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ブックラバー宣言

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カテゴリ:歴史( 44 )

近代日本を貫く基本精神〜『「五箇条の誓文」で解く日本史』

●片山杜秀著『「五箇条の誓文」で解く日本史』/NHK出版/2018年2月発行

b0072887_18541044.jpg 明治維新、ひいては近代日本の基本精神は「五箇条の誓文」に示されているのではないか。二〇一八年は明治維新一五〇年にあたるが、その全期間を貫くものとして、片山杜秀は「五箇条の誓文」に注目する。

 明治を代表する憲法学者の穂積八束は、五箇条の誓文こそ近代日本の最初の憲法であると述べた。また戦後、昭和天皇が「人間宣言」を発した時にも五箇条の誓文を引用し、この趣旨に則って「新日本を建設すべし」と語った。明治維新から一五〇年を経た現代日本の状況を、五箇条の誓文に照らして再考することに意義があると考える所以はそれらの事実にも求めることができるだろう。

 五箇条の誓文は、片山流に要約すれば以下のようになる。

 ・民主主義のすすめ
 
・金儲けと経済成長のすすめ

 ・自由主義のすすめ

 ・天皇中心宣言
 
・学問と和魂洋才のすすめ

 近代日本の歴史は、その五つの誓文のいずれかが強く押し出されたり弱められたりする政治力学の変動によって記述することができると片山は考える。

 第一条の民主主義や第三条の自由主義は明治で離陸して大正デモクラシーの時代にある程度実現される。第二条の経済発展も明治から大正までまずまず順当に運んだ。ただ大正期の一条や三条は、第四条の天皇と齟齬をきたす場面も出てくる。世界大恐慌でグローバリズムへの信任が下がると、第四条と第五条の中に眠っている「攘夷」が手を携えて、第一条や第三条を抑止するようになる──というのが大まかな推移といえるだろう。

 ところで、明治憲法下では徹底した権力分立が行われた。明治の元勲たちは「第二の江戸幕府」が生まれないように権力を分散したのだ。文言上は天皇に強大な権限が付与されているようにみえるが、実際には天皇が力をふるうことはなかった。天皇が有する「統帥権」についても人によって解釈はまちまちだったという。

 では、誰が政治を動かしていたのか。明治期には「元老」という超法規的存在が大きな役割を果たした。首相も内閣も元老が選ぶ時代がつづいたのである。


 しかし第一次世界大戦を経て、総力戦体制を築くためにデモクラシーの必要性が叫ばれると、元老中心の政治にも批判が向けられるようになった。当然ながら元老そのものもこの世から去っていく。元老に代わって役割を担ったのは、天皇機関説と政党政治を組み合わせた政治というのが片山の認識である。大正デモクラシーはそのようにして生まれた。

 大正デモクラシーに関する片山の解釈にはとくに教えられるところ大であった。大正デモクラシーは「諸個人から社会へ、社会から国家へ向けた運動と捉えるだけでは本質を把握できない」。もうひとつの重大な面があるという。「国家総動員体制のためのデモクラシー」という側面である。「デモクラシーは民衆の要求だけではない。国家がデモクラシーを願望した。そういう部分が強くあるのです」。

 どういうことか。第一次世界大戦では、専制政治の国が敗れ、民主政治の国が勝利した。軍事的勝負としてはほぼ互角に推移したが、消耗戦になって、より忍耐強い国が勝利したといえる。民主制の国家では、国民が選んだ政治家が参戦を決意する。つまりトップの決断は国民の決断という形をとる。「自分たちで決めたことだから、やり続けなければならないと納得せざるをえない」のである。「デモクラシーのほうが総力戦体制には適している」との指摘には一理あるだろう。

 そういう意味では大正デモクラシーは昭和の総力戦体制を準備した側面のあることを否めない。ただし普通選挙法と同時に治安維持法が同時に導入されたことは注意を要する。

 大正デモクラシーを見るとき、この普通選挙法と治安維持法はセットで捉えておくべきでしょう。国力増進のために民衆の政治参加は肯定された。しかし、その参加の仕方が、天皇中心の国体を壊す方向に働くことは許されません。(p120)

 五箇条の誓文に照らせば、大正期にあっては第四条のもとで第一条が追求されたということになるだろう。もっとも昭和維新期に入ると第一条の民主主義ははっきりと後景に退いていくのだが。

 五箇条の誓文とはダイレクトには結びつかないが、昭和維新へと続く大正維新では、大きく「アジア主義」「国家社会主義」「農本主義」の三つの思想が入り組んでいたことも述べられている。そのなかからアジア主義が残って、第二次大戦のスローガンとして浮上していく。

 昭和の戦争準備期に入ると、機能不全に陥った政党政治に代わる強力政治を実現する必要性が増大する。泥沼の日中戦争の只中で「強力政治」のかたちとして台頭したのが大政翼賛会運動である。しかしこれは右翼勢力の前に頓挫する。昭和維新の三大イデオロギーの中でダメージ少なく残っているのは、アジア主義のみだった。

 その後の議論は片山の『未完のファシズム』で展開された考察とも重なるが、幕末のスローガンであった「尊王攘夷」は「大東亜共栄圏」の建設理念となって蘇ったものの、結局は壮絶に散った。総力戦の時代には明治型の権力分立思想は、国家の意思統一をはかるには適切ではなかったといえよう。

 戦後日本が五箇条の誓文から再出発したことは冒頭でも紹介したとおりである。ただそれにしても、五箇条の誓文に照らしてみても、現代日本のありさまはとても及第点とはいえない。
 では、これからの日本に関してどのような構想を描けばよいのだろうか。片山は「昭和維新の応用」を提案している。

……国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。
 いわば「縮み志向の昭和維新」です。(p242)


 もちろん、このような総論的な処方にはさほど拘泥する必要もないだろう。片山が本書で展開してきた歴史的検証のなかにこそ、少なからぬ示唆が含まれているのではないかと思う。
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by syunpo | 2018-05-23 19:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

ジェンダー役割分業観を相対化するために〜『〈女帝〉の日本史』

●原武史著『〈女帝〉の日本史』/NHK出版/2017年10月発行

b0072887_215619.jpg 日本における女性の政治参加は著しく遅れている。これを日本古来の考え方とむすびつけて論じる言説は少なくない。だが本当にそうなのか。

 本書は神功皇后伝説から、持統天皇、北条政子、淀殿……と連綿とつづいた女性権力者たちの系譜をたどり、日本の政治における女性のパフォーマンスを分析するものである。中国や朝鮮半島の政治史を参照することで、東アジアの共通点と同時に日本の特性をも浮かびあがらせる。

 儒教社会では古くから男女の違いが説かれてきた。『尚書』には、女性が政治に口出しするとロクなことがないということが書かれているらしい。ゆえに東アジアでは、女性が権力をもつことがどこでも忌避されてきたように見えるが実際にはそうではない。

 七世紀は東アジアで「女帝」が登場する時代である。歴史的にいえば、皇帝や天皇にならず、王后や皇后のまま権力を握る場合が多かったという。中国では儒教経典の教えに反して、名実ともに権力者として采配をふるった女性が断続的に存在したという指摘は興味深い。

 大陸では臨朝称制や垂簾聴政と呼ばれる政治形態があった。前者は皇帝が幼少などの理由で執政できない場合に皇太后が朝議に臨み(臨朝)、命令を出す(称制)などの政務を執ることをいい、後者は女性が簾ごしに臣下と接して采配をふるうことを指す。日本史においてもそれに類することがしばしば行なわれた。

 日本では原始的な段階で母系制がまずあり、それが父系制に移行したという説を吉本隆明が唱えたが、柄谷行人がそれを否定した。柄谷によれば、どちらでもない状態が最初にあり、次に単系(母系ないし父系)または双系というかたちをとった後、家父長制へと移行したとみるのだ。本書でも基本的にその線で記述をすすめている。

 古代天皇制において、女性権力者の系譜をたどっていくと、三〜四世紀に活躍したとされる神功皇后に行き当たる。今では実在が疑われている人物であるが、記紀によると朝鮮半島に出兵して「三韓征伐」を行なったことになっている。
 注目すべきは、天皇に比された神功皇后のおかげで敵を撃退することができたという風説は、平安時代から室町時代にかけて対外的危機が認識されるたびに再生産されたということである。

 推古天皇以来、女性天皇の時代が長くつづく。「内発性を含む資源」に加えて、当時の先進国であり国際基準となっていた中国という外圧の働いたことが女性天皇の時代を持続させたと原は分析する。

 平安時代になると女性天皇に対する忌避の感情が生まれるが、臨朝称制の仕組みは残った。つまり幼少の男性天皇が即位しながら、その母親が権力を握る新たな時代に入ったのである。
 政治権力が武家に移る中世以降では、将軍の母や後家が権力をもつ時代になる。北条政子(源頼朝の妻)や日野重子(足利義勝、義政の生母)などである。

 江戸時代は女性の権力が封じられた時代である。将軍の妻妾たちは江戸城本丸の大奥という閉鎖的な空間で生活するようになり、そこに女性だけのヒエラルキーが築かれるようになる。将軍に匹敵する権力をもつことはなかった。徳川家康は女性の権力掌握を非常に警戒し、様々な布石を打った。それが江戸期をとおして貫徹したといえるかもしれない。

 明治以降は皇后が「祈る」主体となる。軍事指導者としての新たな天皇像がつくられるとともに、政治に口出しせず、天皇を陰で支えるパートナーとしての皇后像がつくられていった。同時に国家神道の整備とともに、皇后はアマテラスや歴代天皇の霊に向かって「祈る」主体として新たに登場した、というのが原の見方である。

 こうして日本の政治史を振り返ってみると「古代日本に双系制の文化があったとすれば、男尊女卑という観念はもともと日本にはなく、年長者の女性が権力をもつこともできるはず」だということになるだろう。双系制が廃れて父系制へと移行してからも、年長者の女性が権力をもつ時代が断続的にあったことは注目に値する。

 けれどもいまや、そうした時代があったことはすっかり忘却された。男系の皇統がずっと保たれてきたことが日本のアイデンティティだとする言説が依然として影響力をもっているのだ。

 ……日本で近代以降に強まった、女性の権力を「母性」や「祈り」に矮小化してしまう傾向は、皇后や皇太后が「神」と天皇の間に立つことを可能にする反面、女性の政治参加が憲法で認められたはずの戦後にあっても、女性を権力から遠ざけるという影響を及ぼしているように思われます。こうした状況が続く限り、日本で女性議員を増やし、女性の政治参加を増やすことは根本的に難しいと言えます。(p278〜279)

 原が指摘するような女性の政治参加を難しくしている歪んだ認識を是正していくために、本書は極めて貴重な知見を与えてくれる一冊であることは間違いない。
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by syunpo | 2018-03-14 21:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

死者の分断の克服を〜『「日本会議」史観の乗り越え方』

●松竹伸幸著『「日本会議」史観の乗り越え方』/かもがわ出版/2016年9月発行

b0072887_18195017.jpg 安倍内閣との深い関係が取り沙汰されることの多い日本会議。一民間の任意団体にすぎないが、閣僚の多くが日本会議に名を連ねていることもあって、その政治信条は互いに近しいものと考えられている。本書ではとくに日本会議の歴史観を批判的に検討する。そのうえでその歴史観をいかに乗り越えていくかを示す。

「日本会議」史観とはいかなるものか。
 その大きな特徴は、東京裁判史観を批判し、明治以降の日本の歴史を全体として「栄光の歴史」として描くところにある。日本が欧米列強の植民地にならなかったことを誇る一方で、朝鮮半島を植民地にしたことについては「現在の民族自立を尊重する価値観からすれば、韓国統治は遺憾であったといえる」との留保をつけながらも「内容的にも法律的根拠においても、正当なものであった」と述べている。
 また太平洋戦争についても「米英等による経済封鎖に抗する自衛戦争」と主張する。つまり侵略戦争という一般的な見方を否定しているのである。

 さて、松竹伸幸はそのような史観に対して、頭ごなしに批判を展開することはしない。日本会議の見解は矛盾だらけなので、論難するのはさほど難しいことではないのだが、それでも国際政治史や国際法制史を参照しつつ、その歴史観を細かく吟味していく。そのうえで日本会議史観を斥けるのである。

 議論は精細を極めているので、安易な要約は本書の味わいを損ねてしまいかねない。具体的な検討とともに語られる、良い意味で政治哲学的なことばが私にはより強く印象に残った。変則的ながらそれを中心に記してみたい。

 たとえば植民地支配をめぐる考察は現代史を学ぶにあたってすぐれて示唆的である。
 日本が独立を保ったという栄光の歴史は、日本が韓国の独立を奪うという負の歴史と一体のものだった。不平等条約が改正されたのは、日本のいろいろな外交努力の成果もあるが、根底にあるのは日本が韓国を植民地として支配できるだけの「力」を持ったことにより、ようやく欧米から主権国家だとみなされたということ。当時の欧米諸国のアジアに対する見方というのは、そういう水準のものだったのだ。

 ですから日本は、独立を保ったということを誇りに思えば思うほど、その影には韓国を抑圧した歴史があったことに思いを馳せなければならないのです。日本会議の「七〇年見解」や安倍談話のように、光と影の両方があるのだというだけでは、現実を正確に捉えることにならないのです。(p54)

 また「侵略」の定義や法制化をめぐる議論では日本の特殊な歴史的位置を力説する。すなわち、侵略の定義が確立される原因となったのは、ひとえに日本やドイツが行なった武力行使にあると指摘するのである。日本が侵略したことを重要な原因として、国連憲章がつくられ、日本国憲法がつくられた。松竹はこの歴史的経緯を重くみる。

 日本は、侵略政策とはどうやって生み出されたのかを、自分の体験として語れるのです。その責任を問われてはたすことによって、戦後は侵略をしなかった経験も語れるのです(侵略に加担はしたので、その反省も必要ですが)。侵略を企む国に対して、その両方の体験を語る国として対峙することができるのは、世界のなかで日本だけだといっていいでしょう。
 その大事な立場を放棄してはならない。切実にそう思います。(p103)

 以上のような認識を示したあとにつづく「日本が戦争の過去に否定的に縛られていることは、決してマイナスではないのです」という言葉は含蓄に富む深い認識ではないだろうか。

 そうして日本会議史観を最終的に「乗り越え」るために、最後の難問へと向かう。それは戦争の犠牲になったさまざまな死者たちとどう向き合うか、という問題だ。

 日本会議は「国民が享受する今日の平和と繁栄」が「英霊の尊い犠牲の上に築かれた」ことを強調する。これは「国民が享受する今日の平和と繁栄」がありがたいものだということを前提にしている。だからこそ英霊に感謝の念を持たねばならないというわけである。けれどもこれは日本会議の現状認識とは正反対である。たとえば日本会議の設立宣言には現状を次のように規定している。

「しかしながら、その驚くべき経済的繁栄の陰で、かつて先人が培い伝えてきた伝統文化は軽んじられ、光輝ある歴史は忘れ去られまた汚辱され、国を守り社会公共に尽くす気概は失われ、ひたすら己の保身と愉楽だけを求める風潮が社会に蔓延し、今や国家の溶解へと向かいつつある」。

 ならば「英霊の尊い犠牲の上に築かれた」のはそういう社会だと素直に言わなければならない。本音では日本の現状を忌むべきものと捉えているのに、英霊を持ち上げる時だけは日本がいい社会になったことにしているわけである。これはご都合主義というべきであろう。

 ただ、それをいくら批判しても問題は解決しない、という。日本の侵略を批判する立場の人にとって、アジアの死者と日本兵の死者との扱いは分裂したままである。これを放置していては「日本会議」史観の広がりを防ぐことはできないと松竹は指摘する。

 そこで最後に結論的に「死者の分断の克服」なるものが提起される。それが具体的にいかなるものであるかは、あえてここに記さないでおこう。是非本書を読んでご確認いただきたいと思う。
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by syunpo | 2018-03-09 18:28 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

過激な知識人だった!?〜『聖徳太子』

●東野治之著『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』/岩波書店/2017年4月発行

b0072887_19584068.jpg 聖徳太子といえば日本人にはおなじみの歴史上の人物である。ところが、昨今、日本史の教科書での扱いをめぐって政治家が容喙するなど、その評価に関する論争は政治的な色合いをも帯びるようになってきた。

「聖徳太子の特異な点は、その没後、歴史的な事実から離れ、人物像が極めて伝説的に変貌していったことです」と東野治之はいう。太子に関する歴史論争はそれこそ歴史的に繰り返されてきたのだ。本書はそのような中で、歴史学の最新の研究成果を参照しつつ太子の「ほんとうの姿」に迫ろうとするものである。

 太子は政治家としてどれほどの働きをしたのだろうか。基本的には蘇我馬子と共同統治を行なっていたとみられている。単独の業績としては、十七条憲法の作成と仏典の講義と注釈を行なったことが挙げられる。十七条憲法はもちろん近代の憲法とは違って公権力を縛るようなものではなく、朝廷に仕える人々を対象に心得を示したものである。そうした点から、政治家として中央集権的な政治を目指し、ある程度主導権を発揮していたと推察される。

 太子を語る場合、さらに重要なこととして日本仏教の始祖といわれている点にある。たしかにその仏教理解は当時としては革新性をもっていたと東野は指摘する。

 太子の仏教は徹底した大乗仏教という点にあった。大乗仏教とは「一個人の悟りを求めるのではなく、生きとし生けるもの全体の救済を目標とする考え方」である。仏教によって社会を文明化し導こうという気運が盛り上がっていた当時とすれば、理にかなった考え方だったといえるだろう。

 大乗仏教を信仰の基本の根本に据える姿勢は、これ以後、朝廷の仏教政策のバックボーンとなったので、太子が日本仏教の祖と仰がれ続けたのも「至極当然」と東野は評価している。

 行動的ではないが、頭は冴え、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる。その意味では「過激な知識人」というのが東野の抱いている太子像である。

 以上のような太子像をめぐっては、既述したようにその後の歴史において、前提となる史実の認定をふくめて様々な評価の変遷をたどってきた。江戸時代にはその仏教的教養が忌み嫌われ、とりわけ国学・儒学系の学者たちからは評判がよくなかった。あげく彼らのなかには十七憲法の内容を捏造する者まであらわれた。太子が作った憲法は一つではなく五種類あったという説をデッチ上げ、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあるのを「三宝とは儒・仏・神なり」と改竄した本まで登場したのだ。
 歴史論争が学問的意匠を装いつつ、しばしば政治的な要素を抱え込むのはいつの世も不可避ということなのだろう。

 本書は岩波ジュニア新書の一冊だが、内容的には法隆寺の釈迦三尊像に刻まれた銘文などの資料の信憑性検討をはじめ、かなり高度で専門的なものになっている。太子の人物像を描くに際してもバランスのとれた手堅い書きぶりだと思う。聖徳太子の概略を知るうえでは最適の入門書といえるだろう。
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by syunpo | 2018-03-01 20:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

権威的な装いを剥がしてみれば〜『「日本の伝統」の正体』

●藤井青銅著『「日本の伝統」の正体』/柏書房/2017年12月発行

b0072887_10465452.jpg「伝統」と呼ばれるものがしばしば近代以降の所産で底の浅いものであることについては、すでに洋の東西を問わず多くの論証研究が存在している。古来行なわれてきたと多くの現代人に信じられている風習やしきたりが実は最近になって始められたということは珍しいことではない。そこではたくましい商魂や仕掛け人の作為が明瞭に見てとれる場合も少なくない。

 本書はそのような「日本の伝統」と考えられてきた事柄の起源や歴史的経緯を検証し、その「正体」を論じるものである。著者の藤井青銅は作家・脚本家として活躍している人物。

 正月に神社にお参りする「初詣」。現在の形になってからの歴史は浅く、百二十年ほどしか経っていない。それ以前は、大晦日から寺社に籠もって元日を迎える「年籠り」、年が明けてはじめての縁日に参詣する「初縁日」、自分が住んでいる場所から、その年の恵方にある寺社に参詣する「恵方詣り」などが行なわれていた。どこでも気軽に好きな神社にお参りする「初詣」は、それらの一部の要素を取り入れて一つになり、鉄道の普及によって定着したものだ。

 神前結婚式の「古式」は二〇世紀に入ってから作られたものだし、夫婦同姓は一八九八年(明治三一年)に旧民法が成立して初めて制度化されたものである。それまでは明治九年の太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は、婚前の氏」とされていた。明治以前はいうまでもなく一般庶民には「姓」はなかった。夫婦同姓を一部の政治家は「日本の伝統」と力説しているけれども、いくらなんでも無理な主張だろう。

 古くから歴史を積み重ねてきたと思われがちな有名神社には、明治以降に創建されたものがいくつもある。平安神宮(明治二八年)、橿原神宮(明治二三年)、吉野神宮(明治二五年)、湊川神社(明治五年)などである。

 このほかにも京都三大漬物や国技としての相撲、各地に伝わる民謡などなど、様々な生活の場面から話題をとりあげて、その歴史をたどっている。また、木彫りの熊やけん玉など、比較的新しく外国から入ってきたのに、昔から日本にある伝統のように思える例もいくつか存在する。逆に、ロシアのマトリューシカやハワイのアロハシャツなどは、日本(日本人)に起源をもつという説もあるようで、あわせて紹介されているのも興味深い。

 著者はもちろん「伝統」そのものを否定しているわけではない。長く続いているから素晴らしく、短いから価値がないと言っているわけでもない。
「たかだか百~百五十年程度で、『日本の伝統』を誇らしげに(ときに権威的に)名乗る」というケースに違和感があるといっているだけである。すべては事実を知ることから始まるのだ。

 本書の物足りない点をあえて指摘するとすれば、「伝統」をめぐる言説の政治的利用についての言及がやや薄いと思われる点だろうか。一例だけ挙げれば、「鎖国」という用語・概念に拘泥する論者に対しては、明治維新の開明性を言いたいがために江戸時代の閉鎖性を必要以上に誇張しているとたびたび批判されているのだが、本書ではそうした論争については触れられていない。

 もっともそうした堅苦しい論点はあえて外したのかもしれない。各項目はおしなべて簡潔にまとめられ軽妙な文章で統一されている。雑学書的な読物としてはたいへん面白い本といえるだろう。
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by syunpo | 2018-02-04 10:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

〈デュアル構造〉に分け入る〜『日本問答』

●田中優子、松岡正剛著『日本問答』/岩波書店/2017年11月発行

b0072887_10401281.jpg 法政大学の総長で歴史学者の田中優子と編集工学を提唱する著述家の松岡正剛。二人の碩学が日本の歴史について問答を交わした。最近、単行本のみならず新書でも増えてきた対論集のなかでは出色の面白さである。言葉と言葉が互いに刺戟し反応しあいながら新たな言葉を生み出していくという対談の醍醐味を本書では存分に味わうことができる。

 両者に共通しているのは、日本の特徴を「デュアル」な構造に見出していること。〈天皇/将軍〉〈公家/武家〉〈内/外〉〈ワキ/シテ〉〈神/仏〉〈隠す/顕わす〉……などなど様々な局面におけるデュアルなもの・ことを具体的に例示し日本的な方法として議論を展開していく様はスリリングである。

 注目すべきは、それらが「二重性」ではあっても必ずしも二項対立的ではないという点である。相互補完的であり、メビウスの輪のように反転したり融合したりすることもある。

 
序盤で提示される田中の以下の認識は今日にあってはすぐれて含蓄に富むものではないか。

……私は、日本列島がそれほど閉じているとは思っていなくて、つねに異民族は来ていたと思う。むしろ異民族、異文化に早くから慣れていたし、必要としていた。なぜならそれこそデュアルの根源だから。異質なもの、対立するもの、多様性があって、初めて元気になる文化なんです。(p31)

 とりわけ田中が繰り返し強調するのは江戸時代の鎖国政策に対する偏見への異議である。鎖国なる用語が幕府の公式文書にまったく出てこないことはたびたび指摘されてきたように、「徳川時代は鎖国で閉じていたというのはまちがいで、じつは内のなかに外を入れ込み、内を広げようとしていた時代」との認識を示しているのだ。「グローバル化とは、江戸時代にあっては、世界をいったん呑み込んで自らの変化によって世界に対応することでした」。

 松岡が権力の二元性・多元性を「日本独特のリベラルアーツのようなもの」とみなしているのは、そうした歴史観に対する松岡的な応答でもあるだろう。持論である〈ウツ=ウツロイ=ウツツ〉テーゼもまたデュアルな日本のあり方を捉えようとしたアイデアに違いない。「ウツ(空)」と「ウツツ(現)」のあいだをせっせと「ウツロヒ」が動いているという洒落まじりの仮説である。

 
また田中が随所で言及している「やつし」という江戸時代の人々によくみられた特性は日本文化の多様性を個人にも見出すもので、本書のキーワードの一つとなっている。

 日本社会を循環性の観点からとらえるのもきわめて示唆的である。とりわけ華厳経に由来する「融通無碍」の循環経済論を松岡が語るくだりには大いに教えられた。松岡によれば、店や市といってもたんなる流通ではなく、すべて「融通」だったのかもしれないという。

 融通というのは仏教の言葉で、華厳経からきています。華厳経の世界観というのは「重々帝網」、つまり帝釈天の網の目が細かくなって、それらに一個一個パールのような球体がついていて、お互いがお互いを輝きあって映しあっている、だから一個のものは世界をすべて映し出しているというものです。そういうものがつながっている世界のことを「融通無碍」というふうに言う。(p243)

 私たちが現代も日常会話で「お金を融通する」とか「融通しあう」というふうに使っていることの背景には、そういう行為や関係性の一つひとつが社会全体をくまなく反映しているという考えがあったからというのが松岡の考え方である。そのような融通無碍的な相互性や循環性は日本では他の領域でも多くみられるというのは田中も共有している認識だろう。

 本書の歴史観や日本観に触れると、今、日本社会で蔓延っている排外主義的な動きや政治空間での権力一元化は、日本の歴史や伝統からは逸脱しているように感じられてならない。そのような傾向を推進している人たちがしばしば日本の歴史や伝統を歪曲した形で力説するのは笑止千万である。

 一方で日本人はみずからの歴史や民族性を島国根性や閉鎖性という言葉でしばしば自己批判的に語ってもきた。が、二人の対話をとおして日本社会が蓄積してきた歴史の重層性をこれまで以上に肯定的に捉えることも可能ではないかとの思いを強くした。もちろんそれは昨今叫ばれている夜郎自大な「日本スゴイ」言説とは異なった位相のものであることはいうまでもない。
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by syunpo | 2017-12-28 10:45 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

勝ちぬく僕等少国民!?〜『戦時下の絵本と教育勅語』

●山中恒著『戦時下の絵本と教育勅語』/子どもの未来社/2017年11月発行

b0072887_1026262.jpg 戦前、国民に直接的な影響を及ぼしたのは憲法よりもむしろ教育勅語であったことは多くの人が指摘しているところである。本書はそうしたことを明言しているわけではないが、山中恒自身の教育勅語体験をまじえながら、戦時下の絵本を検証し、子供向けの出版物をとおして軍国主義化のプロセスの一端をあとづけるものである。

 山中は一九三一年の生まれ。国民学校における修身の授業で教育勅語の精神を叩き込まれた世代である。天皇の神格化については、文部省が一九三七年に『国体の本義』を出して主導し、教育勅語の精神を盛り込んだ教科書で学校現場に浸透させていった。一方、商業出版では子供向けの絵本などにも国家の方針に協力する姿勢が鮮明にみられるようになった。

 一九三一年の満洲事変から、上海事変、満洲国建国へと進む中で、絵本では軍人の美談が多く取り上げられるようになったという。当時は日本側の策謀などによる侵略的行動が始まっていたため、「日本側の策謀を正当化しようと、陸軍は大衆受けする戦争美談をマスコミに提供」する必要があったのである。美談の代表的な例としては「爆弾三勇士」の話がよく知られているが、戦後になって、勇ましい自爆ではなく、導火線の不備による事故だったことが明らかになった。

 興味深いことに、著者がとくにはっきりと指摘しているわけではないけれど、日本の拡張政策がすすむと、占領した国の子供たちや自然については(上から目線ではあるけれど)批判的な論評を抑えているように見受けられる。悪しざまな表現は、もっぱらその時点で戦っている中国軍や英国軍などに向けられていたようだ。あからさまなアジア蔑視の描出は、当時日本が喧伝していた大東亜共栄圏の建前に照らしてそぐわないという判断が軍にも出版社にもあったのかもしれない。

 本書を一読して感じるのは、出版の営みが時の公権力と結託することの怖さや不気味さだ。とりわけ子供たちに対するビジュアル素材をふんだんに使ったプロパガンダは、大きな影響力を持ったに違いないと思われる。昨今、近隣諸国についての偏見や謬見を煽るような出版物の刊行が相次いでいるが、歴史の教訓から学べることは少なくないはずである。
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by syunpo | 2017-12-26 10:27 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日本人ならではの知恵がこもる!?〜『愛と狂瀾のメリークリスマス』

●堀井憲一郎著『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』/講談社/2017年10月発行

b0072887_19315027.jpg クリスマスは今や日本の年中行事の一つとしてすっかり定着した。しかし一部には未だにこのイベントに対して懐疑的な態度をとり続ける大人たちがいる。キリスト教徒でもないのにワケもわからず大騒ぎしている、と。商売人の煽りに乗せられているだけというのもアンチ・クリスマスの常套句のひとつだろう。

 私はかねてからそのような「大人」の態度にこそ違和感をおぼえてきた。そんなことを言い出せば、日本の「伝統行事」の少なからぬものが同じような懐疑や揶揄の対象になりうるからだ。「伝統」と称されているもののなかに日本土着のものがどれほどあるというのか。外国文化の断片的皮相的な摂取というなら、何もクリスマスだけに限らない。クリスマスに対してことさらに違和感を表明することの方が不自然ではないのか。

 堀井憲一郎も私のそれとは文脈をやや異にするもののクリスマスへの違和感に対して違和感を抱いてきたらしい。というわけで、本書は日本におけるクリスマスの受容の歴史をたどるものである。前半は布教者の記録などの文献、明治以降はもっぱら朝日新聞の記事を丹念に読み込むという手法を採って日本のクリスマス受容史にアプローチする。

 クリスマスのありようは時代とともに変遷を遂げてきたが、どの時代を切り取っても当時の社会動向や政治思潮と強く連動していることを示していて興味深い記述がなされている。「日本のクリスマス受容の動きは、『西洋文化を取り入れつつも日本らしさを保とうとする努力の歴史』であり、日本人が世界を相手に生き抜く知恵だと見ることができる」という著者の結論的な認識にとくに異論はない。

 あくまで敬虔な信者だけの集まりだった安土桃山、江戸時代の真面目なクリスマス。「キリスト教の宗教的内容は取り入れない。ただ西洋列強の文化はキリスト教を基盤として成り立っているから、キリスト教も学ばないといけない。宗教部分を抜いた “文化としてのキリスト教” をうまく取り入れ」ようとして今日の年中行事化の土台をつくった明治期のクリスマス。戦勝気分がバカ騒ぎをもたらした日露戦争後のクリスマス……。

 大正天皇崩御の翌年のクリスマスをめぐって上杉慎吉と柳田國男が交わした意見交換などもなかなか興味深い。
「クリスマスは宗教行事なのだから、非信徒である日本人がその日を祝うのはおかしい、ただ子供の日だと考えるとよいのかもしれない」というのが上杉の意見。それに対して柳田は「あれは近年はやりだしてきた “冬の遊び” にすぎない、そもそもクリスマス自体がキリスト教とは関係のない “冬至の行事” である」と応えたのである。ただし天皇崩御の翌年くらいは自粛したらどうかという点で両者は意見の一致をみている。

 そして意外にも満州事変が勃発した昭和六年から三年間は「日本クリスマス史上もっとも狂瀾的に騒いでいた時期」だという。軍事国家化が外地で進むぶんには、国民はクリスマスの熱狂を自粛しようとは思わなかったのだ。そのことを「きちんと記憶しておくべきである」とは重要な指摘だろう。

 一九七〇年代以後は朝日新聞をフォローするだけでは不充分とみなして、女性雑誌の「アンアン」「ノンノ」や男性雑誌の「ポパイ」「ホットドッグ・プレス」などの引用もはじまる。著者自身が同時代的に体験した時代なので、記事に対するアイロニカルな筆致が前面に出てくる。メディア批評的な文章は、前半とはテイストの異なる読み味を醸し出す。

 もっとも文献資料に偏向やバイアスがあるのは当たり前の話。メディア批評の部分を強調されると、特定の記事のみをベースにした本書の記述全体の信憑性が揺らぐパラドックスに陥るわけで、そこにツッコを入れたくなる生真面目な読者ならば本書の評価は辛くなるだろう。

 ついでに記せば、キリスト教の布教に対する物言いが時に辛辣だったりするのはテーマにも沿った記述だから良しとしても、史実の見方が短絡的だったり、政治的な事象には冷笑的だったり……と枝葉の部分で余計な一言が出てくる箇所が少なからずあって、その点も少し鼻についた。

 そんなわけで、歴史や民俗の研究書的なつもりで手にとると、方法的な不備が批判の対象になりそうだが、コラムニストによる主観的な読み物の一つと割り切って付き合うぶんにはそれなりにたのしめる一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2017-11-28 19:36 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日本の政治にも影響を与え続ける!?〜『ヒトラー演説』

●高田博行著『ヒトラー演説 熱狂の真実』/中央公論新社/2014年6月発行

b0072887_197252.jpg ナチスが権力を掌握するに際しては、ヒトラーの演説が大きな役割を果たしたといわれる。本書は、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して総語数約一五〇万語のデータを作成し、それらを分析してまとめた労作である。著者は近現代ドイツ語史の研究者。

 ヒトラー自身、「語られる言葉の威力」の大きさを力説していたらしい。「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と。マルクス主義が一年で一〇〇万人もの労働者を獲得できたのも、大部の著作によるものではなく「何十万回もの集会」のおかげだとヒトラーは考えたのである。

 それではヒトラーの演説のいかなる点が人々を魅了したのだろうか。高田はヒトラーが多用したレトリックをいくつか挙げている。対比法、平行法、交差法、メタファー、誇張法などだ。それらはいずれも弁論術の理論にかなったものである。

 また高田はヒトラーが好んだ語句をいくつか指摘している。たとえばナチス独裁への足がかりを築いた全権委任法の審議では「国民革命」というキーワードを使うようになった。大がかりな軍事行動が始まると「平和」の語句を頻用するのもヒトラーの特徴であった。味方陣営を「われわれ」で包括する語り方によって、連帯感を形成する説得法も活用した。

 ヒトラーの活躍した時代は選挙が頻繁に行なわれたが、度重なる選挙戦はヒトラーの声帯を酷使した。そのため、ヒトラーはあるオペラ歌手から極秘裏に、発声法だけでなく、キーワードの抑揚の付け方やジェスチャーの仕方まで指導を受けたという挿話も興味深い。

 そしてもう一つ重要なのは、テクノロジーとメディアを積極的に利用したことである。大きな会場におけるマイクとラウドスピーカーの使用。外国メディアへの露出。移動に飛行機を使った遊説も当時としては新しいスタイルだった。さらに移動可能な大規模集会装置としての自動車キャラバン隊を編成したのもいかにもナチスらしいといえるかもしれない。

 ヒトラーの演説を分析することによってナチスドイツの政治手法を浮かび上がらせた本書は、ドイツの近現代史を知るうえでの有力な参考文献の一つとしてリストアップされることになるだろう。読みすすむうちに、そういえば極東の島国にも似たようなことをやっている政治勢力がいるなぁと思ったのは私だけではあるまい。それは偶然なのか。それとも意識して「手口」を真似ているのか。
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by syunpo | 2017-10-17 19:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

戦後日本外交の舞台裏〜『日米同盟はいかに作られたか』

●吉次公介著『日米同盟はいかに作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』/講談社/2011年9月発行

b0072887_18312845.jpg 戦後の日本外交の基軸は日米関係にある。日米関係はいつしか日米同盟とも呼ばれるようになったが、それは対等なものでないことは誰もが知っている。その基底にあるのは「負担分担」という大義名分であるが、ではその構図はいかに形成され、定着したのか。本書では、日米安保体制の形成から安保改定を経て、池田勇人政権に至る時代に焦点をあてて、この問いに答えようとする。池田政権期は日米安保体制史上において、目立たないが、きわめて重要な岐路であったというのが本書の認識である。

 米国と日米安全保障条約を結んだのは吉田茂政権期である。吉田首相は、日本が十分な軍備を持つまで、日本の防衛を米軍に委ねるつもりであった。他方で米国はアジア戦略上、占領終結後も日本の駐留させたいと考えていた。その意味では「日米の立場は五分五分のところである」と外務省がみなしていたのは卓見である。

 しかし、できあがった安保条約は「五分五分」ではなかった。在日米軍の日本防衛義務が明記されないばかりか、日本が「日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望」し、米国がそれに応じるとの内容になったのである。

 ……吉田茂が大きな問題点を安保条約に内包させてしまったことは、指摘されねばならない。その問題点とは、在日米軍はアメリカが日本に与える“恩恵”であり、日本はそれに見合うアメリカへの「貢献」を求められるという論理構造が、日米安保体制に埋め込まれたことである。(p26)

 真理をついていた外務省の論理が日米交渉で通じなかったのは、日米の力関係とダレス国務省顧問の巧みな交渉術ゆえであったと吉次はみている。

 後任の岸信介首相は吉田の「対米追随」を批判し、対等な日米関係の具現化を目指すことを信条としていた。ゆえに日米安保条約についても対等なものに改定しようとしたのは当然である。新条約で米軍の日本防衛義務が明記されたことは大きな成果であったといえよう。

 しかし国民の間からは大がかりな反対運動がわきおこった。社会党は「日米同盟の強化にほかならない」と批判した。それ以上に国会における岸の強硬姿勢が大きな反発を引き起こす要因の一つとなった。
 また後になって、日米間で事前協議制度に関する密約が取り交わされていたことも明らかになった。事実上、密約のために事前協議制度は形骸化していたのである。そうした意味では新安保の「対等性」は形だけのものだったといえる。

 その後を継いだ池田政権にとっては、安保闘争によって深手を負った日米関係の修復が最大の懸案となったのである。

 池田は所得倍増計画を前面に押し出すなど、国民の関心を政治から経済へとシフトさせたことで一般には知られる。池田政権は「経済の季節」の到来を見事に演出したのだと。
 しかし日米関係の安定化は政権維持のためにも必須の課題であった。その対外政策において「自主独立」問題はすでに後景に退いていた。冷戦構造が顕在化するなかでケネディ大統領のスローガン「イコール・パートナーシップ」と池田の「大国」意識は互いに共鳴しあうものであった。

 かくしてケネディ政権は防衛面での「負担分担」を強く求めるようになる。自衛隊の兵力増強など米国は日本に対して軍備の拡充をいっそう強く求めてきたのである。池田はそれをそのまま受け入れたわけではないが、結果的には米国の要求に沿うような形で政策を決定していったことは否めない。岸政権下で取り交わされた核密約に関しても、大平外相とともに密約の確認を行ない、それを明確に拒否することはなかった。

 さらに重要なのは、池田政権はアジア諸国とも積極的な外交を展開して対外援助につとめたことである。日本はアジア各国との関係において、自由主義陣営の大国として振る舞うことで存在感を示そうとした。米国は日本の防衛政策に満足することはなかったが、日本側はアジアへの対外援助によって「負担分担」をアピールしたのである。

 ……一九五〇年代の日本外交にとって、「敗戦国・被占領国」の残像を払拭し、対米「対等」や「独立の完成」を実現させることが急務であり、再軍備や対外援助はそのための手段と位置づけられていた。それに対して池田政権の対外政策は、アメリカの「イコール・パートナー」である「自由主義陣営の有力な一員」となった以上、それに相応しい「負担」を分担すべきとの論理に立脚していた。池田政権の「大国」志向と日本の経済成長、そしてアジア冷戦の激化とアメリカの苦境により、日米安保の「負担分担」の構図は新たな段階を迎えたといえる。(p191)

 以上みてきたように、本書の考察には教えられるところが多かったけれど、引っかかるところもなくはない。オフィシャルな外交文書などに典拠してもっぱら政権中枢の言動を描出しているため、政権サイドに立った書きぶりにはやや違和感を覚えた。たとえば池田へのメディアからの酷評を「揶揄」といったり、社会党の質問を「レトリック」と決めつける表現などだ。

 また、当時の考えられる選択肢を指摘し、そのなかで政権の選択した政策を吟味するいう記述にこそ歴史を学ぶ面白味があると思うのだが、本書の書きぶりにはそうした歴史への想像力を喚起させる力にも乏しいような気がした。

 むろん、そうした点を差し引いても本書が戦後の日米関係を学ぶに有益な本であることは間違いない。これからの日本のあり方を考える場合、日米関係を抜きにすることはできない。その意味では今日につながる日米同盟の舞台裏を知っておくことは意義深いことであるだろう。
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by syunpo | 2017-07-15 18:36 | 歴史 | Trackback | Comments(0)