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カテゴリ:憲法・司法( 43 )

憲法を意識し憲法と対話する〜『憲法問答』

●橋下徹、木村草太著『憲法問答』/徳間書店/2018年10月発行

b0072887_1823228.jpg これまで私が読んできた憲法に関する対談や座談の記録は、もっぱら護憲の立場から考えの近い者どうしが集まって安倍政権を批判する類の本が多かった。もちろん有益な読書体験ではあったものの、時に退屈することもなきにしもあらずであった。

 そこで本書である。互いに遠慮なく異論をぶつけあう対論はそれなりにスリリング。はっきり意見が対立する場面でもさほど感情的になることもなく、議論が乱れることもない。

 橋下の立憲主義理解は最近よく喧伝されているものとは少しニュアンスが異なる。公権力を縛るものというよりも「憲法と対話し、ルール化し、そのルールに基づいて権力を行使する」ことを求めるものとして捉えるのだ。

 何が正解かわからないから、手続きを踏み、それが正解だと擬制するのが立憲であり民主主義。だからこそ、とりあえずしっかりとした手続きを踏み、手続きが完了したものは正解だと擬制するしかない。(p124)

 その際、立憲主義を公権力の縮小に向かわせるだけでなく、政治権力を積極的に動かす方向にも意義を見出しているのがミソ。
 そうした認識は、文脈は異なるが、高度経済成長期に高度な福祉国家を求める左派の人々が立憲主義を単に公権力を縛るものと考えずに、のびのびと政策が展開できる方向で捉えようとした考え方を想起させるものだ。

 多くの紙幅が費やされている九条に関わる安全保障の問題については、当然ながらかなり細かな議論が展開されている。安保法制をめぐる議論がもっぱら「違憲/合憲」の枠組みでしか議論されなかった点を橋下が批判しているのは一理あるかもしれない。ただし矢部宏治らによって日米間の歪んだ支配/被支配構造が明らかにされている問題で、米国との関係強化といった観点を繰り返し強調する橋下の安保法制肯定論は浅薄な印象を拭い難い。

 それに関連して憲法よりも上位にあると指摘されている日米合同委員会や密約に関して木村はどう考えるのか興味津々だったのだが、その点について一切言及がないのにも拍子抜けした。矢部が詳らかにした一連の事実は、憲法学者にとってはやはり「知ってはいけない」ものだったのか。
by syunpo | 2019-03-22 18:26 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

映画や文学を通して学ぶ法の原理〜『誰のために法は生まれた』

●木庭顕著『誰のために法は生まれた』/朝日出版社/2018年7月発行

b0072887_9374280.jpg 法とはそもそも何だろうか。何のために誰のために生まれたのだろうか。本書はその問題について考える。ローマ法を専門に研究している木庭顕が桐蔭学園中学・高校で行った特別授業を書籍化したものである。

 もっとも本書で検討される概念としての法は、専門家にとってはともかく一般読者にとっては必ずしもなじみやすいものではない。現実社会の法体系のようなものを意味するのではないらしいのだ。

 まず古代ギリシャの政治があった。徒党を組む人々がいる。徒党は個人に犠牲を強いて自由を侵害することがある。そこで徒党や組織を解体する必要が生じる。そのためには、人々が透明な空間で自由に議論することが求められる。ギリシャではこの意思決定のプロセスを政治と呼んだ。

 もっとも個人の自由のために成立したはずの政治が個人の自由を脅かすこともありうる。そのような場合、人々はやはり連帯し、反自由の政治に対抗して個人の自由を回復しようとつとめる。政治が孕んでしまう病理に処方箋を与えるためには政治によるしかない。これがより高度の政治を志向したデモクラシーと呼ばれるものである。むろんデモクラシーにもまたデモクラシー自身を問い直していくプロセスが含まれるだろう。

 古代ローマでは、そのようなデモクラシーを受け継いで、より独創的なデモクラシーを発展させようとした。そうしてローマ法が生み出される。法は占有という原理をもつ。徒党をなして実力行使をしてしまった場合、実力行使をされた方が占有訴訟の原告となってそのことを主張して勝てば、相手の破滅をもたらしうるのである。占有原理を基本とすることでローマ法は個人の自由を擁護し、交易に必要な信用を確立した。

 古代ギリシャ・ローマで行われた政治と法は、ルネサンス期を経て近代ヨーロッパの基盤となった。つまり近代国家の政治や法の体系は遡れば、ギリシャ・ローマに行き着くのである。占有というローマ法独自の原理はその後、基本的人権として普遍化される。日本の政治や法もその歴史的文脈に連なっていることはいうまでもない。

 ……九条二項の考え方も新しいものではなく、実はローマで占有概念の或る発展段階で出てきたものです。一見占有侵害がなくとも自分の占有の内部を溶解させていれば、占有侵害と見なすというものです。近代初期の国際法の父たちもキケローのテクストからこれに気づきました。(p374〜375)

 本書が異彩を放っているのは、以上のような政治や法の概念を学ぶにあたって、映画『近松物語』『自転車泥棒』、プラトゥスの喜劇、ソフォクレスの悲劇などを素材にしている点にある。

 ギリシャでは、政治を可能にする新しい性質の社会組織が出来上がるときに、文学が決定的な役割を果たしたというのが木庭の基本認識だ。一見回りくどいやり方を採るのはそのような認識による。授業でのやりとりは必ずしも理解しやすいものではないが、そこでの議論や検討によって教科書的に概念を覚えるだけで終えるのとは違った、感覚的身体的な学びの実感を得ることが目指されるのである。

 というわけで本書の知見には教えられるところが多かった。ただしその一方で澱のような違和感が胸中に沈んでいる感覚も払拭できない。本書そのものに対してではなく本書が描き出した史実に対する違和感というべきかもしれないが。

 何より古代ギリシャやローマは厳然たる性差別や奴隷制が行なわれていた社会である。今日の価値基準から古い社会のあり方を批判するのはフェアではないといっても、本書で参照されている法の理念が当時の社会全体をカバーしていたわけではないこともまた事実だろう。特定の階層が特定の階層の自由をあからさまに抑圧していた国家の法理が近代法治国家の礎になっているという壮大な人類史のパラドックスには、いささか複雑な思いがする。
by syunpo | 2019-01-06 09:41 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

公平な議論の土俵づくりを〜『広告が憲法を殺す日』

●本間龍、南部義典著『広告が憲法を殺す日 国民投票とプロパガンダCM』/集英社/2018年4月発行

b0072887_18352755.jpg 憲法改正の国民投票が現実味を帯びてきた。国会で改憲発議がなされると、次のステップは国民投票。それは二〇〇七年に施行された国民投票法に則って行なわれる。しかし同法の不備を指摘する声は少なくない。本書では、広告規制に絞ってその問題に迫る。

 民主党政策秘書として国民投票法の起草に関わりその後も国民投票制度の研究をつづけている南部義典と、博報堂の元社員で広告業界に詳しい本間龍の二人による対談形式で問題点を炙り出していく。

 ちなみに本間は、岩波ブックレット『メディアに操作される憲法改正国民投票』でも同趣旨の指摘・提言を行なっているが、本書では南部という国民投票制度の研究者と対論することで、より重層的な議論が展開されることとなった。

 最大の問題点は、国民投票運動期間(通常の選挙での選挙期間に相当する)中のキャンペーン資金や広告に関する規制がほぼ無いことである。定められているのは投票日前十四日以後のテレビ・ラジオでのCM禁止という制約のみ。南部によれば、それは「言論・表現の自由」という「美しい理想」を表現した結果という。細かい規制でがんじがらめに縛られた公職選挙法に対するアンチテーゼなのだ、と。

 しかし、逆にいえば「カネさえあれば圧倒的な量のテレビCMを放映できる」「あらゆる広告手段を使って宣伝活動ができる」ということでもある。人間の行動を自由に委ねると、しばしば強い者が勝つという身も蓋もない事態を招く。本書ではとくにその自由がもたらす弊害について警鐘を鳴らすのである。

 現行法では与党・改憲賛成派が圧倒的に有利だという。その理由として本間は以下の四つを挙げている。

(A)「賛成派は国会発議のスケジュールをコントロールできるので、CM枠をあらかじめ押さえておく(予約擦る)ことができる」
(B)「スケジュールが読めるので、賛成派はCMコンテンツ制作が戦略的にできる」
(C)「賛成派は広告業界のガリバー、電通とタッグを組む」
(D)「与党は圧倒的に金集めがしやすい立場であり、賛成派は広告に多額の資金を投入できる」

 そのような法の下で国民投票が実施されるとどうなるか。当然ながら、改憲賛成派のCMが主要な時間帯を占拠して、様々なイメージ広告が電波にのることになるだろう。本間が想定するのは次のような状況である。

 すぐ思いつくのは、明るい家庭や友人たちがにこやかに生活しているシーンを見せて、「この平和な日本をこれからも守るためには(発展させるためには)改憲が必要です」と語るものとか、「北朝鮮のミサイル発射映像」を流して「憲法を変えなければこの国は守れません」みたいなものでしょうか。賛成派は安倍首相を筆頭にどうしてもコワモテイメージがあるから、まずはそれを打ち消して浮動票を獲得するために、できるだけソフトで先進的なイメージを作ろうとするはずです。(p116)

 映像や音楽がいかに大衆に対して影響力があるかは、ナチス・ドイツの時代に実証済みである。そこでは理性的な熟議の過程は軽んじられ、情感に訴えるようなポピュリズムが幅をきかせることだろう。

 そこで気になるのは、昨今、広告代理店やテレビ局の広告審査が「杜撰」になってきていることである。たとえば、通常の選挙では公約は選挙期間中のCMで訴えることはできない。しかし公約まがいのCMが「日常の政治活動」という名目で放送されることが目立つようになってきた。審査部が難色を示しても、立場の強い営業部の言い分が通るわけである。そのような状況は当然ながら国民投票においても想定されよう。

 ちなみに付け加えれば、現行法では海外の有力人物、組織が日本の憲法改正国民投票運動のために出資することも可能である。また南部は内閣官房の機密費が賛成を訴える著名人、文化人、御用学者などに流れていく可能性も指摘している。

 そこでCM規制のあり方として、本書では海外の例を参照しつついくつかの選択肢を提示している。南部が提案している改正案が興味深いので紹介しよう。

 まず国民投票運動の支出として一定程度の金額を見込む者に事前の登録を必要とする「登録運動者制」と運動費用の上限を設定する「バジェットキャップ制」の導入を提起する。
 そのうえで「条件付きでCMを認める」A案と「CMを全面禁止にする」B案を示している。前者は、登録運動者の中から両陣営それぞれの立場を代表する「指名団体」を一つずつ国民投票広報協議会が指名し、その団体に限って例外的にテレビ・ラジオのCMを認めるというものである。

 CMや放送内容などについて内容を検証・審査するために国会の広報協議会に権限をもたせる考えに対しては、南部が「言論活動の規制に関与する機関を国会に置くのはよろしくない」と否定的。そこで民間による「国民投票オンブズマン」の組織化を提案しているのは一つの見識かもしれない。

 本書で重要なのは、法改正に関して改憲に賛成・反対に関わらず、戦略的な発想から議論すべきではないことを強調している点にある。憲法改正は、あくまで公平公正な議論をとおして決着をつけるべきだという姿勢が貫かれているのだ。国民投票法におけるCM規制をどうするかという問題は、まさしく立憲民主政治の核心に触れるテーマなのである。
by syunpo | 2018-06-19 18:40 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

国家権力に宛てた最高法規〜『憲法主義』

●内山奈月、南野森著『憲法主義 条文には書かれていない本質』/PHP研究所/2014年7月発行

b0072887_1134146.jpg AKB48の内山奈月に九州大学准教授(刊行当時)の南野森が講義をするというスタイルでまとめた憲法学の入門書。〈憲法とは何か?〉から始まって、〈人権と憲法〉〈国民主権と憲法〉〈内閣と違憲審査制〉とつづき、〈憲法の変化と未来〉を考えて締めくくる。

 憲法とは “constitution” の訳語である。 “constitution” は “constitute” の名詞形。それにismを付けると “constitutionalism” 。つまり西洋語の体系では「国家設立→憲法→立憲主義」が一直線につながっている。

 立憲主義というと何だか難しく聞こえますが、constitution に ism(主義)をつけただけなので、これは西洋人にとっては「憲法主義」くらいの感じではないでしょうか。
 立憲主義という言葉から、ただちに憲法が頭に思い浮かぶかどうかは、日本だと中学生くらいなら無理かもしれませんが、西洋人なら constitutionalism と聞けば自然に憲法が思い浮かぶはずです。(p79)

 本書のタイトルを「憲法主義」としているのも以上のような認識に基づく。

 講義内容は憲法を学ぶうえで基礎的な問題がひととおり押さえられている。憲法と法律との違いとして、最高法規、硬性、違憲審査権といった特徴に加えて、対象の違い・名宛人の違いということにも論及しているのは立憲主義の基本であり当然のことだろう。法律は一般の人々を相手にするものだが、憲法は国家権力を相手にしている。未だにこの点を理解せず憲法に国民の義務を書き込めと主張する人物がメディアにしばしば登場するのは残念というほかない。

 国民主権を「権力的な要素」と「正当性の要素」の両面から考えているのは勉強になった。前者では、君主が権力を握っている君主制に対比できるものとして、国民が権力を握る国民主権を理解することができる。後者では「ある決定が誰の名前で正当化できるのか」が問題となる。
 現代の政治制度のもとでは、もっぱら後者の要素が全面に出てくる。つまり、国民は「権力を持って実際に決定を行う存在として登場するのではなく、決定に正当性を与える存在として出てくる」というわけだ。ここから代表民主制への話と展開していくことはいうまでもない。

 憲法学上の難問とされている違憲審査制をめぐるやりとりも興味深い。「国権の最高機関」たる国会で制定された法律をなぜ裁判所は審査できるのか。民主主義に悖るのではないか。この疑問に対して、南野は最初に「違憲審査制を完全に正当化することはできない」と断ったうえで議論を進める。訳知り顔で難解な法理論をあれこれ論じられるよりも、いっそすがすがしい。
 多数決原理を採用することの多い民主政では「普通の人間はなかなか少数者のことまで考えが及ばない。ということは、民主主義だけで突っ走るとどうなるでしょう」と問いかけ、それに歯止めをかけるものとして違憲審査制を置く──という説明は常識的なものかと思われる。

 少し引っかかったのは選挙制度に関する解説。どの選挙制度にも一長一短があるけれど、本書では、比例代表制によって生まれやすい多党制や連立制への評価がやや一面的と感じた。比例代表制では少数政党が乱立して政権が安定しない傾向があると言うのであれば、それには同時に一党による独裁を抑制する働きがあると付け加えるべきだろう。また一票の格差について多くの紙幅を費やしてきた本書の問題意識からすれば、比例代表制では一票の格差が生じないという事実は大きなメリットのはずである。
by syunpo | 2018-05-01 11:35 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

ドイツの近現代史に学ぶ〜『ナチスの「手口」と緊急事態条項』

●長谷部恭男、石田勇治著『ナチスの「手口」と緊急事態条項』/集英社/2017年8月発行

b0072887_20424167.jpg 麻生太郎副総理が「ナチスの手口に学んだらどうかね」と口を滑らせたのは、二〇一三年のこと。すぐに撤回されたとはいえ、自民党が目指す改憲はより現実味を帯びてきているので、麻生発言は一つの戦略を示唆するものとして不気味に地底で響き続けているともいえよう。彼の認識によれば、ワイマール民主制からナチス独裁への移行は「誰も気付かない」うちに変わったというのだが、本当にそうなのか。二一世紀の日本がナチスから学ぶべきことなど本当にあるのだろうか?

 本書では、ナチスがいかにして独裁制を確立するに至ったのかをあらためてふりかえり、同時に自民党改憲草案にうたわれている「緊急事態条項」について、ドイツの近現代史を参照しつつ、いかに危険なものであるかを検討していく。憲法学者とドイツ近現代史の研究者による対論集である。

 一般にヒトラーは民主的に選ばれ民主的な手続をもって独裁体制を築いたと認識されている。けれども「ヒトラーは民主主義で大衆によって選ばれた」「ヒトラーは合法的に独裁体制を樹立した」というのは史実に反すると石田はいう。

 国民の多くがヒトラーを宰相にしようと望んだわけではない。すでにワイーマール体制が崩壊しつつあるなかで、当時の政争のなかからヒトラー首相は誕生したのだ。

 ヒトラー政権の副首相となったパーペンに言わせると、落ち目のヒトラーを「政権に雇い入れる」のであって、用が済めば放り出せばよい。露骨な反ユダヤ主義者、レイシスト、民主主義も立憲主義も否定する煽動家としてヒトラーはすでに世間に知られていました。(石田、p51)

 しかし案に相違してヒトラーはその後、実力をたくわえ暴走を始めた。長谷部がいうように「理屈の通用しない人間が相手では、エリートがコントロールしようとしても限界」があるからだ。

 ナチスの独裁を法学理論で支えた学者としてカール・シュミットが知られる。シュミットは独裁を「委任独裁」と「主権独裁」に区分して考えた。前者は「危機に直面したとき、それに対応するために一時的にある人物ないし集団に権力の集中をはかる」場合をさす。後者は「既存の立憲的な制度を離れて、新たな政治制度をつくり上げることを目的」とする独裁である。

 ヒトラー独裁の成立にあたっては、ワイマール憲法の緊急事態条項が大きな役割を果たした。シュミットの分類で言えば「委任独裁」として設定されていたはずのワイマール憲法第四十八条を根拠に発せられた緊急令が、いつの間にか憲法制定権力として振る舞うヒトラーの「主権独裁」へとすり替えられていったのだ。

 このようなドイツの史実を復習した後、日本における緊急事態条項の検討に入る。

 自民党改憲草案に書き込まれた緊急事態条項は、緊急事態の認定の要件がとても緩いのが特徴である。内乱や自然災害といったことが書かれているが、これは例示にすぎず、必要条件ではない。つまり首相や政府与党による恣意的な運用が可能となる余地がある。

 緊急事態が認定されてしまえば、基本的人権が制限される。戦後ドイツの憲法に相当するボン基本法では、緊急事態が宣言されても、思想、良心、言論の自由が制限される可能性はないが、改憲草案では制限できることが明記されている。

 さらにここで問題になってくるのは日本の司法が「統治行為論」を採っていることだ。高度な政治決定には司法が口を出さないという態度であり、これでは政治の暴走を司法が抑制することはできないだろう。「緊急事態条項を憲法に導入するのであれば、『統治行為論』を退治しておく必要があります」と長谷部が指摘するのはこの文脈においてである。

 ボン基本法では憲法の原則を憲法改正を通じてでも変えられない自国の価値観として規定している。しかし日本ではそうではない。基本的人権の尊重や国民主権などの根本原理を公然と否定する政治家がいるのは周知のとおりである。そのような状況のなかでは「ほんのわずかでも抜け道のある緊急事態条項をつくらせてはならない」と長谷部は力説するのも当然だろう。

  憲法の基本原理に毀損を加えるような安全の保障というのは、議論の根本がねじれていることになります。憲法の基本理念を守らないでいて、国を守っていることになるのだろうか。(長谷部、p239)

 対談集はややもすると大味な内容のものになりがちだが、本書は二人の対話がうまく絡み合った濃密な対談集に仕上がっている。
by syunpo | 2017-09-28 20:52 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

公平公正な議論のために〜『メディアに操作される憲法改正国民投票』

●本間龍著『メディアに操作される憲法改正国民投票』/岩波書店/2017年9月発行

b0072887_2044317.jpg 憲法改正をめぐる議論が現実味を帯びてきた。国会で改憲発議がなされると国民投票が行なわれる。しかしながら現行の憲法改正国民投票法には致命的な欠陥がある。投票運動期間中の広告規制がほぼ存在しないのだ。そのような欠陥が具体的にいかなる事態をもたらすか。

 大手広告会社の博報堂で営業マンとして活躍した本間龍によるシミュレーションは具体的である。公明正大な熟議を行なうにふさわしい情報環境からはほど遠い状態になることが予測されるのだ。

 改憲派にはまず国民投票の日程を決定できるというアドバンテージがある。それを逆算して早い段階から広報宣伝戦略に着手することが可能だ。政権与党が改憲発議をするわけだから、当然、政党助成金や企業からの献金など財力も護憲派に比べ豊かである。

「国民投票運動広告」はテレビCMは投票日の二週間前から放送禁止となるが、「意見広告」に関する禁止条項はない。最低六〇日間以上の長期にわたり、あらゆる手段で有権者に届けられる広告は予算がある方が絶対に有利。マーケティング技術は日々進化している。宣伝広告による働きかけが投票結果を大きく左右することは間違いないだろう。

 とくに電波メディアにおける広告資金量や発注タイミングの差は、圧倒的な印象操作を生む危険性が否定できない。これは国民投票が目指す公平で自由な投票を妨げる大問題であると本間は指摘する。

 国民投票の長い歴史をもつ欧州各国では、当然ながら国民投票に関して種々のメディア規制を敷いている。イタリア、フランス、イギリス、スペイン、デンマークなどではテレビスポットCMを原則禁止しているのは要注目。またフランスでは、賛成・反対両派の広報活動を監視する第三者機関が設置されるという。

 ……欧州の主要国でテレビのスポットCMが軒並み禁止されている事実は、テレビCMという宣伝媒体の怖さを十分に物語っていると思われる。各国がそれぞれの国民投票における歴史の中でテレビCM規制の必要性を感じ、同じように規制の網をかけている意味を、日本でも十分に検討する必要がある。(p44)

 そこで本書では以下のような提案がなされている。

(A)あらゆる宣伝広告の総発注金額を改憲派・護憲派ともに同金額と規定し、上限を設け国が支給する(キャップ制)。
(B)テレビ・ラジオ・ネットCM(電波媒体)における放送回数を予め規定し、放送時間も同じタイミングで流す。もしくは同じ金額と規定する。
(C)先行発注による優良枠独占を防ぐため、広告発注のタイミングを同じとする。
(D)情報内容や報道回数、ワイドショーなどでの放映秒数などで公平性を損なわないよう、民放連に細かな規則を設定させ、違反した場合の罰則も設ける。
(E)宣伝広告実施団体(政党・企業)の討論・ワイドショー・報道番組等へのスポンサード禁止。
(F)意見表明CMも投票日二週間前から放送禁止とする。インターネットのポータルサイトなどでも同様とする。
(G)いちばん高額であり、視聴者、民放各社にさまざまな影響を及ぼすテレビCMを全面禁止とする。

 私は何よりも(G)を是非実現してほしいと考える。細かいルールを作って細かいチェックをするくらいなら、いっそ欧州の主要国並に全面禁止にするのが最も明快だろう。この規制が行なわれるだけでもかなり落ち着いた公明正大な議論の土俵ができあがるのではないかと思う。

 本間はかつて『原発プロパガンダ』で日本のマスメディアと国民がいかに原子力ムラの広報宣伝戦略にしてやられたかを描きだした。フクシマでの事故によって皮肉にもようやく私たちはその悪夢のようなプロパガンダを冷静に相対化する契機を得た。憲法改正のような重要な問題で再び「『カネの力』による報道の制圧」を受けるような事態を迎えるのは愚の骨頂というべきだろう。

 なお本書の内容は、ジャーナリストの今井一が主宰し、著者のほか田島泰彦、井上達夫、堀茂樹、南部義典、宮本正樹、三宅雪子らで構成する「国民投票のルール改善を考え求める会」よる検討を経て得られた知見をもとにしている。
by syunpo | 2017-09-23 20:10 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

様々な視点から光をあてる〜『私にとっての憲法』

●岩波書店編集部編『私にとっての憲法』/岩波書店/2017年4月発行

b0072887_19142245.jpg 憲法施行七〇周年にちなんだ企画。五十三人の各界著名人が思い思いに憲法につい述べているアンソロジーである。政治・法律の専門家だけでなく、音楽家、俳優、芸人、演出家、映画作家、宇宙物理学者、医師、鍼灸師、作家、漫画家、経済人などなど人選はバラエティに富んでいる。

 この種の憲法本には、護憲論にしても改憲論にしてもどこかで聞いたようなステレオタイプの言説がどうしても含まれてしまいがち。本書もまたその例に漏れないのだが、いくつか独自の体験や視点から憲法を論じたものには学ぶところがあった。以下、私が印象に残ったものについて紹介する。

 南大東島出身の批評家・仲里効は、憲法前文に頻出する「われら」には沖縄が含まれていないことを指摘して、憲法にまつわる「排除のシステム」に言及している。

 日本国憲法七〇年の歴史は、憲法そのものを日本国民自身が損ない貶めた歴史でもあったが、そのことは、国家の基本法であり最高法規である憲法の上に日米安保条約を置いたことによるところが大きい。(p33)

 むろんこうしたことは「本土」の論者からも再三指摘されてきたことではあるけれど、安倍政権下ではそのような転倒は強化されこそすれ、改善される気配はない。沖縄の人々が憲法とその運用に携わってきた人たちに疑惑の目を向けるのは当然だろう。

 劇作家・演出家の永井愛は、〈個人/政府〉という二項対立の危うさを指摘する。一般にはその間に立つ「中間団体」の意義を説く論者が多いのだが、永井はそこにもまた一つの陥穽をみるのだ。

 憲法を語るときに、個人対政府のような対立項で考えがちです。でも、そうではなく、個人と国家のあいだには、学校が、報道が、そして職場がある。それらこそが、逆に、個人を、憲法で保障された権利と出会わせにくくしています。(p51)

 個人と憲法理念との出会いを阻害するもの。その構造を読み解くことが求められるということだろう。永井は政治やエリート主義の問題点を論じる前に「一般の人が働き、住む場所、空間、そこで何が起きているかということ、そこから考えたほうがいい」と提起してまとめている。

 小児科医の熊谷晋一郎は介護者の支援を受けている自身を顧みながら「暴力を受けないことは、基本的人権である。そして、暴力のない暮らしを実現するためには、潜在的な加害者も被害者も、依存先を分散する必要がある」と説く。この主張の宛先が、個人ではなく社会や政府であることは重要だろう。みずからの体験をまじえた論考には説得力が感じられる。

 同性愛であることをカミングアウトした元参議院議員の尾辻かな子は性的マイノリティの立場から基本的人権を考える。少数派の生きづらさは、当人たちよりも「隠さなければ生きていけないと思わせる社会であり、憲法で人権を保障しているのに、実際にそうはなっていない現実」にあるという意見は正当というほかないが、昨今の日本の状況をみていると、日暮れて道遠しと思わないでもない。

 小谷真理は、SF&ファンタジー評論家の立場からユニークな視点で憲法を論じていて面白く読んだ。「いまや、日本のSFアニメはクールジャパンと呼ばれて海外にも絶大な人気を誇る。民主的リベラルの象徴たる日本国憲法の概念と格闘しながら鍛えてきた想像力が、世界的に愛され咀嚼されている事実を、もう少し反芻し再検討して未来へ繋げる道を、いまのわたしは模索している」という。

 新右翼活動家として知られる鈴木邦男は、活動家学生時代の模擬国会討論で自分が護憲派の役割をつとめて改憲派をやりこめた挿話を語っているのがおもしろい。「自由のない自主憲法よりも、自由のある押しつけ憲法を」との主張を、さてかつての仲間たちはどう読むだろうか。

 琉球民族独立総合研究学会理事をつとめる親川志奈子は、日本人は「押し付け安保」とは言わないくせに「押し付け憲法」とばかり言うことの欺瞞を指摘する。押し付け憲法論の先にあるのは、やはり押し付け改憲でしかないだろう。

 元衆議院議員の井戸まさえは、民法の「離婚後三〇〇日規定」により無国籍となったみずからの子供をめぐる実体験を紹介して、法の狭間に落ちこんだ少数派の人権について語る。そうした境遇にある子供はごく少数だけにマスコミで表立って議論になる機会は乏しく、とても勉強になった。

 憲法は最高法規といわれるだけあって、やはり関心の持ち方は各人各様。憲法と人権・平和との関係について考えるにしても様々なアプローチがあることをあらためて認識させられる。多角的に憲法を考えるにはよき道標となる本といえるだろう。
by syunpo | 2017-07-22 19:18 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

最高の権力作用に関する考察〜『憲法改正とは何だろうか』

●高見勝利著『憲法改正とは何だろうか』/岩波書店/2017年2月発行

b0072887_1949084.jpg 日本の国会は衆参両院で改憲派の議員が三分の二以上を超え、いつでも憲法改正案を国民に発議し、国民投票に持ち込むことができる状態になった。本書は憲法を改正するということの法哲学的な意味を考え、現憲法の改正規定の成立過程をたどり、改正手続法の問題点を洗い出し、そのうえで安倍首相の憲法観の危うさを論じるものである。

 前半、憲法を改正するという営みがもつ法哲学的な意味をジョン・バージェスやハロルド・ラスキやらを参照しながら考察するくだりは私にはたいへん興味深いものだった。「改憲とは最高の権力作用である」という言葉は心に刻んでおく命題であるだろう。
 憲法改正による体制転換は正当かという問題については昔から種々の議論があるが、高見は芦部信喜の説を引いて次のように述べている。

 もとより、国民がそのオリジナルな制憲権を行使して憲法を創設する場合であっても、それが「立憲主義憲法」と評しうる憲法であるためには、「人間価値の尊厳という一つの中核的・普遍的な法原則」に立脚したものでなければならない。そして、この憲法をして憲法たらしめる「根本規範」ともいえる「基本価値」が、憲法上の権力である改正権をも拘束する。(p34)

 そのような理路を示したうえで「憲法の永続的性質ないし安定化作用の観点からすれば、憲法改正には限界があるとする」見解が「基本的に支持されるべきである」というのである。

 現憲法の改正規定の成立過程をたどるくだりは、かなり詳細な記述になっていて一般読者には専門的にすぎるかもしれない。とはいえ、国民投票法が長いあいだ整備されてこなかった背景についての分析は明快である。
「政府は、一貫して、憲法改正案とワンセット論で国民投票法の整備を考えてきた」と述べ、「したがって、憲法第九六条の手続の未整備は、憲法の明文改正を意図的に回避し、その解釈・運用で賄ってきた自民党歴代政権のしからしめるところである」と指摘しているのには納得させられた。

 安倍首相の憲法観にはむろん批判的だ。欧米首脳の前では憲法的価値の共有を力説しながら、国内向けには日本精神を基に憲法一新を説く姿勢を「二枚舌」と喝破するくだりはとりわけ舌鋒鋭い。
 全体的にややかったるい読み味といえば失礼かもしれないが、憲法改正を考えるうえでたいへん勉強になる本であることは間違いない。
by syunpo | 2017-04-20 19:50 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

時代精神を表現した文書として〜『文学部で読む日本国憲法』

●長谷川櫂著『文学部で読む日本国憲法』/筑摩書房/2016年8月発行

b0072887_12463668.jpg 憲法を時代精神を表現した文書として捉え、それを文学テクストに向かうように読み解いていく。本書は俳人の長谷川櫂が東海大学文学部文芸創作学科で行なった講義記録をもとに編集した本である。

 古事記や万葉集、夏目漱石や司馬遼太郎を引っ張り出してくるあたりは、なるほど文学部的な読みかもしれないし、時に憲法をキャラクター化したような表現も面白いといえばおもしろい。

 日本国憲法前文の第一段は、憲法起草者たちによって日本国民を守る使命を与えられた日本国憲法が、自分の意思をもちはじめた巨大なコンピュータのようにひそかに目覚め、闘う姿勢をみせはじめる場面です。(p62)

……改憲に対して護憲という言葉がありますが、人間が憲法を護る以前に憲法自身、自分で自分を守る力を備えた巨大な生命体なのです。(p69)


 押しつけ憲法論に対しては、日本文化論の見地から対抗する。すなわち日本文化とは「外国文化の受容、選択、変容を繰り返す運動体」との認識を提示し、その特質から肯定的な見解を展開するのだ。象徴天皇制についても同様に日本の伝統からの説明を試みる。むろんこうした議論には異論も大いにありうるだろう。

 それ以上に明らかにツッコミが入りそうな点もある。「どの選択肢が正しいかわからない。その判断を一人の君主に委ねるのが君主主義なら、国民の多数決で決めるのが民主主義です」というのは民主主義理解としては誤りだろうし、九条解釈に関連して「法の解釈は常識的であるべきです」というのも常識という概念の曖昧さを考えれば不毛な論争を呼ぶだけかもしれない。

 また学生相手の講義ベースということもあってか強い説教調がまじっている点も少し引っかかった。「選挙の棄権者は『政治への無関心』などというものではなく、主権を放棄して責任だけを負わされる『愚かな民衆』に逆戻りした人々です」などというくだりだ。このような大衆批判が今日果たして有効な言説たりうるのかどうか。

 憲法学者による憲法入門に食傷気味の読者には毛色の変わった憲法談義ということで面白味は感じられるが、積極的に推薦するかと言われれば、いささか微妙である。
by syunpo | 2016-10-21 12:47 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

最高法規に実質を込めてゆく〜『憲法の「空語」を充たすために』

●内田樹著『憲法の「空語」を充たすために』/かもがわ出版/2014年8月発行

b0072887_903598.jpg 二〇一四年五月三日の憲法記念日に兵庫県憲法会議主催の集会で行なった講演記録。内田樹お得意のアイロニカルな言い回しが随所に炸裂していて面白い本には違いないが、結論に至る理路の部分に首肯しえない点もあるので、まずはそのあたりから記してみる。

 憲法とは本来、その内容についての合意があって起草されるわけではない。その意味ではあらゆる憲法は「空語」である。憲法というのは憲法制定主体を事後的に作り上げてゆく生成的な営みなのだ。……内田の憲法観を結論的に要約するとそのようになる。

 憲法制定時点ですでにその内容についての広汎な国民的合意があったというケースは、歴史上ほとんどなかったのではないかと僕は思います。大事なことなので確認しておきたいと思いますけれど、憲法のリアリティはその方向性についての国民的合意が「すでにあった」という事実によって基礎づけられるわけではありません。そうではなくて、憲法に示された国家像を身銭を切って実現しようとしている生身の人間がいるという原事実が憲法のリアリティを担保する。(p23〜24)

 ところで自民党改憲草案について内田はいうまでもなく批判的である。草案が「自民党革命」によって「戦後レジーム」が解体された後に提出されたものならわかるが、現状はそうではないと疑義を呈しているのである。

 ……彼らはただ前の選挙で相対的な過半数を得ただけです。総選挙での絶対得票率が一五・四%しかない政党が、革命や独立戦争の遂行主体しか自らに賦与しえない「超憲法的主体」の座を要求するのは、やはりグロテスクという他ない。(p47)

 しかし、この言い分は明らかに前言と矛盾している。「憲法制定時点でその内容について広汎な国民的合意があったというケースは、歴史上ほとんどなかった」のだから、草案起草時点で大筋の合意も革命的事実も存在しないのはむしろ当然ではないだろうか。これからこの草案をたずさえて革命を起こすのだ、これから「空語」を充たしてくのだ、と私が自民党員なら反論するだろう。その意味では内田の批判はいかにも筋が悪いというほかない。自民党改憲草案は、自民党の得票率が一五%だろうが九〇%だろうがその実勢に関わりなく、グロテスクな内容だと私は思う。

 後半の「法治国家から人治国家へ」の変質を分析する章では、その根底に国家運営の株式会社化をみてとり、その点を厳しく糾弾している。こちらは同意できる点も多い。

 株式会社は有限責任を基本とするが、国民国家の政策判断ミスがもたらす損害は無限責任であり、どこにも外部化することが許されない。国民国家と株式会社は同一に論じることはできないのは当然であるが、現状ではその当然の認識が国民のなかで共有されていない。そこから様々な問題が生じ、さらには問題の解決を遅らせている。
 たとえば衆参で議席配分が異なる「ねじれ国会」により「決められない政治」が表面化した時、メディアも世論もそれを否定的にとらえた。スピーディな決断を是とする株式会社の規範に基づく判断であるだろう。

 そのような現状に対して、内田は具体的な対抗策を提示しているわけではないが、今の日本で起きている政治的現象は「グローバル資本主義の熟爛期に固有の『うたかた』のようなものだ」という。「いずれ安倍政権は瓦解し、その政治的企ての犯罪性と愚かしさについて日本国民が恥辱の感覚とともに回想する日が必ず来るだろうと僕は確信しています」。

 憲法の「空語」を充たすこと、その生成的営みこそが憲法的行為だという内田の姿勢は、憲法とは未完のプロジェクトであるとする故奥平康弘の憲法観を踏襲するものだろう。憲法の「空語」を充たすのは私たち国民をおいてほかにない。
by syunpo | 2016-10-16 09:01 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)