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ブックラバー宣言

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叡知を求める人の言葉〜『日本語が亡びるとき』

●水村美苗著『日本語が亡びるとき』/筑摩書房/2008年10月発行

b0072887_18345928.jpg いささか刺激的なタイトルが付けられているが、水村が憂えている「日本語が亡びる」事態とは、具体的にいえばもっぱら「日本近代文学」や学問する言葉としての日本語を誰も読み書きしなくなる状況をさす。その意味では「日本近代文学が亡びるとき」とでも題した方が本書の論旨に適っているだろう。
 そのように言い換えた途端、すぐに想起されるのは柄谷行人の『近代文学の終り』である。実際、本書における水村の論考は柄谷の影響を強く感じさせるものだ。ただし考察の基点として直接的に依拠しているのは『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンである。

 水村は、まず彼の概念を援用して、言語を〈普遍語〉〈国語〉〈現地語〉の三つの位相にわけて考察する。〈普遍語〉とはその時代において共通の〈学問の言語〉としての地位を占めている〈書き言葉〉である。かつてのラテン語やギリシャ語、そして現代では英語がその座にあることはいうまでもない。〈国語〉は「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」として定義される。それは決して「自然」なものではない。〈現地語〉は〈普遍語〉と対になりつつ対立する概念で、人々が巷で使う言葉をさす。

 本書を貫く基本認識は、〈書き言葉〉とは〈話し言葉〉の音を書き表したものではないという点にある。そのうえで〈書き言葉〉として広く国民に定着した〈国語〉とは、〈普遍語〉から〈現地語〉への翻訳を通じて規範化されたものである、という歴史的事実を跡付けていく。たとえば、十六世紀初頭にマルティン・ルターは『聖書』をギリシャ語からドイツ語へと翻訳したが、その『聖書』のドイツ語が今のドイツ語の規範となっていることはよく知られている。

 日本語の仮名は、当時の〈普遍語〉であった漢文を翻訳し読み下す過程で発明されたものである。さらに現在私たちが日常的に〈書き言葉〉として用いている漢字かな交じり文としての〈国語〉は、明治以降に外国文学の翻訳、翻案を通じて形成され鍛えられてきたものである。それは〈日本近代文学〉の成立と並行的に進んだ。
 日本の〈現地語〉が〈国語〉となり植民地化を免れることで、〈普遍語〉が社会を覆う二重言語社会にならずにすんだのは、地理的条件や歴史的偶然などいくつもの条件が重なったものだが、とにもかくにも近代に成立した独自の〈国語〉のために日本の近代文学が花開いたことは、水村にいわせると一つの「奇跡」なのである。

 このような考察を経て、後半ではインターネットなどの技術の進展により英語の普遍語化が加速されていることを指摘して、同時に日本語の衰退を憂慮する。グローバリズムの世界にあっては〈普遍語〉をベースにした〈文化商品〉が〈文化商品〉として広く流通するのはそれが広く流通しているからにほかならないという論法は、夫君の経済学者・岩井克人の自己循環論法による貨幣論を応用したものだろう。

 「英語の世紀」に対する処方箋として、水村はエリート的な英語話者の育成を主張しているほか、日本語が「亡びる」のを防ぐために学校教育の充実とりわけ近代文学を読み継いでいくことを力説するなど「憂国」の心情を具体的な教育政策として提言している点は、議論を呼ぶところかもしれない。
 何はともあれ、本書がきわめて知的刺戟にみちた日本語論・文学論であることは確かである。
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by syunpo | 2008-11-25 18:47 | 文学(小説・批評) | Comments(0)
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