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柳田國男の限界と可能性〜『公民の民俗学』

●大塚英志著『公民の民俗学』/作品社/2007年3月発行

b0072887_12123798.jpg 柳田國男の民俗学は「伝統」の創造に大きく加担する一方で、近代日本における「公共」概念をいかに形成すべきかという技術論としての側面を持っていた。ここでいう「公共」とは「自分のことばと思考を持った『個人』としての有権者」によって担われるものであり、「正しい民主主義システムの担い手たる個人」を基礎とするものである。

 大塚は柳田民俗学のそのような両義性に着目し、日本の近代化の過程で「伝統」がいかに創られたか、その一方で「公共」がいかに構想され不成立だったのかを検証する。後者に関しては柳田のテクストに可能性を読み取りながら、現実には残念な変遷を遂げていったことが跡づけられる。

 柳田の妖怪論をめぐる論考がおもしろい。大塚によれば柳田の妖怪論は当初は「多民族国家論」としてあったという。それは近代日本の拡張政策に対応するものでもあったが、時代の変転とともに柳田の論調も変わっていった。期せずして日本の「伝統」的なものへと結合してしまったのだ。

 柳田の妖怪論で最も古いのは「天狗の話」である。柳田は初めは天狗への関心を太古の昔からあるものの「実質」へと差し向けた。徳川時代の随筆とか明治になってから展開されるようになった議論ではなく、日本人の信仰上の「伝統」としての固有信仰を見ようとしたのである。

 ところが、柳田はそこから天狗先住民説へと転換していく。その過程で台湾の先住民族をイメージしていたことに大塚は注目している。柳田は、大和朝廷の先住民制圧を、台湾山人への植民地支配との対比で平然と論じたのである。その理路において先住民としての天狗は「山人」の名に変わっていくのだ。

 ……天狗への関心として始まった「妖怪」論は、異民族の統合という政治的課題を新たに抱えた明治国家の官僚・柳田國男の手にかかり、「台湾」という植民地への政策を、日本列島におけるまつろわぬ民の帰順の歴史と接続するものへと大きく書き換えられる。(p92)

 さらに、幽霊や怪談の流行が日露戦争による兵士の犠牲と関連づけて論じたうえで、柳田民俗学の道行きを浮き彫りにするくだりが文学との比較で言及されていて示唆に富んでいる。

 まず近代に入って日本を後進国たらしめていた迷信を撲滅しようという動きが顕在化する。自然な流れであろう。が、それと同時に怪談や幽霊への関心も高まった。日露戦争で多くの犠牲を出したことを背景に、戦死者を靖国神社に祀ることで「幽霊」を国家管理していく思考が制度化される。「死者」への感情は、国家が管理に乗り出さなくてはならないほどに人々の中に広がっていったのである。

 そのような戦死者への関心が「幽霊」を復活させた世相は、漱石の「琴のそら音」の中でも語られている。そこでは死んだ妻の幽霊が戦地の夫に会いに行くという物語が語られている。日露戦争をめぐる「死」への不安が「幽霊」を再興してしまったことへの困惑は「余」は独白するのである。

「幽霊」について考えることは、本当であれば「死者」と「国家」の関わりについて考えることでなくてはならなかった。だが「幽霊」と「国家」の関係は回避され、文士たちの「怪談趣味」としてかろうじて記憶されるのである。つまり文士たちの「怪談の時代」とは、文学者たちのこの問題からの逃避としてあったと考えられるのだ。

 その中にあって柳田國男の妖怪論だけは、大塚に見立てによれば植民地政策論という「国家」にとっての怪談論に確実に変容していったわけである。

 後半では、「公共」に関する柳田の構想について検討を加えていく。
 柳田は大正時代の一時期、国際連盟の委任統治委員としてジュネーブに滞在した。ジュネーブから帰国後は朝日新聞社に改めて所属し多くの社説を執筆したことは周知の事実である。家永三郎が、この時期の柳田を美濃部達吉や津田左右吉と共に「大正デモクラシー思想の先鋭な表現者」と見なしたのは注目に値する。

 柳田が当時考えていた公共性は、前近代的な「村」ともナショナリズム的な「国家」とも違う、パブリックな何かであった。それを実現するのが「選挙」であると柳田は説いた。普通選挙が実施されても、地域の有力者のもとで人々が群れ意識から抜け出せずに投票が行われている限りは公共性の実現の手段としての選挙は不可能だと柳田は考えた。

 そのためには「多くの無意味なる団結を抑制して、個人をいたん自由にする」必要がある。「群れる」ことを断念し「個」であることで初めて「公民」たりうると説く柳田はたしかに「大正デモクラシー」の体現者であった。

 柳田國男の民俗学の本質を山人や被差別民といった「非常民」から、代表的日本人としての稲作民たる「常民」への研究対象の転換とみるのは、ほとんどの柳田論の定説というか大前提だが、その二つにはさまれるかたちで、まだ、この時点では「民俗学」を名乗ることを躊躇する柳田の民俗学に束の間、「公民の民俗学」があったことは、やはり柳田の可能性として評価すべきだとぼくは考える。(p118〜119)

 しかし大恐慌による経済の破綻は、人々に「個」として自立した「公民」たることより、「群の快楽」に身を委ねることを選択させてしまう。そして柳田の「公民の民俗学」もまた、そのような風潮に否応なく呑み込まれて後退していったのである。大塚は一つの具体例として、戦前の農山漁村経済更生運動と民俗学との結合を挙げている。

 一九三二年に始まる農山漁村経済更生運動は一種の構造改革で、「産業ノ経済ノ計画的組織的制約」を課そうとするものであった。それは同時に農村の「固有ノ美風タル隣保共助」の復興であった。村社会の共同性を再生させて、問題を解決させてしまえと言うのである。しかし柳田はこのような「群を慕う」感情はともすれば「公民」としての「個」の確立の妨げになると考えていた。しかし皮肉なことに、この経済更生運動は結果として柳田の民俗学と深く結びついていった。

 村々が自発的に作った「経済更生計画書」の中には、自らの村の実体把握のための調査がプログラムの中に含まれていた。それは柳田が自らの方法を「民俗学」という体系として、理論に基づく実践として立ち上げていこうとするタイミングと一致してしまったのだ。

 大塚の記述はその後さらに詳細な分析を重ねており、柳田が単純に当時の国策と手を携えたわけではないことは理解しておく必要があるだろう。
 とはいえ、柳田が「伝統」を無批判に信奉することを批判しながら、「伝統」が「社会の理想」であることには全く疑問をはさまなかった事実を指摘することも大塚は忘れない。

 民俗学という学問そのものは、どの国家においてもロマン主義的文学に出自を持ちナショナルアイデンティティの確立という時代的要請の中で生まれた。そしてそのような要請そのものが歴史的な所産である以上、歴史上の要請が終わった時、民俗学が近代の後半にあって衰退していくのも自然のことである、と大塚はいう。そのうえで、大塚は自身の師匠にあたる千葉徳爾の考え方に立脚していることを明らかにしている。

 しかし、それでも尚、生きのびようとするなら「国家」という自らもまた加担して創り上げたものを民俗学者はその対象から消去すべきではなく、そして「伝統」の創造とは異なる「国家」との関与の仕方がありうると千葉は考えていた。ぼくが柳田が民俗学が否応なく国策科学化していく直前に示したもう一つの民俗学のあり方を「公民の民俗学」と呼び評価するのは、千葉の『民族のこころ』での主張にほんのわずかに論を付け足したに過ぎない。(p210)

 なお本書は二〇〇四年にちくま新書から刊行され、その後絶版になった『「伝統」とは何か』の改訂版である。
by syunpo | 2019-02-03 12:15 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

タンザニアの都市住民に学ぶ〜『「その日暮らし」の人類学』

●小川さやか著『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義批判」/光文社/2016年7月発行

b0072887_10415995.jpg「その日暮らし」は現代日本ではダメな生き方ということになっている。でも本当にダメなんだろうか。小川さやかは「その日暮らし(Living for Today)」を人類学的に追究することで現代人の生き方を問い直そうとする。同時に、「その日暮らし」として組み立てられた経済が必ずしも現行の資本主義経済とは相いれないものではないことも示される。それらはしばしば「逆説的にも主流派経済に向けられるべき不満を自力で解消し、主流派経済を存続させる役割を担っている」。

 Living for Today。その日その日を生きる。これは何ら特別な生き方ではない。現代日本人はそのことを想起していないだけだ、と小川はいう。「明日どうなるかわからないといったゾワゾワを封じるために、社会全体でいまの延長線上に未来を計画的・合理的に配置し、未来のために現在を生きることがまるで義務であるかのように生きている」のが現在の私たちである。

 そこでいくつかの実例が紹介される。
 たとえば、アマゾンの狩猟採集民ビダハン。彼らは道具類をつくらず、保存食もつくらず、食べられる時は食べ尽くす。儀礼らしき行為も存在しない。言語における過去や未来を示す時制は限定的で、直接体験したことのない他の文化には興味を示さない。「価値や情報を行動や言葉を通じて『生のかたち』で伝えようとするビダハンは、価値を、数や色の名前のような抽象的、記号的なもの、普遍化のための概念に置き換えることをしない」のだ。

 そして、タンザニアの焼畑農耕民トングウェ人。できるだけ少ない努力で暮らしを成り立たせようとする「最小生計努力」と、おもてなしの互酬による「食物の平均化」が彼らのキーコンセプトである。ただし掛谷誠によるトングウェ人の暮らしの分析には、小川自身はあまり魅力を感じなかったらしい。「嫉妬や妬み」をその生き方の基盤に見出していたから。

 小川はタンザニアの都市住民や香港におけるタンザニア人の商法に関して長い年月をかけて調査を行なった。そのうえで「どうかなったら、そのときに対処する」という生き方をめぐって「嫉妬やうらみによる平準化の圧力は抑圧ではなく、自然や社会との関係的に存在する時間を操る生き方の技法」として解釈し直す。それが本書の肝となる認識である。

「明後日の計画を立てるより、明日の朝を無事に迎えることのほうが大事だ」というタンザニアの人びとの言い分は「筋道だった未来を企図することの代わりに、いま可能な行為には何にでも挑戦すること、そのためにはつねに新たな機会に身を開いておき、好機を捉えて、いまこのときの自分自身の持っている資源を賭けていくことを意味している」のだという。

 新自由主義は人類学では否定的に論じられることが多いが、本書において、タンザニアの人びとが謳歌しているのもまた一つの新自由主義である。それは必ずしも否定的なものとは見なされない。いわば「下からのグローバル化」であるが、アナーキーでありつつも「法的には違反しているが道義的には許せる」第三の空間を創出する過程に小川は一つの可能性を見出そうとするのである。

 本書では具体的に彼らの商売のしかたや処世術について私たちには一見理解しがたい事例がいくつも報告されている。なかでも「金融機関からの借金を踏み倒すよりも、友人からの借金を踏み倒したほうが──前者には利子がつき、返済不能な場合には財産を差し押さえられるというリスクがあるだけでなく──道義的にも良いとの意見」を紹介しているくだりは興味深い。その理由は、後者は〈借り〉が返済されていない状態に過ぎず、たとえ時間がかかっても返すことができるときが来れば、いずれ返すつもりがあるからにほかならない。

 ……彼ら(=タンザニアの人びと)は自前の優れた互助のネットワークがあったから、税金や営業許可料の支払いを無視しつづけインフォーマルであることができ、政府に社会保障の充実を過度に期待しなかったのである。(p201〜202)

 ナタリー・サルトゥー=ラジュの『借りの哲学』を批判的に引用しつつ展開する小川の考察は、なるほど資本主義経済の再考を迫るもので私にはおもしろく感じられた。私たちの社会にとって支配的である経済合理的、計画主義に基づく未来優位、発展主義的な人間観はもちろん普遍的なものではないのである。
by syunpo | 2016-12-17 10:47 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

目に見えない世界を感じる〜『続妖怪画談』

●水木しげる著『カラー版 続妖怪画談』/岩波書店/1993年6月発行

b0072887_1015442.jpg『妖怪画談』の好評を得て、その翌年に刊行した続編。七つの章から成る。記紀神話や仏典をもとにした《あの世めぐり》。神さまみたいな妖怪を集めた《神さまに近い方がた》。各地に様々な伝承が残っている《河童たち》。多様性に満ちた妖怪たちを描く《妖怪紳士録》《中国の妖怪たち》。付喪神やそれに類する《憑きもの》。水木の代表作を解説した《鬼太郎血戦録》。

《あの世めぐり》では〈常世の国〉や〈黄泉の国〉〈高天原〉のようなスタンダードな世界だけでなく〈アイヌのあの世〉や〈朝鮮のあの世〉などにも目配りしているところが素晴らしい。
《神さまに近い方がた》としては〈ヤマドッサン〉〈風の三郎さま〉〈箒神〉などが登場するほか〈疫病神〉の五人組は色鮮やかに描かれていて愉しい。

《河童たち》の伝承も実にさまざま。二、三歳くらいの子どもの姿をした〈せこ〉、奄美大島のガジュマルの林に棲んでいる〈けんもん〉、川べりに二人並んで物語りなどを話しているだけの〈川男〉などなどバリエーションに富んでいる。

 妖怪たちのなかでとくに興味深く感じたのは、人間に悪さをしないものも少なからずいるということだ。水が川下の村にも流れるように水門を勝手にあける〈赤舌〉は農村における和平の調停者のような気もするし、可愛い姿で登場する〈倉ぼっこ〉は倉を守ってくれる存在。アイヌ語で「ふきの下に住む人」という意味の〈コロボックル〉も気立てが良く、人に対して何のいたずらもしない。

《憑きもの》の世界もおもしろい。鉦から手足が生えた〈鉦五郎〉の項目では大阪の淀屋辰五郎にまつわる伝説が紹介されている。〈化け草履〉には「履物を粗末にするな」という警句がこめられているのだろう。

「“あの世”のことでも明るい気持ちで語れる時代がくれば面白いと思っている」と水木はあとがき風の文章のなかで述べている。なるほど本シリーズではそのような思いがみごとに具現化されているように思う。
by syunpo | 2015-12-13 10:18 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

霊々(かみがみ)の世界を訪ねて〜『妖怪画談』

●水木しげる著『カラー版 妖怪画談』/岩波書店/1992年7月発行

b0072887_1934622.jpg 水木しげるは岩波新書から『画談』シリーズを何冊か刊行しており、本書はその第一弾にあたる。古今の妖怪や霊的な存在をヒューモアをまじえて精緻なタッチで描いてロングセラーに仕立てた仕事ぶりはまさに妖怪博士の名にふさわしい。
 フットワークも軽やかに風変わりな神社仏閣を訪ねた《奇妙なものみてある記》、各地に伝わる妖怪を集めた《出会った妖怪たち》《妖怪の有名人たち》、それに《幽霊・付喪神のたぐい》の四章から成る。

《奇妙なものみてある記》は本書の導入部として絶妙の空気感を醸し出している。会津若松のお寺にある〈だきつきばしら〉。男性の一物が祭られている〈田県神社〉。金運にご利益のある〈銭洗い弁天〉。なんでも半人前しかできないカミサマ〈はんぴどん〉はそのすがたかたちをあらわさず、石仏とその傍らで談笑するお年寄りたちをどこからか見守っている。とにもかくにも世の中にはいろいろなカミサマがいるらしい。

 妖怪たちの存在も当然ながら種々雑多。風呂場の垢を舐める〈あかなめ〉。蚊帳を切ったりする〈網切〉。生け垣をゆする〈クネユスリ〉。白い素麺のようなものが舟のまわりをぐるぐるまわる〈しらみゆうれん〉。

 有名な妖怪たちも水木の手にかかるとオドロオドロしさは薄められる。〈魍魎〉は当今のゆるキャラみたいに可愛らしいし、〈座敷坊主〉〈座敷童子〉も愛嬌たっぷり。柿の実をとらずにそのままにしておくと〈たんころりん〉のいう入道に化けるらしい。風もないのに紙がひとりでに舞い飛ぶのは〈紙舞〉という妖怪の仕業。煙の精霊は〈煙羅煙羅〉。沖縄の木の精霊〈キジムナー〉。雨戸をあけると巨大な顔が現れる〈大かむろ〉。昭和五十四年に流行った〈口裂け女〉もはれて妖怪の有名人の列に加えられている。

 付喪神とは長い年月を経てモノや道具に神や精霊が宿ったもののことをいう。百年を経ると付喪神になるといわれており、九十九年で捨てるのが良いとされる。しかし捨てられた方はたまらないので「九十九年で捨てると逆に悪く化けるといわれる」。蓑が化けた〈妖怪バンドリ〉や釜が鳴くという〈鳴釜〉、寝ているあいだに人を窒息させる〈ぼろ布団〉などの例が示されている。

 参考文献には『大語園』全十巻、『日本民俗文化資料集成』全十二巻、『綜合日本民俗語彙』全五巻、『今昔物語集』『日本霊異記』『和漢三才図会』などが挙げられている。本書の面白味は何よりも漫画家の画才に依っていることはいうまでもないが、文献の幅広い渉猟に支えられている点も見逃せない。
by syunpo | 2015-12-11 19:07 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

人間を人間たらしめた能力〜『〈運ぶヒト〉の人類学』

●川田順造著『〈運ぶヒト〉の人類学』/岩波書店/2014年9月発行

b0072887_20371039.jpg 直立二足歩行によってヒトの祖先が得たものは主に三つ考えられる。大きな脳を支えることが可能になったこと。直立によって声帯が下がり、口腔の構音器官が多様化して、分節された発声が可能になったこと。相当の嵩と重さのものを長い距離運べるようになったこと。……本書は三番目のメリットに注目し、人類学の見地から考察したものである。

 ホモ・サピエンスが現在まで、世界に拡散して生きてこられたのも、アフリカを出るとき、立って歩き、自由になった両手も使って、最低限のものだったにせよ、新しい土地で生きてゆくのに必要な道具を、運ぶことができたからだ。(p3)

 この〈運ぶ〉という能力こそがヒトをヒトたらしめたのではないか。そこで著者は、アフリカ(西アフリカ内陸部)、ヨーロッパ(近世以後のフランスを中心とする地域の白人)、東アジアの三地点を比較対照して〈運ぶ〉文化の展開と身体との関係を探っていく。

 アフリカ(西アフリカ内陸の黒人)では、頭上運搬が男女とも著しく発達している。また山岳傾斜地の多い地方や東アフリカ海岸部では、前頭帯運搬もみられる。骨盤の前傾というアフリカ内陸の黒人の特徴が頭部運搬に有利にはたらいていると川田は推測する。
 フランスでは、肩から背の上部で支える、重心の高い背負い具による運搬、前腕を曲げてさげるアーチ形の把手がついた籠運搬、腰で支え前にまわす物売り籠運搬の発達などがあげられる。これは肩と上腕の相対的な発達に見合うものである。
 東アジアやアメリカ先住民などの黄人では、前頭帯運搬の発達などが特徴的である。また東アジアでは肩で支える棒運搬がひろく行われている。

 三地点におけるヒトと道具の一般的な関係について、川田は「身体技法」「技術文化」なる概念を提起しつつ、以下のような三つのモデルを設定している。

 ○モデルA(近世以後のフランスを中心とする地域の主な住民である白人):道具の脱人間化
 ○モデルB(日本人やアメリカ先住民もふくむ黄人):道具の人間化
 ○モデルC(西アフリカ内陸の黒人):人体の道具化
 
 モデルAは、二重の意味での人間非依存がみられる。道具を工夫することによって誰がやっても同じような良い結果が得られること。省人力の効果が得られること。モデルBは、二重の意味での人間依存がみられる。人間が熟練により道具を使いこなすこと。人力を惜しみなく投入すること。モデルCは、与えられた状況の最大限の活用がみられる。

 当然ながらできるだけ人力を省こうとする指向をもったモデルAは、様々なエネルギーを活用して輸送力を増強してきた。本書では川船輸送を例にとっているが、船をひく馬の道の整備、さらには蒸気機関の外輪船、焼玉エンジンの牽引船……へと発展は続くのである。

 内容的にはいささかカタログ的であるうえに、「自分自身の身体を使って、身の丈に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと」を訴える締めの文章は牧歌的に過ぎるかもしれない。が、写真や図表をふんだんに使っての叙述は人類学への関心を大いに掻き立てるものであるし、何より着眼点のユニークさは特筆に値するだろう。
by syunpo | 2014-10-20 20:43 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

記号論と経済学との架橋的著作〜『儀礼としての消費』

●メアリー・ダグラス、バロン・イシャウッド著『儀礼としての消費 財と消費の経済人類学』(浅田彰、佐和隆光訳)/講談社/2012年12月発行

b0072887_2036357.jpg 文化人類学者のメアリー・ダグラスが人類学の側から経済学への接近を試みた本書は経済人類学の現代の古典ともいえるものである。和訳の原本は一九八四年に新曜社から刊行された後、二〇一二年に講談社学術文庫に収められた。翻訳を担ったのは、佐和隆光・浅田彰の京大師弟コンビ。

「財は中立的だが、財の使用は社会的である」との認識をベースに本書では財の消費を「人間の創造的能力の非言語的媒介」として考察する。言い換えれば「消費とは、その主要な機能が所与の出来事の流れに意味を付与することにあるような、一つの儀礼の過程」と見なすのである。

 そのような見解を述べるにあたっては、イギリスの社会階級ごとの消費行動やアメリカ北西岸のネイティブ・アメリカンのポトラッチ、ユローク族、ナイジェリアのティヴ族の生活様式などを傍証として提示している。つまり現代の消費社会であれ都市から隔たった部族社会であれ、「儀礼としての消費」説が適用可能であることを明らかにするのだ。

 音楽愛好家がコンサートに出かけるのは「社会的・文化的なプロセスに加わっていること」にほかならないし、港湾労働者は仕事に雇われるためにパブで親方と飲み食いする。一人で食事するような時でも社会性から隔絶された消費行為とはいえない。ディナー用に着飾ることはないとしても、バターナイフを使うのを忘れない場合、「他の消費者が守っているルールを彼が遵守するのは、社会慣習から落ちこぼれないための方法であり、おそらくは記憶の儀礼である」。
 人は財の消費を通して情報システムを動かし制御することをめざすのであり、そこでは〈必需品/豪奢品〉というような単純な二分法による思考は無効化される。豪奢品の消費に関して道徳的な視点から論及することもピント外れということになるだろう。

 刊行後三十年を経た現代の読者からみれば、本書の社会認識のスタイルは良くも悪しくも当時のポストモダン的なアカデミズムのトレンド──記号論や構造主義─を色濃く反映したものであることが明瞭に読みとれる。また自説展開にあたってはいささか強引と思えるところもなくはない。さらに訳者あとがきでは「経済学にかんする初歩的な誤解に根ざすのではないかと思われる、納得しがたい箇所」が散見されることを指摘して読者に注意を促してもいる。

 それにしても本書の考察は今日いっそう説得力をもってきているのではあるまいか。著者たちが現在のネット社会をどこまで予想していたかはわからないけれど、現代人はフェースブックなどのソーシャル・ネットワークを通じて、自分がランチに何を食べたか、休日はどのように過ごしたかを嬉々として友人たちに報告しているのだから。個人の消費がますます社会のなかでコンテクスト化され、相互に影響を与え合うような消費行動がよりいっそう可視化されているのだ。その意味では本書が財や消費に関して今なお有効な論点を提起し続けていることはたしかだろう。
by syunpo | 2013-02-21 20:46 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

列島の新たな民族史〜『東西/南北考』

●赤坂憲雄著『東西/南北考』/岩波書店/2000年11月発行

b0072887_12344731.jpg 赤坂憲雄は一九九〇年代後半に「東北学」を打ち出した民俗学者。本書は一般読者向けに書かれたマニフェスト的な本とでもいえばよいのだろうか。十年以上も前に刊行された新書を今さら取り上げるのも気が引けるのだが、赤坂の良き読者ではなかった私としてはとても勉強になった。
 歴史においても民俗学においても「ひとつの日本」という概念はすでに綻びを見せ始めている、様々なすがたを織り成した列島像すなわち「いくつもの日本」を描出していくべきではないか。本書はその大きな見取り図を描くための示唆に満ちた本である。

 日本列島には出自や系統を異にする地域文化が重層的に存在してきたこと。複数の文化的な裂け目が見え隠れしていること。それぞれの地域文化はアジアに向けて開かれていること。「いくつもの日本」を射程に織り込むとは、そのような実証的事例に素直に向き合うことにほかならない。
 前半では箕作りを例にとって、そうした重層的な地域図が素描される。後半の「穢れ」に言及した章においても、死や出産にまつわる禁忌の濃淡が地域によって大きな差異のあることが指摘される。〈箕作りのムラから〉〈穢れの民族史〉と題されたそれら二つの章はとりわけ民俗学者としての著者の特長がよく出ているように思う。

 ところで、「ひとつの日本」という見方が長らく維持されてきたのには、一国民俗学を唱えた柳田国男の呪縛が大きかった。それはたとえば具体的には方言周圏論に凝縮されている。京都を中心としてそこから遠ざかるにつれて周縁となる、同心円的な文化認識の方言版といえるものだ。そのような認識はつい最近まで関西発の某テレビ番組でも大々的に喧伝された(プロデューサーによって『全国アホ・バカ分布考』として刊行されている)ものである。
 柳田の方言周圏論は、無論、当時の時代背景(国語の統一への強い志向)や柳田の立場(官僚)を無視して単純に批判することはできないが、ただ学説としてはアイヌ語など「異分子の作用」を排除したところに成立するものであることは間違いない。東西の裂け目を重視する方言区画論とも相容れない考え方である。

 赤坂はここで宮本常一の《民俗から見た日本の東と西》を参照する。宮本は柳田の周圏論的な文化認識に対して「大和朝廷が成立し、日本が国家として統一されて以来の後次的な現象と見なすべきだ」との批判を展開した。実際、柳田は民俗学的な知によって遡行できる時間の上限を漠然と応仁の乱あたりに見定めていたらしい。
 すなわち、柳田の一国民俗学は「その時間的な射程は、たかだか千数百年に留まる。たとえ稲作の渡来まで伸ばしたところで、二千数百年を越えることはできない。いずれにせよ、稲作以前は視野の外に棄ておかれる。柳田とその民俗学は、稲作以前を掘り起こすための方法を知らず、その道具も持ち合わせていなかった」。また「柳田民俗学の領土は、列島の北は津軽・下北から、南は奄美・沖縄までに限られる」。

 歴史認識としては、著者も何度か名前を出しているように歴史学者の網野善彦の強い影響を感じさせる。赤坂憲雄の東北学は民俗学や歴史学における先人たちの知見に依拠しつつ、南北を軸とした視点を積極的に導入することによってさらに発展させたところに築かれたものといえるだろう。
 関西に生まれ育った者として私は本書を自省・自戒の念とともに読みすすんだ。本書を読むとあらためて弧状なす日本列島の多様さや豊穰さを再認識させられる。それは私たちの社会の統合や絆を決して阻害する認識ではない。多様であることはその共存への試練を含めて大いなる価値であり利点であるのだから。
by syunpo | 2011-08-07 12:45 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

自然の中の「ヒト」の学〜『文化人類学とわたし』

●川田順造著『文化人類学とわたし』/青土社/2007年12月発行

b0072887_18431285.jpg 「文化人類学とは何か」という単刀直入の問いから本書は始まる。すぐさま、それは何よりもまず私自身に対する問いである、と付け加えられる。タイトルが『文化人類学とわたし』となっている所以を読者の多くは読み始めてまもなく了解することだろう。

 文化人類学が日本の大学で教えられるようになったのは、意外と最近で一九五〇年代の後半からだという。川田はその「純粋培養」された最初期の一人であった。米国の総合人類学の考え方に基づき導入された人類学課程だったが、その実態はごった煮のようであったらしい。著者が籍を置いた東京大学での教授陣は、先史考古学、言語学など様々な分野から集められていた。

 川田は柳田国男の主導した民俗学との関係も含めて常に人類学への懐疑や自己点検の意識を抱き続けていた、といってよい。そのなかで方法論的にも内容的にもみずからの学問を鍛えあげてきたのである。
 川田は文化人類学の特徴として、マイナーな文化への関心、非実学的な性格などをあげている。前者の問題意識は定量的観察よりも定性的観察を重視する姿勢につながり、後者の立場からは「特殊・専門家された諸科学の後に来る、それらのディシプリン・サイエンスにより広い視野を提供するメタ・サイエンスという性格」が導かれる。

 とはいえ、川田は人類学が常に現実社会と関わりをもつことも力説している。毎年のように海外の研究者や学生たちとともに靖国神社に出向いて「フィールド・ワーク」したり、無形文化遺産の保護や世界遺産の修復活動に関わったり、文化産業の多様性保護条約についても発言を繰り返しているのは、その具体的実践ともいえる。

 また人類を「自然の中のヒト」という視点から俯瞰して、他の動植物との関係を考える「種間倫理」の提起は、人類学の立場から西洋伝来の「創世記パラダイム」や「人間中心主義」を相対化するものだ。これを宇宙論的に延長していけば、昨今松井孝典が提唱している「知求学」の問題意識とも共振するのではないかと思う。

 ちなみに、文化人類学者のあいだでは「文化」をいかように定義しているのだろうか。
 文化の定義自体が文化に依存する以上、複数の文化人類学者のあいだで、共通の定義に達することからして不可能だと思われる、と川田はいう。
 川田自身は「他者からの影響を通じて得られるものも含み、だが本能に基づく要素も含む、ヒトの営みの総体」を広義の「文化」としたうえで、より狭義の「文化」を「ある地域のヒト集団に程度の差はあれ共有されている」ものとして「民俗」という用語で再定義を試みる。

 その叙述に接した後に、昨今の川田の江戸下町近代史と自分史を重ね合わせた仕事などをみると、柳田国男とも近しいところに立っているのではないかと思わせられる。もちろん民俗学の方もかつての「一国民俗学」から発展させて海外に目を向けた研究が増えてきている。柳田自身も構想していたであろう状況、すなわち「民俗学ないし文化人類学が日本民俗学とともに世界民俗学になるべきときが来ている」のかもしれない。
by syunpo | 2010-04-14 18:57 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

多層的な庶民のすがた〜『塩の道』

●宮本常一著『塩の道』/講談社/1985年3月発行

b0072887_19113669.jpg 宮本常一は日本各地を訪ね歩き、人々の話をじっくりと聞いて生活の実相を把握しようと努めた民俗学者である。宮本流フィールドワークによって浮かびあがってくる日本人の姿は、英知に富みかつ生き生きとしたものだ。
 本書は宮本が最晩年に行なった講演の筆記録をまとめた本である。標題作のほかに〈日本人と食べ物〉〈暮らしの形と美〉の三編が収められている。

 塩は人間生活にとって欠くことのできない食材である。
 しかし、その重要性にも関わらず宮本が民俗学の道に入った頃は、塩に関する研究はあまり進んでいなかったらしい。宮本の師にあたる渋沢敬三らの尽力によって塩業史の研究が本格的に始まったという。宮本はここで恩師の志を受け継ぐように、日本人と塩の関わりを明らかにしている。

 新潟県のある山村では人々は木材を上流から流し、浜辺でその木を使って塩を焼いていた。それでは大変だというので、やがて木材だけを下流の人々の薪用に余分に流して塩と交換するようになった、という。
 また中国地方では木材を焼いてできた灰を背負って降りて行き、塩と交換した。灰は麻をさらして白くするために活用された。

 〈塩の道〉を歩いた人々の話もまことに興味深い。塩を運ぶ場合、馬や牛が使われたが、馬よりも牛が重宝された。牛の方が簡単に野宿できるほか、牛は道草を食ってくれるので餌代が助かるのだという。馬は口籠をかぶせて周囲のものをむやみに食べさせないようにしていたが、牛の場合は道端に生えている茅のような草をいくらでも食べた。

 ちなみに、昔、塩がいかに大切にされたかは大和の人たちの魚の食べ方からもうかがえる。そもそも山村に暮らす人々は塩分を魚とともに摂取することが多かった。大和の人々は塩イワシを買ってくると、煮たりしないで焼いて食べた。煮ると塩が散ってしまうからである。焼いた日はまず舐める。次の日に頭を食べる。その次の日は胴体を食べる。そして次の日は尻尾を食べる。一尾のイワシを食べるのに四日かけたのである。

 本書では、山村と海村、塩の多くとれる瀬戸内と塩の乏しい地域……などの間にみられる交流や交換のありようがじつに具体的に素描されている。そこでは必ずしも自給自足的・閉鎖的なムラ社会ではなく、交易やコミュニケーションに満ちたネットワークとしての日本列島像が立ち上がってくるのだ。列島における〈縁〉や交易網を重視した網野史学にも通じるダイナミックな視点を感じさせる。

 批判の多い江上波夫の「騎馬民族征服説」に賛同を示しながら古代日本の政情を推察したくだりなど民俗学の範をこえた言説にはやや危なっかしい箇所がみられるほか、「昔の人は偉かった」式の旧套な説教調も少し鼻につくが、それらを差し引いても味わい深い本であることは間違いない。
by syunpo | 2010-03-13 19:25 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

歴史を問い直す人類学的知〜『アフリカの声』

●川田順造著『アフリカの声』/青土社/2004年6月発行

b0072887_1918772.jpg レヴィ=ストロースの死去に際しては、親密な付き合いがあったということでメディアから引っ張りだこだった川田順造だが、彼自身はもっぱらアフリカを専門とする人類学者である。本書はシンポジウムや共同研究などの折りにまとめた論考やエッセイを編んだもので、川田のアフリカにおけるフィールドワークの概略を知るには最適の一冊かもしれない。

 川田が調査・考察の対象としてきたのは、黒人アフリカ、主に西アフリカ内陸サバンナ地帯に十五世紀中頃から十九世紀末まで王制社会を形成したモシ族の居住地域(現ブルキナファソの一部)とその周辺地帯である。

 黒人アフリカでは欧米列強による植民地支配以前、一部でアラビア文字が使われていたのを除けば文字が用いられていなかった。王宮や宗教建造物も、焼成していない日干煉瓦や練り土、木の枝などで作られていたため土に還り、遺跡として残存しているケースは少ない。歴史学者にとっては極めて研究材料に乏しいエリアだといえる。
 現在伝えられている歴史表象の様式としては、聴覚伝承(太鼓などの器音や口承によるメッセージの伝承)、視角伝承(ペニン王国の青銅の記念像など)、身体伝承(儀礼伝承)などがある。となれば、歴史を通観するうえでもやはり人類学的知見が必要になってくるだろう。

 ここには興味深い事象がいくつも紹介されていて、なかでも私が驚いたのは、モシ王国では人名の固有名詞が語法の形式上のカテゴリーとしては存在していないという事実だ。出生時の他称である幼名に加えて、成人時に自分自身が社会に向かって名乗りをあげる自称が成人名となるのだが、それは句の形をしているという。たとえば「石を煮ても湯気が出るだけだ」というようなフレーズが成人名として使われるのである。この場合、自分は頑固者であることをアピールしている。命名それじたいが、社会に向かっての自己主張であったり、対立者への自己顕示だったりするわけだ。

 権力者の系譜も当然ながら口承によって伝えられる。そのためモシ王国では絶対年代の感覚は極めて希薄であった。王の重要な祭儀では、王の系譜を楽師が太鼓言葉で表現し、それを最上位にある楽師(語り部)がある様式をもって声で朗誦する、といったことが行なわれる。

 こうした無文字社会ゆえに伝えられてきた歴史表象のレポートに加えて、さらに後半部の「〈歴史〉を問い直す」視点から執筆されたエッセイも標題どおり鋭い問題提起を含むものだ。
 とりわけ三百年にわたって行なわれたヨーロッパ、アフリカ、アメリカの三大陸を結ぶ三角貿易を概観した〈狩り出される黒い肌〉〈負の遺産にたたずむ〉などの文章には教えられるところ大であった。
 ヨーロッパ人が進出し始めたアメリカ大陸ではいくつかの理由から現地住民の奴隷化に失敗したために、アフリカからの奴隷が大きな労働力となった。英仏はアメリカで奴隷を売って仕入れた綿花や砂糖、タバコなどをヨーロッパに運んで工業化と資本蓄積を加速させた。アフリカでは奴隷貿易で富を得る王国も現れたが、全体としては荒廃が進んだ。

 啓蒙思想家が活躍し、フランス革命を成し遂げた十八世紀を、フランス人はよく「光明の世紀」と呼ぶが、視点をアフリカに移して考えれば、十八世紀はまさに「暗黒の世紀」であり、人類史のもっとも恥ずべき一ページだといわなければならない。(p194)

 ちなみに啓蒙思想家とされている人たちのなかで、奴隷制に反対を表明したのはディドロだけだったらしい。ヴォルテールなどはフランス大西洋岸の奴隷交易港ナントの商館に投資していたという。

 「アフリカの声」はまさに異文化との刺戟的な出会いをもたらすものであり、当然ながらみずからの足元を見つめ直す契機をはらんだものだ。そこに新たな「とき」と「歴史」を探索しようと試みた川田の書物はレヴィ=ストロースの翻訳だけでなくもっともっと読まれるべきではないかと思った。
by syunpo | 2009-12-14 19:30 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)