインドのみから「ニート」を説明しようするのは無理な話で、こじつけの印象は免れない。 前半の「学びからの逃走」は、それに比してまだ読める口だが、それにしても、諏訪哲二の『オレ様化する子どもたち』に典拠して「消費主体」という概念をベースに、経済学のアナロジーだけで「学びからの逃走」を論ずるのは、いくら何でも一面的にすぎる。 若年層の「学びからの逃走」の前提となる統計データは、中学生と高校生に関する古い大雑把な調査結果を紹介しているだけで、大学生の「学びからの逃走」を裏付けるデータは結局最後まで提示されない。「たぶん日本の大学生の半数以上は自宅学習時間ゼロでしょう」(p156)との推測が飛び出してきた時には思わずズッコケた。その程度の基本的な統計もまったく準備できないのであれば、少なくとも大学生の「学びからの逃走」を大上段に論じることは砂上に楼閣を築くような空しい作業といわざるをえないだろう。 とはいえ、著者本人が学びに熱心な人物であることは間違いない。マルクスの資本論、ソクラテスの「問題のパラドクス」、レヴィ=ストロースの人類学、モースの贈与論、マリノフスキーの「クラの交換儀礼」論、孔子の「君子の六芸」論、名前は出てこないがソシュールの構造主義言語学……。 ニュー・アカデミズムの隆盛以降、知の伝達者は、学問横断的であることを求められるようになって、この種の多様な先人の言説が華麗に乱舞する書物が増えた。だが、実際のところは、さして有機的な連関もなく衒学趣味を表出するだけの嫌味な読後感を残すようなものが少なくない。 とりわけ、本書の場合、現代の若者の生態というアクチュアルなテーマを扱っているのだから、先賢の残した言説をこねくり回すよりも、実証的な考証にもう少し力点をおくべきではないだろうか。印象批評に基づく個人的なエッセイならともかくも、「専門家でもないのに、教育論やニート論を仕上げることを急務だと感じているのは、ニートを孤立させてはならないと思うから」(p207)と社会的な使命に燃えて本書を出したのならば、社会科学の方法に基づき、まずは具象に根ざした唯物論として見解が発信されるのでなければ説得力をもちえない。 本書は、講演をもとにまとめられたものだが、最終章の質疑応答で示されるソリューションなど、ほとんど読むにたえないアホらしいものだ。 今の教育がうまく回らなくなったのは、「教師の技量というものを計量可能な能力だと考えるようになったから」と繰り返したうえで、以下のような処方箋を示している。 教育を再構築するというのは、この師弟関係の力動性、開放性を回復することから始めるしかない。「師弟の物語」にもう一度日本人全体が同意署名すること。これはマインドセットの切り替えだけですから、コストはゼロなんです。(p184) そもそも著者の認識に従うなら、現代の若者が純然たる等価交換の「市場」に身を投じたのは、「師弟の物語」に象徴されるような悠久の時間モデルに価値を見出さなくなったからだろう。「師弟の物語」を喪失したことと「等価交換市場」の隆盛とは表裏一体である。つまり、ここで「師弟の物語」の回復を提唱するのは、単なるトートロジーでしかない。 かつてマルクスが述べたように、人々がアヘンに手を出すのはアヘンを必要とする社会環境の矛盾があったからである。「アヘンをやめよう」というマインドセットの切り替えを促す呼びかけで事足りたのならば、そもそもマルクスは大部の書物を書く必要はなかった。 「師弟の物語」の回復を唱えるというアナクロニズムも噴飯ものなら(芸人の世界ですら伝統的な師弟関係を取っ払って学校で養成している御時世でっせ)、何より「日本人全体」に同意署名を迫るという発想じたいが、その内容如何に関わらず「全体主義」というものではないか。 ついでにいえば、古き良き時代の古典的な「物語」の復権を唱えるという意味では、本書のスタンスは「道徳の復活」や「倫理の再構築」を叫ぶ、安倍晋三取り巻きのオヤジ論客と五十歩百歩だろう。 さらに指摘しておくなら、介護に関する発言もお粗末なものである。 「幼児や病人や老人の面倒を押しつけられると私の自己実現の障害になるから、そういうものの面倒は行政が見ろ」と声高に言える人は、「幼児であり、病人であり、老人である自分」を勘定に入れ忘れている。(p200) 介護に関わる者が、行政や公共セクターの力に期待するのは、そうしなければ、自己実現が図られないからではなく、生活そのものの困難に直面するからである。一般家庭における介護の現場は「自己実現」などというチャラチャラした問題意識など入ってくる余地はない。 本当に存在するのかどうかさえ怪しい特異なフェミニスト像を自説展開の都合にあわせて勝手にでっち上げて、それを勝手に批判して、自分だけはわかったようなことを言う人は、実は何も知らない人である。私はそういうモノの言い方をする人間を信用しない。 ところで、私が根本的に疑問に思うことは、本書を出したタイミングにまつわる内田樹という人物の神経回路の具合である。 ニート論の決定版ともいえる本田由紀らの共著『「ニート」って言うな!』が出たのが、二〇〇六年一月。『下流志向』のベースになる講演を行なったのが二〇〇五年六月なので、本田が明らかにした「若年層の雇用環境の悪化がニートを産出する主因になっている」という認識に至らなかったのは、まぁ致し方ない。しかし、本書のリリースは二〇〇七年一月である。 マトモな神経の持ち主なら、『「ニート」って言うな!』を読めば、本書の刊行を断念するか、ニート論の部分は全面放棄して「学びからの逃走」のパートのみ修正を加えたうえで出版するか、反証があるなら提示して真っ向から論戦を挑むかのいずれかだと思うのだが、いずれでもない。読まずに本書を出したのなら、自身の勉強不足を自覚していないという点で、単なる無知ということになる。 内田は、ニート対策に関して、職業訓練の機会を提供したり、カウンセリングや適性検査などをやったところで、「どれも効果がないだろう」と述べている。「どうして労働することを彼らが不合理だと感じるのかという、根本の問題を見過ごしている限り、どのような施策も問題を悪化させることにしかならない」(p143)というのだ。 だが、多くの読者は思ったに違いない。問題を悪化させているのは、何よりも本書のようないい加減な言説なのだ、と。
by syunpo
| 2007-05-21 19:23
| 社会全般
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Comments(3)
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アイシー
at 2013-04-01 23:08
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私も下流志向を読ませて頂いた新高校1年生です。
この本を読み始めたときは、なるほど、そうだったのかと様々な自分の知らなかったことに対して感心しました。 ですが、私たち学生に対する話題になったときはびっくりしました。 私たちは学ぶことに対して「苦役」を支払っているなんて思っていません。学べることはありがたいことだと思っています。なのにどうしてこのようなことを勝手な推測で言われなければならないのかと不満を持ちました。 また、45~51ページの内容には腹がたちました。 そんなことを言われなければいけない意味がわからなかったです。 本当に失礼だな、と思いました。
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syunpo at 2013-04-02 10:40
アイシーさん、その不満や怒りの気持ちを御自身の学業やスポーツのエネルギーに変えて、是非とも有意義な高校生活を送ってください。
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アイシー
at 2013-04-02 22:54
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ありがとうございます。
この本の作者の推測は間違えだったと思えるくらい精一杯頑張ります。
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