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カテゴリ:歴史( 53 )

冷酷非情な武将というけれど〜『源頼朝』

●元木泰雄著『源頼朝 武家政治の創始者』/中央公論新社/2019年1月発行

b0072887_09232130.jpg 鎌倉幕府を創設し武家政権を築き上げた源頼朝。ただその歴史的評価は今ひとつ芳しいものではない。特に人物像をめぐっては冷酷非情の評価がついてまわる。本書はそのような評価に異議を唱えてこれまでにない頼朝像を描き出す。

 また昨今の日本史学では、中世成立期の公家と武家をことさらに区分し、両者の対立を強調する見方が強まっているらしいのだが、著者によればそれは「古めかしい歴史観の再燃」だという。本書ではそのような歴史観に捉われることなく、頼朝と京との関係も見直されている。

 波乱万丈の生涯であった。十三歳の時、平治の乱に敗れ父義朝を失い、自らは伊豆に配流されて苦難の時代を過ごす。
 二十年後、挙兵して南関東を占領、そこから紆余曲折を経て、鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立した。
 こうした履歴をみれば、歴史家としてもその足跡を辿ってみようという知的探究心が働くのも当然かもしれない。

 良くも悪しくも本書で最も印象深いのは、頼朝が宿敵の平氏や平泉藤原氏を倒した後、身内ともいえる木曽義仲や義経をも滅亡に追いやった一連の経緯を検証するくだりである。歴史には身内どうしの血腥い争いは付き物とはいえ、頼朝の躍進に多大なる貢献のあった者への非情ともいえる行動をどう評価すべきなのか。

 義経と頼朝の対立の原因はいくつかあるが、最終的には義経と後白河上皇が手を結んで、頼朝の統制から逸脱を図ったことが決定的であった。そこには幕府の分裂、後継者をめぐる内紛、さらには幕府崩壊の危機さえも胚胎していた。「幕府という新たなな権力を守るためには、後白河と結ぶ義経の抑圧は不可避であった」。その意味では「頼朝は落としどころを考え、あくまでも冷静に対応しようとしたといえる」と元木は肯定的に評価するのである。

 また娘の大姫入内を企図して果たせなかった頼朝晩年の朝廷との交渉についても否定的な論評が多い。清新な東国での政治を創始したはずの頼朝が、その貴族的な性格から、澱みきった公家政権に足を取られたとする見方である。

 それに対しても元木は反論する。途上で大姫が他界したことで頼朝の画策は成功しなかったが、それを「失政」とみるのは結果論であって、当初の状況からすれば頼朝にとって「後宮を牛耳る院近臣を籠絡し、娘を入内させることなど、いとも容易に思えたはずである」と推察。朝廷に介入したことに一定の理解を示している。

 そのような調子で本書では全体を通して頼朝の立場に寄り添った記述が貫かれている。ただそれにしても頼朝に対する酷評にいちいち反論しようとするあまり、贔屓の引き倒し的な読後感も拭いがたい。古今東西いかなる人格者といえども完全無欠な人物などいないのだから、マイナス査定はマイナス査定として淡々と記述した方が歴史書としてはもっとリアリティが出たと思うのだが、どうだろう。

by syunpo | 2019-06-26 18:55 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

比較研究法による人類史〜『歴史は実験できるのか』

●ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン編著『歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史』(小坂恵理訳)/慶應義塾大学出版会/2018年6月発行

b0072887_09230289.jpg 歴史は実験できるのか。その問いに対する本書の回答はイエス。ただしその実験は実験者が直接コントロールできるものではない。本書のキーワード「自然実験」とは比較研究法のことをいう。

……歴史関連の学問では、自然実験あるいは比較研究法と呼ばれる方法がしばしば効果を発揮している。このアプローチでは、異なったシステム同士が──できれば統計分析を交えながら量的に──比較される。この場合、システム同士は多くの点では似ているが、一部の要因に関しては違いが顕著で、その違いがおよぼす影響が研究対象となる。(p8)

 その意味では「自然実験」とはあくまで比喩的な表現というべきかもしれない。
 たとえば、ドイツにおける地域ごとの経済発展のばらつきをフランス革命の影響との関連で分析する論考では、フランスによる侵略と改革を受けた地域は「処置群」に、そうでなかった地域は「対照群」に喩えられる。
 ちなみにその「実験」からは「フランスが導入した制度改革が都市化を促したため、改革とは縁のなかった地域よりも経済が成長したこと」が推測されている。

 本書はそのような自然実験に基づく論稿を集めたアンソロジー。書き手の専門分野は、歴史学のみならず、進化生物学、開発経済学、政治経済学など隣接する様々な分野にまたがっている。

 パトリック・V・カーチは、ポリネシアの三つの社会を実験的に細かく比較しながら、文化が進化する過程でないまぜになった相同と相似を解きほぐしていく。
 マンガイア島、マルケサス諸島、ハワイ諸島はいずれも同じ文化的基盤から歴史の軌跡を歩み始めたが、千年後には大きく異なる社会を形成した。相対的に資源に恵まれていたハワイでは余剰作物が安定的に供給されるようになると、他のエリアには見られない国家形態すなわち首長国から王国へと政治システムを移行させた。

 ジェイムズ・ベリッチは一九世紀植民地に共通する成長の三段階を描き出して卓越した議論を展開している。
 かつて欧州の植民地支配を受けた七つの地域でのフロンティア社会の発展を比較してみると、どこでも同じようなサイクルをたどっているという点に驚かされる。すなわち、ブーム、バスト(恐慌)、移出救済という三段階のサイクルである。
 本書のケーススタディの多くは、撹乱(処置)の違いや初期条件の相違がもたらした結果の違いの説明に重きを置いているのだが、ここでは共通点が導き出されている。

 銀行制度の成立過程を、アメリカ、ブラジル、メキシコの三地域で比較したスティーブン・ヘイバーの論考も興味深い。この三カ国ではアメリカが最も機能的な銀行制度を発達させた。詳細は省くが、自然実験を経て見えてくるのは銀行制度と民主政治との密接な関係である。

……大きな構造のなかで競争がうまく機能する銀行制度が誕生するためには、官僚の権限と決定権が制度によって限定されることが条件であり、そこには効果的な参政権の導入が関わっている。(p126)

 ジャレド・ダイアモンドは、二つの論考を寄稿している。
 一つは同じ島を二分しているハイチとドミニカ共和国の発展の違いが何故生じたのかを考察したもの。もう一つは、太平洋の島々の社会を定量的に比較して、イースター島でポリネシア人による森林破壊が引き起こされ、部族間抗争が頻繁するようになった理由を解明する。

 イースター島で森林破壊が進んだのは、住民が特に近視眼的で、風変わりな行動をとったからではない。不運にも、太平洋で最も壊れやすい環境の島に住みついたからだ。厳しい環境のなかで、木の再生率はどこよりも低いレベルにとどまった。(p143)

 ネイサン・ナンは、奴隷貿易がアフリカに与えた影響を考察。奴隷貿易がその後のアフリカの経済発展に悪影響を及ぼしたことを論証している。「アフリカでも特に多くの奴隷が連れ去られた地域は、今日のアフリカで最も貧しい地域である」という結論は衝撃的だ。

 アビジット・バナジーとラクシュミ・アイヤーは、イギリスのインド統治をインド各地の比較において検証する。植民地時代に採用された地税徴収制度の違いによって、その後の発展の軌跡が大きく異なることを明らかにした。

 ダロン・アセモグルら四人は共同研究によってフランス革命の拡大が与えをた影響の自然実験を行なっている。前述したように、フランス革命はその後の各国における経済成長にも影響を及ぼしたことが詳らかにされるのである。

 自然実験という方法を明確に打ち出した本書にあっては、少なからぬ論稿が論題の詳述以前に自然実験としての学問的精緻さを担保するために、前提となる実験手続きに関する説明に多くの紙幅を費やしている。もちろんその作業があってこそ、結論に説得力をもたらしていることは確かだが、ややもすると一般読者にはかったるい読み味を醸し出しているといえなくもない。無論そのことが本書を評価するに際してマイナスになることはないと思うが。

 ちなみにスペシャリストの歴史学者の一部からは、自然実験という方法そのものに否定的な見解が提起されているらしい。
「私は四〇年におよぶ学者としての人生をアメリカの内乱の研究にささげてきたが、未だに十分に理解できない。それなのに、内乱全般についてどのように論じられるだろう。いや、アメリカの内乱をスペインの内乱と比較するのも不可能だ。私はスペインの内乱の研究に四〇年の歳月を費やしていないのだから。……」と。

 それに対する反論はすでに本書の記述全体でなされていると思われるが、念のために編著者のあとがきの言葉を引いておこう。

……たしかに、ひとつの出来事を長年研究していれば、それはひとつのアドバンテージになるだろう。しかし出来事を従来とは異なる新鮮な視点から眺めたうえで、ほかの出来の研究から手に入れた経験や洞察にそれを応用すれば、従来とは異なるタイプのアドバンテージが得られる。(p272)

 余談ながらこのような学問的方法は、歴史学や人類学を専門とするわけではない著作家たちにも影響を与えている。最近では柄谷行人が本書から示唆を得て『世界史の実験』を書いたことを言明しているほどだ。優れた知の実験には種々の垣根を越えていく力があるということだろう。

by syunpo | 2019-06-23 21:20 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

明治維新の暗黒面を掘り起こす〜『仏教抹殺』

●鵜飼秀徳著『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』/文藝春秋/2018年12月発行

b0072887_18544592.jpg 日本の宗教は世界の宗教史のなかでも特殊な歴史を刻んできた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教が混淆していたのである。平安時代に生まれた本地垂迹説という神仏習合思想がその土台を成している。日本の神々は仏菩薩が化身としてこの世に現れた姿だとする説である。外来宗教であった仏教が日本独自の神道と無理なく混じり合い、寺と神社が同じ敷地内に共存するのは当たり前になった。

 ところが明治時代になって状況は一変する。明治維新政府が一八六八年に出した一連の神仏分離令をきっかけに、仏教への迫害・破壊行為が全国的に始まったのだ。「廃仏毀釈」といわれるものである。
 神仏分離令は、王政復古・祭政一致に基づいて、あくまでも神と仏を区別するのが目的だった。しかし地方の為政者や神官のなかにはこの法令を拡大解釈する者が現れたのである。

 こうした廃仏毀釈は明治維新を語るときに避けては通れない出来事のはずだが、その痕跡を全国的に歩いて調査した事例はほとんどないらしい。本書は各地を独自取材してその実態を掘り起こした労作である。著者は浄土宗の僧侶としての顔も持つジャーナリスト。

 一八六八年、比叡山延暦寺が支配していた大津の日吉神社で神官らによる暴動が勃発する。社殿に安置されていた仏像、仏具、経典などが焼き捨てられた。これを合図のようにして全国で寺院破壊が加速化する。僧侶たちは還俗、あるいは神官として転身することを強いられた。

 廃仏毀釈が徹底して行なわれた鹿児島では一時、寺院と僧侶がゼロになった。また松本、苗木、伊勢、土佐、宮崎などでも市民を巻き込んだ激しい廃仏運動が展開された。この一連の騒動によって、九万あったと推定される寺院は半分の四万五千ほどに激減した。廃仏毀釈がなければ国宝はゆうに三倍はあったともいわれている。鹿児島には仏教由来の国宝、国の重要文化財が一つも存在しない。

 皮肉なことに、廃仏毀釈によって肝心の伊勢神宮にも悪影響が及んだ。伊勢神宮は古くから多くの参詣者を集めてきた。伊勢信仰を下支えしていたのが「御師」と呼ばれた人々。彼らは自らの邸宅に参詣客を宿泊させ、案内人をつとめ、伊勢暦や神札を配布を行った。宗教的職能者とツアーコンダクターとしての役割を果たしていた。しかし新政府は神仏分離政策の一環として御師制度を廃止する。これを機に参拝者数は激減することとなる。

 また皇室の菩提寺も大きな影響を受けた。
 京都・東山の真言宗泉涌寺は四条天皇の葬儀を行なって以降、「皇室の御寺」と呼ばれるようになった。しかし神仏分離により、泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知(没収)され官有地とされた。それまで天皇・皇后の葬儀は泉涌寺が一切を執り行ってきたが、その慣習は明治天皇以降、消滅した。泉涌寺と並ぶ皇室の菩提寺として知られた天台宗般舟院も神仏分離によって尊牌は泉涌寺に移され、天皇家の菩提寺としての歴史を閉じる。現在、般舟院のあった場所は中学校になっている。

「当時は天皇家すら、神仏分離政策には抗えなかったのだ」という著者の指摘に廃仏毀釈の倒錯的性格が象徴されているようにも思える。言い換えれば廃仏毀釈が当初の政府の理念といかにかけ離れた無謀な運動であったかということでもある。

 それにしても何故このような不条理な暴動が生じたのか。著者は四つの要因を挙げている。

 ① 権力者の忖度
 ② 富国策のための寺院利用
 ③ 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性
 ④ 僧侶の堕落(p241)

 ②はもともと水戸藩が考案した合理化政策。大砲鋳造を目的に寺院から金属を供出させたのが最初。神仏分離令を機に京都では寺院から没収した鐘や仏具の金属類から橋の擬宝珠を作るなどインフラ整備に寺院から出た物資を利用することが各地で見られるようになる。また寺院の伽藍の多くが学制の発布とともに学校に転用された。
 ④に関しては、妻帯が禁じられているはずの住職がさらに妾の元に入り浸るなど仏教者の本分を忘れた振る舞いが地元住民の顰蹙を買った事例などが紹介されている。

 ①と③については留保が必要ではないかと思う。
「権力者の忖度」というのだが、そもそも維新政府は廃仏毀釈のような過激な運動までは想定していなかった。現に日吉大社の暴動の直後に太政官布告を出して神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。本書を読むかぎり地方の権力者が国策に対して過剰反応を示したという印象が強く、一連の廃仏毀釈に関して「忖度」などという現代の流行語を使うのは的を外しているうえにいかにも軽率な気がする。
 また「民族性」という概念じたいも怪しいものだ。地域ごとに運動には温度差があり濃淡がまだら模様になっているわけで、本書の文脈で民族性なる曖昧な概念を安易に持ち出すことにはあまり同意できない。

 もちろん以上のような疑問点が本書を評価する際の致命的な疵になるというつもりは毛頭ない。
 二〇一八年は明治維新一五〇周年にあたり、政府主導で明治時代の「光」の面が強調されることが多かった。だが廃仏毀釈は明治維新の「影」に相当する出来事だったといえる。時の為政者が忌み嫌うような主題を掲げて、自分の足で各地を歩き、詳細を調べあげた著者には敬意を表したい。

by syunpo | 2019-04-13 18:20 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

戦後日本のモデルが崩壊した時代!?〜『平成史講義』

●吉見俊哉編『平成史講義』/筑摩書房/2019年2月発行

b0072887_18541507.jpg 平成とはいかなる時代であったのか。本書では、天皇、政治家、官僚、企業と従業員、若者たち、対抗的勢力、メディア、中間層といった様々な歴史の主体のパフォーマンスを検証する。その作業をもって平成という時代の複合的な姿を浮かび上がらせようとする試みである。

 寄稿者は、野中尚人・金井利之・石水喜夫・本田由紀・音好宏・北田暁大・新倉貴仁・佐道明宏。前後に編者の吉見俊哉の文章を配して挟みこむ形になっている。

 全体をとおしていささか退屈だったというのが率直な感想だが、そのなかでは教育社会学を専門とする本田由紀の論考が秀逸。「平成の三〇年間に若者と教育に何が起ったか」を論じたもので「戦後日本型循環モデル」が破綻した時代だと見なしているのが要点である。
 では戦後日本型循環モデルとはどのようなものだったのか。

 ……一九六〇年代を中心とする高度経済成長期に形成され、石油危機後の一九七〇~八〇年代の安定成長期に普及と深化を遂げた戦後日本型循環モデルにおいては、主に男性が企業の長期雇用と年功賃金により家計を支え、家族は次世代である子どもの教育に多額の費用と意欲を注ぎ、教育を終了した子どもは新規学卒一括採用により間断なく企業に包摂されるという循環構造が成立していた。(p134)

 しかしバブル景気が崩壊した後、経済の低迷とバブル期の新卒過剰採用、中高年齢層に達した団塊世代の人件費負担、後発諸国の経済的台頭などの複数の要因により、日本企業は新規学卒者を正社員として採用する余力を低下させた。かくして一九九〇年代以降の日本の若年層は、労働市場の需給変動や雇用・労働環境の変化によって翻弄されることとなった。総じて生活の困窮度は増大し格差も広がった。

 しかし同時期に日本社会で優勢であった言説は、むしろ日本の経済社会の低迷や閉塞の原因を若者の「劣化」に帰責する内容のものであった。

 この言説がもたらした悪しき帰結の一つは、若者の雇用状況に対する政策的対処が不十分なものに留まり、個人のサバイバル称揚する社会的風潮が色濃くなったことである、と本田はいう。さらに「劣化」したとされる若者を矯正するための教育政策が提起されるようになったことも問題であった。

 若者を対象とした複数の調査を総合的に分析すると、若年層は能力主義を信奉し国家への忠誠心が高まっているという。それは平成期における教育の成果ともいえる。教育理念や内容の変化についても教育基本法の改正を念頭において本田は細かく検証しているが、ここでは割愛する。そして以下のように危機感をにじませた総括しているのは注目すべきかもしれない。

 ……戦前の教育勅語は、徳目を列挙した天皇の私的文書にすぎなかったにもかかわらず、学校教育現場では「教化」の装置として絶大な威力を発揮していた。……(中略)……それをも凌駕する、学校における教育内容・方法のすべてを、国家への貢献という資質=態度の満遍ない育成に向けて吸い上げる「ハイパー教化」と呼ぶべき学校教育の構造が、平成の末期にいたって姿を現したと言える。(p155)

 いささかオーバーな表現と思われる面もあるけれど、今の政治状況を考えればむしろこれくらいの警戒心をもっていた方がいいのかもしれないとも思うのだった。

by syunpo | 2019-04-10 22:22 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

文化的な社交の拠点として〜『図書館の日本史』

●新藤透著『図書館の日本史』/勉誠出版/2019年1月発行

b0072887_18525267.jpg 公共図書館は私たち庶民にとってはなくてはならない基本的な文化インフラの一つである。しかし地方における財政逼迫を背景に運営を民間企業に委託するなどの動きも目立つ。また出版業界からは売上げに悪影響を与えるとして、時に批判的な視線を浴びるようにもなった。図書館はどうあるべきか。あらためて問われる時代になってきた。

 さて本書は、図書館情報学・歴史学を専門とする研究者が図書館の日本史を振り返ったものである。良くも悪くも学者らしい手堅い筆致で、文献の細かな読解など途中かったるくなる箇所もなくはないが、興味深い挿話があちこちにちりばめられ、読みでのある本には違いない。
 
 日本には古代から図書館があった。奈良時代に大宝律令によって初めて設置された図書寮(ずしょりょう)は、現代の国立国会図書館・国立公文書館・宮内庁書陵部を兼ねたような施設であった。閲覧だけでなく一部の役人には館外貸出も許可していたという。当時の書物は今とは比べ物にならないくらい貴重品だったはずだが、保存よりも利用者への便宜を優先するケースもあったのだ。これは一驚に値する。

 太宰府にあった書殿では宴会も行われたという一文が万葉集に残っているのも面白い。研究者の間では書殿は図書館的なものという見解で一致している。当時の貴族の宴は単なる酒盛りではなく、歌や漢詩を送り合う社交の場でもあった。歌を詠むために必要な参考文献が所蔵されている図書館が宴会の会場になってもおかしくないと著者はいう。

 神奈川県に現存する金沢文庫は初めて武士によって設立された本格的な図書館である。書籍文化の担い手が貴族から武士に移行したことを象徴するものといえる。そこでは身分の上下に関係なく僧侶や武家の女性も利用していたらしい。

 戦国時代に最盛期を迎えた足利学校が、大学図書館の元祖という見方が存在するのも一興である。戦乱の世にあっても、あるいはそういう世だったからこそ武将たちは学ぶ意欲をもっていたという史実は示唆に富む。足利付近に出兵した戦国大名が足利学校への乱暴狼藉を禁じる禁制を発した記録も残っている。

 印刷技術が普及するまでは書写することが一般的に行われていた。本の貸し借りは書写することが前提だったと考えられる。ちなみに応仁の乱は京都市街で戦闘が行われたものだが、その戦乱のさなかにも『古今和歌集』を借りて書写し、良質な写本として完璧を期するなどの文化的な活動が実践されていたこともわかっている。
 書物の貸し借りや写本作成の依頼などをとおして貴族間のみならず天皇、僧侶、女官などを含めた人的ネットワークが近代以前に構築されていたという史実には一読書家として元気づけられる思いがする。

 江戸幕府を開いた徳川家康は「五倫の道」を世の中の隅々にまで知らしめるためには、書籍を出版することが「仁政」であると考えた。一五九九年から京都の伏見で出版を開始する。駿府城内に駿河文庫をつくり、江戸城内に富士見亭文庫を設立した。いずれも家康の個人文庫といった性格のものだが、家光がこれを拡大発展させる。文庫管理に専任の書物奉行職を創設した。慶応二年(一八六六年)に廃止されるまで、江戸全期間を通して九十名任命されたという。

 また江戸時代には識字率の向上に伴い、庶民レベルでも本を読む者が増えた。村々には「蔵書の家」があった。当時の名主層は大量の蔵書を有していて、それを村人に無償で貸し出す活動も行っていたのだ。蒐集した蔵書を惜しげもなく村人たちに伝えていることは、武士層の図書館よりも「今日の図書館に近い役割を果たしていたと考えられ」るという。

 江戸時代というとマスコミも存在せず、民衆は重要な情報から目隠しされていたというイメージを持たれがちですが、決してそんなことはありません。村人たちは「蔵書の家」を活用して、娯楽から農業などの実用知識、そして世の中の動きまで知ることができたのです。(p220)

 ここまで読んできた後に、福沢諭吉が日本の前近代の文庫には見向きもせず、西洋の図書館「ビブリオテーキ」の紹介に夢中になっているのにはほろ苦い感慨を拭いきれない。
 維新政府は日本初の近代的な図書館として湯島に書籍館(しょじゃくかん)を開設した。やや遅れて納本制度も始まるが、これは検閲をするために導入されたものである。

 昭和戦前期には図書館付帯施設論争が巻き起こる。図書館界と文部省との間に発生したものである。前者は図書館をあくまで図書館本来の機能に沿ったサービスを住民に提供しようと考えたのに対して、後者は予算不足を背景に図書館にあらゆる社会教育を提供する施設になってもらおうと企図したものである。著者はこの対立を「両者の図書館という施設に対する認識の相違」とみているが、ありていにいえば「両者の立場の相違」が論争として表面化したものだろう。

 もっともその後、前者を代表して論争した中田邦造は、国民精神総動員運動の一環として展開された管制読書会を指導する立場になる。読書に対する彼の熱意は国家によって巧妙に取り込まれてしまったのだ。戦前戦中の激動期にはよくある話かもしれないが、歴史の皮肉を感じずにはいられない。

 公立図書館の完全無料化は、戦後になってGHQの力でようやく実現された。その後、若手図書館員らの活動や市民運動の力で「利用を第一とする」図書館が次第に形成されていく。

 こうして図書館の歴史を振り返ってみると、大雑把にいえば官主導の図書館と民間レベルでの図書・情報ネットワークの二つの潮流が相互に補完しあいながら推移してきたといえる。明治以降、西洋から導入された近代的な図書館に押され、民間のネットワークは縮小されてしまうが、現代ではあらためて様々な活動が展開されている。

 昨今は図書館の雰囲気も活動内容も以前に比べると様変わりしてきた。私がよく利用する市内の図書館では数年前から「おしゃべりOKタイム」を設定して、本に関する情報交換をしている利用者の姿をしばしば見かけるようになった。それに類する試みは他でも行われていると聞く。

 図書館とは静かに本を読む場所と認識している利用者が未だに多いようだが、それはさして根拠のない個人的な固定観念にすぎない。本書を読むと昨今の図書館の様変わりはとくに現代的な風潮というわけでもなく、過去の図書施設の歴史と重なるものであることがわかる。図書館のあり方を再考するうえでも参考になる本だ。

by syunpo | 2019-04-03 10:35 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

単純明快な「真実」には留意すべし〜『陰謀の日本中世史』

●呉座勇一著『陰謀の日本中世史』/KADOKAWA/2018年3月発行

b0072887_1964343.jpg「陰謀」とは辞書によれば「ひそかに計画する、よくない企て」とある。古代から現代まで人間社会では日常的に行なわれてきた行為であろう。ただし歴史で問題になっている「陰謀論」をそのような当たり前の語義で理解してはいけないらしい。

 本書は「陰謀論」について「特定の個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が進行したという考え方」と定義している。ある出来事について特定の個人や組織によるシナリオどおりに事が進んだとみなして歴史を語ること。なるほどそれは一つの見方ではあるだろうが、そのような事例が歴史的な大事件においてどれほどあったのかは甚だ疑問。一概には否定できないとはいえ、具体的に提起されている歴史にまつわる陰謀論には無理のあるものが大半だろう。

 呉座勇一は、そのような陰謀論を黙殺するのでも一笑に付すのでもなく、きちんと歴史学的方法の俎上に載せて、研究者らしくあくまで地道に資料検討を行なったうえで粉砕していく。具体的には、応仁の乱における日野富子悪女説や本能寺の変における種々の陰謀論を再検討している。

 応仁の乱は一般的には足利将軍家の家督争いが発端という印象が強い、その元凶になったのは日野富子であり、彼女が我が子可愛さのあまり将軍にしようとして画策し、その結果戦乱に発展したという図式は単純明快でわかりやすい。しかし、その後の展開をみると人間関係は入り組んでおり、畠山氏の一大名家の御家騒動なども絡んで、複雑な展開をみせた。日野富子の企みだけで応仁の乱を説明することは到底できない。

 

 また本能寺の変については、様々な黒幕説があるらしい。その前提には「明智光秀ごときが単独で織田信長のような英雄を討てるだろうか」という人間心理がある。一九九〇年代に登場したのが朝廷黒幕説であるが、公武結合王権論が主流になった現在では説得力を失っている。それ以外にもイエズス会黒幕説(立花京子)や徳川家康黒幕説(明智憲三郎)などが提起されているようだが、本書では逐一その矛盾点に批判を加えている。

 陰謀論は単純明快でわかりやすいうえに、「教科書の記述を盲信する一般人と違って、私は歴史の真実を知っている」という自尊心を与えてくれる。その点が人気を博す一つの理由だと著者はいう。しかし「過去を復元することの困難さを知る歴史学者は安易に『真実』という言葉は使わない」ものだ。

 もともと怪しげな珍説奇説を否定する作業が中心だから、目から鱗が落ちるような知的な驚きを感じる場面に乏しいのは当然だろう。著者の真摯な史学研究者としての書きぶりを味わう。そのような趣旨の本ではないかと思われる。
by syunpo | 2019-03-11 19:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

皇帝ナポレオンを脅かした女性〜『政治に口出しする女はお嫌いですか?』

●工藤庸子著『政治に口出しする女はお嫌いですか? スタール夫人の言論vs.ナポレオンの独裁』/勁草書房/2018年12月発行

b0072887_19501841.jpg フランス革命の前後、サロンを中心に精力的に言論・出版活動を展開した一人の女性がいた。女性が公然と政治を語ることはまだまだ憚れる時代に、臆することなく政治的議論に加わり、皇帝ナポレオンを脅かしたという。ジェルメーヌ・ド・スタール。一般にスタール夫人と呼ばれるこの女性の活躍は、二〇世紀が産んだ偉大な政治哲学者、ハンナ・アレントに一本の道筋をつけたようにも思われる。

 当時のフランスにおいてサロンは独特の空間であったらしい。アレントの〈公共圏/親密圏〉という概念が援用されることで、歴史的な意義がより鮮明に浮かびあがってくる。

 サロンはカフェと異なり、断じて万人に開かれた「公共圏」ではなかったが、外部から遮断された「親密圏」ともいいがたいものだった。裏返していえば「『若い男女の小さなソサエティ』としてのサロンの営みは『公共圏』と『親密圏』の両方に開かれ」たものだったのだ。

 そこでスタール夫人は、「公開性」や「世論」、「自由」や「個人」をキーワードに自由闊達に政治について仲間と語りあったのである。波乱の時代にあって、各方面から非難されることもあったようだが、啓蒙主義によってもたらされ、後には「民主主義」の要諦となる語彙の「繊細な運用」を示し続けたのである。

 そこで重要なのは、スタール夫人は「語る」だけでなく「書く」ことにも注力した点だ。当時にあっても、サロンでの朗読と書物の出版のあいだに、女性のみを対象とした厳しい「禁止」のラインが引かれていたが、彼女は果敢にそのラインを踏み越えていったのだ。

 革命期のサロンにおいて女たちによって「語られた言葉」について証言し、その政治的な意味を分析し、「書かれる言葉」によって後世に伝えたのは、スタール夫人だけだった。(p44)

 もっとも革命が恐怖政治に変わり挫折した後に登場したナポレオンによって、サロン文化は衰退していく。「公共圏=政治=男性」vs.「親密圏=家庭=女性」という二元論的な秩序が「ナポレオン法典」とともに市民社会に定着することになる。

 ナポレオンによって破壊されたのは、啓蒙の精神と雅な男女関係に培われたサロン文化の伝統だけではない。女性の公共圏での政治的発言が封じこめられたのだ。スタール夫人は、不穏な勢力にかかわったとみなされてフランスから追放される。

 それでも、レマン湖の畔コペのサロンに移ったスタール夫人は、語り、書くことを断念することはなかった。ナポレオンという名前を決して書かずにナポレオンが体現する理念や体制を間接的に批判するという巧妙な道をスタール夫人は選んだ。ひと言でも皇帝への賛辞を公表すれば、ただちに追放を解くという内々の働きかけにもかかわらず、意地をつらぬいたのだ。ちなみにスタール夫人の遺著となった「革命論」は、積極的に革命と王政の宥和をめざす野心的な試みでもあったという。

 著者の工藤庸子は、フランス文学やヨーロッパ地域文化研究を専門とする研究者。本書ではスタール夫人が書いたテクストを読み解いていくにあたってアレントの著作を随時参照していく。二人を並べることによって「女性解放のロール・モデル」としてのスタール夫人像がいっそう鮮やかに立ち上がってくるように感じたのは私だけではないだろう。
by syunpo | 2019-02-23 19:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

不条理な社会を作り直すための技術史の教訓〜『戦争と農業』

●藤原辰史著『戦争と農業』/集英社インターナショナル/2017年10月発行

b0072887_20162851.jpg 食の現場、さらには食べ物を生み出す農業ががいかに不自然な状況になっているか。食から見える世界の不公正なあり方を明らかにする。これが本書の趣旨である。著者の藤原辰史は農業技術史、食の思想史、環境史、ドイツ現代史を専門とする研究者。

 前半、技術史に即した記述はなるほど興味深い。技術史の観点からみれば、農業と戦争は相互補完的な歩みを進めてきた。藤原は「二〇世紀の人口増加を支えた四つの技術」として、農業機械・化学肥料・農薬・品種改良を挙げている。それらは二〇世紀以降の農業を劇的に変化させた。そのうち、農業機械・化学肥料・農薬は同時に戦争のあり方までも変えてきたという。

 農業の近代化を支えた農業機械の一つであるトラクターはスピンオン(民生技術を軍事技術に転用すること)されて戦車に変身した。化学肥料の生産過程で作るアンモニアを火薬産業に利用しようという発想のもとに、化学肥料産業は火薬産業にもなっていった。ベクトルは逆だが、第一次大戦中に作られ余った毒ガスは、その後、害虫駆除の「農薬」に転用された。

 戦争とは人と人が殺し合うものである。農業とは人を生かすために食物をつくりだす行為である。本来は対極に位置するはずの人間の営みが、技術史をとおしてみると互いに関連しあって「進展」を遂げてきたという事実は、アイロニーという以上のほろ苦い感慨を私たちにもたらす。

 ところで、こうした技術の発展はいずれも扱う対象に対して距離をとって人間が長年培ってきた勘やそれに基づく即興的な対応力ではなく、マニュアルに依存するような道具といえる。
 またそれらは即効性のみを求める競争の原理に基づいて開発され発展してきたものである。ベースにある競争の原理が今日の多くの食の問題へとつながっているというのが藤原の基本認識だ。

 本来人間の食を豊かにするはずの技術の発展が、現実には人びとの争いを加速させ、ひいては飽食と飢餓が共存する世界をつくりだした。であるならば、食と農業の再定義は効率主義による不公平な競争の仕組みを変えていく足がかりになるのではないか、と考えるのはその道の研究者として自然な問題意識だろう。

 食とは元来、口以前、口からお尻まで、お尻以降という三段階を、微生物の力や別の人間の力を借りながら食物を通過させる現象であり、食べる人はそのプロセスの一部を構成するにすぎない。
 また農業とは、人間が作物を育てる行為ではなく、植物を育てる自然の力を人間が助ける行為である。

 ……迅速・即効・決断の社会は、人間の自然に対する付き合い方も、人間の人間に対する付き合い方も、硬直化させてきました。それは、感性の鈍麻をもたらし、耕作・施肥行為をする農民や食品を生産する労働者は、機械や肥料工場の末端のデバイス(装置)となり、戦争での殺人もベルトコンベヤでの作業のような軽易なものになりつつあります。(p179)

 そのような世界よりも魅力的な世界。

 それは「競争の代わりに、遅効性に満たされた世界であり、かつ効き目の長いものによって構成される仕組み」に基づく社会ではないか。技術がお互いの交流の間合いをうまく調整しながら豊かにしていく仕組みとも言い換えることができるだろう。

 ……人間は、生物が行き交う世界を冒険する主体というよりは、生きものの死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる一本の弱いチューブである。つまり、生命の変化のプロセスの一部であることに存在の基盤を求めるのです。その基盤を前提に仕組みを作る。(p190)

 後半は、やや理念的な話になり、率直にいって前半部で示された技術史そのものが語りかけてくる面白味に乏しくなる印象は否定しがたい。とはいえ、私たちの生活のベースになる食と農業をとおして、人間社会のありかたそのものを見直そうとする本書の着眼には大いに共感できる。著者の本をもう少し読んでみたいと思う。
by syunpo | 2018-07-29 20:25 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

他国の歴史に学ぶ英知〜『ハーバード日本史教室』

●佐藤智恵著『ハーバード日本史教室』/中央公論新社/2017年10月発行

b0072887_1159457.jpg 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。プロイセンの政治家、オットー・フォン・ビスマルクが言ったとされる言葉である。同じ歴史でも自国の歴史以上に他国の歴史から学ぶ者は、より賢いということになるだろうか。本書を読むにあたって私はそのようなことを考えたりした。

 もっとも本書のコンセプトはビスマルクの言葉とは直接関係はない。世界の精鋭が集まるハーバード大学では日本史をいかに教えているのか。そのような日本人の素朴な関心から、現役の教授を中心に十人のハーバード大学関係者にインタビューした記録である。著者の佐藤智恵は、NHK、ボストンコンサルティンググループ、外資系テレビ局などを経て、現在は作家・コンサルタントとして活躍している人物。

『源氏物語』や『今昔物語集』を授業で必ず取り上げるというアンドルー・ゴードン。光源氏の女性関係は女子学生におしなべて不評だという。「九歳ぐらいの少女を将来の妻にするために自分のもとにおいて、自分好みの女性に育てあげるというのは、今の時代であれば、性的虐待ともとれる行い」であり、その点が「気持ち悪い」という感想につながると紹介している。
 現代の規範から他言語の古典に描かれたキャラクターを判断するのは文学の読解としてはつまらないことだと思うけれども、何につけ自己の考えを堂々と表明するのは彼の地の学生が身につけている態度なのだろう。
 城山三郎の『メイド・イン・ジャパン』を通して日本の高度経済成長を学ばせるという試みはおもしろいかもしれない。

 ゴードンとともに日本史の通史を教えているデビッド・ハウエルは幻の貿易都市と言われた青森の十三湊や幕末の大名・堀直虎、『忠臣蔵』で有名な赤穂事件などを題材にしている。「戦う人」から「統治する人」へと変わった武士階級による国内統治についてのハウエルの見識は、なるほど優れているように思われる。江戸時代の幕藩体制は幕府が直接領土を統治する仕組みではなかったために、厳しい階級制度とみられていた割には柔軟性の高いやり方だった。

 日本近代史を専門とするアルバート・クレイグの明治維新論も興味深い。彼によれば、坂本龍馬や西郷隆盛よりも、木戸孝允、大久保利通こそ明治維新の主役だという。木戸や大久保の方が明治政府で果たした役割は大きかった。二人は私益よりも国益を優先したと思われる点で、クレイグの評価は高くなるのである。

 日本でもおなじみのエズラ・ヴォーゲルのサムライ資本主義論については賛否両論ありそうだ。伝統的に「日本の指導者は富をシェアしようとする気持ちが強い」と仰るのだが、今日の政治状況をみるに、そのような一般論はかなり怪しくなってきたと思わざるをえない。

 経営史を研究しているジェフリー・ジョーンズは、世界最古の企業といわれている金剛組について言及しているのがおもしろい。五七八年創業の金剛組は神社仏閣の建築を生業としてきた。各宗派の様式を守って建築し補修していくというビジネスモデルは、技術の進化に伴う事業の陳腐化からは免れてきたのである。「老舗」という言葉があるのは日本語だけではないかとジョーンズはいう。また日本の長寿企業について、国内ビジネスに徹したことが長く存続できた理由の一つにあげている。

 ただし歴史の表層をなぞっただけのような退屈な対話も混じっている。とりわけジョゼフ・ナイへのインタビューなど戦後の日米関係をあたかも対等な「友好関係」として対話しているのはいただけない。米国側が建前上そのような態度を貫くのは当然かもしれないが、著者がそのレベルでの対話に付き従うのは端的に欺瞞だろう。その意味では隔靴掻痒の感を拭えない。

 サンドラ・サッチャーがブッシュ大統領の真珠湾演説やオバマ大統領の広島での演説を「モラルリーダーシップの模範例」としているのをそのまま鵜呑みにしているのもどかしい。オバマが広島で神妙に被爆者をハグしているすぐ後方には、核兵器発射の暗号を記したブリーフケースを持つ側近が立っていたことは海外のマスコミがふつうに報道した事実である。その程度の基礎知識は研究者なら弁えておいてほしいものだ。オバマ時代に核兵器関連の予算は増加したとのデータもある。それに加えて、相も変わらず米国が世界のリーダー然として振る舞うべきだとするサッチャーの考え方じたいが二〇世紀的な大国の傲慢を引きずっているのではないか。

 このような人たちが日本の歴史の一面に対して理解や共感を示したりするのはありがたいことだと思う反面、エドワード・サイードのいう「オリエンタリズム」的な心性を感じてシラケてしまうのは私だけだろうか。
 それなりにおもしろい本に仕上がっているけれど、全体的にもう少しツッコんだ質問があれば、さらに内容の深い本になったのではないかと思う。
by syunpo | 2018-07-17 12:07 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

近代日本を貫く基本精神〜『「五箇条の誓文」で解く日本史』

●片山杜秀著『「五箇条の誓文」で解く日本史』/NHK出版/2018年2月発行

b0072887_18541044.jpg 明治維新、ひいては近代日本の基本精神は「五箇条の誓文」に示されているのではないか。二〇一八年は明治維新一五〇年にあたるが、その全期間を貫くものとして、片山杜秀は「五箇条の誓文」に注目する。

 明治を代表する憲法学者の穂積八束は、五箇条の誓文こそ近代日本の最初の憲法であると述べた。また戦後、昭和天皇が「人間宣言」を発した時にも五箇条の誓文を引用し、この趣旨に則って「新日本を建設すべし」と語った。明治維新から一五〇年を経た現代日本の状況を、五箇条の誓文に照らして再考することに意義があると考える所以はそれらの事実にも求めることができるだろう。

 五箇条の誓文は、片山流に要約すれば以下のようになる。

 ・民主主義のすすめ
 
・金儲けと経済成長のすすめ

 ・自由主義のすすめ

 ・天皇中心宣言
 
・学問と和魂洋才のすすめ

 近代日本の歴史は、その五つの誓文のいずれかが強く押し出されたり弱められたりする政治力学の変動によって記述することができると片山は考える。

 第一条の民主主義や第三条の自由主義は明治で離陸して大正デモクラシーの時代にある程度実現される。第二条の経済発展も明治から大正までまずまず順当に運んだ。ただ大正期の一条や三条は、第四条の天皇と齟齬をきたす場面も出てくる。世界大恐慌でグローバリズムへの信任が下がると、第四条と第五条の中に眠っている「攘夷」が手を携えて、第一条や第三条を抑止するようになる──というのが大まかな推移といえるだろう。

 ところで、明治憲法下では徹底した権力分立が行われた。明治の元勲たちは「第二の江戸幕府」が生まれないように権力を分散したのだ。文言上は天皇に強大な権限が付与されているようにみえるが、実際には天皇が力をふるうことはなかった。天皇が有する「統帥権」についても人によって解釈はまちまちだったという。

 では、誰が政治を動かしていたのか。明治期には「元老」という超法規的存在が大きな役割を果たした。首相も内閣も元老が選ぶ時代がつづいたのである。


 しかし第一次世界大戦を経て、総力戦体制を築くためにデモクラシーの必要性が叫ばれると、元老中心の政治にも批判が向けられるようになった。当然ながら元老そのものもこの世から去っていく。元老に代わって役割を担ったのは、天皇機関説と政党政治を組み合わせた政治というのが片山の認識である。大正デモクラシーはそのようにして生まれた。

 大正デモクラシーに関する片山の解釈にはとくに教えられるところ大であった。大正デモクラシーは「諸個人から社会へ、社会から国家へ向けた運動と捉えるだけでは本質を把握できない」。もうひとつの重大な面があるという。「国家総動員体制のためのデモクラシー」という側面である。「デモクラシーは民衆の要求だけではない。国家がデモクラシーを願望した。そういう部分が強くあるのです」。

 どういうことか。第一次世界大戦では、専制政治の国が敗れ、民主政治の国が勝利した。軍事的勝負としてはほぼ互角に推移したが、消耗戦になって、より忍耐強い国が勝利したといえる。民主制の国家では、国民が選んだ政治家が参戦を決意する。つまりトップの決断は国民の決断という形をとる。「自分たちで決めたことだから、やり続けなければならないと納得せざるをえない」のである。「デモクラシーのほうが総力戦体制には適している」との指摘には一理あるだろう。

 そういう意味では大正デモクラシーは昭和の総力戦体制を準備した側面のあることを否めない。ただし普通選挙法と同時に治安維持法が同時に導入されたことは注意を要する。

 大正デモクラシーを見るとき、この普通選挙法と治安維持法はセットで捉えておくべきでしょう。国力増進のために民衆の政治参加は肯定された。しかし、その参加の仕方が、天皇中心の国体を壊す方向に働くことは許されません。(p120)

 五箇条の誓文に照らせば、大正期にあっては第四条のもとで第一条が追求されたということになるだろう。もっとも昭和維新期に入ると第一条の民主主義ははっきりと後景に退いていくのだが。

 五箇条の誓文とはダイレクトには結びつかないが、昭和維新へと続く大正維新では、大きく「アジア主義」「国家社会主義」「農本主義」の三つの思想が入り組んでいたことも述べられている。そのなかからアジア主義が残って、第二次大戦のスローガンとして浮上していく。

 昭和の戦争準備期に入ると、機能不全に陥った政党政治に代わる強力政治を実現する必要性が増大する。泥沼の日中戦争の只中で「強力政治」のかたちとして台頭したのが大政翼賛会運動である。しかしこれは右翼勢力の前に頓挫する。昭和維新の三大イデオロギーの中でダメージ少なく残っているのは、アジア主義のみだった。

 その後の議論は片山の『未完のファシズム』で展開された考察とも重なるが、幕末のスローガンであった「尊王攘夷」は「大東亜共栄圏」の建設理念となって蘇ったものの、結局は壮絶に散った。総力戦の時代には明治型の権力分立思想は、国家の意思統一をはかるには適切ではなかったといえよう。

 戦後日本が五箇条の誓文から再出発したことは冒頭でも紹介したとおりである。ただそれにしても、五箇条の誓文に照らしてみても、現代日本のありさまはとても及第点とはいえない。
 では、これからの日本に関してどのような構想を描けばよいのだろうか。片山は「昭和維新の応用」を提案している。

……国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。
 いわば「縮み志向の昭和維新」です。(p242)


 もちろん、このような総論的な処方にはさほど拘泥する必要もないだろう。片山が本書で展開してきた歴史的検証のなかにこそ、少なからぬ示唆が含まれているのではないかと思う。
by syunpo | 2018-05-23 19:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)