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ブックラバー宣言

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古い時代の新しい文学〜『英語でよむ万葉集』

●リービ英雄著『英語でよむ万葉集』/岩波書店/2004年11月発行

b0072887_1922554.jpg 万葉集に記された日本語は、私たち現代日本人にとっても外国語に近い。現代語訳や解説のない万葉集の原典テキストだけを読んで楽しめる一般読者はそんなに多くないだろう。
 リービ英雄は万葉集を読んで、まるで「昨日書かれたかのように、『新しい』ことばの表現として、ぼくの目に入った」と述懐している。もちろん日本文学の研究者としてそれなりの学習を積んだうえでの言語体験である。
 今、こうして著者の英訳とともに万葉集を読み返すとき、なるほど飛鳥・奈良時代にうたわれたことばが清新な生命感を伴って立ち上がってくるようでもある。

 山部赤人のあの有名な歌《田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける》を「動いている視点」によって見えるイメージのダイナミズムを感じながら英語に復元する。

  Coming out
    from Tago's nestled cove,
   I gaze :
    white, pure white
  the snow has fallen
  on Fuji's lofty peak. (p35)


 「視覚的で、動的な、ことばによる『映像』に近いこの手法は、日本語がはじめて書きことばになった時代の、その書きことばの醍醐味なのである」と著者はいう。

 また、翻訳で常に問題になるのが、枕詞である。日本人ですら充分に理解できない枕詞が本当に外国語になるのか——。
 その回答の一つを示すように、著者は「英語万葉集」が米国で刊行されたときの、ある書評家のコメントを次のように紹介している。

 ひとつの枕詞を読むと、その新鮮さに感動する。しかし、まったく同じ枕詞が、また一首、また一首と使われると、作者の独創性を疑う。五度も六度も同じ表現に出会うと、苛立ちすらおぼえる。ところが、そのひとつの枕詞を百回も読むと、作者一人ひとりの独創性を重んじる近代文学とは違った、歌一首一首を超えた大きな表現の流れに気づき、また違った大きな感動をおぼえると同時に、近代文学とは違った必然性に気づき納得もする、という。(p114)

 一方で、大陸からの帰化人といわれている山上憶良の、日本語と漢語との“バイリンガル”な歌については「一つの言語をもう一つの言語に交えた混血性は、さらにもう一つの言語に訳されたとき、かえって見えなくなるかもしれない」と翻訳の困難をも率直に述べている。

 こうした著者の読解に対して万葉集の専門家がいかなる感想を抱くものやら私にはわからない。しかし、少なくとも私のような初心者には万葉集の魅力の一面を充分に感受することができた。万葉集、いや日本語の表現に関心をもつ者であるならば、本書から得られるものは少なくないように思える。
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by syunpo | 2008-02-02 19:51 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)
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