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ブックラバー宣言

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2018年 08月 06日 ( 1 )

語ることの政治性を自覚しながら〜『はじめての沖縄』

●岸政彦著『はじめての沖縄』/新曜社/2018年5月発行

b0072887_21243760.jpg 社会学者の岸政彦が沖縄について語る。あるいは沖縄の語り方について語る。必ずしも歯切れの良い記述がなされているわけではない。一歩一歩自分の足元を確認しながらゆっくりと進んで行くかのような筆致。結論的なことから先に記せば牛歩を思わせるような遅い歩みにこそむしろ著者の誠実さがあらわれている気がする。

 社会学者として沖縄で体験したことや自分が遭遇した人びとの挿話を書き記す。あるいは歴史的な大きな物語にも言及する。どのような話をするにせよ、そこから系統立てて一つの提題に収束させていくわけではないことは、話題になった『断片的なものの社会学』と同じスタイルかもしれない。しかしそこから沖縄の人びとの生き生きとした日常的なすがた立ち上がってくることも確かである。それは加藤秀俊のいう「世間話の延長」としての社会学のありかたを想起させもする。

 むろん個々の挿話から岸なりの仮説めいたものは提示することも忘れていはない。たとえば、あるところでは沖縄の「自治の感覚」について述べる。紙ナプキンでバレリーナをつくるタクシーの運転手。突然路肩に車を止めて「もう降りましょうね」と言い、そのまま帰宅する運転手。彼らの自由なタクシーの営業ぶり。あるいは図書館で寒さを訴えると私物のストーブを足元に置いてくれた職員。彼らの仕事ぶりに「自治の感覚」を見出すのだ。

 また別のところでは、沖縄の自立的な経済成長について述べている。

……戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分たち自身で成し遂げたことなのだ。(p110)

 そうした沖縄の特質や歴史を語りつつも、随時、みずからの語りの方法について自己言及的に省察を加えていくところが本書の大きな特徴でもある。沖縄を語るとき、学術的にいえば本質主義にも構成主義にも偏らない態度が可能なのかが自問自答されるのだ。

 私は、沖縄的なものは、「ほんとうにある」と思っている。あるいは、もっと正確にいえば、ほんとうにあるのだということを私自身が背負わないと、沖縄という場所に立ちむかうことができないような気がしている。
 でもそれは、文化的DNAとか気候風土とか、そういうことではなくて、おそらくはもっと世俗的なものと関係あると思っている。また、そのように世俗的に語らなければならない、と思っている。特に、ナイチャーとしての私は。(p187)


 さらに岸は「沖縄を語ることを考える」というメタレベルに立つことの「政治性」についても指摘する。

 どのように語ればよいか、ということについて、はっきりとした正しい答えは存在しない。ただここでは、この、どのように語るにしても私たちは何らかの意味で政治的になってしまう──南の島への素朴な憧れも含めて──ということについて、もう少し考えてみたい。
 どう語っても政治的になってしまう、ということが、言いかえればつまり、私たちの沖縄についての語りが、その語り方にかかわらず常に政治的な場にひきつけられ、そこから自由になりえない、ということが、それがそのまま日本と沖縄との社会的な関係の、ひとつの表れになっているのである。
(p240〜241)


 ここでは沖縄を語ることの困難は、時に社会学を実践することの困難とも重ね合わされているようにも思う。そしてそのうえで「言葉というものが、あらゆる政治性から自由でありえないとしても、私たちにできることは、まだあるはずだ」と岸は考えるのだ。その時、「日本がこれまで沖縄にしてきたことの責任を解除するような方向で語らないこと」と銘記している点は何よりも重要な前提だろう。
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by syunpo | 2018-08-06 21:32 | 社会学 | Comments(0)