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ブックラバー宣言

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カテゴリ:文学(小説・批評)( 117 )

言語をめぐる冒険〜『真ん中の子どもたち』

●温又柔著『真ん中の子どもたち』/集英社/2017年7月発行

b0072887_18385295.jpg 台湾人の母と日本人の父のあいだに生まれた琴子。三歳の時に台湾から日本に移住し、日本語を「母語」とする生活を送ってきた。中国語を学ぶために上海の漢語学院に短期留学する。小説はそこでの体験談という形式を採る。とりたてて大事件が起きるわけではない。日々の些細な出来事が日本語と中国語の会話をまじえながら綴られていく。

 遭遇した人たちのちょっとした一言が琴子を落ち込ませたり、あるいは元気づけたり。言語や国籍にまつわる話題にあっては、まさに言葉そのものが凶器にも心のカンフル剤にもなりうるのだ。言葉の暴力。言葉の包容力。言葉の魔力。

 言葉はかくして主人公や周囲の登場人物たちに葛藤をもたらす。作中をとおして常に聴こえているのは「国語とは?」「言語とは?」という問いかけである。

「国語」という概念のイデオロギー的側面を指摘する言説はすでに数多くある。本作においては「正しい中国語」を琴子に厳しく教えようとする陳老師が象徴的な存在である。まさに「国語」という制度を良くも悪しくも体現した人物とでもいえばよいか。陳老師は琴子の発音に関して巻舌のことを事細かに指導したり、造語など話者独自のレトリカルな表現を容赦なく斥けようとするのだ。「あなたは変です」とまで言う。そのことで彼女は傷つき、「私自身が否定された気分」すら覚える。

 もちろんそのままでは終わらない。後半に転機は訪れる。陳老師の態度にも……。
 読み味は悪くない。ただ全体をとおして作者の抱えている主題が文学の言葉で充分に表現されているかといえば、疑問が残らないではない。説明的な記述が目立つのがいささか文学的興趣を削いでいるように感じられるのだ。芥川賞の選考委員の一人は「退屈」と評したらしい。そこまではよい。

 ただしここに描かれてあることを「対岸の火事」と一蹴してしまったことにはまったく同意できない。そのような読解に対しては、むしろ本作を擁護すべきではないかと強く思う。

 言語は、ある言語圏と別の言語圏の境界線を超えてやってくる越境者の活動によって活性化されてきた。日本語とて例外ではない。万葉集の昔から日本語は越境者や外来の言葉によって形成され練り上げられ鍛えられてきたのではなかったか。そうした世界の歴史を想起するならば、本作は「特別」なアイデンティティをとおして言語という普遍的な主題に向きあった作品といえるだろう。仮に作品として未熟さを感じたとしても、主題に対して「対岸の火事」と他人事にしてしまうのは愚鈍というべきである。
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by syunpo | 2018-09-17 18:46 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

両義性とユーモアをめぐって〜『大江健三郎 柄谷行人 全対話』

●大江健三郎、柄谷行人著『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』/講談社/2018年6月発行

b0072887_18555955.jpg 柄谷行人は座談・対談記録を数多く書籍化しているが、大江健三郎とこれほどの濃密な対話を交わしていたことは迂闊にも知らなかった。収録されている三つの対談は、それぞれ一九九四、九五、九六年に行なわれたもの。大江のノーベル賞受賞と相前後する時期にあたる。内容的には今日読んでもさほど古さを感じることはない。

《中野重治のエチカ》と題された対話は、文字どおり中野重治に関するもので、読者を選ぶテーマといえるかもしれない。冒頭で「ちょっとの違い」にこだわった中野の態度に今日性を見出そうとする柄谷の問題提起が精細を放っている。大江もそれを受けて「そういう細部に引きつけられて、まず彼の詩集を読み、彼の小説を読んできた」と応じる。全体をとおして中野の再評価を促すような対話で、実際、私も中野に関する関心を呼び起こされた。

《戦後の文学の認識と方法》では、柄谷が文学批評家としてスタートしたことの背景から始まって、日本の戦後文学をめぐる危機感を共有しあう対話が展開される。それは世界的な視野をもった大きな問題意識に支えられた議論であることはいうまでもない。
 柄谷が批評家として出発した当時を回想する発言が興味深い。

 僕にとって、批評とは、思考することと存在することの乖離そのものを見ることでした。といっても、それは抽象的な問題ではなく、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものからは不可避的に抜け落ちてしまう何かです。逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。(p71)

 それに対して、大江は哲学と文学の間を橋渡しするような柄谷の仕事に敬意をはらいつつも、そのほかの批評家全般に対しては批判的だ。いわく「日本の批評家は、日本語と固有名詞に全面的に寄りかかっている。あるいはそれを手がかりにしていて、日本語と切り離すと普遍的な問題は出てこないのみならず、なにひとつ進まないという仕事をずっとしてきたのじゃないか」。

 柄谷はそれに関連して、日本文学がもっぱら「美的対象」として海外に受容されていることに言及する。「西洋人が、小説家を選んで翻訳し、紹介したとしても、それが美的対象としてであるならば、だめなんだと思います」。

 大江がそれを受けて、中上健次でさえ海外では美的対象の枠内で読まれていることを指摘しているのには考えさせられた。「戦後文学は普遍的なものを目指したが、日本の中にとどまってしまった」と大江はいう。

 そこで、日本文学が陥っている窪みというか、下降傾向を全面的に押し返すような若い作家の仕事が欲しいと思うんです。それも、これから出てくる新人に期待するというのじゃ遅い。今仕事をしている人たちも力を込めて大きい仕事をするということでなきゃ達成されないと思う。(p130)

 大江のノーベル賞受賞講演「あいまいな日本の私」をベースに語り合った《世界と日本と日本人》では、 文字どおり「あいまい(ambiguous)」をキーワードに日本文学のあり方を構想する。

「ambiguous」に対しては「ambivalent」が対置されているのだが、その話はいささか複雑なので、ここで詳しく要約することは控えよう。

 いずれにせよ、大江は「あいまい=両義性」の価値を山口昌男から教えられたという。人間の心の浅い層では二つの極に引き裂かれたあり方はよくないけれど、「深い層では、両義的ということがなければ、人間も国家も成立しないという気持ちももっています」。

 柄谷はそうした両義性を「ユーモア」と関連づけているのがおもしろい。人間存在の両義性を見いだしたこと自体は歴史的な認識だが、それがユーモアにつながるのだ、と。

 ミラン・クンデラを引用した大江のフォローもなかなか良い。

 小説はそういう両義性を発見するが、両義性を一つの意味に整理することは必要ではなく、両義性の間で揺れている、ひもの上で芸をしているんです。それは恐ろしいことですし、悲惨なことですけれども、同時に、笑いも誘う。(p149)

 途中気になったのは、大江が小説というジャンルの終焉を意識した発言をしていること。それには柄谷も同様の思いを口にしている。さらに八〇年代後半に「終わり」ということが個々人の問題とは別に出てきたのではないかと話を一般化しているのだ。
 この種の話にはあまり乗れないなぁと思いつつ読み進めていくと、後半に向かうにつれ、いつのまにかそうした認識は後景に退き、文学の復興を目指す言葉に熱を帯びてくる。二人の大御所による「文学の終わり」という発言もまた「ambiguous」な意味合いを含んでいるのだろう。
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by syunpo | 2018-08-08 19:02 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

噛み締めるほどに甘くなってゆく!?〜『絶望キャラメル』

●島田雅彦著『絶望キャラメル』/河出書房新社/2018年6月発行

b0072887_18531824.jpg 青春小説でデビューした島田雅彦が三十五年ぶりに青春小説にかえってきた。大企業にスポイルされつつある疲弊した地方都市を舞台に繰り広げられる若者たちのささやかな冒険譚。そこに地方の活性化・町おこしが重ね合わされている。

 物語の舞台となるのは架空の都市・葦原。本能寺なる寂れた寺に一人の男が寺の住職としてやってくる。江川放念。般若心経のTシャツに革ジャン、ジーパンにウエスタンブーツを履いた不思議ないでたちの僧侶。若者が夢や希望を抱けない現状に愕然とした彼は、若い埋もれた人材こそが町を救うはずだと考え、原石発掘プロジェクトなるものを開始する。

 河原で石投げをしている地肩の強そうな黒木鷹。天性の美貌をもった青山藍。葦原高校一の秀才で微生物オタクの白土冴子。そして凡人ながら町の情報に精通している緑川夢二。
 鷹は甲子園へ。藍はアイドルに。冴子は研究者の道を。そして夢二は……。名前に四つの色が込められたカルテットが文字どおり自分たちの色を輝かせていく過程を調子良く描きだしていく。

 四人の若者が織りなす青春群像。そこに島田は現代のさまざまな病理的現象をからませる。地方行政と企業との癒着。芸能界におけるブラックなアイドル管理。大学における研究者ヒエラルキーの封建性。……などなど。いってみれば、若者と大人という対立軸のみならず、地方都市と東京、地域のエコロジーと資本主義などの種々の対立がからみあってくるのだ。

 前市長として市政を食い物にする人物が武中塀蔵という名だったり、野球コーチとなる黒原清人は清原和博を想起させる大阪人だったりと、実在の人物をパロディ化・戯画化したようなキャラクターも登場し、島田らしい諷刺精神も随所に発揮されている。

 野球の試合の描写には少しぎこちない箇所も見受けられるが、ウンコちびりそうになりながら力投する鷹のすがたはとりわけ印象的。冴子がそんな鷹に「ため息ボール」を伝授したりするのもおもしろい。

 ──絶望は噛み締めるほどに甘くなってゆく。絶望から希望へ。さほどの深味は感じられないけれど、混迷の時代における一服の清涼剤のような青春小説であるといっておこう。
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by syunpo | 2018-08-02 18:55 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

小説仕立ての国家論〜『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』

●高橋源一郎著『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』/集英社/2017年12月発行

b0072887_1944437.jpg 子どもたちが「くに」をつくる。国ではなく「くに」。
 くにづくりに参加する四人の子どもたちはそれぞれ個性的だ。本をたくさん読んでいて頭のいいアッちゃん。マインクラフトというゲームが好きなユウジシャチョー。食べるのが好きで太っているリョウマ。そしてランちゃんと呼ばれている語り手のぼく。

 どうすれば「くに」を作ることができるのか。だれでもつくれるものなのか。くにのつくり方なんか、どこにも書いてない。とりあえずモンテヴィデオ条約やらアメリカ建国宣言やら、いろいろなものが参照される。

 彼らを見守る先生(学校では「おとな」と呼ばれている)は子どもたちに比べるとやや類型化されている。肝太先生はカント、理想先生はルソーを想起させる人物だ。

 くにについて学び、議論し、手足を動かす。くにを作っていくプロセスがそのまま彼らの学びにつながっていく。折に触れて、先生たちは子どもたちのアイデアにゴーサインを出したり、ヒントになるような簡単な助言をしたり。

 とりあえずくにの名を「名前のないくに(仮)」と決めて、ネットにくにづくりの様子をアップしたあたりから事態が動き始める。「名前のないくに(仮)」に関心を抱いたアイちゃんという女の子からリアクションがとどいた。いつか「こく民」になりたいという。何度かネット上でやりとりしているうちに、子どもたちはアイちゃんから招待を受ける。「わたしの家に遊びにきませんか?」

 アイちゃんの家のおとうさんは伝統的な職業に就いているようだが、詳細はわからない。子どもたちはランちゃんのおとうさんと一緒にでかけていく。そこは都心の真ん中にあるとは思えない森に囲まれた広い家だった。

 気がついたらランちゃんは広い家のなかでひとりになっていた。広い部屋の中にはずらっと書棚が並んでいる。アイちゃんの家の「図書館」の奥で出会ったのは、裸の男のひと。関西弁で話すその男のひとは顕微鏡で粘菌を観察したりしている。南方熊楠を思わせる愉快なおとなである。

「本を読まねば、世界のことはわからん。だがな、少年。本を読むこともたいせつやが、戦うことはもっとたいせつや」という。そうしてキャラメルの箱をくれる。その男は気に入った人にだけキャラメルの箱をあげるらしい。それが何を意味するのかはわからないのだけれど……。

 たった一つのキャラメルの箱なのに、それは、あらゆることを教えてくれているような気がした。このキャラメルの箱の秘密がわかったら、そのときには、世界の秘密もわかるのかもしれない。……ランちゃんはそう思うのだ。

 それから一週間後、ランちゃんたちは「建国のことば」を発表した。そして、ある国から「名前のないくに(仮)」と国交を結びたいとの連絡が入る……。

 本書は小説仕立ての国家論であり教育論であるといえる。ヴォルテールやルソーが得意とした「小説的社会批評」の二一世紀版ともいえようか。
 通常の学校からドロップアップした子どもたちによる、くにづくりのプロジェクト。皇室を思わせるアイちゃん一家との交流。そのようなお話に託して高橋源一郎は国家や教育のあり方を考えようとするのである。もちろん全体としてはもっと多様な読みに開かれていることは付け加えておくべきだろう。

 高橋は〈あとがき〉で吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』に言及している。小説にしては、ちょっと説明が多すぎないか。そう思ってしまうのは、「小説(あるいは文学)というものが、だんだん狭く、ちいさいものになってきたから」なのかもしれないとの考えが本書に反映されていることは間違いない。

 狭く、ちいさいものになってしまった小説をもっともっと広く開かれたものにしたいという高橋の考えが本作において成功しているのかどうか、私には確言できない。しかし国家や憲法について考えようとする小説家が今の時代に存在することの意義はけっして小さくないと私は思う。
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by syunpo | 2018-06-09 19:48 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

〈独創〉信仰からの解放を〜『あらゆる小説は模倣である。』

●清水良典著『あらゆる小説は模倣である。』/幻冬舎/2012年7月発行

b0072887_1050595.jpg 模倣の肯定とオリジナリティへの疑い。これが本書を貫く基本姿勢である。あらゆる創作活動は模倣を基本としている。文学史におけるその事実を清水良典は具体的な例を引きながら紹介していく。それはもちろん作者たちを批判したり皮肉ったりするためではない。創作とは元来そのようなものであることを示すためだ。

 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の英訳は日本国外では売られていない。アメリカの読者にはヴォネガットやブローティガンの秀作的な模倣であると見られかねないからと清水は推測している。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、一九世紀ドイツの作家E・A・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』をヒントにして書かれた作品。文化人に拾われたオス猫が文字の読み書きを覚えて書いた回想録という設定で、飼い主の周辺の日常を茶化したり、メス猫と恋をしたり、基本的なアイデアがきわめて近いという。

 吉田健一の「句読点の区切りが極端に少なく、時間が先延ばしされて人工的な別世界に誘われるような複雑な長い文体」は、その後、蓮實重彦に継承され、さらにその影響下に金井美恵子や阿部和重らに受け継がれていった。

 パクリの名人として名指しされるのは寺山修司。「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の有名な句は、以下の三つの俳句を巧みに組み合わせたものだと堂本正樹は指摘している。

 夜の湖あゝ白い手に燐寸の火(西東三鬼)
 一本のマッチをすれば湖は霧(宮澤赤黄男)
 めつむれば祖国は蒼き海の上(宮澤赤黄男)

 その事実を確認したうえで、清水は「寺山の歌の調べの洗練度、インパクト、そして敗戦後の日本のニヒリズムを宿したダイナミックなドラマ性は、元の俳句にはないものだ」と称賛することを忘れない。作業行程はパッチワークであったとしても、結果的にみごとな作品に生まれ変わっているというわけだ。

 もっとも著作権という概念が浸透した現代では、創作活動において模倣やパクリが明らかになるとしばしば各方面からバッシングを受ける。そうした現象の背景にあるのは独創性やオリジナリティこそが芸術や文学の核心を成すという認識であることはいうまでもない。

 しかし、そのような考え方はいわば歴史的に形成されてきたものにすぎない。独創性や個性を過剰に重んじる風潮は人類普遍のものではないのだ。清水はそれをロマン主義の残滓とみなす。「自分の考えるようなことは他の誰かも考えていること」なのだと自覚することはべつに卑下でも何でもない。それが現実であることを知ることから出発すべきなのである、という。それはとりもなおさず二世紀近くも君臨しているロマン主義の呪縛から解放されることもである。

 それにしても、かつてのニュー・アカデミズムを賑わした人物が多く引用されているのは、何やら懐かしいような気がする。ソシュールやロラン・バルト、ベンヤミン、ボードリヤール、クリステヴァ……。
 ボードリヤールのシミュラークル理論を引いて、次のように述べているくだりは本書のスタンスを端的に表明するものである。

 小説は多かれ少なかれ、先行する小説を参照し、それをシミュレートして書かれる。それは作家の才能が足りないわけでも、卑怯なズルをしているわけでもない。小説というシミュレーションの連鎖の文化のなかで、宿命づけられてきた本来の方法なのである。(p137)

 むろんシミュラークル的な傾向はニューアカの時代からさらに進展していきている。「おたく」や「やおい」の二次創作に紙幅が費やされているのも、模倣の可能性の先鋭的な一例として認識されているからにほかならない。

 そこで重要になってくるのは「パクリを忌避するよりも、むしろ密猟者の自覚と技術の練磨をこそ、書き手は目指すべき」だということなのである。模倣とは、自分の創造の可能性を無限大にする力に他ならない。

 最終章では〈模倣実践創作講座〉と題して様々な課題が提示されている。こちらの方はいささか野暮ったい感じがして、私にはさほど面白みは感じられなかったが、もともと文章教室的な著作が多い著者のことであるから、こうしたチャプターはどうしても外せなかったのだろう。
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by syunpo | 2018-04-28 10:53 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

悪人の心には情を、絶望する者には希望を〜『深読み日本文学』

●島田雅彦著『深読み日本文学』/集英社インターナショナル/2017年12月発行

b0072887_19244568.jpg 文学とは実学である。エセ文学的な「言葉の悪用」をする人たちを批判するのが、文学の本来の役割である。文学は神話という最も古い形式から出発して、焼き直しを繰り返しながら時代状況に沿ったアレンジを重ねてきた。……様々なアングルから文学に光を当て、その特長を言挙げすることから島田雅彦は始める。期待感を抱かせるに充分な序章。結論的にいえば最後まで私を愉しませてくれた本である。近頃出た文学論のなかでは出色の面白さといっていい。

 日本文化の伝統を支える概念を決定づけた作品として最初に取り上げるのは『源氏物語』である。その概念とは「色好み」。日本式求愛の流儀と呼ぶべき様々な恋愛パターンを網羅して「ジャパニーズ・ドン・ファン」の生涯を描いた作品として読み込んでいく。
 もっともドン・ファンがあらゆる世界に「敵意」をばら撒くのに対し、光源氏は「友愛」を運ぶ点に決定的な相違を見出す。それは狩猟民的態度と農耕民的態度の差異と捉えることも可能だというのが島田の見立てである。

 江戸文学を再評価するにあたって導入するキャッチコピーは「ヘタレの愉楽」。それは「色好み」の伝統が江戸期の町人によって受け継がれたスタイルとみなすことができる。
 井原西鶴の『好色一代男』は、世之介というデタラメな男の生遍歴を描いた、源氏物語のパロディである。『曾根崎心中』などで知られる近松門左衛門は心中を様式美にまで高めた作家といえる。彼らの作品はいずれも大衆小説であり、島田は「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」であるライトノベルの原型をそこに見出している。「サブカルチャーのルーツこそ、江戸文化にあると私は考えています」。

 近代日本の代表的作家として本書に登場するのは夏目漱石。
 日本近代文学を解読することはすなわち、日本人の精神分析をすることに直結するという認識は『日本精神分析』などで示されている柄谷行人の批評スタンスからの影響を読み取れる。また漱石と写生文との関係をめぐる批評的論考は、同じく柄谷の『漱石論集成』を下敷きにしたものだと思われる。
 漱石の『こころ』に関しては、ヴィクトール・フランクルの「態度価値」を引用した姜尚中の読みを紹介している。先行研究をいくつも参照している点では、オビにある「常識を揺るがす新しい読み方」というコピーはいささか怪しくなるのだが、それはおそらく編集者の仕業だろうから、島田に罪はないと考えておく。いずれにせよここでは道徳的で凡庸な読解は片隅に追いやられていることは確かである。

 樋口一葉は「少女文学の元祖」として読者の前に立ち現れる。今風に言えば「ガールズトーク」から生まれたような清少納言の『枕草子』以来の伝統を継承し、それを「一流の文学にまで昇華させた」実例として一葉が読まれるのである。彼女の文体は基本的には文語体だが、同時代の男性作家に比べると「非常に自然かつ軽やかな文章」であるところに特長がある。しかも現代に通じる社会性を持っている。それは文学史上の一つの「奇跡」ともいえよう。

「スケベの栄光」を文学の分野で輝かせている第一人者として、当然ながら谷崎潤一郎が召喚される。「自分は変態だという自覚をベースに、日本の『色好みの伝統』と『西洋の性にまつわる最新の科学的・文学的知見』をいいとこ取りして文学化した」というのが島田の見解である。
 もう一つ興味深いのは「戦争といっさい関わりを持たない」ことを指摘している点。谷崎は戦争の時代には出番がなかった。遠くに空襲の火の手が上がるのを眺めながら『細雪』を書き、『源氏物語』の現代語訳に勤しんでいたのだ。それはそれで一つの文学者のあり方を見事に示しているのではないか。

 人類の麻疹としてのナショナリズムを文学史のうえで吟味する。そこで参照するのは、志賀重昂『日本風景論』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』の四冊。いずれも後世の日本論の思想的な土台となった作品といえる。
 志賀の本は文字どおり日本の風景を再発見したもので「素晴らしい風景や自然風土があるがゆえに、日本は素晴らしいのだ」というナショナリズムは今日のそれに真っ直ぐ継承されているものだろう。内村の著作は日本の優れた人材を取り上げることで、日本人のプライドを高めることに寄与したという。『武士道』は日本人の道徳意識を高め、それを他国に知らしめたことでナショナリズム形成に大きな影響を与えた。『茶の本』は日本人の美意識や感受性を海外に向けて発信した作品であり、そうした文化的プレゼンスもまたナショナルプライドにとって大きな役割を果たしたのであった。

 戦後の文学は「焼け野原の中で、どう生きていけばいいのか」を問いかける作品、もしくは「戦争に従軍し、帰還した元兵士たちの体験録」として始まった。さらに「アメリカの統治下における文学」がある。
 太宰治や坂口安吾の作品が俎上に載せられるが、私がおもしろく感じたのは小島信夫の『アメリカン・スクール』の読みである。アメリカン・スクールの見学を許された英語教師たちの話であるが、この作品における「英語」を「日米安保」に置き換えることで現代日本の様相を見ようとする読解はなるほど「深読み」の標題に適ったものだろう。

〈遊歩者たちの目〉とサブタイトルにふった章では、物語の舞台となる「場所」に焦点をあわせる。漱石の『三四郎』をとっかかりに、武蔵野を描いた大岡昇平『武蔵野夫人』や中上健次の紀州サーガなどに着目。とりわけ中上が描いた一連の「路地」文学を「リアルなファンタジー」と位置づける読みはあらためてこの作家への関心を掻き立てる。

 現代文学を読み解く補助線として、世代や経済、階級に注目する論考も興味深い。とくに、戦後に新しく現れた階級として「主婦」と「学生」に注目し、そこに現代文学の特徴を見出しているのは慧眼であろう。現代文学が学生と主婦を読者層として想定したことは、社会背景として無視できない要素であると私も思う。

 最後にテクノロジーと文学の関係を探る。もちろん人工知能が重要なファクターとなる。人工知能が最も得意とするのはエンタテインメントだという島田の見方は賛同できる。大多数を相手にするエンタテインメント作品は約束事が多いので、人工知能もそのノウハウを学習しやすい。では、純文学に対しては今後いかなる影響を与えることになるのだろうか──?

 むろんその問いかけ以前に、本書で示された読みの企てがこれまでに書かれてきた文学にあらためて向かっていくうえでの道標になることはいうまでもない。

 文学とは時に不徳を極めた者を嘲笑うジャンルであり、権力による洗脳を免れる予防薬であり、そして、求愛の道具でもあった。文学は好奇心を鍛え、逆境を生き抜く力を与え続けてきた。文学は路傍に咲く一輪の花のように、悪人の心には情を、絶望する者には希望をもたらすものゆえ、非道な時代にこそ必要とされてきた。バラ色の未来が期待できない今日、忘れられた文学を繙き、その内奥に刻まれた文豪たちのメッセージを深読みすれば、怖いものなどなくなる。(p229〜230)
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by syunpo | 2018-04-19 19:38 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

翻訳者とは幽霊のようなもの!?〜『8歳から80歳までの世界文学入門』

●沼野充義編著『8歳から80歳までの世界文学入門 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義4』/光文社/2016年8月発行

b0072887_844764.jpg ロシア・ポーランド文学の研究者として知られる沼野充義がホスト役をつとめる「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義」シリーズの第四弾。『世界は文学でできている』『やっぱり世界は文学でできている』『それでも世界は文学でできている』につづくものである。

 今回のゲストは、池澤夏樹、小川洋子、青山南、岸本佐知子、マイケル・エメリックの五人。
 私にはいささか退屈な対話がつづいたなかで、最後に収められているマイケル・エメリックの発言がもっとも面白く感じられた。エメリックは日本の現代文学の翻訳や源氏物語の研究で知られるジャパノロジストである。

「翻訳者というのは二つの世界に属しながら、どちらにも完全には属していない幽霊のようなもの」とエメリックは考える。それは「異文化間の架け橋」というありふれた認識を斥けるものである。翻訳者=幽霊説には大いに惹かれるところがあるのだが、沼野はあくまでも「足がついていないとちょっと困る」という自説に拘泥してしまって、それ以上議論を深めることなく別の話題にうつってしまったのはちと残念。

 マイケル・エメリックには日本語の著作は少ないようだが、彼の存在に関心をもつ契機を与えてくれただけでも本書を手にとった甲斐があったというべきだろう。
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by syunpo | 2017-08-05 08:45 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

在所を拝むように想う〜『若狭がたり』

●水上勉著『若狭がたり わが「原発」撰抄』/アーツアンドクラフツ/2017年3月発行

b0072887_19551170.jpg 作家と故郷とは切っても切り離せない関係がある。人の書くものは生まれ育った土地の風土や文化から少なからぬ影響を受けるであろうことは否定しがたいから。その強固な結びつきの例としては、織田作之助&大阪、中上健次&紀州、大江健三郎&四国の山林……などなどいくつものケースが思い起こされるだろう。それに加えて、水上勉&若狭を想起する読書家も多いにちがいない。

 水上の故郷(当人は「在所」という言葉を使っている)は福井県大飯町。今では大飯原発のあることで知られるが、若狭湾一帯ではそのほかにも多くの原子力発電所が作られ「原発銀座」と呼ばれるほどになった。

 生前の水上は在所のことを書くときには必ずといっていいほど原発に言及していたらしい。らしい、というのは私自身は不勉強ゆえ同時代の読者としてそのような文章に触れる機会がなかったからである。本書は、在所と原発に関するエッセイと短編小説二篇を収録している。

 若狭の磯で、針にサナギをさしこみ釣り上げた黒鯛の大目玉とウロコの輝きをきのうのことのように思い出す。夜釣りで働く舟の灯が沖でゆれるのを見ていたら、一瞬、それが御神燈のようにみえて合掌したくなった時を追憶する……。

 ……子どもの頃に親しんだ美しい海や山にまつわるノスタルジックな感懐のなかに、原発が顔をのぞかせる水上の随想は時に詠嘆の調べになり時に憂いを含み告発的な調子をおびる。

 戦争中、岬からニッケルがとれるとかで「山を赤むけにしていた時代」がったという。多くの朝鮮人労働者が徴用されてきて、岬の裾に飯場をつくり、山を切りくずした。それから四十年後、再び原発のために山の切りくずしが始まった、と水上は書く。それが在所の話なのだから、悲観の調子になるのは当然のことだろう。

 新しい戦争がはじまっているような気がしなくもない。いつの世も辺境は国の方針で山野をけずられて生きるか。(p107)

 またチェルノブイリでの事故が水上に与えた衝撃は大きく、そこからあらためて強くなった憂慮の念が随所に表明されてもいる。事故が発生し、住民十五万人に避難命令が出たとき、どこへゆくのか、との懸念から発せられる問いかけはすぐれて具体的だ。

 海岸に一本しかない国道は、夏の海水浴客でさえ一寸きざみのパニックとなる二車線の自動車道路があるだけだ。十五万仞が一気に鍋釜、フトンを背負って列を組んだら、またたくまにパニックだろう。そのパニックをくぐりぬけて、かりに勇敢なのが山坂こえ、綾部や福知山へたどりついても、放射能まみれの若狭人を泊めてくれる家はあろうか。(p99)

 震災に関する警鐘もしっかと鳴らされている。

 ぜったいに安全だと行政はいっているが、人災にはいくら気をつけていても、地震でも起きたら、という考えも凡人ゆえにもつのである。若狭は、昭和のはじめに丹後峰山大地震があり、大きくゆれた。(p118)

 人間はどうして美しい山河を破壊してまで、後世の人々にツケを回す原発のような営みを始めてしまったのだろうか。何故私たちはそれを止めることができなかったのだろうか。
 原発が一つの政治決定の結果もたらされたものと考える時、水上の随想はいささか素朴にすぎるかもしれない。だが、原発の是非が国政選挙のレベルで大きな争点になったことは一度もなかったことを思えば、水上の姿勢をそのような観点で揶揄することはフェアではないだろう。

 水上が他界した後、〈三・一一〉を経験した私たちは、水上が執拗に問いつづけていた憂慮が現実のものとなったことを痛恨の思いで読む。それだけではない。反原発運動に参加している女性の家を訪ねると、警察と役場へ誰かが通報するという挿話が本書のなかで紹介されている。共謀罪法の恐ろしさは、権力が国民を監視すること以上に、国民が国民を監視しあう空気を醸成することにあると言ったのは内田樹だが、その前例がすでに若狭の原発銀座で現象化していたともいえよう。

 水上は「はなやぎ」ということばを好んだ。「文芸をやるということのはなやぎ」という風に。本書にみえる水上の予言的な言葉はけして「反原発」「脱原発」という単純なスローガンにおさまりきるものではない。それらは文学者の、いや、一人の人間の温もりを感じさせる肉声というべきものではないだろうか。
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by syunpo | 2017-07-06 20:05 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

人類は二度滅びる!?〜『カタストロフ・マニア』

●島田雅彦著『カタストロフ・マニア』/新潮社/2017年5月発行

b0072887_21365759.jpg 太陽のしゃっくり。コロナ質量放出が起きて、地球表面を覆った電力網、電波網は巨大な磁気嵐によって完全に破壊される。コンピュータ制御された都市インフラは壊滅し日常生活を支える機能はすべて停止してしまう。原発はメルトダウンし放射性物質が大気にばらまかれる。

 それだけではない。島田雅彦はカタストロフをより大掛かりなものにするために、そこにパンデミックを招きよせる。何者かが合成ウイルスによって感染症を大流行させたのだ。大混乱のなか、為政者や大企業経営者たちは当然に生き延びる人間たちを選ぶ。政治とテクノロジーの結託がカタストロフをさらに推し進める。本作において人類は二度滅びるのである。

 カタストロフ後の世界をいかに生き延びていくか。主人公・シマダミロクのサバイバル作戦を軸に物語は展開していく。

 ゲームをする以外に時間を持て余していたミロクはある製薬会社の治験モニターとして臨時的に雇われ「免疫力を著しく高める薬」を投与される。二十四時間の「冬眠」生活から覚めた時、病院はもぬけの殻になっていた。眠っているあいだに世界はカタストロフの局面に突入していたのだ。かくしてミロクは暗中模索のうちに期せずしてサバイバル作戦を開始することになる──。

 商店や民家に残された食糧や生活物資が略奪され底をつくと、あとは自然界から採集してくるか自力で生産していくか。人々は近代以前の人類史をたどるようにして生活を再建していくほかない。そのような原始的な状況下で、無政府状態から小集団が形成され、人々が協同していく様はレベッカ・ソルニットのいう「災害ユートピア」を想起させるものがある。

 ……古代のムラのような集落を作り、小集団で分業をしながら、暮らすのが現時点では最も現実的です。もう一度、古代の暮らしに戻るのは大変ですが、産業文明とそれに続く情報文明に馴らされ、すっかり退化してしまった生存本能と能力を取り戻すしかありません。人類はリハビリテーションの時代に入ったのです。(p131)

 パンデミックをめぐる錯綜した状況は、やがてある特定の権力集団の存在への対抗という形で収斂されていくかにみえるが、むろん簡単には「敵」の姿を見定めることはできない。

 ミロクは病院で出会った看護師・国枝すずの存在に惹かれるものを感じて、彼女への執着心をよすがに生きていこうとしている。高校生の天才ハッカー菊千代や元週刊誌記者のモロボシダンなどとの遭遇もあり、ミロクは彼らにも影響される。
 ネットは遮断されたままだが、ラジオや無線通信での情報伝達は可能というアイロニカルな状況設定は島田の諷刺精神の面目躍如といったところか。短波放送から聞こえてくるエオマイアの声もまたミロクの心を癒し、少なからぬ示唆を与えてくれる。

 生物学や先史考古学、脳科学など先端科学の知見を動員して紡ぎ出される物語は、時に昨今流行のディストピア小説の作りと被るところがある。また最終盤の展開がややありきたりの印象なきにしもあらずだが、全体的には島田らしいスパイスのきいた筆致でおもしろく読むことができた。

 政治の無力に触れている点では本作は〈ポスト3・11小説〉の一つといえるが、政治の陰謀や悪意に言及しているという点を重視するなら〈プレ共謀罪国家小説〉と呼べるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-18 21:40 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

透明な膜が俺たちを包む〜『ビニール傘』

●岸政彦著『ビニール傘』/新潮社/2017年1月発行

b0072887_2036829.jpg『断片的なものの社会学』で話題を集めた社会学者の初の小説集。芥川賞の候補にもなった表題作に加えてもう一篇〈背中の月〉を収録している。鈴木育郎の撮った街の写真をふんだんに使って何とか一冊の本にしたという印象なきにしもあらずだが、ふだん小説を読まない人にも手にとってもらいやすい雰囲気をつくりだしているともいえるだろうか。

〈ビニール傘〉は大阪の片隅に住む若者たちの群像を複数の視点から描き出す。タクシー・ドライバーの男、ビルの清掃作業員、コンビニ店員、部品工場で働く派遣社員、解体屋の飯場で働く男……。視点が矢継ぎ早に切り換わっていくスタイルはやはり断片的ともいえる。が、読みすすむうちに彼らと交流のある女性は相互に関係しあい、あるいは人物そのものが重なっているかもしれないという図柄が浮かびあがってくる。あえて明瞭に描かない暈した書き方をしているのは最初から作者が意図したものであるだろう。

 沈滞する大阪を慈しむような岸の筆致には共感するし、大阪弁の会話も楽しい。困難な今を生きようとする若者たちのすがたにもある種のリアリティを感じることはできる。これが文学作品として傑作かと問われれば答えに困るかもしれないけれど、読者の想像力にゆだねる余地をいくつも残しているという点では当然のことながら『断片的なものの社会学』にもまして良い意味で文学的である。

〈背中の月〉は妻をなくした男の心象風景を描いていて表題作に比べるとシンプルな構成を採っている。全体的にやや感傷的な雰囲気が支配していて私はあまり好きになれなかったが、夫婦の何気ない会話などに作者一流のさりげないヒューモアやペーソスが宿っていて捨てがたい味わいがあることも確かだと思う。
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by syunpo | 2017-03-29 20:50 | 文学(小説・批評) | Comments(0)