ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

古典を読み直そう〜『日本の書物への感謝』

●四方田犬彦著『日本の書物への感謝』/岩波書店/2008年10月発行

b0072887_1840827.jpg 《古事記》から鶴屋南北の戯曲まで近代以前の二十四の書物(または著作者)を取り上げて、日本の古典的書物へのオマージュを捧げた本である。
 西洋の古典を脇に並べて文化比較論的な分析を試みたかと思うと、フロイトやバタイユなど近現代の識見を借りて大胆な読解を披露したりと、ここでも四方田の博覧強記ぶりは遺憾なく発揮されている。その意味で黴臭いテクストが埃を振り払って新たな相貌のもとに立ちがってくる、ということはいえるかもしれない。

 「辞書を片手に古語の意味を厳密に測定しながら進む読書は、学問的にはありうるだろうが、それでは小説を享受したことにはならない。詩と違って、小説を理解するには一定の速度が必要」(p64)、「詩を翻訳するときにまず心がけなければいけないのは、訳文が同時代の現代詩として自立できなければいけないという真理」(p171)といったフレーズに示されているように、四方田の関心は個々の書物に記された物語の構造や叙述内容を理解することにまず向けられていて、その観点から、謡曲《葵上》に日本人の「集合的自意識」(ユング)を見出したり、井原西鶴に資本主義経済の息吹を感じ取ったりするのだ。

 その一方で、時代とともに変遷してきた書き言葉それ自体の肌触りや質感のようなものに対する関心がやや希薄であるようなのが、少し物足りなく感じられた。

 蛇足を一つ。
 上方落語の演目《地獄八景亡者戯》のなかに、亡者が閻魔大王の前で芸を披露するくだりがある。桂米朝の口演では、そこで「屁のこき分け」すなわちオナラの音でいろいろな擬声語擬態語を表現するという「曲屁」を行なう場面が語られるのだが、このいかにも上方らしいノンセンスな咄と同趣旨の記述が平賀源内の《放屁論》にあることを初めて知った。
[PR]
by syunpo | 2008-11-28 18:52 | 文学(小説・批評) | Comments(0)
<< 話すことと書くことの狭間で〜『... 叡知を求める人の言葉〜『日本語... >>