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カテゴリ:文学(小説・批評)( 126 )

小さな言説に対する苛立ちを言語化する〜『新・目白雑録』

●金井美恵子著『新・目白雑録 もっと、小さいこと』/平凡社/2016年4月発行

b0072887_09204293.jpg「その時々の時代の大文字のニュースや出来事の周辺で書かれた様々の小さな言説に対する苛立ち」にアイロニーをまぶして言語化したエッセイ。その執拗な絡み方とあいまって今時のSNS界隈では最も嫌われそうな芸風だが、私はそれなりに楽しく読んだ。

 いとうせいこうの『想像ラジオ』を皮肉っぽく寸評し、磯田道史が新聞に書いた書評文をやり玉にあげる。
 片山杜秀が『砂の器』に寄せた批評に対しては、松本清張の原作を読んでいないことを推測してやはり揶揄めいた論評を加えることになる。

 映画『ローマの休日』のアン王女に扮した森村泰昌のセルフポートレイト作品を貶すあたりはかなりマニアックな考察を展開している。森村の扮装はサマーウールのスカートで霜ふりのピンク。……だがそもそも『ローマの休日』はモノクロ映画なのだから、カラー写真なのはおかしい。映画の中でヘップバーンが着たフレア・スカートはカシミアのグレーかブルーと考えるのが、五〇年代のファッションを考えれば「常識」だという。

 お世辞にも名文とは言い難い文体で紡がれるクリティカルな言葉は読者によってはっきり好悪が分かれるだろう。単なる言いがかりじゃないかと思われるような箇所もなくはないけれど、文化的な表層から始まったはずの森村批判からブランド人気の裏に潜む社会的貧困の問題にも話が及んだりするから油断ならない。

 政治の質が劣化したあまり、小説家やアーティストまでが優等生的に大きな問題に立ち向かうことを要請されるような時代、あるいは東浩紀のいう「学級委員長」的なインテリの言説が目立ってしまう時代にあって、「小さいこと」に拘泥した文章芸に触れるのも悪くない。

by syunpo | 2019-06-29 09:23 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

爆撃が生んだ芸術の爆発力〜『暗幕のゲルニカ』

●原田マハ著『暗幕のゲルニカ』/新潮社/2016年3月発行

b0072887_09174135.jpg パブロ・ピカソ畢竟の傑作「ゲルニカ」。スペイン内戦中の一九三七年、ドイツ空軍によって行なわれたゲルニカ空爆に怒りを爆発させたピカソが描いた作品である。

 この二〇世紀を代表する絵画をモチーフに二つの物語がパラレルに語られていく。一つはピカソと彼を取り巻く人びとの人間模様とゲルニカの創作過程を描いたもの。もう一つは「ゲルニカ」に心を奪われた日本人キュレーターが大掛かりなピカソ展を企画し、その実現に向けて東奔西走する話である。第二次世界大戦前後の激動期と、二一世紀初頭の不透明な時代。アクターは変わっても、圧政や暴力が蔓延り続ける状況に変わりはない。ピカソが「ゲルニカ」に込めた心の声は世紀を跨いでも世界中の人びとに響きつづけているようである。

 文学作品としては筆が通俗に走り過ぎてややコクを欠いている印象は拭い難い。「ゲルニカ」をもっぱら「反戦」の語句に収斂させる、その一面的な解釈はあらゆるアート作品が共通して持っている豊かな多義性を切り詰めているように感じられるし、会話や描写がいささか説明調なのも気になった。

 それでもストーリーテリングのうまさで、ぐいぐいと引っ張られたのは事実。原田の持ち味がよくにじみ出た作品には違いない。

by syunpo | 2019-05-16 21:00 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

諧謔精神に満ちたヨモタ初の小説〜『すべての鳥を放つ』

●四方田犬彦著『すべての鳥を放つ』/新潮社/2019年1月発行

b0072887_12430323.jpg 四方田犬彦初めての小説である。第一作とはいえこれまで多くの著作を物してきた四方田のこと、様々な仕掛けとヒューモアを盛り込んで堂に入った書きぶりである。

 主人公が山陰地方から東京の一流大学(作中では東都大学となっている)に入学する──という設定には漱石『三四郎』を想起する読者も多いことだろう。

 もっとも一九七二年から説き起こされているので、主人公・瀬能明生の身にふりかかる出来事はいささか刺激的。いきなり人違いによって暴力を受けるシーンで始まるのだ。一九六八年をピークとする学園闘争にまつわる編著作を多く江湖に問うて、その歴史的意義などを熱く語ってきた著者ならではの導入といえるかもしれない。

 こうして当時のキャンパス内における活動家たちの行動やセクト間の対立などが事細かに活写されていく。おそらく四方田自身の体験や見聞に基づいている部分も多く含まれていることだろう。

 瀬能が大学を卒業して以降の展開は趣が一変する。ポスト・モダニズムの看板とともにフランス現代思想にかぶれたニューアカデミズムの時代が戯画的に描き出されるのだ。
 ちなみに漱石の初期作品のキーワードともいえる「高等遊民」なる言葉が瀬能の友人たちに差し向ける印象という形でこの第二章に登場するのも一興。

 瀬能が活動家学生に間違われて暴力を受けるという体験はもちろん政治の季節が終わっても彼のその後の生活に影響を与えずにはおかない。瀬能は折に触れてその人物に思いを馳せる。いわば〈双子〉の幻影に振り回されるようにして、瀬能は生きていくのである。

 そして未だ見ぬもう一人の分身を意識せずにはいられない主人公の不安な状況を包みこむようにして、種々の二元的概念が交錯しもつれ合う。本物と贋物。実体と残像。覚醒と夢の世界。生と死……。このようなモチーフが作品全体をとおして随所に様々なバリエーションを伴ってあらわれる。それに関連して繰り返しあらわれる〈鳥〉のメタファーが強い印象を刻みこんでいく。

 また瀬能が暴力を受ける場面に登場し、結果的に救ってくれることになった未紀という女性との恋愛感情を含んだ、しかし一筋縄ではいかない関係は本作のあらゆる人間関係の中でも核心を成す重要なものである。もちろん未紀との関係のみならずその存在さえもが〈実存/残像〉という二分法を惑乱する形で描かれていることはいうまでもない。

 固有名詞の扱いに関しても、遊び心が発揮されている。ミシェル・フーコーや中上健次など実在した人物が登場するかと思えば、四方田という名の人物が俗悪なキャラをもって現れたり、中沢新一の任官問題をめぐって生じた東大駒場騒動など現実に起きた出来事がパロディ風に描かれたり。
 近過去における現代思想や文学の生々しい事件の記憶を随所にちりばめて、この間の事情に通じた読者であればいっそう楽しめるという寸法である。

 舞台は、東京からパリへ、東京へ戻った後にマダガスカルのアンタナナリヴォへと登場人物たちは国境を越えて移動する。いかにも四方田らしいワールドワイドな展開をみせることも本作の読みどころの一つだろう。

 政治の季節をくぐりぬけてきた者たちが近過去の歴史を忘却する、あるいは忘却したふりをすることについて四方田は以前から批判を加えてきた。そこには政治のみならず文化面においても刺激的な企てがなされていたのではなかったのか、と。本作はそのような四方田の問題意識を色濃くにじませたものには違いないけれど、主要な登場人物たちは必ずしもその時代を熱く生きた若者ではない。むしろ時代の主流からは距離をおいていた。そのような人物の目をとおすことで、特定の時代への安直なノスタルジーと一線を画そうとしたのかもしれない。

 主人公の瀬能はみずからの体験から政治や閉塞感を意識せずにはいられなかったが、とある人物との交流を経て「自分の背後に張りついていた亡霊」から解放されたと考える。
 四方田はその「亡霊」をめぐる苦悩と流謫の個人史を描き切ることによって、あらためて昭和から平成へと至る現代史への視座を確保しようと試みたのだ。ある特定の時代をなかったことにすることはできないし、忘れたふりをすることは何よりも欺瞞的な態度なのだから。読者を選ぶ小説には違いなかろうが、四方田の愛読者としては新たな挑戦に心からエールをおくりたいと思う。

by syunpo | 2019-05-01 13:52 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

言葉を失う感覚から生まれた言葉の世界〜『模範郷』

●リービ英雄著『模範郷』/集英社/2016年3月発行

b0072887_18433970.jpg〈ぼく〉の故郷は、台中の「模範郷」と人が呼んでいた街区であった。大日本帝国が統治していた時代に日本人たちが造成した街である。作中の〈ぼく〉は作者リービ英雄と同一視してもよい存在だろう。「模範郷」はこれまでも彼の作品でたびたび言及されてきた場所である。

〈ぼく〉は五十二年ぶりにその地を訪れる。再訪するのに五十年以上の時間を要したことは偶然ではない。行くことを躊躇わせる、あるいは行くことに意味を見いだせないリービ英雄固有の時間があったのだ。

 そのような時間の経過を踏まえたうえで、東アジアの複雑な現代史と作家自身の個人史が重ね合わされる。普通語と國語と日本語と英語が舞っていた言語空間。父と母が離婚することになる不幸な家庭環境。様々な意味で引き裂かれているようでもあり、同時に混沌とした文化の結節点のようでもあった。その交わりのなかに、かろうじて存在する記憶の糸を頼りに、歴史と意識が渾然一体となって、独特の小説空間が紡ぎ出される。

 半世紀の空白を経て訪れた模範郷の街並みは当然ながらすっかりそのすがたを変えていた。予想していたこととはいえ、かつて住んだ家の跡地を確認した時、〈ぼく〉は言葉を失う。「何語にもならない、ここだった、というその感覚だけが胸に上がった」。同行した教え子で作家の温又柔の言葉が印象的である。──言語化する必要はないのよ。

 だが、リービ英雄はことのあらましを「言語化」することで、模範郷のヒストリカルな世界を私たち読者の前に提示することを可能にしたのだった。言葉にする必要はない。その箴言は、言葉にしなくてはいられない欲望と矛盾しない。それにしてもリービ英雄の言語体験は、私のように一つの母語だけで安穏と暮らしてきた者からすれば別世界の様相を呈していて、安易な共感を寄せることは許されないようにも感じられる。

「日本語を愛しきるために/一度の人生で足りないのは 詩人だけではないはず」と歌ったのは覚和歌子である。日本語を敢えて選んだリービ英雄が日本語を愛しているのかどうか私はよく知らない。が、彼が創り出す日本語が私たちの思考力を刺激し、感性を激しく揺さぶることもまた確かなのである。
by syunpo | 2019-03-07 18:47 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

美しい国をこれ以上壊さぬために〜『日本の美徳』

●瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン著『日本の美徳』/中央公論新社/2018年7月発行

b0072887_10495166.jpg 御年九十六歳。同い年の二人が大いに語り合う。『源氏物語』について。長寿の秘訣について。昭和の文豪たちについて。日本の美徳について。

『源氏物語』は二人にとって重要な古典文学である。キーンはアーサー・ウエーリの英訳版『源氏物語』を読むことで日本への関心を高めた。物語のなかでは対立が暴力に及ぶことはなかったし、戦もなかった。主人公の光源氏は腕力が強いわけでもなければ、歴戦の戦士でもなかった。脅威的な軍事国家とは別の日本文化に触れることで、キーンの日本観ひいては人生そのものが大きく変わる。

 一方の瀬戸内は『源氏物語』を現代語訳した。言葉は時代とともに変化する。二十年周期ぐらいで。ゆえに源氏物語も新しい言葉で訳すことが必要なのだという。ただし長大な物語を現代語訳するのは生命を削るような作業であった。そうした二人の源氏物語談義はまことに味わい深い。

 読んで一番残るのは「美」です。一例にすぎませんが、手紙をおくるときはまず紙に気を使い、墨の濃淡を考える。そして歌を作り、美しい書体で書く。書き終えた手紙は、どう折るかということにまで心を配り、季節の花を添えます。つまり女性も男性も、いかに美意識があるかに、人としての価値を見出したわけです。(キーン、p18)

『源氏物語』は、言ってみれば不倫の話ばかりです。一人しか好きになってはいけないと言われても、三人を同時に好きになったりすることもあるじゃないですか(笑)。そういう人の気持ちというのは、どうしようもない。(瀬戸内、p22)


 昭和の文豪たちとの交友を回顧するくだりは、さすがに錚々たる顔ぶれが登場する。谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成、円地文子……。

 瀬戸内が作家デビュー以前に三島と手紙でやりとりしていたという話はおもしろい。ファンレターには返事を出さない主義の三島が瀬戸内の手紙には反応してくれたらしい。「あなたの手紙は本当に暢気で楽しいから、思わず返事を書きました」。

 二〇一二年、キーンは日本国籍を取得した。キーンによる日本賛美は「清潔」「礼儀正しさ」などいささかステレオタイプだが、瀬戸内は素直に応じるわけでもなく留保をつけるので、近頃流行の単純な「日本スゴイ」言説とははっきり一線を画したものになっている。

「日本は世界のなかでもとてもきれいな国」だとキーンは言う。しかしその後に「その美しさを自分たちの手で壊しているのが残念」と苦言を呈することも忘れない。政府による沖縄での蛮行を見るにつけ、日本を愛する者の愛情に満ちた叱咤を私は素直に受け止めたいと思う。
by syunpo | 2019-01-13 10:56 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

読むことと語り合うことによる発見〜『漱石漫談』

●いとうせいこう、奥泉光著『漱石漫談』/河出書房新社/2017年4月発行

b0072887_9133167.jpg いとうせいこうと奥泉光の文芸漫談シリーズ『文芸漫談 笑うブンガク入門』『世界文学は面白い。』に続く第三弾。タイトルが示すとおり夏目漱石の作品をだけを収めている。国民的作家の作品を深刻になりすぎず、肩のこらない調子で軽快に読み解いていく。といってもいい加減な読み方ではない。相変わらずの面白さである。

《こころ》を同性愛の観点から読むのは今ではありふれた読解だが、ここではいくつもの組合せにそれを見ようとしている点で、より徹底しているといえる。先生とK。先生と西洋人の知り合い。トーマス・マンの《ヴェニスに死す》を引き合いに出すあたりもなかなかオツである。

《三四郎》はユーモア小説であり、三四郎の成長譚としての教養小説でもあり、最先端のファッションを描きこんだ風俗小説でもある。二人はそのような作品の多層性を確認していく。そのうえで「絵画」の世界があらわれると奥泉が指摘するのは斬新な視点だと感じ入った。

 代表作《吾輩は猫である》での語りはいっそう漫談は熱を帯びる。猫を語り手にした着眼をひとしきり称賛するのはお約束としても、「どんどんと言葉が言葉を引き出していくところ」に魅力を見出しているのはなるほどと思う。描写の美文、教養の炸裂、リズム、フレージング……。
 吾輩たる猫が鼠を取るシーンは日露戦争のバルチック艦隊との決戦のパロディになっていることはすっかり忘れていた。

 また、いとうが漱石と虚子のホモ・ソーシャルな関係に言及しつつ、苦沙弥先生のミソジニー的な人物像を批判しているのも傾聴に値する。「ヘイトは面白くないぞ」と。

 漱石作品では最もポピュラーだと思われる《坊っちゃん》。いとうは政治小説としてそれを読む。明治維新とは薩長土肥による江戸の征服であり、坊っちゃんは旧幕臣の出身ゆえ敗者ということになる。相棒の山嵐は会津っぽなのでその文脈からしても仲間である。「敗者である江戸の人間が、薩摩、長州までは行けないが、なんとかその近いところで大暴れしてやろうと画策する、意趣返しともとれる」。もっとも奥泉はその説にはあまり乗ってこなかったのだが。

《草枕》は小説についての小説、いわばメタ小説の観点から論じられる。「この小説の持っている批評性は衰えを知らない」と奥泉はいう。作中において小説の読み方まで示されているという点ではたしかに批評的といえよう。当時隆盛していた自然主義リアリズムとは対極にある作品なのだ。

《門》。略奪婚で友人から女性を奪った主人公の宗介。その友人が隣家に出入りする可能性のあることがわかって狼狽えるのだが、実効的なことは何もできず、一人で勝手にお寺の座禅入門コースみたいなところに通い始める。漱石作品には読んでいてイライラさせられる男がよく登場するが、宗介はそのなかでも格別だろう。いとうは「男の卑怯さがこの小説のテーマだ」と総括する。なるほど女性の立場から作品を読み直すのも一興だろう。

《行人》は読めば読むほどにアラが見えてきて「語りの構造が破綻している」(奥泉)点が気になってくる。とはいえ兄嫁の直についていとうが強い関心を示しているのは興味深い。「女=蛇=水」の道成寺の図式で捉え、神話的なイメージとして直の存在感を浮かび上がらせるのだ。

《坑夫》に対する二人の評価はきわめて高いのも印象的である。いとうが大岡昇平の『野火』を想起すれば、奥泉はドストエフスキーの『地下生活者の手記』を引き合いに出す。風変わりな構造をもつテクストだが、いやそれゆえに、二一世紀の読者に対しても世界の文学史の記憶を呼び覚ますような力をもつ作品とでもいえばよいか。

 全編をとおして、奥泉が漱石作品の登場人物を覆っている独特の孤独感について言及している点は注目に値するだろう。それは「他人と関係を持とうとし、コミュニケーションしようとするけれど、それに失敗してしまう者の孤独」である。漱石自身が感じていた孤独でもあるだろう。

 そのように語り合ういとうせいこうと奥泉光の対話は、漱石の登場人物たちを反面教師とするかのように、豊かなコミュニケーションの成果を示してくれている。かかる文芸漫談というスタイルそれじたいが漱石文学を読むことの快楽を体現しているのである。
by syunpo | 2019-01-05 09:17 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

言葉用重箱の隅をつついて〜『珠玉の短編』

●山田詠美著『珠玉の短編』/講談社/
2016年6月発行

b0072887_10204317.jpg ひとつの言葉から連想ゲームにようにして小説世界が広がっていく。本書はそのような掌編ばかりを収めたコンセプチュアルな短編集である。
「食べる」「食う」という言葉から想像を膨らませる《サヴァラン夫人》。「骨」にまつわる《骨まで愛して‥みた》。「虫やしない」という古い言葉から「虫」や「養う」ことへと話が飛翔していく《虫やしない》……。

 表題作がおもしろい。自分の作品に「珠玉の短編」と編集者に書かれ不快感を爆発させる作家・夏耳漱子の物語。そもそもその短編は兄と妹が獣のようおな近親相姦の禁忌故の快楽に溺れ、それを追求するあまりに、果ては互いの心身を傷付け合い、殺し合う話。「珠玉」とはほど遠い作品のはずだったのだが。

 漱子は「珠玉の短編」とはそもそも何であるかを考え始める。そして「珠玉」という言葉が頭から離れなくなってしまう。

……珠玉に対する免疫がまるでなかった心身に、それは、やすやすと棲み付いて、分裂を繰り返して増殖し、彼女に症状を広げようとしていた。そして、しまった、と慌てた時には、もう遅かったのである。(p40)

 そうして漱子は「珠玉」という言葉にとらわれてしまい、ついには自ら作品を書き直すに至る……。

 ついでに付記すれば、主人公の名前からもわかるように、本作では国民的大作家に対するパロディ精神も遺憾なく発揮されている。もちろんそれは反権威的な諷刺というレベルにはおさまらない、作者なりのオマージュと読むべきなのだろう。

《箱入り娘》もよく出来ている。「箱入り娘」から、きれいな箱入りの高級果物のイメージへと展開し、チェストと呼ばれる籐の箱の中に主人公が閉じ込められたりしながら、そして最後には……。ブラックユーモア風のオチがきいている。

 川端康成文学賞を受賞した《生鮮てるてる坊主》は男と女の「友情」をテーマにした作品。一組の夫婦と仲の良い語り手の女性の三者の関係が軸になっていて、語り手の私は、夫である勝見孝一と「友情」を保っていると考えている。妻の虹子は最初から心の不安定な人物として登場しているのだが、語り手の私の不気味さも尋常ではない。

 山田はあるインタビューのなかで「『友情』って、すごく素晴らしいもののように思えるし、主人公たちも最初はそう思っているんだけれど、それがいかに人を圧迫し、ある時は武器にもなって、人間をモンスターに変えてしまうこともある」と述べている。なるほど本書のなかではもっとも人間の機微を穿った深い作品のように感じられた。

 近頃は文学者までもが政治的正論を叫ばねばならぬほどに日本社会の腐敗は進んでいる。とはいえ、山田の「まとまった塊の危機感ってあまり信じていない」という態度もまた文学者のそれとしては極めて正当なものだろう。というより、文学者とは元来そのような存在ではなかったか。彼女のいう「顰蹙文学」のようなあり方もまた排斥されるべきではないと思うのである。
by syunpo | 2019-01-02 10:22 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

物事がひとりでに片づくことはない〜『終わりと始まり2.0』

●池澤夏樹著『終わりと始まり2.0』/朝日新聞出版/2018年4月発行

b0072887_19555938.jpg 文学者にもし社会的役割があるとすれば、そのひとつは一昔前なら一般庶民の良識や常識を疑ってみたり、斜め上から世間を観察したり、というようなことがあったように思う。作家のエッセイには《無作法のすすめ》のようにしばしば挑発的な書名が付けられ、凶悪事件の犯人にエールをおくる言説が平然と雑誌に掲載されるようなこともあった。文学者のそのような言動を手放しに肯定するつもりはないけれど、それを読んで「不謹慎」といちいち眉を顰めたりする読者もあまりいなかった。

 ところが最近はポリティカル・コレクトネスの考え方が浸透したこともあってか、政治的倫理的な「正論」が強く求められるようになってきた。文学者もまた野暮を承知で生真面目に民主主義や憲法の理念を説かなけれなならない時代がやってきたのだ。

 その背景として公権力者たちの所業が異様なレベルにまで非常識化してきたことが考えられる。文学者が斜に構えていられるのも平和で安穏な社会があってこそ。ネットで一般読者が容易に意見を発信することが可能になり、作家への苦情がダイレクトにとどきやすくなったことも影響しているかもしれない。以前よりも文学者のお行儀の良い文章や発言を目にする機会が増えた(と感じられる)御時世は、幸福なのか不幸なのか。

 さて、本書は池澤夏樹が朝日新聞に連載したコラムを書籍化したものである。収録されているのは、二〇一三年四月から二〇一七年十二月までの掲載分。話題は多岐にわたるが、震災・原発事故や世界情勢に言及したものが多く、安倍政権への辛辣な批判も随所にみられる。先の文脈に照らすと、おおむね「正論」調で綴られたコラムといえばいいだろうか。政治家たちの非常識や暴走を糾弾するような調子が基調になっている。

 原発輸出に対して「今から原発を売るのは真珠湾の作戦計画を売るようなもの」と鋭く批判し、「人の記憶にも半減期がある」と原発事故の風化への警鐘を鳴らす。
 白井聡や矢部宏治ら若い書き手の著作を引用しながら、日本の主権のあり方について憂慮を示し、その回復の必要性を訴える。その一方、最近ではリベラリストや左翼論客のあいだでも好意的に論及されることの多い近代保守思想を自認している中島岳志に対しては「そこに欠けているのは怒りだ」と忌憚なく注文をつけているのも目を引く。

 中東やアフリカの混乱など海外の政治情勢に言及する際には、現地の友人である固有名が出てきたりして、けっして机上のコメンテイター風にならないところにリアリティが醸し出される。池澤が見ているのは統計上の数字やデータではなく、かけがえのない一人ひとりの個人なのだ。

 むろんそうした世界の喧騒や混迷ばかりを論じているわけでもない。逗子海岸映画祭の祝祭感を言挙げし、アボリジニの芸術を愛で、木下順二原作の舞台《子午線の祀り》の世界に遊ぶ。
 政治と経済は分断するが文化は結ぶ。文学によってアゴラ(広場)を活性化すること。ケレン味なく文学者としての矜持を示して締める姿勢には、賛同したく思う。

 ちなみに書名は末尾に引かれているヴィスワヴァ・シンボルスカの詩《終わりと始まり》から採ったもの。

 戦争が終わるたびに/誰かが後片づけをしなければならない/物事がひとりでに/片づいてくれるわけではないのだから

 誰かが瓦礫を道端に/押しやらなければならない/死体をいっぱい積んだ/荷車が通れるように(沼野充義訳)


 たいへん印象的な詩篇だが、「戦争」は、たとえば「原発」にも置き換え可能かもしれない。その意味では現代の日本人にとっても切実な詩というべきだろう。
by syunpo | 2018-11-27 20:00 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

ディストピアの中から浮上する文学の魔力〜『小説禁止令に賛同する』

●いとうせいこう著『小説禁止令に賛同する』/集英社/2018年2月発行

b0072887_20351516.jpg 時は二〇三六年。日本は東端列島と呼ばれ、亜細亜連合の一部になっている。語り手の〈わたし〉は元小説家で思想犯として獄に繋がれている身。一昔前のように言論の自由が失われた社会になったのだ。戦争の後、亜細亜連合の支配下に入った後も収監されたまま。

〈わたし〉は亜細亜連合が出した小説禁止令にいちはやく賛同の意思を表明し、紙と万年筆を与えられ、文章を書くことを許される。それは「やすらか」なる小冊子に掲載される。私たち読者が読むことになるのもその文章──という設定である。

 小説禁止令に賛同する──語り手は敗戦国の一員として、小説がいかに社会に害毒を与えるものであるかを力説して禁止令に迎合しようとする。
 当然ながら本作は小説ではなく随筆として執筆される。そうして〈わたし〉は随筆の可能性をうたいあげる。

 そもそも随筆の可能性はきわめて大きいのです。わたしたちが哲学書だと思っていても実は随筆だったということもある。例えば、わたしが学生時代から尊敬し続けていた、この東端列島を代表する批評家・柄谷行人は自らの作品の多くを随筆だと言っています。ひょっとしたら全部かもしれない。(p18)

 それに対して小説というものは「あまりに不誠実な文の塊」であり「まったくもって薄気味の悪い宇宙」ではないか。それは人生とはまるで異なった常識が通用する世界。確定の過去形を駆使して、読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう。しかも作者というものを隠しながら。

 ……こんな不気味な催眠的な暗示のような、いや主観の問題など超えてしまう錬金術のような、それでいて実に卑小で簡単な技からできている発明を、なぜ嫌悪し、恐れないのでしょうか。(p122)

 けれども小説の不誠実さを語っていくうちに、いつのまにかそれは秀逸な小説賛歌へと反転していく。というか、小説を糾弾する言葉はそのまま裏返せば、小説の魔力であり魅力であると読めるのだ。そうして〈わたし〉は数多の小説を引用するのと平行して創作を始める。架空の小説《月宮殿暴走》を。

 それにしても《月宮殿暴走》のなかで小説そのもののイメージを語りだすくだりはいかにも幻想的。かつて小説がこれほどまでに美しく語られたことがあっただろうか。

〈わたし〉の反語的な表現は管理当局にも的確に読解され、文章を書くたびに懲罰を受けているらしいことが、章末ごとの注釈によって示される。「軽度処置」「中度処罰」「薬物直接投与」……などなど。『月宮殿暴走』という風刺のきいた創作によって最後に〈わたし〉に下される処罰は?……どうか本書を手にとってご自身でお確かめいただきたい。

 いとうがこのような近未来のディストピア小説を書くについては、当然ながら今日の政治社会のありさまを強く意識していることは間違いないだろう。言論の自由は、油断していると簡単に脅かされる。書きたいことを書けず、書きたくないことを書かされる時代は、いうまでもなく不幸である。今日の状況をみるに私たちがそのような時代に突入しようとしていることは否定しがたい。そのような社会状況への警鐘という観点を重視する論評もあるようだが、上に記してきたように、私としてはむしろそこから立ち上がってきた小説論・文学論にこそ注目すべきだと考える。

 小説はいくら抑圧しても死に絶えることはない。なぜなら、それは必ずどこかで書かれ、どこかで読まれていくものだから。何よりもそのような小説の魔力を信じている点にこそ本書の真価があるのではないだろうか。
by syunpo | 2018-11-22 20:37 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

言語をめぐる冒険〜『真ん中の子どもたち』

●温又柔著『真ん中の子どもたち』/集英社/2017年7月発行

b0072887_18385295.jpg 台湾人の母と日本人の父のあいだに生まれた琴子。三歳の時に台湾から日本に移住し、日本語を「母語」とする生活を送ってきた。中国語を学ぶために上海の漢語学院に短期留学する。小説はそこでの体験談という形式を採る。とりたてて大事件が起きるわけではない。日々の些細な出来事が日本語と中国語の会話をまじえながら綴られていく。

 遭遇した人たちのちょっとした一言が琴子を落ち込ませたり、あるいは元気づけたり。言語や国籍にまつわる話題にあっては、まさに言葉そのものが凶器にも心のカンフル剤にもなりうるのだ。言葉の暴力。言葉の包容力。言葉の魔力。

 言葉はかくして主人公や周囲の登場人物たちに葛藤をもたらす。作中をとおして常に聴こえているのは「国語とは?」「言語とは?」という問いかけである。

「国語」という概念のイデオロギー的側面を指摘する言説はすでに数多くある。本作においては「正しい中国語」を琴子に厳しく教えようとする陳老師が象徴的な存在である。まさに「国語」という制度を良くも悪しくも体現した人物とでもいえばよいか。陳老師は琴子の発音に関して巻舌のことを事細かに指導したり、造語など話者独自のレトリカルな表現を容赦なく斥けようとするのだ。「あなたは変です」とまで言う。そのことで彼女は傷つき、「私自身が否定された気分」すら覚える。

 もちろんそのままでは終わらない。後半に転機は訪れる。陳老師の態度にも……。
 読み味は悪くない。ただ全体をとおして作者の抱えている主題が文学の言葉で充分に表現されているかといえば、疑問が残らないではない。説明的な記述が目立つのがいささか文学的興趣を削いでいるように感じられるのだ。芥川賞の選考委員の一人は「退屈」と評したらしい。そこまではよい。

 ただしここに描かれてあることを「対岸の火事」と一蹴してしまったことにはまったく同意できない。そのような読解に対しては、むしろ本作を擁護すべきではないかと強く思う。

 言語は、ある言語圏と別の言語圏の境界線を超えてやってくる越境者の活動によって活性化されてきた。日本語とて例外ではない。万葉集の昔から日本語は越境者や外来の言葉によって形成され練り上げられ鍛えられてきたのではなかったか。そうした世界の歴史を想起するならば、本作は「特別」なアイデンティティをとおして言語という普遍的な主題に向きあった作品といえるだろう。仮に作品として未熟さを感じたとしても、主題に対して「対岸の火事」と他人事にしてしまうのは愚鈍というべきである。
by syunpo | 2018-09-17 18:46 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)