●福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』/講談社/2007年5月発行
「理解できることは理解するように努めるべきだ」というような意味のことを、かつてヴィトゲンシュタインは言ったらしい。誰かが引用しているのを読んだだけで、原典(の翻訳)を読んだわけではないから、言い回しは違っているかもしれない。いずれにせよ、私はヴィトゲンシュタインが言ったというその言葉を気に入っている。 その一方で、たとえば生命や脳などについて必要以上に究めようとするのは傲慢なことだ、と主張をする人もいる。人工知能やロボットなどの開発に対して「生物や生命現象の複雑さに対する畏敬を学習」していない、と批判する松岡正剛のような人だ。しかし科学的努力を放棄してあらかじめ“聖域”を設定するような考えは、結局のところ、いかがわしい神秘思想やつまらない精神主義の蔓延に加担するだけで、ロクなことにはならないと私は思う。もちろん可能になった科学的方法を実生活にすべて応用して良いかどうかは、倫理に照らし合わせて慎重に考慮すべき場面もあることを否定はしないが。 前置きが長くなった。 本書は話題のベストセラーということで、なるほど最後まで読者を飽きさせない面白い本だ。「生命とは何か」という問いが本書のテーマである。 著者は「生命とは自己複製を行なうシステムである」というとりあえずの定義を示したあとで、さらに「動的な平衡状態である」との認識に至るまでをわかりやすく論じていく。 生命とは端的にいって、細胞を破壊し再生していく不断の繰り返しである。人間という生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない、それは高速で入れ替っている「流れ」としてあるだけだ、という。 本書によって解説される日々の生命活動は精巧かつ柔軟なもので、あらためて「生命」というもののダイナミックかつドラマティックなあり方に驚嘆させられた。 とりわけ福岡が直接手がけた膵臓細胞の特殊なタンパク質「GP2」に関する研究は興味深い。マウスを使った実験で、仮説どおりの結果を得ることができなかった経緯——GP2の機能を充分に解明できなかった経緯を述べた後、「私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だった」との結論に至る。一見あたりまえのように思えるこの言説も、実在論的に科学的真理に迫ろうと努力した者の言葉だからこそ、説得力が宿り意味深いものになるのだと思える。 ただしツッコミどころもないことはない。 プロローグで示されている「生命とは何か」という大上段の問題提起に対して、本文では自然科学研究者(過去の先達や著者自身)の楽屋話などあちこちに脱線的な記述がなされていて、それも面白いといえば面白いのだけれど、全編これ純科学的な知見の面白さを期待した読者には不満を呼びそうな内容だ。雑誌に連載した文章を一冊にまとめたようなので、それならばプロローグで、標題に即した論述を首尾一貫しているわけではない旨の断わり書きを置いた方が読者には親切だろう。余談ながら、科学者の「生態」にまつわる記述は、ノーベル賞科学者の舞台裏を描いたカール・ジェラッシの小説『カンター教授のジレンマ』を思いださせる。 文章がうまいというのが著者の定評らしいが、その筆致に対する読者の好悪もわかれそうだ。 タンパク質の振動する相補性を「タンパク質のかすかな口づけ」と表現する類いの修辞は、巧みともいえるが嫌味にも感じられるし、自分が過ごしたニューヨークやボストンの風景を些か気取った調子で描写するくだりなどは三文小説を読まされているみたいで、ちょっぴり辟易させられた。
by syunpo
| 2008-02-20 18:56
| 生物学
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