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民族責任と他者への共感〜『越境の時』

●鈴木道彦著『越境の時 一九六〇年代と在日』/集英社/2007年4月発行

b0072887_18283034.jpg 鈴木道彦といえば、私は恥ずかしながら、日本におけるプルースト研究の第一人者というくらいの認識しかもっていなかった。いや、そうした認識すらもかなり頼りないもので、彼の手になる翻訳書を読んでいたわけでもない。
 鈴木は、フランス文学者としての顔をもつ一方で、激動の一九六〇年代、私にとっては「歴史上の出来事」という感覚に近い生々しい事件に対して被告人への支援を行なうなど極めて活動的な研究者でもあった。
 本書は、鈴木道彦が自身のそうした運動と考察のあとを振り返り、現在に続く課題をあぶり出した良質の書物といえるだろう。

 本書の主要なテーマは、在日朝鮮人と日本人との関係である。その考察の契機、材料となるのは在日朝鮮人が刑事責任を問われた二つの事件。一九五八年に起きた小松川事件と一九六八年に生じた金嬉老事件である。
 前者については、被告人が同じ在日朝鮮人の女性、朴壽南と取り交わした往復書簡を編んだ『罪と死と愛と』に即して、鈴木の「民族責任」という考え方が提示される。
 後者に関しては、金嬉老の事件発生から刑事裁判の終結に至るまで、鈴木が直接関与して様々な支援や啓蒙活動を行なったことを具体的に述べ、平行して自身の考察をさらに深めていく。

 本書を通して鈴木が力説するのは、犯行を為した二人の個人としての「主体」を認めながらも、同時にそのような犯行が戦前戦後の日本社会によって生み出されたという認識である。「民族責任」とはそうした認識から必然的に導き出された考え方といえる。
 しかし、「民族責任」にふれた結果として、鈴木自身が重大な宿題を背負わされることにもなる。

 仮に日本人としての「民族責任」を問われる事態に直面したら、言いかえればもし日本人の名で抑圧する状況が存在したら、あるいは日本人でないということが抑圧される理由になるような状況があったならば、否応なしに抑圧者に組み込まれる自分はどうしたらよいのか?(p46)

 鈴木は、その一つの回答として金嬉老裁判への支援活動へと身を投じていく。彼自身が愛読していたサルトルのいう“engagement(アンガージュマン)”さながらに。本書は、その試行錯誤の跡を述べたものともいえるが、その基底にあった問題意識は次のような言葉に凝縮される。

 在日朝鮮人のおかれたこのうえもなく困難な状況が日本社会によって作られている以上、抑圧者に属する当の日本人がそれを理解するというのは不遜ではないか、ということだった。しかし私が敢えて「越境」してその内面をも想像の対象としないかぎり何も始まらないと考えた……(p202)

 本書はまさに、日本人と在日朝鮮人との境界線を、他者への共感を足がかりに踏み越えようとした記録である。鈴木の筆致は、誠実にしてまったくケレンを感じさせるところがない。斜に構えた言説が蔓延るなかで、それは感動的とさえいいうるものだ。
 在日朝鮮人の問題がいかに自身のフランス文学研究と有機的に連関しているかも率直に綴られていて、鈴木の翻訳書を読む場合の一助にもなることだろう。 

 「他国や他民族に鈍感で、ただ『愛国心』だけが一人歩きする今の日本」に向けられた直球勝負の本といっておこう。
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by syunpo | 2007-10-28 18:34 | 思想・哲学 | Comments(0)
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