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カテゴリ:文学(翻訳)( 41 )

ノーベル賞候補作家初の短編集〜『天使エスメラルダ』

●ドン・デリーロ著『天使エスメラルダ 9つの物語』(柴田元幸、上岡伸雄、都甲幸治、高吉一郎訳)/新潮社/2013年5月発行

b0072887_09221903.jpg ドン・デリーロ初めての短編集。『ポイント・オメガ』を読んでもっと他の作品にも触れてみたいと思い、ほぼ同時期に原著が刊行された本書を手にとってみた。

 多様な題材の作品が収められているが、デリーロの作風というかスタイルにある傾向を見てとることができたのは収穫。強く印象づけられたのは、作中の登場人物が偶然見かけた人間の人となりや家族構成などを具体的に想像(というより妄想に近い)する場面が度々出てくること。

〈ランナー〉では、公園で子供が拉致される場面に出くわした女性が犯人は離婚後の父親であると決めつける。親権を持っている母親から子供を奪ったというわけである。
〈ドストエフスキーの深夜〉においては、学生二人が街中で見た老人の生活ぶりを詳細に語り合う様子が作品の重要な要素になっている。
『ポイント・オメガ』でも、展覧会場で語り手の人物が男性二人組の関係について想像をたくましくするくだりが印象的だった。

 デリーロ自身はインタビューの中で「私はやったことはありませんが、異質な誰かの人生を再創造したがる人たちのことはたやすく想像できます」と語っている。
 まさに小説における人物造型の欲望やプロセスが作中人物の対話や想像という形をとおして、自己言及的に叙述されているようにも読める。

 またビジュアル作品をとおして主人公たちが一つの啓示を得たり、高次の境地に至るのもデリーロ作品の一つのパターンといえそうだ。

〈バーダー=マインホフ〉では、ドイツ赤軍のメンバーの死を描いた絵画を見た女性が、画面を何度も観ているうちに十字架が浮かび上がるのを感知して、テロリストたちも許され得ると感じる境地に達する。
『ポイント・オメガ』でも、映像作品を繰り返し鑑賞する「匿名の人物」がそこから得られた霊感のようなものを延々と述懐していたものだ。そうした描写からは、デリーロ自身の映像に対する独特のセンスを感受できる。

 そのほかの作品では、表題作〈天使エスメラルダ〉が不思議な魅力を発している。荒廃したスラム街で不幸な殺人事件が起きた後に出現する奇跡を描いたもので、年老いた修道女の揺るぎない使命感が印象的だ。都甲幸治は「宗教とは違う形での信仰」と解説しているけれど、私にはこれこそ宗教の信仰そのものを文学的に表現したものという感じがする。無論それは最大級の褒め言葉である。

〈第三次世界大戦における人間的瞬間〉は、宇宙船から戦争中の地球を眺める二人の飛行士のやりとりを綴った風変わりな掌編。船内の高度なテクノロジーの描写が淡々とつづく中で、突然、半世紀も前のラジオ放送を受信する場面が入りこんでくる。それは確かに一つの「人間的瞬間」だった。

 ギリシャで暮らす外国人の男女が大地震とその後に続く余震の中で生きる恐怖と不安を描き出した〈象牙のアクロバット〉も佳品。「大地」を一つのキーワードにしている点では、クライストの《チリの地震》を想起させて興味深く読んだ。

 都甲のあとがきによると、デリーロ作品は日本ではかつて何冊も翻訳書が刊行されたが、絶版になったものが多いという。毎年ノーベル賞候補に名前が挙がっている作家にしては淋しい話である。

by syunpo | 2019-06-15 19:10 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

モダンアートと砂漠をつなぐ言葉〜『ポイント・オメガ』

●ドン・デリーロ著『ポイント・オメガ』(都甲幸治訳)/水声社/2019年1月発行

b0072887_09205225.jpg とある美術館の暗闇の中、超低速で映し出される映像。それを見つめ続ける「匿名」の人物。小説はその場面の描写から始まる。それはヒッチコックの『サイコ』を二十四時間にまで引き延ばした、ダグラス・ゴードンの《二十四時間サイコ》で、実際にニューヨーク近代美術館に展示されたビデオ作品である。

 読者を幻惑するようなモダンアートの空間から、一転して舞台は荒涼たる砂漠が広がるサンディエゴへと移る。

 ブッシュ政権のイラク戦争にブレーンとして関与したリチャード・エルスター。職を解かれた後「報道と交通による吐き気」から体を取り戻すために、誰もいない砂漠の家にやってきたのだ。そんな彼のインタビューをもとに記録映画を撮ろうとしているジム・フィンリー。しかしカメラを回せないまま、長い時間が過ぎていく……。

 戦争、記憶、意識、宇宙をめぐって続けられる対話。奇妙で晦渋な言葉のやりとり。

 エルスターは俳句について語り、ズコフスキーやパウンドの詩を時に声を出して読み、テイヤール・ド・シャルダンの唱えた「オメガ・ポイント」仮説を口にする。
「我々は生物学の領域から飛び出すんだ。自分に問いかけてみたらいい。我々は永遠に人類じゃなきゃならないのかって。意識なんてもう干上がってしまった。今や無機質に還るんだ。我々はそうしたいのさ。野原の石ころになりたいんだ」。

 エルスターの娘、ジェシーが途中から男二人の前に現れる。彼女はある男に付きまとわれて、ニューヨークから避難してきたのだ。三人の奇妙な日々がしばらく続いた後、エルスターとジムが町まで買物に行き帰ってきたときにはジェシーの姿はなかった。

 次第に焦燥感を募らせ、弱っていくエルスター。かつて、多くの死者を出した戦場に若者を駆り出した人間が、一人の娘の失踪に心身をすり減らしていく。人間という名の矛盾した存在。それを露骨に体現する元エリートを読者は蔑むべきなのか。あるいは人間とはなべてそのようなものだと諦念すべきなのか。

 喧騒と交通から遠く離れた砂漠で宇宙の運命までを夢想する一人の男。美術館の暗闇の中で映像を凝視し続ける匿名の人物。構成はシンプルだが、作中に仕掛けられた思索への契機は幾重にも広げられている。

 私にはいささか難解な作品であるけれど、デリーロの研ぎ澄まされた文章に摩訶不思議な魅力を感じたことも確かである。

by syunpo | 2019-06-04 19:30 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

世代から世代へ育まれた珠玉の言葉〜『誰も知らない世界のことわざ』

●エラ・フランシス・サンダース著『誰も知らない世界のことわざ』(前田まゆみ訳)/創元社/2016年10月発行

b0072887_1912452.jpg 同じ著者による世界的ベストセラー『翻訳できない世界のことば』の姉妹編ともいうべき本。本書は世界中からユニークなことわざを集めたもので、世界各地の言語表現への熱い関心を示している点では前著とコンセプトは共通する。著者自身のイラストを添えた親しみやすい編集スタイルもそのまま踏襲している。

 ことわざにはその言語を話す人々に共通の世界観なり人間観なりが端的に表現されているものだ。一定の時間をくぐりぬけて現代に伝わってきているものだから、短い言葉のなかにキラリと光る世界の真実の一面を端的に言い表わしているともいえるだろう。もちろん互いに矛盾するようなことわざの組合せも少なくないけれど、それはそれで世界の多面性を反映しているとも考えられる。

〈カラスが飛び立ち、梨が落ちる〉という韓国語のことわざは、いかにも関係がありそうな二つのことがらの間に必ずしも因果関係があるわけではないことを表現したもの。人間には、おしなべて意味のない情報から意味のあるパターンを見出そうとする傾向があると著者はいう。

 ポルトガルに伝わる〈ロバにスポンジケーキ〉は、日本や英語圏なら「豚に真珠」に相当する。それを得るに値しない人に何かを与えることの無意味さについては、古来、各地においてざまざまな比喩でもって表現されてきたようである。

〈目から遠ざかれば、心からも〉は「去る者は日々に疎し」のヘブライ語版。〈ある日はハチミツ、ある日はタマネギ〉は「勝つこともあれば負けることもある」というアラビア語の古諺で、英語の “You win some, you lose some” にあたる。

〈水を持ってきてくれる人はそのいれものをこわす人でもある〉はガー語のことわざ。「ガー」はガーナの一部族とその言語の名称である。遠い所へ水を汲みに行く人は、それゆえに水を入れる器を最も壊しがちであるということを述べたものだ。すなわち、何かを成し遂げようと努力してその最中にうっかりミスをしてしまってもその人を批判すべきでない、という含意がこめられている。

 ヒンディー語のことわざ〈水が半分しか入っていない壺のほうが水がよくはねる〉は「本当の知識を持っていない人に限って、必要以上の大声で語り、飛び回り、また腕を大きく動かしておおげさな身ぶり手ぶりをする」という意味をあらわす。本邦の政治家の言動をみているとなるほど真実の一面をついているのではないかと思う。

〈一輪の花だけが春をつくるのではない〉というアルーマニア語の表現は「たとえ重要そうに見えても、ひとつの現象だけでは全体を判断できない」ことを教えるものである。情報化社会の現代にいっそう当てはまりそうな箴言といえようか。

 本書を読むと、世界には様々な言い回しの妙があることを知ると同時に、表現は異なっていても同じような人生訓や世界観を人類は共有しているのだなとも感じる。ちなみに数ある日本語のことわざから選ばれたのは〈サルも木から落ちる〉〈猫をかぶる〉の二つ。

 強いて本書の難をいえば、アフリカ系言語からの選択が少ないことだろうか。ツイッターなどで見かけるアフリカのことわざにはユニークで面白いものが多いので本書にも期待したのだが、その点はやや残念な構成。さらに、それぞれのことわざに付けられた著者のコメントがいささか野暮ったい感じがした。もちろんそれらの点を差し引いても楽しく読める本には違いない。
by syunpo | 2017-11-16 19:07 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

「規則」を守る安心、慣れていく危険〜『茶色の朝』

●フランク・パヴロフ著『茶色の朝』(藤本一勇訳)/大月書店/2003年12月発行

b0072887_18501348.jpg 著者のフランク・パヴロフはフランスとブルガリアの二重国籍をもつ心理学者・人権活動家。ジャン=マリー・ルペン率いる極右政党・国民戦線の台頭に危機感をおぼえ、強い抗議の意思表示として本作を書いたという。

 内容はいたってシンプルな寓話である。最初に茶色以外のペットを飼うことを禁じる法律ができる。語り手の俺と友人シャルリーは、そのために飼っていた犬や猫を安楽死処分したことをコーヒーを飲みながら話しているシーンから本作は始まる。犬を処分した友人に対して俺は「きっと彼は正しいのだろう」と思う。

 それからしばらくして「茶色新報」以外の新聞が発禁になる。犬や猫という単語を出す場合には茶色という言葉をくっつけなければならない。それに反する出版社の本は強制撤去を命じられた。

 そうして二人は当然のように茶色の犬や猫を飼うようになった。茶色のペットたちと同じ部屋でチャンピオンズカップの決勝戦を見る。それは「すごく快適な時間」だった。こうして俺は「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考える。

 ところが、次には過去に茶色以外の犬や猫を飼っていた行為も違法と認定されることになった。シャルリーは自警団に連行される。「前に飼っていただけで違法になるなら、俺も自警団のいい餌食だ」……こうして次第に状況はエスカレートしていき、ついには、俺の部屋のドアをたたく音が聞こえて……。

 すべてが「茶色」になっていく社会。その進展が淡々と描かれていく。俺もシャルリーも最後まで抵抗らしき抵抗を示すことはない。本文には「全体主義」や「ファシズム」という言葉は一度たりとも出てこない。そうしたことがいっそう全体主義化が進みゆくときの恐ろしさを暗示しているともいえるだろう。

 本書の巻末にメッセージを寄せている高橋哲哉によれば、茶色はフランス人にとって、ナチスを連想させる色なのだという。ナチス党は初期に茶色(褐色)のシャツを制服として採用していたからだ。そのイメージは今日にも受け継がれ、さらに拡張されて、ファシズムや全体主義などと親和性をもつ「極右」を連想させる色になっているらしい。

 この物語が書かれたのは一九九八年。日本版の刊行は二〇〇三年である。 その後、日本では本書に相似する事態がひたひたと進行し、しかもそれに抗おうとするリベラル勢力への冷笑的態度もまたインテリ層を含めて強くなってきている。フランスでの刊行当時以上に現代ニッポンで切実な意義を帯び始めた本といえるかもしれない。政治的なモチベーションが先行したためか内容にさほどの深みは感じられない寓話ではあるが、全体主義の基本的な様相を知るうえでは参考になる一冊ではないかと思う。

 なお日本版では、ヴィンセント・ギャロの挿絵一四点が添えられていて、高橋哲哉による〈メッセージ〉ともども日本のみのオリジナル編集になっている。
by syunpo | 2017-11-07 19:00 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

ナチス占領下で作られた詩集の本邦初訳〜『世界』

●チェスワフ・ミウォシュ著『世界 ポエマ・ナイヴネ』(つかだみちこ、石原耒訳)/港の人/2015年9月発行

b0072887_21381138.jpg ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩集。たいした予備知識もなく一読したかぎりでは、この詩集がナチス占領下のワルシャワで発行されたことを感じとるのはむずかしいかもしれない。

「そこは緑したたる谷間/道はなかば草におおわれ/花をつけはじめた楢の木立ちをぬけて/学校帰りの子供たちが家路をたどる」(〈道〉より)

 もっぱら穏やかな自然だとか家族との思い出だとかがうたわれているので、牧歌的な雰囲気すら感受したとしても不自然ではないだろう。
『世界』の要点はなにか──これは、世界はいかにあるべきか、という問題をめぐる詩なのです、とミウォシュ本人は語っていたらしい。

 とはいえ時代の暗黒面をまったく感じさせないかといえば、そうでもない。ところどころに戦争の暗い影が表現されていることもたしかである。

「開かれたままの本 一匹の蛾がふるえながら/砂煙をまきあげて疾駆する戦車の上を舞う/触れたとたん 金色の粉をまき散らし/市街を席巻するギリシャ軍の上に落ちる」(〈絵〉より)

 全体をとおして平易な言葉遣いではあるが、なかには私には理解しづらい詩篇もいくつかあった。信仰にまつわるような作品群だ。

「信仰は 水に浮かぶ木の葉や/露のひとしずくを目にして それが/そうあるべくしてあるのだと悟ること……」(〈信仰〉より)

 巻末に解説を寄せている小山哲によれば、それらの詩篇は「聖トマス(トマス・アクィナス)の存在論を詩的なことばで語った注釈として読むこともできます」という。

 何はともあれ、ナチス占領下の苦難にみちた時空間で紡ぎ出された言葉たちが、時を経てわれわれの言葉に紡ぎ直され、とどけられたのだ。この奇蹟のような遭遇こそは文学に触れることの一つの驚きであり歓びであるというのは陳腐にすぎる感懐だろうか。
by syunpo | 2017-08-10 21:40 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

楽しい言葉の絵本〜『翻訳できない世界のことば』

●エラ・フランシス・サンダース著『翻訳できない世界のことば』(前田まゆみ訳)/創元社/2016年4月発行

b0072887_1035611.jpg 言葉はそれを使う人間の思考様式や世界観とは切っても切り離せないものである。当然のこととして、他の言語に訳すときに適切な訳語がみつからない、各地域固有の言葉というものが存在する。

 本書はそのような「翻訳できない世界のことば」を集め、独自の語釈によって編んだユニークな「単語集」。著者自身の可愛いイラストが一語ごとに添えられていて、絵本をめくるように楽しく読める。二〇一三年にブログで発表した〈翻訳できない世界の11の言葉〉という記事がきっかけで生まれた本らしい。

〈COMMUOVERE=コンムオーペレ〉は、イタリア語で「涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる」という意味の動詞。〈SAMAR=サマル〉は「日が暮れたあと遅くまで夜更かしして、友達と楽しく過ごすこと」をあらわすアラビア語の名詞だという。

 インドネシア語の〈JAYUS=ジャユス〉は「逆に笑うしかないくらい、じつは笑えない、ひどいジョーク」を意味することば。たしかに日本語にはこれを一語であらわす言葉はないかもしれないが、これに相当する発話行為は多くみられるようになった気がする。

〈RESFEBER=レースフェーベル〉は、スウェーデン語で「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること」。
 独特の郷愁を意味するポルトガル語の〈SAUDADE=サウダージ〉は、最近日本でも映画のタイトルに使われたりして、おなじみの言葉だろう。

 各単語のつづりは英語表記に基いているが、原語文字のつづりもあわせて記されている。著者は日本語にも強い関心を抱いているらしく、四つのことばが登場する。〈コモレビ=木漏れ日〉〈ボケット=ボケっと〉〈ワビ・サビ=侘び寂び〉〈ツンドク=積ん読〉だ。「木漏れ日」を選ぶセンスには感心した。

 ただ〈ワビ・サビ〉の語釈は「生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと」となっていて、やや伝統的解釈とはズレている。が、巻末に「単語の説明は、著者独自の感性により解釈されたもの」との但し書きが添えられていることだし、本書を読んで「本来の意味とは違う」とクレームをつけるのは詮無いことだろう。正統的な語釈を知りたければ、きちんとした辞典を引けばよろしい。

 著者のエラ・フランシス・サンダースは、イラストレーターとしても活躍しているようで、モロッコ、イギリス、スイスなど「さまざな国に住んだ」経験が本書のような企画を可能にしたのだろう。

「言葉は、真実を、人の心がうつしだすわずかなものに減少させてしまう」というエッカート・トールの言葉に疑義を呈して「言葉は、わたしたちにとても多くのものをあたえてくれます」と言い切る。さまざまな言葉との出会いを楽しんできたにちがいない著者ならではの感性が詰め込まれた愉しい本であるといっておこう。
by syunpo | 2017-07-08 10:38 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

不完全な記憶が文書の不備と出会うところ〜『終わりの感覚』

●ジュリアン・バーンズ著『終わりの感覚』(土屋政雄訳)/新潮社/2012年12月発行

b0072887_9472276.jpg ロンドン郊外で平凡な引退生活を送る主人公のもとに、ある日突然、見知らぬ弁護士から手紙が届く。日記と五百ポンドの遺産を自分に遺した女性がいるらしい。思い出すまでにしばらくかかったその女性は学生時代につき合った恋人ベロニカの母親だった。遺されたのは、高校時代の親友でケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンの日記。ベロニカは彼の恋人となっていた。それにしても、何故その日記が母親のところにあるのか?

 ベロニカの母親が主人公に遺贈しようとしたエイドリアンの日記は、ベロニカが所有している。主人公の「私」はその日記を手に入れようとするところから、物語は動き始める。相手の弁護士とのやりとり、ベロニカの兄とのメール交換、そしてベロニカとの再会……。

 自分の記憶とベロニカから示される過去の事実とのズレ。主人公の語りで話は進行しているので、そのズレは読者をもいきなり直撃する。ミステリ仕立てですすんでいく展開と相まって、後半はページを捲る手が止まらない。作中で語られる「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」という箴言がいかにも本作の内容を象徴しているかのようだ。

 三角関係をベースにしたお話はもちろん文学史的にはありふれている。日本人読者の私としては、友人が自殺したり手紙でやりとりするところなども含めて、まずは漱石晩年の作品群を想起してしまった。しかし、当然ながらその後の展開も主人公の心の動きも漱石とはまったく違った肌触りで、読み終える頃にはバーンズの世界そのものに浸っていたのだった。
by syunpo | 2016-10-23 09:47 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

教養の重圧からの解放〜『読んでいない本について堂々と語る方法』

●ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)/筑摩書房/2008年11月発行

b0072887_2004762.jpg 安直なハウツー本のような書名ではある。たしかにそのような要素も含まれてはいるけれど、基本的にはヒューモアや諷刺精神が随所にまぶされた読書理論、批評論の書といっていいだろう。

 まず驚かされるのは、脚注に記している参照文献についていちいち四つのカテゴリーを明示している点だ。
〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本

「ちゃんと読んだ本」という単純なカテゴリーが存在しないことは要注目。この表示によれば、著者はムージルの『顔のない男』は〈流〉で、ジョイス『ユリシーズ』は〈未〉、フロイト『夢解釈』は〈忘〉だそうな。ついでにいえば本書が言及している小説のなかにでてくる架空の書物もリストアップされていて、バイヤールの茶目っ気のほどがうかがえる。

 著者にとって「きちんと読む」「精読する」というような行為はハナからありえないことなのだろうか。いや問い方を変えよう。そもそも読むことと読まないことに明確な境界は存在するのだろうか。著者の答えは「否」である。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p8)

 読むという行為はその中身を突き詰めれば様々でありうるし、読んでいない本に関しても人の噂や情報などをとおして何らかのイメージを得ることができる。ゆえに私たちの書物に対する経験は〈読んだ/読まない〉という二分法によって仕切られるのではなく、その両極のあいだにグラデーションをもって分布するということになるだろう。もちろんそうした説明だけではわかりにくいかもしれない。が、とにもかくにも上に引用した認識こそは本書全体をとおして基調となる考え方なのである。

 書物は読まれ方あるいは語られ方によって、様々な相貌を私たちの前にあらわすことになる。本書の見立てでは書物には三種類ある。〈遮蔽幕としての書物〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉だ。その三つはそれぞれ〈共有図書館〉〈内なる図書館〉〈ヴァーチャル図書館〉に対応する。

〈遮蔽幕としての書物〉とはフロイトから借用した概念で、われわれが日常的に話題にする書物のこと。「現実の」書物とはほとんど関連性をもたない。いわば「状況に応じて作りあげられる」代替物である。
〈内なる書物〉とは「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」をさす。「われわれが書物に変形を加え、それを〈遮蔽幕としての書物〉にするさいの影響源となるものである」。
〈幻影としての書物〉とは、われわれが話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象のことである。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。

 書物がそのようにして多様なかたちをもって存在する以上、私たちは読んでいない本について語ることにネガティブな感情を抱くには及ばない。むしろ読んでしまうことで他人の言葉によって制約を受けることになるだろう。ゆえに読んでいない本についてのコメントが一種の創造的営みにもなりうるとさえバイヤールは主張するのである。

 本書では、そのような書物とのさまざまな関わり方について、夏目漱石やオスカー・ワイルドなどを参照しながら精神分析的な手法を用いて考察していく。ワイルドによれば、批評とは自分自身について語ることであり、「作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける」。

 当然ながら本書の議論の進め方は多分に詭弁的、といって悪ければパラドキシカルであり、生真面目に反論しようとすればいくらでも可能に違いない。しかし一方で、ひとつの教養論ないしは教養共同体を相対化する試みとしては興味深い視座を提起しているのではないかと思う。

 ところで私はこのレビューを書くにあたって本書をどの程度まで読んだといえるだろうか。著者のカテゴリーにしたがえば、どうやら〈流〉〈聞〉に該当していそうであることを告白しておく。
by syunpo | 2015-12-04 20:06 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

度胸と愛嬌で戦場を渡り歩く〜『母アンナの子連れ従軍記』

●ブレヒト著『母アンナの子連れ従軍記』(谷川道子訳)/光文社/2009年8月発行

b0072887_20111946.jpg《肝っ玉おっ母とその子どもたち》のタイトルで知られている作品の新訳。日本語としてはある種のイメージが固着した「肝っ玉」を表題からも訳文からも追い出した点に、新訳としての一つの意義があるといえるかもしれない。

 今もなお世界中で上演機会の多い本作は、三十年戦争の混乱期、父親の違う三人の子どもを引き連れてたくましく生きていく従軍商人・度胸アンナの奮闘ぶりをとおして、随所にヒューモアをまぶしながら戦争の矛盾と悲惨を浮かびあがらせる。

「……作戦計画のちゃんとした司令官なら、なんで勇敢な兵隊なんぞがいるの? 並の兵隊で十分なはずでしょ。手柄の美談なんぞがたくさん必要だなんて、どこか腐っている証拠よ」というアンナのセリフがおもしろい。

 戦争のビジネス化・外注化がすすむ昨今、この戯曲はその多義的な深みにおいてだけでなく、アクチュアリティーに関してもいっそう輝きを増しているようにも思われる。墓の下に眠るブレヒトがそうした事態を喜んでいるとは到底考えられないのだけれど。
by syunpo | 2015-05-11 20:16 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

言葉だけがなしうる冒険〜『若い藝術家の肖像』

●ジェイムズ・ジョイス著『若い藝術家の肖像』(丸谷才一訳)/集英社/2009年10月発行

b0072887_10463842.jpg 松宮秀治の『芸術崇拝の思想』は、啓蒙主義以降の神なき近代社会において宗教に代替するものとして芸術が台頭してきたことを歴史的に説き明かした。本作の主人公、スティーヴン・ディーダラスは、さしずめそうした時代思潮を体現するかのような若者として描かれている。ジョイスは、一人の若者(著者自身にも重なる存在)が信仰を捨て藝術家=文学者として身を立てていこうと決意するまでを、様々な文体を駆使して描出していくのである。

 急いで付け加えるなら、スティーヴンは信仰を捨てるだけではない。イギリスの帝国主義はもちろん祖国アイルランドのナショナリズムからも独立しようとする。「一人きり、まったくの孤独」、その危険を冒す道行きを選択したのだ。それはそのまま藝術=文学という営みの孤独を表しているだろう。

 ディーダラスの名はギリシア神話に登場するダイダロスにちなむ。アテナイの「巧みな工人」である。ミノス王によって息子のイカロスとともにラビュリントス(迷路)に幽閉される。ダイダロスは羽と蠟で翼を作り脱出に成功したが、イカロスは戒めに背いて太陽の近くまで飛んだため、蠟が溶けて海に墜落した。

 ダイダロスとイカロスにまつわる神話は全編にわたって通奏低音のように鳴り響いているかのようで、作中、飛翔するもののイメージが要所で立ち現れる。鳥。天使。革の球。それらは時に美しい情景を呈して印象深い。

「一人きり、まったくの孤独」の旅路を踏み出したスティーヴン・ディーダラスは、はたして迷路から脱出することに成功するのか。それとも墜落してしまうのか……。

 丸谷才一は一九六九年に一度邦訳版を出している。その後、二度の改訳を経て、二〇〇九年に新訳版として本書を刊行した。本作の時代背景を文化史的にあとづけた解説と精細な訳注は、難解ともいわれる作品の読解に大きな力を貸してくれる。なお、二〇一四年には同じ版元により文庫化された。
by syunpo | 2015-01-17 11:01 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)