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カテゴリ:スポーツ( 3 )

〈参加型権力〉を相対化する〜『やっぱりいらない東京オリンピック』

●小笠原博毅、山本敦久著『やっぱりいらない東京オリンピック』/岩波書店/2019年2月発行

b0072887_20502776.jpg 二〇二〇年東京オリンピックについては、招致活動の段階から反対意見が少なくない。開催が決まった後も返上を主張する声があちこちから聞こえてくる。


 本書は岩波ブックレットの一冊で、五輪が日本社会に及ぼしている/及ぼすであろう影響についてしっかり考える基本的な材料を提供するものである。共著者としてクッレジットされている小笠原博毅は文化研究、山本敦久はスポーツ社会学を専門とする研究者。

 もっとも今さら東京五輪の開催を揺るがすようなスタンスには当然ながら反論が予想されるだろう。一度決まった以上は「後戻りできない」のだから、「新しい発想で」、「別の楽しみ方を」探るべきではないか──という一見前向きな意見がその代表だ。それこそが大人の態度だと考える人も多いだろう。

 本書ではそういう人を「どうせやるなら派」と命名し、やはり批判の対象にしている。そのような態度は「二〇二〇年東京大会を開催することの矛盾や問題を覆い隠すだけでなく、むしろ開催の推進力になる」からだ。

 このような、オリンピックを開催するためには不都合な真実は見て見ぬふりをし、「どうせやるなら」と「参加」するあり方が拡散し多様化することによって、オリンピックとは誰が準備し、誰が主体で、誰が責任をもって開催するのかという、あらかじめ明らかにされていてしかるべき答えがますます曖昧なものになっていく。(p15)

 本書で五輪批判の論点となるのは、以下の四点。

 復興五輪を掲げることの欺瞞と経済効果への疑義。

 参加と感動をうたうことによる権力の作動。

 暴力とコンプライアンスの関係をめぐるオリンピックの支配。

 言論の自主統制と社会のコントロール。

 経済効果については当初から疑義を呈する声は多い。アメリカの政治学者ジュールズ・ボイコフは五輪費用をめぐる際限のない経費膨張を「祝賀資本主義」と呼んで批判的に論じている。コストに見合うだけの経済効果が得られるかはまったく保証の限りではない。投資回収がうまくいかなかった時、債務を引き受けるのは公金を初期投資した公共セクターである。民間企業への不利益は最小限に留められる。

 東京五輪では多数の無償ボランティアが募集されている。参加を呼びかける声は外見上は強制的ではない。そこでは、経済的見返りではなく「やりがい」や精神的報酬などが強調されている。
 成就する保証もない「夢」や「希望」に人びとが賛同していくからくり。社会学者の阿部潔は、その矛盾を埋めるのが「感動」だと指摘している。現実の不満を未来へと先延ばしにして、将来の感動を約束し、夢や希望といった喜びの感情を投企させる仕組み。──本書ではそれを「参加型権力」と呼び、批判する。市民を無償労働に駆り立てながら、莫大な利益を目論む民間企業が存在していることに違和感を感じる国民は多い。

 スポーツの祭典としての五輪が現実にどのような影響をスポーツに与えてきたかを正面から問う議論もなされている。前回の東京五輪がもたらした五輪至上主義を批判するくだりにはとりわけ説得力を感じる。

 五〇年代の後半、まさに東京オリンピックの開催が決定する時期になると、自由や自治や個性に向けられていたスポーツは方向を変えはじめる。戦前の軍国主義を反省せずに、再び競技性の重視や競技力向上へと舵が切られていくのだ。(p42)

 その過程で、競技力向上の末端の舞台となった学校の部活動に、戦前に競技をしていたOBたちが指導者として参入してきたという。戦前の軍国主義的なスポーツ観が戦後に入り込む土壌が出来上がったのだ。勝利至上主義や競争原理という文脈においては、暴力は「熱血指導」などのフレーズとともにむしろ美談として語られ、根性主義を美化してきた。

 二〇二〇年東京五輪では「勝利至上主義」「上意下達の集団主義」などの古臭いスポーツ観は一掃すると関係者によって言明されているが、それがそもそも過去の五輪によってもたらされた風潮だということはすっかり忘却されている。あるいは忘れたふりをしている。
 五輪はスポーツにおける暴力を制御したり意味づけたりする力をもってきた。「昨今のコンプライアンス支配は、オリンピックによるスポーツの支配の一形態でもある」のだ。

 五輪をめぐる言論の自主統制に関する論考は著者自身の体験談も盛り込まれているのが興味深い。通信社配信の記事で五輪に批判的な談話をしたところ一部の紙面では割愛された事例を引き、「オリンピックそのものの是非を問う言論は存在感を薄めざるをえない状況」が作られていることを指摘している。
 またネット上では盛んに論じられていることだが、四大全国紙が東京大会のオフィシャル・パートナーになっているのはやはり大きな問題だと思われる。本書でも「様々な問題点や疑問点を問題提起し、論じることが期待されているはずの言論メディアにとって、その機能と役割を自ら制限する足かせとなっているのではないか」と疑義を呈しているのは多くの読者の気持ちを代弁するののだろう。

 何はともあれ、本書の意義は、当初の理念から逸脱して肥大化してしまったオリンピックについて再考するための資料というにとどまらないものだと思われる。やや大きく構えて言うならば、動き出したら止まらない日本の政治に一石を投じる意味でも、また同調圧力の強い日本社会の風通しをよくするうえでも、本書のようなブックレットが世に出ることは歓迎すべきことではないだろうか。
by syunpo | 2019-02-14 20:52 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

神話と幻想のタペストリー〜『ベースボールの夢』

●内田隆三著『ベースボールの夢』/岩波書店/2007年8月発行

b0072887_1952557.jpg 「アメリカ人の精神や心を知ろうとするならばベースボールと、そのルール、現実を学ぶのがよい」と言ったのは、フランス人批評家のジャック・バルザンである。
 本書はその認識に則って、世紀転換期、産業資本主義の確立と都市化の波にあらわれたアメリカで、ベースボールがアメリカ人の夢や幻想をいかに織り込んでいったか、現代社会論を専攻する著者が検証を試みたものだ。

 ベースボールの起源をめぐる言説として「ダブルデー=クーパーズタウン神話」がある。これは、南北戦争に従軍したアブナー・ダブルデーという人物がベースボールというゲームの考案者であり、ニューヨーク州クーパーズタウンという町が最初にゲームが行なわれた場所だと主張するものである。史実を厳密にたどっていくと、この説には肯んじえない点がいくつも出てくるのだが、にもかかわらず、いやそれ故に、この神話の裏側には「徐々に世界を圧倒していくアメリカ資本主義の夢と不安が張りついている」というのが内田の見立てだ。

 ベースボールはもともとイギリス発祥のラウンダーズから派生したものと考えられるが、ベースボール神話形成の過程で意識的にそれと切り離され、ベースボールにアメリカらしさを見出していくようになった。ラウンダーズやそれとよく似たクリケットは、上品ぶっていて型にはまっており、人々のエネルギーや思考を活性化するようなものではない、との言説が振りまかれたのに対して、ベースボールは「活力」や「気力」「力強さ」などを体現するものと考えられ、またそのようにプレーすることが求められたのである。

 ベースボールの黎明期にはアメリカの各都市で別個のルールが混在していたが、最終的には「ニューヨーク・ゲーム」が全米を支配するようになる。それは文字どおりニューヨークの発展と軌を一にするものであった。

 ベースボールがそのルールを確立し、進化し、社会の全域に普及していくプロセスは、ニューヨークという都市がアメリカにおいて覇権を獲得する過程と重なっている。ベースボールはニューヨークの覇権の文化的な一翼を担ったといえよう。(p85)

 「ニューヨーク・ゲーム」には、端的に「ミドルクラス・白人・男性」の夢と不安がこめられていた。それは、戦機転換期に「産業資本による大規模な組織化の流れのなかで、ミドルクラスの人々を凋落させ、またホワイトカラーのひとりに転移させ、さらには消費社会に生きる孤独な群衆のひとりに変貌させる過程」を反映するものである。

 ベースボールの特色は、アルバート・スポルディングによると「頭脳」「筋肉」「男らしさ」にある。それは当時の「ミドルクラス・白人・男性」に強く求められたアイデンティティでもあった。また、ベースボールの規範とされるチームプレーや協調性は、組織化されたビジネスの行動規範とも重なりあう。「ベースボールの規範が新中間層の仕事の次元と適合していた」のである。

 こうしてベースボールは、田舎から都市に移り住んだ人々に共通の安心感や自信をもたらしたと同時に田舎や過去との間に漠然とした情緒的紐帯をも提供したのである。ベースボールは「都市現象」である一方で、古き善きアメリカの田園風景を想起させるものでもあった。そのためにも「ダブルデー=クーパーズタウン神話」は捏造されなければならなかったのである。
 本書ではまったく言及されていないが、ケビン・コスナーが主演して話題を集めた映画『フィールド・オブ・ドリームス』の麗しい世界を、内田は相対化してみせたともいえる。
by syunpo | 2008-07-12 19:08 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

スポーツ革命の書〜『虹を掴む』

●川淵三郎著『虹を掴む』/講談社/2006年6月発行

b0072887_19371290.jpg 日本サッカー協会キャプテン・川淵三郎の「現代進行形の回想録」。ワールドカップ開催にあわせて刊行した講談社の商売上手に乗せられて、思わず手にとった。著者自身のサッカー人生、Jリーグ発足とその後の苦難と再興、日本代表の成長、代表監督ジーコへの思い……。各章のサブタイトルが「七転八起」だの「堅忍不抜」だのと、どこかの力士の口上を思い出させもするが、その語り口はあくまで熱い。

 Jリーグとは、単にサッカーのプロ化を目指したものではなく、日本のスポーツ文化を根底から変革していく壮大なプロジェクトであるということ。そうした理念は、すでにJリーグ開幕時からマスメディアを通じて喧伝されてきたことだが、あらためてJリーグ初代チェアマン自身によって記述されたことは、それなりに意義深いといえる。
 Jリーグ発足にあたっては、先行するプロ野球界を「反面教師」としたことが明確に述べられている。一企業の思惑によって左右されるリーグ運営であってはならない、サッカーが企業の宣伝広告の材料となってはならない……などなど。そうした問題で事あるごとに対立した読売のドン・渡邉恒雄との確執についても詳しく言及されていて、楽しめる。

 日本代表の歴代監督に関する記述にもかなりの紙幅が割かれている。更迭劇など生々しい挿話を織り込みつつ、「歴代の監督にはその時代ごとの役割があったように思えてくる。オフトにはオフトの、加茂には加茂の、岡田には岡田の、それぞれ監督としての意味があった」と総括する。

 日本サッカー界の中枢を歩んでいる著者ならではの具体的な語りに促されて、サッカーに関心のある読者なら一気呵成に読み終えることだろう。
 もちろん当事者故の弱点も、本書にはある。ここで言及されている出来事の関係者の大半は存命中である。当然、それなりの配慮がなされていることがうかがい知れる。また日韓共同開催で決着したワールドカップ招致運動の、政治家を巻き込んだ舞台裏の生臭い暗闘など、ネガティブな話題は周到に回避されている。現場にあれこれ口を出す自分のやり方にあまり自省の様子が見られないのも、やや疑問の残る点ではある。

 今回のワールドカップにおける日本代表の成績は、本書で述べられたジーコへの熱い思いに冷水を浴びせるような結果になったのは残念である。チマタでは、ヒステリックな川淵辞めろコールが渦巻いているが、そういう時だからこそ、川淵キャプテンの言い分に触れてみるのも悪くはないだろう。本人の言うとおり、代表チームを強くすることだけが、日本サッカー協会の仕事ではないのだから。
 同じ話題が繰り返されたり、書き言葉と話し言葉が混在するなど、ゴーストライターの手抜き仕事も散見されるが、本書を楽しむうえで障害になるほどではない。
by syunpo | 2006-06-26 19:46 | スポーツ | Trackback | Comments(0)