人気ブログランキング |

大阪は本当に大阪的か!?〜『大阪的』

●井上章一著『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』/幻冬舎/2018年11月発行

b0072887_10352990.jpg 大阪論である。厳密にいうと「大阪論」に関する論である。これまで人々はどのように大阪を論じてきたか。その議論の紋切型を正して相対化すること。それが本書の趣旨である。「大阪は、ほんとうに大阪的か」というオビの謳い文句が端的に本書の問題意識を表現しているといえよう。

 対象そのものよりも対象がどう論じられてきたかを検証するというスタイルは、著者がこれまで採ってきたおなじみのもの。

 本書の基本認識は「世の大阪像は、東京のメディアがふくらましてきた」というものである。同時にもう一つ重要なのは「なかには大阪のメディアが話を盛ってきた部分もある」という視点を加えていること。ステレオタイプの大阪像の形成には地元のテレビ局などもけっこう加担してきた、というわけだ。

 冒頭に置かれた「大阪人はおもしろい」説について歴史的に考証する論考はツカミとしては最上だろう。
 大阪人はおもしろい。確かにそう考える人は大阪の内外に数多く見受けられる。一つのステレオタイプだ。ところが谷崎潤一郎が一九三二年に書いた随筆には以下のようなくだりがあるらしい。

「関西の婦人は凡べて……言葉数少なく、婉曲に心持を表現する。それが東京に比べて品よくも聞え、非常に色気がある」

 そこに描かれているのは「今のテレビなどがはやしたてる」のとは「まったく正反対のおばちゃんたち」の様子なのだ。
 さらに「大阪人はアレでなかなか滑稽を解する。その点はやはり都会人で、男も女も洒落や諧謔の神経を持っていることは東京人に劣らない」とも述べている。大阪人こそがそういう方面の達人だとは、まったく思っていない。「彼らにも諧謔味はある」という書き方なのは注目に値する。

 井上はいう。「大阪女性の陽気な開放性を強調する一般通念」は、谷崎が関西に住んでいた一九三〇年代以降、「あとで新しくこしらえられたのである」と。
 その一つの端緒となったのは、テレビ大阪の「まいどワイド30分」という番組であったと井上は具体的に指摘している。「路上取材でであった女性の中から、ゆかい気に見える人だけをぬきだし、放送」した。のちに在阪各局がこの手法をとりいれたという。

 大阪人の人柄を阪神タイガースで象徴させる議論も、そんなに古いものではない。一九六〇年代の民放は読売戦以外の中継をしていなかった。関西でも例外でなく、甲子園球場の試合は閑古鳥が鳴いていた。

 状況が変わったのはサンテレビが阪神戦の放映に踏み切ってから。一九六八年に創設された同局は放映ソフトの獲得と拡充に苦慮していた。苦肉の策として地元球団である阪神の全試合完全中継に乗り出した。「阪神戦は、おおげさに言えば新設UHF局の巨大な埋め草」として浮上したにすぎなかった。関西圏で暮らす野球好きの多くが阪神を応援するという今ではごく自然と思われる現象はこうして始まったのだった。

 大阪のクラシック音楽に関する論考はややマニアックだが、我が意を得たりという思いで読んだ。関西は、貴志康一や大栗裕、大澤壽人という偉大なる音楽家を生んだ土地でもある。

 貴志は大阪生まれで、戦前、ベルリン・フィルのタクトをとり、自作の管弦楽曲を発表するという経歴の持ち主。 大栗は自作の楽曲に大阪土着の音楽を採り入れたことで知られる。「浪速のバルトーク」と呼ばれた。 大澤は神戸生まれ、欧米で同時代の音楽を吸収し、ボストンやパリで自作を発表し高く評価された。

 このように二〇世紀中葉までの関西は、世界にとどく音楽家を育んでいた。人材の育成という点では、官立大学にまけない機能を果たしている。しかし関西を拠点にしていた彼らの活動は「東京の音楽史」においては冷遇されてきたと井上は指摘する。大阪論・関西論でクラシック音楽に言及するような議論は一般のメディアではさほど多くはない。その意味では「アカデミックな音楽でかがやいていた時代」をもつ大阪・関西の音楽史に光を当てた本書の視点には大いに共感する。

 本書は、先に刊行した『京都ぎらい』に比べると当事者性が薄くなった分、随想的要素は抑えられ、より批評的な記述になっている。もちろん、型に嵌った認識を徹底的に解体するという基本姿勢は健在である。関西圏以外の読者にはいかなる感想があるのかよく分からないけれど、生まれも育ちも大阪という私にはすこぶる面白い本であったことは確かである。

# by syunpo | 2019-07-11 21:22 | 地域学 | Trackback | Comments(0)

成功ゆえに自壊するシステム!?〜『14歳からの資本主義』

●丸山俊一著『14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために』/大和書房/2019年2月発行

b0072887_10351456.jpg NHK番組《欲望の資本主義》の制作統括者があらためて「資本主義の限界と未来」についてまとめた本である。「14歳からの〜」という枕詞が付いているからといって無知な若者向けの入門書と侮ってはいけない。

 何よりもまず斜に構えず資本主義という大文字中の大文字の論題に正面から挑むのがよい。当然ながら多くの識者の知見を借りてくることになるが、あまた引用されているヨーゼフ・アロイス・シュンペーターやマルクス・ガブリエルらの言葉はなるほど示唆に富んでいる。

「資本主義は、成功する。だが、その成功ゆえに、自ら壊れる」というシュンペーターの警句を開巻早々に掲げているのはインパクト充分。最初に提示したその脅し文句が通奏低音のように響きつづける。すなわち現代の資本主義は「あまり調子の良いものではない」という認識を読者と共有しようというわけである。

 そのうえで、世界の総需要が不足しているというジョセフ・スティグリッツの認識を確認し、成長なしでも維持できる資本主義のスタイルを構想しようとしたトーマス・セドラチュクを参照する。

 さらに資本主義とITや人工知能との関連など今風の問題に多く紙幅を割いているのが目を惹く。現在のデジタル革命とかつての産業革命の相違を指摘するダニエル・コーエンなどを引きながら、失業の問題を論じるのは型通りだろう。産業革命の果実は人々全体の生活レベルを押し上げたが、現在進行中のデジタル技術の進歩はむしろ格差を拡大させ分断を招いてしまう。その事実にこれからの人類はどう立ち向かうのか。

 そうしてあらためて冒頭に掲げたシュンペーターの警句に戻ってくるのである。資本主義はまさにその成功ゆえに「システムを支える社会制度が揺らぎ、崩壊を迫られる状況が、社会主義への移行を強く示唆する状況が、必然的に訪れる」とシュンペーターは述べた。もちろんそれがカール・マルクスの資本主義理解を踏まえたものであることはいうまでもない。ここまでの理路は鮮明に描かれている。

 ところが、終盤まとめの段階に入ったところで足取りが怪しくなる。AI主導の社会における課題へと論点が横滑りしていき、唐突に「今日の資本主義が代替案のないシステム」となったことを告げるマルクス・ガブリエルの発言を引いたりするのである。

 そして「合理的経済人」という概念を批判したり、マルクス・アウレリウスの「畏敬の念」に言及してみたり、日本的な資本主義を考えると称して「ZEN」を持ち出してみたり……。

 序盤から資本主義そのものとがっぷり四つに組んでおきながら、そこで提起された根本的な論題に正面から向き合うことは避けて、曖昧な形で総括に入ったという印象が拭い難い。最終盤での議論が観念論に流れ、論点が拡散してしまったのは残念。
 また貧困や労使関係の歪んだあり方など剥き出しの資本主義が避けることの困難な生々しい政治経済的課題への言及も薄く、その点に隔靴掻痒の感をおぼえる読者もいるかもしれない。

 本書はタイトルからも察せられるように、新曜社〈よりみちパン!セ〉シリーズや河出書房新社〈14歳の世渡り術〉を意識したような作りになっている。この種の本はよく出来たものなら大人が読んでもおもしろいものだが、本書がそうした部類に入る良書かどうかは保証のかぎりではない。

# by syunpo | 2019-07-06 18:32 | 経済 | Trackback | Comments(0)

中立機関による公文書管理を徹底せよ〜『官僚制と公文書』

●新藤宗幸著『官僚制と公文書 改竄、捏造、忖度の背景』/筑摩書房/2019年5月発行

b0072887_10345408.jpg 公文書の改竄や捏造、隠蔽など官僚による不法・不正行為が目立つようになってきた。現代の政治と官僚機構は一体どうなっているのか。そのような疑問を国民の多くは以前にもまして強く感じ始めているのではないか。その意味ではまことにタイムリーな本である。

 昨今顕在化している官僚たちの破廉恥な行為は、何よりも安倍政権の強権政治がもたらしたものと考えて政権批判に傾きがちだが、それだけでなく官僚制の構造にも目を向けている点に本書の特長を見出すことができる。

……行政機構を構成する行政組織にひとまず視点を限定するならば、そこには戦後憲法体制=民主主義政治体制とは調和しえない組織要因が、当初より内在しているのではないだろうか。(p34)

 新藤は具体的に二つの問題を挙げている。キャリア組とノンキャリア組に分ける「入口選別」といわれる職員採用方式と、官僚制組織における職位の責任と権限が不明確であることである。「それらは、昨今の政権と官僚制組織の不可解な関係にも、色濃く反映されているといってよいだろう」。

 こうした点を踏まえて「「官僚制の劣化」とは、現象的にはそのとおりだとしても、官僚制の構造に歴史的に胚胎してきた欠陥が噴出したもの」と捉えるのである。

 もちろん、現在進行中の安倍政権による「政治主導」ならぬ「政権主導」に対しても批判的に吟味している。

 政権のいう政治主導は、伝統的な各省官僚機構の分立体制を克服すべく、内閣の政治指導を確立するものと説明される。内閣官房・内閣府の権限・組織の拡大や内閣人事部の設置はその具現化である。しかしそうした体制は官邸の意を忖度する「官邸官僚」、それに「面従腹背」する官僚、官僚制幹部の指示に苦悩しつつも従わざるをえない職員といった、幾重もの「亀裂」を生み出したのではないか、と新藤はいう。
「内閣官房・内閣府の権限と機能の拡大は、組織としての官僚制の劣化を招いてはいないか」との認識はひとり新藤だけのものではないはずだ。

 また安倍政権下では、二〇一三年一二月に特定秘密保護法が制定された。公文書管理法の施行から二年後のことである。「これは、緒についたばかりの公文書管理に重大かつ否定的な影響をもたらすものといってよい」。
 その両者は法のコンセプトからして真っ向から対立するものである。特定秘密保護法の問題点は今さらここに列挙するまでもないだろう。

 いかにして「政権主導」の暴走を正し「政治主導」の政治的正当性を実現するか。それは現代日本政治の喫緊の課題だという認識を示した後、最終章では官僚制の改正案が具体的に提示される。

 内閣官房と役割が重複している内閣府の廃止、内閣人事局の機能を限定した首相府(内閣官房を継承するもの)の再編などを提案しているのは良いのだが、中央行政組織の編成に関して、国会制定法ではなく執政部の権限にせよとの主張には賛否両論ありそうだ。前段で安倍政権の暴走を検証した後だけにいささか違和感を禁じえない。

 前半で真っ向から疑問視した官僚の入口選別については廃止して選抜試験の一本化を主張しているのは当然。
 職位の責任・権限規定の不明確さについても、きちんと法律で定めることを提唱している。「職階制の全面的導入に改めて舵を切らなくとも、組織の長の権限と責任を明示することはできよう」と述べ、「所掌事務規程と行政作用法の関係について精査したうえで、所掌事務の実施権限と責任が組織単位の長にあることを法的に明確にすれば済むこと」と確言する。

 同時に本書の文脈で重要なのは公文書管理である。「官僚機構が日々作成している公文書の管理システムの改革が果敢に実行されるべき」なのはいうまでもない。

 公文書について包括的に網をかけたうえで、各省の公文書管理に監督権限をもつ内閣から相対的に独立した行政機関の設置を謳うことには異論はない。具体的なアイデアとして、立憲民主党など野党四党一会派が二〇一八年に衆議院に提出した法案に明記されている「公文書記録管理院」を評価しているのが目を惹く。それは組織形態としては人事院をモデルとした、政権からの高度の独立性を保障するものである。
 さらに「情報公開法・公文書管理法の精神と真逆」の特定秘密保護法の廃止をはっきりと主張している点も特筆すべきだろう。

 行政学の研究者らしい手堅い書きぶりで、官僚制と公文書管理の問題を再検討するうえでは格好のテキストといえそうだ。

# by syunpo | 2019-07-03 19:25 | 政治 | Trackback | Comments(0)

小さな言説に対する苛立ちを言語化する〜『新・目白雑録』

●金井美恵子著『新・目白雑録 もっと、小さいこと』/平凡社/2016年4月発行

b0072887_09204293.jpg「その時々の時代の大文字のニュースや出来事の周辺で書かれた様々の小さな言説に対する苛立ち」にアイロニーをまぶして言語化したエッセイ。その執拗な絡み方とあいまって今時のSNS界隈では最も嫌われそうな芸風だが、私はそれなりに楽しく読んだ。

 いとうせいこうの『想像ラジオ』を皮肉っぽく寸評し、磯田道史が新聞に書いた書評文をやり玉にあげる。
 片山杜秀が『砂の器』に寄せた批評に対しては、松本清張の原作を読んでいないことを推測してやはり揶揄めいた論評を加えることになる。

 映画『ローマの休日』のアン王女に扮した森村泰昌のセルフポートレイト作品を貶すあたりはかなりマニアックな考察を展開している。森村の扮装はサマーウールのスカートで霜ふりのピンク。……だがそもそも『ローマの休日』はモノクロ映画なのだから、カラー写真なのはおかしい。映画の中でヘップバーンが着たフレア・スカートはカシミアのグレーかブルーと考えるのが、五〇年代のファッションを考えれば「常識」だという。

 お世辞にも名文とは言い難い文体で紡がれるクリティカルな言葉は読者によってはっきり好悪が分かれるだろう。単なる言いがかりじゃないかと思われるような箇所もなくはないけれど、文化的な表層から始まったはずの森村批判からブランド人気の裏に潜む社会的貧困の問題にも話が及んだりするから油断ならない。

 政治の質が劣化したあまり、小説家やアーティストまでが優等生的に大きな問題に立ち向かうことを要請されるような時代、あるいは東浩紀のいう「学級委員長」的なインテリの言説が目立ってしまう時代にあって、「小さいこと」に拘泥した文章芸に触れるのも悪くない。

# by syunpo | 2019-06-29 09:23 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

冷酷非情な武将というけれど〜『源頼朝』

●元木泰雄著『源頼朝 武家政治の創始者』/中央公論新社/2019年1月発行

b0072887_09232130.jpg 鎌倉幕府を創設し武家政権を築き上げた源頼朝。ただその歴史的評価は今ひとつ芳しいものではない。特に人物像をめぐっては冷酷非情の評価がついてまわる。本書はそのような評価に異議を唱えてこれまでにない頼朝像を描き出す。

 また昨今の日本史学では、中世成立期の公家と武家をことさらに区分し、両者の対立を強調する見方が強まっているらしいのだが、著者によればそれは「古めかしい歴史観の再燃」だという。本書ではそのような歴史観に捉われることなく、頼朝と京との関係も見直されている。

 波乱万丈の生涯であった。十三歳の時、平治の乱に敗れ父義朝を失い、自らは伊豆に配流されて苦難の時代を過ごす。
 二十年後、挙兵して南関東を占領、そこから紆余曲折を経て、鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立した。
 こうした履歴をみれば、歴史家としてもその足跡を辿ってみようという知的探究心が働くのも当然かもしれない。

 良くも悪しくも本書で最も印象深いのは、頼朝が宿敵の平氏や平泉藤原氏を倒した後、身内ともいえる木曽義仲や義経をも滅亡に追いやった一連の経緯を検証するくだりである。歴史には身内どうしの血腥い争いは付き物とはいえ、頼朝の躍進に多大なる貢献のあった者への非情ともいえる行動をどう評価すべきなのか。

 義経と頼朝の対立の原因はいくつかあるが、最終的には義経と後白河上皇が手を結んで、頼朝の統制から逸脱を図ったことが決定的であった。そこには幕府の分裂、後継者をめぐる内紛、さらには幕府崩壊の危機さえも胚胎していた。「幕府という新たなな権力を守るためには、後白河と結ぶ義経の抑圧は不可避であった」。その意味では「頼朝は落としどころを考え、あくまでも冷静に対応しようとしたといえる」と元木は肯定的に評価するのである。

 また娘の大姫入内を企図して果たせなかった頼朝晩年の朝廷との交渉についても否定的な論評が多い。清新な東国での政治を創始したはずの頼朝が、その貴族的な性格から、澱みきった公家政権に足を取られたとする見方である。

 それに対しても元木は反論する。途上で大姫が他界したことで頼朝の画策は成功しなかったが、それを「失政」とみるのは結果論であって、当初の状況からすれば頼朝にとって「後宮を牛耳る院近臣を籠絡し、娘を入内させることなど、いとも容易に思えたはずである」と推察。朝廷に介入したことに一定の理解を示している。

 そのような調子で本書では全体を通して頼朝の立場に寄り添った記述が貫かれている。ただそれにしても頼朝に対する酷評にいちいち反論しようとするあまり、贔屓の引き倒し的な読後感も拭いがたい。古今東西いかなる人格者といえども完全無欠な人物などいないのだから、マイナス査定はマイナス査定として淡々と記述した方が歴史書としてはもっとリアリティが出たと思うのだが、どうだろう。

# by syunpo | 2019-06-26 18:55 | 歴史 | Trackback | Comments(0)