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線を引くことの暴力性〜『境界線の政治学』

●杉田敦著『境界線の政治学』/岩波書店/2005年2月発行

b0072887_22251585.jpg 著者は気鋭の政治理論学者として知られる。本書は、一九九八年から二〇〇四年にかけて発表した論文をまとめたもので、タイトルにあるように「境界線」をキーワードにした政治学的論考である。

 ここでは、国境線をはじめ、民族、文明、階級などの「境界線」をめぐる政治、あるいは「公的領域と私的領域」「正戦と非正戦」「戦闘員と非戦闘員」などの政治的二分法について考察が加えられる。それは「境界線を引く」ことの政治性・暴力性についての論考といいかえてもよい。

 第一章では、境界戦の引き方の代表的な例として空間における境界(国境など)と人間の群れにおける境界(人種・民族・階級など)を挙げて、その歴史的展開が概括される。
 そのうえで、境界線が内部の秩序の安定化に寄与してきた一方、排除的な機能をもつことを自覚することの重要性が説かれる。境界線の存在を認めつつ境界線を相対化すること。そのことが求められているのである。

 第二章では、国民国家以後の政治理論が直面している問題、具体的には「国民化」に伴う両義性などについて、ミシェル・フーコーやカール・シュミットに依拠しつつ論じられる。
 「国民」が人為的な存在であることは疑いを入れないが、あらゆる「結社」も、さらには「個人」もまた人為的な存在であることを免れない。われわれは、どのような政治単位を選んだところで、外部に対する暴力性を孕みもってしまう。

 政治理論が今直面している課題は、国家からの「解放」ではなく、われわれの想像力を縛る一切の境界の「開放」である。(p52)

 本書の総論に相当する第一、二章を受けて、以下の章では各論的な記述が展開される。
 第三章では、自由主義者と共同体主義者との間に闘わされた論争についての検証が試みられる。両者が前提していた「同質性/差異」という対立が必ずしも明確なものではなく、その意味で二分法的な構想の限界を指摘する記述にはそれなりに説得力を感じた。

 第四章では自称「ポスト・マルクス主義者」のエルネスト・ラクロウの政治理論、第六章ではマイケル・ウォルツァーの正戦論が批判的に吟味されていて、いずれも切れ味鋭いが、「契約と闘争」と題された第五章もなかなかに示唆に富む内容である。
 とりわけ、社会契約論と日本国憲法との関連を述べたくだりでは、制定の経緯に関して正統性を疑問視する「契約原理主義」的な立場(押しつけ憲法論)に対して、政治的なプラクティス(実践・慣行・制度)が長い時間をかけて形成されるプロセスを重視する立場を打ち出している点など興味深く読んだ。
 そもそも契約の主体となるべき国民の範囲が必ずしも自明ではない以上、契約を強調しすぎることで国民の境界線を確定する際にみられた暴力的な側面が忘れさられてしまう、と著者はいう。

 九・一一以降、境界線の流動化を異常な状態とみなし、敵と味方とを鋭く峻別するような政策が強化されつつある昨今の政治状況にあっては、本書の内容は理論的であると同時にアクチュアルな意義をも有するものといえるだろう。
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by syunpo | 2008-09-27 22:31 | 政治 | Comments(0)
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