健全な個人主義の確立を〜『個人を幸福にしない日本の組織』

●太田肇著『個人を幸福にしない日本の組織』/新潮社/2016年2月発行

b0072887_18201566.jpg 組織を崇め、組織を畏怖する。日本人の一種の「組織信仰」がしばしば現実を見る目を曇らせる。太田肇は本書の冒頭にそのように記している。そこで「いま求められているのは、これまで無批判に受け入れてきた組織の論理を疑い、個人の視点から組織の間違いやウソ、偽善を暴く」ことであり、本書では「それに代わる新しい理論と改革の具体策」を提示する。これは秀逸な日本組織論といえるだろう。著者は組織論を専門とする研究者。

 日本人はチームワークがよい。
 日本人は愛社精神が旺盛である。……。

 日本人自身が信奉している日本人にまつわる神話にはいろいろあるが、それらを一つひとつ検討すると眉唾的なものが少なくない。本書ではそのような日本人神話を容赦なく解体していく。また組織を運営するうえで日本人が正しいと考えてきた原則のあれこれについても考察を加えていく。

 たとえば「日本人は愛社精神があるとか帰属意識が強い」という認識に対しては「辞めても移るところがないから会社に帰属しているのを、気に入って帰属しているのと勘違いしているのである」と喝破する。
「日本企業は、見せかけの勤勉さと裏腹に、実は会社に対して不満をもっている人、前向きな意欲のない人を大量に抱えている」。

 そのような会社と社員との関係を「家を出るに出られない反抗期の子が、親に反発するのと似たような感情」と喩えているのはなるほどと思う。

 メンバー同士の関係も一見すると仲が良さそうだが、実態はそうでもない。日本と欧米のホワイトカラーを対象にした調査によると、日本人は欧米人と比較して同僚を信頼できないし、仲間と助け合わないし、情報の共有もすすんでいないという結果が出ているという。

 これ以外にも企業組織の課題に関しては、年功制の弊害を指摘しているほか、管理強化がかえって不祥事を増やしてしまう陥穽について論じているくだりも説得力を感じた。

 人を選ぶことの現代的な困難に関連して、大学の入学試験に抽選を導入せよという提案には賛否両論ありそうだが、一つの見識を示すものではあるだろう。また昨今は憲法学の分野でも盛んに議論されているPTAや町内会に関して各人の自由参加にすべきと訴えている点は私も同感である。

 地方分権も組織論の観点を導入すると従来の議論とは一味違ったものになる。地方分権を積極的に肯定する人はリベラリズムの陣営にも多数いるが、個人と組織との関係から考える場合、デメリットも多い。

 たとえば地方分権を徹底すると、当然、地方によるサービスの格差は拡大する。具体的に認可保育所の月額保育料や水道・下水道料金を比較した場合、大きな格差の存在することがわかる。
 それでも地方分権の大合唱が起きているのは、首長の権限が大きくなり、彼らの政治的野心をくすぐるという点も見逃せない。「地方」とひと口にいっても為政者と住民との利害はしばしば異なる。そうした関係は「国/地方」という単純な政治学的二分法からは見えにくい。

 たしかに産業政策やまちづくり、観光などは地域が知恵を絞って魅力を競い合ったらよいだろう。しかし、個人の基本的な権利や競争条件にかかわる部分で個人の責任によらない格差が広がるような政策は望ましくない。そもそも市場原理、競争原理になじまないところをカバーするのが政治や行政の役割である。(p157)

 以上のように、本書が論じる組織は、国家の政府から地方自治体、企業から地域の自治組織、学校組織まで多岐にわたっている。そのため論点も一見拡散しているようにみえるが、「組織の論理の肥大化」が健全な個人主義の観点からみて弊害が多いという点で論旨は一貫している。
 日本の組織を考えるうえで、避けて通ることができない問題が提議されているという意味で、本書は一読の価値があるといっておこう。
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# by syunpo | 2018-04-23 18:27 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

悪人の心には情を、絶望する者には希望を〜『深読み日本文学』

●島田雅彦著『深読み日本文学』/集英社インターナショナル/2017年12月発行

b0072887_19244568.jpg 文学とは実学である。エセ文学的な「言葉の悪用」をする人たちを批判するのが、文学の本来の役割である。文学は神話という最も古い形式から出発して、焼き直しを繰り返しながら時代状況に沿ったアレンジを重ねてきた。……様々なアングルから文学に光を当て、その特長を言挙げすることから島田雅彦は始める。期待感を抱かせるに充分な序章。結論的にいえば最後まで私を愉しませてくれた本である。近頃出た文学論のなかでは出色の面白さといっていい。

 日本文化の伝統を支える概念を決定づけた作品として最初に取り上げるのは『源氏物語』である。その概念とは「色好み」。日本式求愛の流儀と呼ぶべき様々な恋愛パターンを網羅して「ジャパニーズ・ドン・ファン」の生涯を描いた作品として読み込んでいく。
 もっともドン・ファンがあらゆる世界に「敵意」をばら撒くのに対し、光源氏は「友愛」を運ぶ点に決定的な相違を見出す。それは狩猟民的態度と農耕民的態度の差異と捉えることも可能だというのが島田の見立てである。

 江戸文学を再評価するにあたって導入するキャッチコピーは「ヘタレの愉楽」。それは「色好み」の伝統が江戸期の町人によって受け継がれたスタイルとみなすことができる。
 井原西鶴の『好色一代男』は、世之介というデタラメな男の生遍歴を描いた、源氏物語のパロディである。『曾根崎心中』などで知られる近松門左衛門は心中を様式美にまで高めた作家といえる。彼らの作品はいずれも大衆小説であり、島田は「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」であるライトノベルの原型をそこに見出している。「サブカルチャーのルーツこそ、江戸文化にあると私は考えています」。

 近代日本の代表的作家として本書に登場するのは夏目漱石。
 日本近代文学を解読することはすなわち、日本人の精神分析をすることに直結するという認識は『日本精神分析』などで示されている柄谷行人の批評スタンスからの影響を読み取れる。また漱石と写生文との関係をめぐる批評的論考は、同じく柄谷の『漱石論集成』を下敷きにしたものだと思われる。
 漱石の『こころ』に関しては、ヴィクトール・フランクルの「態度価値」を引用した姜尚中の読みを紹介している。先行研究をいくつも参照している点では、オビにある「常識を揺るがす新しい読み方」というコピーはいささか怪しくなるのだが、それはおそらく編集者の仕業だろうから、島田に罪はないと考えておく。いずれにせよここでは道徳的で凡庸な読解は片隅に追いやられていることは確かである。

 樋口一葉は「少女文学の元祖」として読者の前に立ち現れる。今風に言えば「ガールズトーク」から生まれたような清少納言の『枕草子』以来の伝統を継承し、それを「一流の文学にまで昇華させた」実例として一葉が読まれるのである。彼女の文体は基本的には文語体だが、同時代の男性作家に比べると「非常に自然かつ軽やかな文章」であるところに特長がある。しかも現代に通じる社会性を持っている。それは文学史上の一つの「奇跡」ともいえよう。

「スケベの栄光」を文学の分野で輝かせている第一人者として、当然ながら谷崎潤一郎が召喚される。「自分は変態だという自覚をベースに、日本の『色好みの伝統』と『西洋の性にまつわる最新の科学的・文学的知見』をいいとこ取りして文学化した」というのが島田の見解である。
 もう一つ興味深いのは「戦争といっさい関わりを持たない」ことを指摘している点。谷崎は戦争の時代には出番がなかった。遠くに空襲の火の手が上がるのを眺めながら『細雪』を書き、『源氏物語』の現代語訳に勤しんでいたのだ。それはそれで一つの文学者のあり方を見事に示しているのではないか。

 人類の麻疹としてのナショナリズムを文学史のうえで吟味する。そこで参照するのは、志賀重昂『日本風景論』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』の四冊。いずれも後世の日本論の思想的な土台となった作品といえる。
 志賀の本は文字どおり日本の風景を再発見したもので「素晴らしい風景や自然風土があるがゆえに、日本は素晴らしいのだ」というナショナリズムは今日のそれに真っ直ぐ継承されているものだろう。内村の著作は日本の優れた人材を取り上げることで、日本人のプライドを高めることに寄与したという。『武士道』は日本人の道徳意識を高め、それを他国に知らしめたことでナショナリズム形成に大きな影響を与えた。『茶の本』は日本人の美意識や感受性を海外に向けて発信した作品であり、そうした文化的プレゼンスもまたナショナルプライドにとって大きな役割を果たしたのであった。

 戦後の文学は「焼け野原の中で、どう生きていけばいいのか」を問いかける作品、もしくは「戦争に従軍し、帰還した元兵士たちの体験録」として始まった。さらに「アメリカの統治下における文学」がある。
 太宰治や坂口安吾の作品が俎上に載せられるが、私がおもしろく感じたのは小島信夫の『アメリカン・スクール』の読みである。アメリカン・スクールの見学を許された英語教師たちの話であるが、この作品における「英語」を「日米安保」に置き換えることで現代日本の様相を見ようとする読解はなるほど「深読み」の標題に適ったものだろう。

〈遊歩者たちの目〉とサブタイトルにふった章では、物語の舞台となる「場所」に焦点をあわせる。漱石の『三四郎』をとっかかりに、武蔵野を描いた大岡昇平『武蔵野夫人』や中上健次の紀州サーガなどに着目。とりわけ中上が描いた一連の「路地」文学を「リアルなファンタジー」と位置づける読みはあらためてこの作家への関心を掻き立てる。

 現代文学を読み解く補助線として、世代や経済、階級に注目する論考も興味深い。とくに、戦後に新しく現れた階級として「主婦」と「学生」に注目し、そこに現代文学の特徴を見出しているのは慧眼であろう。現代文学が学生と主婦を読者層として想定したことは、社会背景として無視できない要素であると私も思う。

 最後にテクノロジーと文学の関係を探る。もちろん人工知能が重要なファクターとなる。人工知能が最も得意とするのはエンタテインメントだという島田の見方は賛同できる。大多数を相手にするエンタテインメント作品は約束事が多いので、人工知能もそのノウハウを学習しやすい。では、純文学に対しては今後いかなる影響を与えることになるのだろうか──?

 むろんその問いかけ以前に、本書で示された読みの企てがこれまでに書かれてきた文学にあらためて向かっていくうえでの道標になることはいうまでもない。

 文学とは時に不徳を極めた者を嘲笑うジャンルであり、権力による洗脳を免れる予防薬であり、そして、求愛の道具でもあった。文学は好奇心を鍛え、逆境を生き抜く力を与え続けてきた。文学は路傍に咲く一輪の花のように、悪人の心には情を、絶望する者には希望をもたらすものゆえ、非道な時代にこそ必要とされてきた。バラ色の未来が期待できない今日、忘れられた文学を繙き、その内奥に刻まれた文豪たちのメッセージを深読みすれば、怖いものなどなくなる。(p229〜230)
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# by syunpo | 2018-04-19 19:38 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

「知性」の再定義を迫られる時代に向けて〜『人間の未来 AIの未来』

●山中伸弥、羽生善治著『人間の未来 AIの未来』/講談社/2018年2月発行

b0072887_18365112.jpg 異業種対談なるものは、往々にして両者が無理に話を噛み合わせようとするあまりに一般化・抽象化に流れてしまい、思ったほどおもしろくならないことが多い。が、本書はその不首尾を免れた貴重な一冊といえようか。

 論題は多岐にわたる。iPS細胞研究の最前線や大学教育の課題、将棋界の新しい動きや藤井聡太論などなど。二人の達人が互いに相手をリスペクトしながら話を進めていく様子は、対談集ならではの肩の凝らない雰囲気を醸し出しながらも知的興奮をもたらしてくれるとでもいえばいいか。

 そのなかでもとくに読み応えを感じたのはAIをめぐる対話。どちらの分野にとっても関連のあるテーマということもあってか多くの紙幅が費やされていて、リラックスしたなかにも濃密な言葉のやりとりが展開されている。

 山中のユーモアをまじえたトークも楽しいが、羽生の勉強家ぶりにも大いに感心させられた。やはり知的な人だと思う。AIと人間の関係をめぐる羽生の問題意識は、知性が抱え込まざるをえない自己言及的な性質を意識したもので、古くて新しい哲学的問題といってもいい。

「今後、私たち人間は「知能」とか「知性」をもう一度定義しなおさなければならなくなるかもしれません」と秀逸な問題提起をした後、さらに言葉を継いでゆく。

「この分野ではAIは人間以上のことができる」とか「これは人間にはできても、AIにはできないだろう」といった議論をしているときに、「では人間が持つ『高い知能』の知能とは、いったい何なんだろう?」とあらためて考えざるを得なくなると思います。(p91)

 山中はそのような発言を受けてAIは「膨大な知識」を持ち、冷静沈着な判断を行なうが、あくまで「優秀な部下の一人」「セカンドオピニオン」にとどまるとの認識を示す。最終的な判断を行なうのはやはり人間である、と。AIは発展途上のテクノロジーだが、研究者としての現時点での当然の結論かもしれない。

 さらに羽生がみずからの将棋観を語るくだりも将棋という一分野にとどまらない普遍性をもったもののように思われる。

 将棋の世界は「いかに得るか」よりも「いかに捨てるか」「いかに忘れるか」のほうが大事になってきます。たとえば自分がすごく時間をかけて勉強したものを捨てることはなかなかできないんですよ。(p133)

 羽生のこのような考え方は、ロラン・バルトの言葉を想起させる。「学んだことを忘れてゆくという経験」を「叡智」と名付けたバルトの言葉を。
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# by syunpo | 2018-04-16 18:41 | クロスオーバー | Trackback | Comments(0)

現場の活動と憲法をつなげる〜『子どもの人権をまもるために』

●木村草太編『子どもの人権をまもるために』/晶文社/2018年2月発行

b0072887_9512064.jpg 子どもの人権は本当に守られているのか。「子どものため」と言いながら、大人にとっての「管理の都合」ばかりが優先されているのではないか。本書ではそうした一見シンプルな問いを投げかけて、子どもの人権をめぐる問題を様々な角度から検証していく。そのうえで、子どもの人権を保障するための具体的な対策を提議する。

 寄稿しているのは、おもに子どもたちと常日頃から関わっている現場の人たちなので、記述内容はおしなべて具体的。〈家庭〉〈学校〉〈法律・制度〉の三部に分けられた構成は初学者にもアプローチしやすいものといえるだろう。

 まず、家庭に関わる問題として、虐待、貧困、保育、十代の居場所、障害、離婚・再婚の問題が論じられる。

 精神科医の宮田雄吾は、児童虐待には身体的な暴力以外にもネグレクトや心理的虐待のように目立たないが「残虐さが上手に隠され」ているものもあるという。また虐待を受けた子どもが社会へ出て行こうとした際、社会参加へのハードルの高さが大きな敵となるという指摘も重要。彼らに就ける仕事は限られている。つまり生活の困難という難題が控えているのだ。「貧困対策はそのまま虐待を受けた子どもへの支援となる事」を私たちは知っておく必要がありそうだ。

 専門社会調査士の山野良一は「子どもの貧困」という概念が「貧困家庭」から家庭を除くことで強いインパクトをもたらしたことを認めながらも、子どもの貧困を解決するには「子育てや生活に困った苦しい境遇にある人たちすべてに応答的である社会」を作ることの重要性を訴えて説得的である。

 保育の問題を論じる駒崎弘樹は、保育の概念を「養護」と「教育」の二つの視点から定義する。近年の研究では、乳幼児教育が集中力や自制心、共感能力といった非認知的スキルの形成に役立つことがわかってきた。保育の不足は子どもの「教育を受ける権利」の制限でもあるという認識は社会的にもっと共有されるべきだと思った。

 中高生世代の女子を中心に孤立・困窮状態にある青少年を支える活動を行なっている仁藤夢乃は、児童相談所の開所時間が平日の日中のみに限られていることを批判的に指摘する。児童の権利を保障するためには、子どもの保護のための窓口を広げていくことが必須であるという意見は当然のものではないだろうか。

 障害を持つ子どもについて論じる熊谷晋一郎は暴力の観点からその問題にアプローチする。障害児から暴力の被害をなくすためには、開放的・重層的なシステムを作ることで、支援者を分散することが重要となる。またその前提として言葉の問題にも言及している点には蒙を啓かされた。

 建物が健常者向けにデザインされているのと同様、一般に流通している日常言語の語彙や語用は、健常者の経験を表現しやすいようにデザインされており、認知特性の異なる少数派は、既存の言語の中に、自分の経験をうまく言い当てる語彙や語用を見つけられない状況におかれやすい。すると、問題行動や症状と呼ばれるような振る舞いを通じて、コミュニケーションをとるしかなくなる。(p108)

 以上を踏まえて、言語のバリアーフリー化ともいうべき取り組みが不可欠であるという主張には大いに納得した。

 親の離婚・再婚がもたらす子どもへの人権侵害はふだん話題にされることが少ないだけに、その問題に論及する大塚玲子の論考にも教えられるところ大であった。大塚は離婚や再婚の過程で子どもが経緯を知ることができずに不安や不信を感じることを繰り返し指摘する。それは子どもにとってたしかに重要な問題に相違ない。「子どもの意思を尊重する」こと。それが実体を伴ったものであることが必要である。

 学校に関係するテーマとしては、体育・部活動、指導死、不登校、道徳教育、保健室、学校の全体主義が取り上げられている。

 教育社会学者の内田良は、教育あるいは学校という概念が出てくると、安全と健康への権利の保障のレベルが大きく切り下がる状況を告発する。たとえば市民社会では「傷害」や「暴行」になる行為が「体罰」として正当化されるといったことだ。内田の処方箋はいたって簡明である。「子どもには安全に生きる権利がある」ことを再確認して制度や教育内容を組み立て直すこと。大人の側のやる気がそこで問われることになる。

 大貫隆志は「指導死」なる概念を立てることで、子どもの最大の人権侵害である生命への危機を守ろうとします。学校の指導における「適正手続き」の確保を提案しているのはまさに正論だろう。

 不登校について報告する大原榮子は、再登校よりも自立の支援の重要性を訴える示唆的な論考を寄せている。その実践例として学生ボランティアの協力をもとに実施している「メンタルフレンド」の実践を紹介する。大学生ボランティアが週に何度か派遣され、不登校の子どもたちと一緒に遊ぶという活動だ。そこから人間関係づくりの回復、創出、育成をめざすという試みはもっと注目されてよいと思った。

 道徳教育と子どもの人権について考察しているのは、前川喜平。教育勅語への再評価が政治家たちによって口にされることも珍しくなくなった昨今、戦後民主主義や立憲主義の観点から厳しく批判するのは当然のことだろう。また道徳の教科化に対する対抗策を論じているくだりもおもしろい。教育課程特例校制度を使えば道徳科に代えて「市民科」などの独自の教科を設けることもできるらしい。元官僚らしい実務的な提言である。

 白濵洋子は養護教諭としての体験を通して保健室の人間模様について論じている。保健室は学校で唯一評価と無縁の空間であり、それゆえに子どもたちを安心させ避難所となっているという事実はきわめて示唆に富む。

 社会学者の内藤朝雄は学校の全体主義について論じる。学校教育をややデフォルメしたような論考は本書のなかでは少し浮いたような印象を受けなくもないが、小気味良い切れ味を感じさせる文章で、それなりに興味深く読んだ。

 法律・制度に関しては、児童相談所・子どもの代理人、里親制度、LGBT、世界の子どもがテーマとなっている。

 家庭を失った子どもを施設と制度の両面から論じた弁護士の山下敏雅は、児童相談所の実態を報告したうえで子どもの代理人制度の充実を訴える。里親・施設・代理人が協力し、子どもに多様な選択肢を広げることが重要だという意見はもっともなものだと思う。

 社会福祉士でライターの村田和木の論考は里親制度に関するもの。日本では何らかの事情で社会が養育しなければならなくなった子どもについては施設に収用するのが一般的だが、他の先進国では里親に養育を委託することが多いらしい。里親制度は、うまく運用できれば、子どもが家庭のなかでの継続的な愛着関係を形成できるメリットがあるという。

 弁護士の南和行は自身の体験をまじえながら性的少数者の子どもの問題について論じている。子どものなかには、同性愛を自覚したり、性自認と割り当てられた性別のギャップに悩んだりする子もいます。何よりもLGBTの概念を知らされないことが、そうした子どもたちを追い詰めることになるという。マイノリティが自分の状況を適切に理解できる環境をつくること。彼らの苦しみをやわらげる第一歩はそれである。

 土井香苗は、国際人権NPOヒューマン・ライツ・ウォッチが世界各地で行ってきた現地調査をもとに、子どもの人権侵害の実態を報告している。身体の自由、中等教育を受ける権利などの侵害のほか、学校の軍事利用や児童婚の問題なども検証している。幼いうちの結婚は、女性から教育機会を奪い、家庭内での種々の暴力にあうリスクを高めるなど、深刻な悪影響のあることが議論されていて海外の状況を知るうえでは勉強になった。

 以上をまとめた木村の総括的な論考も、憲法学者らしく理路整然としたものである。同時に国際条約の重要性について自省をまじえつつ指摘しているくだりは木村の研究者としての誠実さを感じさせるもので好感を抱いた。子どもの人権問題を考えるうえでは必読の一冊といっていいだろう。
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# by syunpo | 2018-04-15 09:53 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

カメラは何を写し出してきたのか〜『深読み!日本写真の超名作100』

●飯沢耕太郎著『深読み! 日本写真の超名作100』/パイインターナショナル/2012年1月発行

b0072887_17374429.jpg 日本では幕末に写真術が渡来して以来、今日まで多くの写真が撮影され創作されてきた。本書では日本の写真表現の歴史を主要な写真家一〇一人の代表的作品をピックアップしていくというスタイルで振り返る。大竹昭子から借りた〈日本写真〉という概念の括り方には賛否両論ありそうだが、日本の写真小史を把握するうえでは、簡便な一冊といえるかもしれない。

 本書に収められた作品を見てあらためて興味深く感じたのは、写真の最初期から写真表現とは何かを問う自己言及的な創作活動が活発に展開されてきたという史実である。

 シャッターを切れば何がしかの映像が写るということに対する原初的な悦びや驚きから、撮影後に様々な修整や加工をほどこす創作的行為が始まるまでにはそれほどの時間を要しなかった。つまり写真史を紐解けば早くから写真という方法への懐疑を含む実験的な試みがなされてきたことがわかる。そのような歴史の蓄積には、おのずと映像と世界との関係、映像と撮影者との関係をめぐる考察や実験のあとが刻まれてもいるだろう。

 江崎礼二のコラージュ写真。高山正隆の『静物』のように撮影後に絵の具や鉛筆で修正を加えた「芸術作品」。関西の新興写真の流れから出てきたハナヤ勘兵衛や平井輝七らのモンタージュ写真。岡上淑子のフォト・コラージュ。山本捍右のシークエンス(連続写真)。特殊フィルターを使った山崎博のヘリオグラフィ。そして時代は一気に飛ぶが、やなぎみわや畠山直哉らに写真という枠組にとらわれない現代のインスタレーション的な創作活動……。

 デジタル写真の時代になって以降、画像の修整が以前よりも容易になったことから、写真の〈真/偽〉があらためて議論になり、ヴィム・ヴェンダースは映画『パレルモ・シューティング』において、作中で死神らしきキャラクターに「映像は死んだ」と言わせた。

 けれどもその種の加工は今に始まったことではなく、写真が発明されてすぐの頃から始まっていたのだ。写真という表現行為は当初から自己否定的な問題意識と実践を孕んでいたともいえる。写真が「真を写す」ものとして安穏とした地位に居座っていた時代は、日本の写真史をとおしてほとんどなかったのではないか。本書を見てそのようなことを再確認した次第である。

 ただし本書の標題に「深読み!」とあるのは記述内容を反映したものとは言い難く若干の違和感をおぼえた。写真作品を「読む」ためには、前提として写真史や文化史の文脈を理解しておく必要がある。著者もそのことを念頭において、写真家たちの経歴や写真史における位置づけを解説しているのだが、本書の記述は個々の作品を「深読み」するために最低限押さえておくべき基礎知識の概説レベルにとどまっていると思われる。別にそのことを批判するつもりはない。標題はもう少し内容に即したものを付けた方がよかったのではないかということを言いたいまでである。
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# by syunpo | 2018-04-14 17:45 | 写真 | Trackback | Comments(0)