ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

世界の変容をめぐって〜『帝国的ナショナリズム』

●大澤真幸著『帝国的ナショナリズム』/青土社/2004年12月発行

b0072887_19572312.jpg 本書は、著者が一九九四年から二〇〇二年にかけて雑誌に発表した文章を中心に編んだものである。「日本の変容」「アメリカの変容」「現代社会の変容」という三つの括りで束ねられた本書の最後に、全体を総括する形で書き下ろしの標題文が収録されている。
 全般的に、緻密に組み立てたアカデミックな論考というよりも、世の中の事象を様々なテキストや作品などを引用しながら分析的・診断的に言及した批評的なテクストといった印象である。

 ノベルゲームの流行について、東浩紀のポストモダン社会論に基づき「多重人格」をキーワードにして分析する〈マルチストーリー・マルチエンディング〉。
 宇宙船チャレンジャー事故をめぐる米国人のトラウマに関して『スタートレック』やカントなどを参照して考察する〈集団的否認〉。
 クリントン大統領の不倫疑惑と米国司法制度と建国行為における権威との関係について論じた〈司法精神の逆説〉。
 カイヨワの「遊び」の四分類をベースに、ディスニーランドと自動車を手がかりに現代の資本主義を語る〈加速資本主義論〉。

 ……などなど、今日では別段珍しいわけでもないが、サブカルチャーにまで射程を広げた着想の意外性に大澤の学者としての個性をみるべきなのだろう。
 ただ、記述に留保や但し書きが多いので今一つ煮え切らない印象が残るうえに、途中から先賢の手垢にまみれた概念が引用されるケースが目立ち、せっかくの柔軟な発想も結局はどこかで聞いたような議論に回収されてしまいがちなのは残念。

 米国でのコロンバイン高校での銃撃事件を材に採った〈寛容と不寛容〉と題する一文では、犯罪容疑者に対する日米の社会一般の態度の相違について、ピューリタンを基底とする寛容精神(米国)と、村八分の論理が温存されている非寛容(日本)という対比に導かれるのだが、その比較論のステレオタイプもさることながら、それだけのことをいうのにマックス・ウェーバーを引っ張り出してきて「純粋化」「平均化」などという概念操作の解説に字数を費やしているのには、正直、徒労感を感じさせられた。

 巻末を飾る標題文では、米国の帝国的性格と利己的なナショナリズムの二面性をめぐって考察を加えているのだが、例によってアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの帝国論に全面的に依拠したもので、これにも新鮮味を感じることはできなかった。
[PR]
by syunpo | 2008-03-23 19:34 | 思想・哲学 | Comments(0)
<< 持続可能な社会のための〜『ポス... 議院内閣制のモデルとして〜『ブ... >>