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カテゴリ:音楽( 29 )

音楽は好きでも授業が退屈なのはなぜ?〜『平成日本の音楽の教科書』

●大谷能生著『平成日本の音楽の教科書』/新曜社/2019年5月発行

b0072887_09203704.jpg 国語や歴史の教科書あるいは入試問題をネタにした本は何冊も出ているが、音楽の教科書について書いた本は珍しいかもしれない。

 小学校・中学校・高等学校で使用されている音楽の教科書を読む。批評だけにとどまらず、改善すべき授業の具体的提案までを行なう。それが本書の趣旨である。

 著者の大谷能生はサックス奏者で、批評・執筆のほか東京大学や専門学校で講義も行なっているミュージシャン。

 まず第一に、平成日本の音楽の教科書は意外と内容が盛り沢山であることに驚いた。特に高校の教科書は手にとって読んでみたくなった。

……リコーダー、ギター、和楽器その他の独奏・合奏曲があるかと思うと、発声のエクササイズがかなり詳しく載っていたり、「音楽の魅力を言葉で伝える」という批評文の書き方のページがあったり、写真付きでギターのコードの押さえ方も掲載されていて、楽典も、ギリシア時代からの西洋音楽史はもちろん、「現代の音楽」では、ジョン・ケージ、黛敏郎、西村朗、カプースチン、タン・ドゥン、細川俊夫……と、知らなくても普通な作曲家までばんばん取り上げられていました。(p58)

「高校を卒業するまでに生徒がこれだけのことを覚えてできるようになっていれば、音楽なんて屁の河童、以後の人生でどんなサウンドが来ても平気になるはず」と大谷はいう。

 本書全体を通して、著者自身の音楽(教育)観が前面に出ていて、賛否は別にして音楽論の書物としてはなかなかおもしろい。
 とりわけクリストファー・スモールの「ミュージッキング」を引用して、音楽「する」ことの重要性を強調するスタンスは方向性としては大いに共感する。

 それに関連して、音楽が持つ「商品価値」については義務教育では教えないという方針について、大谷は批判的である。商品としての音楽は 「まだ見ぬ「社会」を覗くための窓」であり、そのような音楽に触れることで、社会的な経験を擬似的にせよ得ることができると主張するのだ。

 もっとも、芸術作品としての音楽と商品としての音楽という二分法が大谷が認識しているような形で成立するのかどうか私は疑問に思っているのだが。

 いずれにせよ、ここで提案されていることを実践することの是非については議論の余地があるだろう。

 私自身は学校教育にさらなる過大な要求をすることには違和感をおぼえることが多い。本書でも前半で教科書に書かれていることすべてを教えることは物理的に困難であることを認めていながら、後段では、あれもこれもと要求を出しているのにはいささか首をひねった。そもそも教育の実践を既存の学校のみに押し付けるような世の風潮そのものを再考する必要があるのではないかと私は考える。

 ところで、二〇〇六年の教育基本法の改訂において「伝統と文化を尊重する態度」を養うための教育が義務付けられた。そのため日本の伝統音楽を学ばせることが重視されるようになり、教科書でもその点が明確に意識されているという趣旨の指摘は興味深い。教育基本法の改定は音楽教育にも多大な影響を及ぼしており、バカにはできないことを再認識させられた次第である。

by syunpo | 2019-06-02 22:00 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

受容者層の変遷に着目した異色の音楽史〜『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』

●片山杜秀著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』/文藝春秋/2018年11月発行

b0072887_12272433.jpg 音楽の歴史には人類の歴史そのものが刻まれている。とりわけ音楽の受け取り手である教会、宮廷、市民層の変遷は、まさに政治、経済、社会の歴史にほかならない。本書はそのような認識に基づき、音楽批評にも健筆を振るっている思想史研究者の片山杜秀がクラシック音楽の歴史を語りおろしたものである。

 ヨーロッパの音楽史で、中身がある程度はっきりしたかたちで今に連続していると考えられるのは、中世に成立したといわれるグレゴリオ聖歌である。伴奏がなく人間の声のみで歌われるのが基本形。メロディは今日の感覚からすればとても単調に聴こえる。それは人間にとって楽しいかどうかが問題ではなく、神の秩序すなわち「ハルモニア・ムンディ」を反映した音楽だから。

 宮廷音楽は壊滅することがあるが、宗教音楽はその宗教ある限り残る。キリスト教はもちろんヨーロッパの歴史を貫いて信仰されてきた。クラシック音楽の権威性のルーツはグレゴリオ聖歌に端を発する教会音楽にある。それはキリスト教の権威を示し、神の秩序をあらわす最高の道具だった。この宗教音楽としての特性は、その後、クラシック音楽が世俗化しても脈々と引き継がれていく。

 グレゴリオ聖歌のモノフォニー(単旋律)の世界の後に、ポリフォニー(多声音楽)と楽器の多様化現象があらわれる。そのきっかけとなったのはオルガヌムという唱法である。それは単旋律に同じ旋律をダブらせるところから始まったとされている。その背景には十字軍遠征による東方からの影響などが考えられる。

 グレゴリオ聖歌を歌うのは修道士や神父たちで、聴衆は聖職者たち自身であり、ミサなどに参加する信者だった。その状況を大きく変えたのは十六世紀に始まる宗教改革である。

 宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターは音楽にも通じていたことはよく知られている。教会で歌う歌もラテン語の聖歌ではなく、ドイツ語の讃美歌に代えていった。重要なのは、グレゴリオ聖歌からポリフォニーの教会音楽までは修道士や神父が歌い、信者は聴く立場だったのが、宗教改革以後、プロテスタントでは信者たちが自ら歌いかつ祈る、いわば参加型のスタイルに変わっていったことだ。

 さらに宗教改革の音楽の特徴として、独唱・独奏が重視されるようになったことも挙げられている。

……宗教改革は、民衆が主体的に信仰と音楽に参加していくコラールの「参加の原理」と、私に与えられた天職をまっとうし、ひとりで歌い、一対一で神とつながろうとする独唱の「個人の原理」という二つの方向性をもっていたといえるでしょう。(p72)

……そこでは、神の秩序を表象するパノラマのような音楽から、個人を主体とした参加と、魂の叫びとしての音楽への大転換が起きていました。近代の自由主義や民主主義を用意する音楽が登場したのです。(p73)

 この時期、ローマ教会の絶対性が揺らぐ過程で、もうひとつ、神の秩序を目指す音楽から離れ、人間の感情をストレートに表現する音楽ジャンルが誕生します。オペラである。

 ルネサンス期には、個の感情の爆発、官能性の表現、ギリシア神話などに姿を借りて現実の人間世界がテーマとなり、世俗の舞台で堂々と演じられるようになった。オペラの誕生は、こうした音楽の世俗革命だったといえる。

 教会とともに音楽のパトロンとなったのは現世の権力を握った王侯貴族たち。彼らは専属の音楽家を雇って自分たちのために作品をつくらせ、自分たちの屋敷・別荘などで演奏させた。その時代に登場したのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルらである。またゲオルク・フィリップ・テレマンの活躍も無視できない。彼は公共の世俗的催事のための音楽、教会音楽、オペラなどの娯楽作品などを次々とつくった。まさに市民の時代の幕開けを象徴するような作曲家であったのだ。

 バッハは当時、テレマンほどの人気はなかったという。かつてのポリフォニーの音楽の時代にこだわる古いタイプの音楽をつくっていたから。フーガやカノンなどの対位法的な手法を徹底的に使って音楽を緻密に数学的に織り上げていくことにこそ、音楽の本分があると信じていた。しかしそれは時代錯誤なことだった。

 十八世紀になると、商業経済の活発化に伴い、大都市圏では市民層が主役になっていく。ドイツやオーストリアなどではまだ領主たちの力が強かったが、宮廷音楽家を養っていくことは次第に困難になっていった。その就職難の波をまともに受けたのがモーツァルトである。彼の生涯の大半は、ヨーロッパ中の宮廷をまわる就職活動に費やされたといっても過言ではないらしい。「ハイドンやモーツァルトが変わったのではない。作曲家の商売相手が変わった」のだ。

 十九世紀に入ってようやく作曲家は自立できるようになる。その頃には市民層の拡大により、音楽教師の需要も高まる。ベートーヴェンはそんな時代に生まれた偉大なる音楽家だった。

 片山は、ベートーヴェンの音楽を三点に要約している。
「わかりやすくしようとする」「うるさくしようとする」「新しがる」──かなり大胆なまとめ方ではあるが、解説を読めばなるほどと思う。ベートーヴェンの時代に音が大きくなった社会背景として片山は都市化と革命と戦争を挙げている。そうしたコンセプトのうえに成立した「第九」は、当時の「市民の音楽」の最終形態であり極限形態だというのが片山の見立てだ。

 その後、ロマン主義の時代が到来する。ポスト・ベートーヴェン時代の市民は生まれながらの近代ブルジョワで「芸術の権威、音楽の高尚に、市民社会における神の等価物」を求めるようになる。クラシック音楽の権威化がすすむ。音楽学校というシステムが成立し、音楽理論も煩雑化していく。
 ロマン派の本質は「旅」にある。ここではない何処かに憧れて彷徨うこと。それがロマン派の精神。この頃に台頭した「教養市民」が高尚な芸術に憧れる姿はまさにロマン派そのものだと片山はみなす。

 そして手の届かないものへの渇望に強烈なナショナリズムを強力に結びつけたのがリヒャルト・ワーグナーである。ワーグナーの音楽は、近代と土着のナショナリズムによる統合であった。それがドイツという非常に強力な国家の形成に貢献したのである。

 そのような十九世紀を経た後、クラシック音楽は「洗練」と「超人志向」の二つの流れを生み出す。市民社会のひとつの完成や行き詰まりとしての「洗練」と、その壁を踏み越えさらなる進化を目指す「超人志向」。
 演奏家はクライスラーのように、趣味の良い典雅さの中に微妙なニュアンスを込めるスタンスが高く評価されるようになる。「超人志向」の音楽としては、ワーグナーにつづいてグスタフ・マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどが現れた。

 第一次世界大戦は音楽の世界をも当然ながら大きく変える。もはや進化も超人も決定的にリアリティを失う。音楽は刹那的で享楽的なものになる。ジャズはその代名詞である。クラシック音楽の世界では、新古典派音楽が登場し、さらに前衛音楽が生み出される……。

 シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ラヴェルがそれぞれ表現しているのは、壊れた世界で、周囲も見えぬまま、我を忘れて熱狂し、時間も空間もすっかり分からなくなって、バタンと倒れて、それでおしまい、という世界です。これぞ二十世紀のクラシック音楽が第二次世界大戦の前の段階で到達した姿です。その世界の、まさにサーカスの綱渡りのような延長線上に、われわれは今日も生きているのです。(p234)

 音楽家の音楽観や精神性などにスポットを当てた音楽史はこれまで数限りなく書かれてきた。本書のように音楽の受容層の変遷に着目したものは類書にはないユニークな特長といえるだろう。なるほどいかに優れた才能といえども社会から隔絶されたところから芽を吹き出すことはない。とりわけクラシック音楽というジャンルは、演奏され人に聴かれるためには、多くの労力と金銭を必要とする。片山の音楽史観はこうして一冊の本にまとめられると、至極説得的なものだと思われる。中公新書から出ている岡田暁生の凡庸な『西洋音楽史』に比べると段違いの面白さといっておこう。
by syunpo | 2019-02-06 12:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

音楽に国境があった時代の物語〜『冷戦とクラシック』

●中川右介著『冷戦とクラシック 音楽家たちの知られざる闘い』/NHK出版/2017年7月発行

b0072887_19505754.jpg 戦後のある時期、世界は二つの陣営に分断されていた。アメリカをリーダーに戴く西側。ソ連を盟主とする東側。両大国が直接一戦を交えることはなかったが、局地的な代理戦争はあった。キューバを舞台に核戦争の懸念を世界に与える危機も経験した。人はそれを冷戦と呼んだ。

 音楽に国境なしとよくいわれる。それなら冷戦という厳しい時代にあっても音楽は自由自在に国境を超えていくことができたのだろうか。クラシックの音楽家たちはその時代をどのように生きたのだろうか。本書では、レナード・バーンスタイン、エフゲニー・ムラヴィンスキー、ヘルベルト・フォン・カラヤンの三人を中心に冷戦期のクラシック音楽家たちの活動を振り返る。

 戦勝国のアメリカで生まれ音楽教育を受けたバーンスタインは、比較的自由に活動できたうちの一人かもしれない。みずからの政治信条に基づいて果敢に冷戦の時代を駆け抜けたが、それでもマッカーシー旋風の影響を免れることはできなかった。一九五三年には共産主義者の疑いがあるとしてパスポートの更新が拒絶された。当然ながら彼もまた時代の制約からは完全には自由ではなかったのである。

 ソ連ではいうまでもなく国際的に著名な音楽家たちも厳しく管理統制されていた。そのなかにあってレニングラード・フィルの主席指揮者を長く務めたムラヴィンスキーの活動ぶりは興味深い。フルシチョフ政権からブレジネフ政権に移行したとき、文化大臣はムラヴィンスキーの更迭を画策したが、果たせなかった。共産党幹部の親族の庇護を受けてそれなりに有利に立場にあったことも見逃せないが、それとともに世界的名声と自身の信念もまた彼の音楽活動を支えたといえる。

 カラヤンはヒトラー政権下でナチス党員になって出世した。戦後しばらくの間は音楽活動に復帰することはできなかった。しかし一九五五年にはベルリン・フィルを引き連れてアメリカへのツアーを行なう。ベルリン・フィルの米国公演は、ソ連東欧ブロックに対する西ドイツの政治的立場を重視した米国の政治的思惑があって実現したもので、そのことを内外に示す象徴的な意味合いをも含んでいた。

 この三人以外にも、もちろん様々な音楽家たちが登場する。

 ドミトリー・ショスタコーヴィチの浮沈の激しい人生は、まさに政治に翻弄されたものといえよう。才能豊かな音楽家が冷戦期の全体主義国家に生まれ落ちたことの不運を感じざるをえない。

 日本でも人気のあるグレン・グールドがソ連でコンサートを行なうために、彼の母国カナダのほか、ソ連、アメリカの政府が動いたというのは一九五〇年代ならではの挿話だろう。

 レニングラード・フィルの来日公演に際してソ連からのジェット機乗り入れの許可を得るために日本の興行師が交渉しなければならない相手が、日本政府でなくアメリカ駐留軍司令官であったことは戦後の対米従属路線を明瞭に示す現代史の一頁といえようか。

 チャイコフスキーコンクールやショパンコンクールの舞台裏も政治的な匂いが強く立ち込めている。開催国はそれぞれ自国の演奏家を勝たせるために様々な狡知を働かせた。そこでは音楽が世界の平和構築に貢献するよりもむしろ国威発揚に利用され、コンクールは政治的な機能をも果たしたのである。もっとも現実には、チャイコフスキーコンクールでアメリカのヴァン・クライバーンが勝ったりするなど、想定外の結果が生じることもあった。審査員のなかにも音楽家としての矜持を放棄せずに「国家の威信よりも藝術を重視する人」が存在したのである。

 中川は史実を淡々と積み重ねていく形で、冷戦時代の音楽家たちの動きを追っているが、なかで旧東ドイツのクルト・マズアに対しては「日和見主義者」と確言しているのが目を引く。彼のCDは何枚か持っているけれど、経歴をよく知らなかったのでいささか驚いた。
 音楽にも国境があった冷戦時代の音楽家たちの苦闘をとおして、政治と音楽の一筋縄でいかない関係が浮かびあがる。記述はやや単調ながら、主題の面白さで読ませてくれる本である。
by syunpo | 2019-01-12 19:55 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

音楽史を彩るパガニーニの存在感〜『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト』

●浦久俊彦著『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』/新潮社/2018年7月発行

b0072887_1958484.jpg ニコロ・パガニーニ。一八世紀の末から一九世紀にかけて活躍したヴァイオリニストであり作曲家。超絶技巧でヨーロッパ中を狂乱させ「悪魔に魂を売り渡した」とまで言われた。ステージでの特異なパフォーマンスもあってか、毀誉褒貶が激しく、真偽定かならぬエピソードには事欠かない。音楽史研究者泣かせの人物。本書は日本語で書かれた初めてといってもいいパガニーニの評伝である。

 パガニーニの影響を受けた音楽家は数多い。ロッシーニ、シューベルト、ショパン、シューマン、リスト、ブラームス、ラフマニノフ……。
 パガニーニの演奏を聴いてリストは「ピアノのパガニーニになる」と宣言した。進むべき道を決めかねていたシューマンを音楽家へと導いたのもパガニーニの演奏だった。オペラ上演史にもパガニーニの名は刻まれている。ロッシーニの新作オペラ『マティルデ・ディ・シャブラン』の初演を指揮したのがパガニーニだったのだ。

「ロマン派という近代西洋音楽史の輝かしい時代は、この悪魔と天使が同居したような人物の登場によって彩られたともいえる」と浦久はいう。

 もうひとつ注目すべきなのは、パガニーニが「大衆向けエンターテイメントという新たなマーケットを開拓した」という点だ。ウィーンで大衆が金を払ってまでも演奏を聴くようになったのは、パガニーニが初めてのことであったという。そのことの歴史的評価はともかくとして、そうした史実はもっと知られてよいことだろう。

 浦久はパガニーニの画期的な活動ぶりを再検証するにあたって数多くの資料にあたっている。シャーロック・ホームズの探偵小説やスタンダールの『ロッシーニ伝』、ハイネの『フローレンス夜話』などなど、参照文献が音楽史関連の文献にとどまらず多岐にわたっているのが本書の叙述に厚みを加えているといえよう。

 パガニーニは一部の研究者のあいだでは未だにキワモノ扱いされているようだが、本書を読んであらためて音楽史的にもっと大々的に議論されるべき存在ではないかと思った次第である。
by syunpo | 2019-01-03 20:01 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

そこに物語が生まれる〜『未完成』

●中川右介著『未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く』/角川マガジンズ/2013年1月発行

b0072887_2120068.jpg クラシック音楽史上には「未完成」ながら名曲と呼ばれる楽曲の系譜が存在している。シューベルトの未完成交響曲。ブルックナーの交響曲第九番。マーラーの交響曲第十番。ショスタコーヴィチのオペラ《オランゴ》。プッチーニのオペラ《トゥーランドット》。モーツァルトのレクイエム。

 本書はそれら六曲の未完成作品に関する歴史的考証を軽快な筆致で描き出し、音楽史の一端に眠っているドラマを浮き彫りにしていく。必要以上に高踏的にならず、下世話な事情にも遠慮なく分け入っていくのが良くも悪しくも著者のスタイルといえばいいだろうか。

 未完の理由は大きく分類すれば二つ。ひとつは作曲家の死による絶筆。もうひとつは行き詰まったための未完。しかしその事情や背景、未完成の曲の体裁を整えて演奏するに至る経緯などを細かにみていくと、様々な人間たちによる人間模様があぶりだされてくる。──音楽家の苦悩のみならず、劇場や楽譜出版社の営業戦略、初演や補作に関わった演奏家・音楽家たちの思い、遺族たちの打算や思惑、聴衆たちの〈物語〉〈伝説〉信仰……などなどの要素が複雑に絡み合う人間ドラマが。

 シューベルトやブルックナー、マーラーの未完成作品については、俗説やフィクションを含めてすでに多くの論考やそれらを材に採った二次創作が存在している。私的にはショスタコーヴィチ未完のオペラ《オランゴ》をめぐる一連の挿話がもっとも興味深く感じられた。

《オランゴ》は二〇世紀のソ連によって「抹殺された作品」であった。オランゴとはオランウータンからの造語で、このオペラの主人公は半人半猿として生まれた男である。台本を書いたのはアレクセイ・トルストイとアレクサンドル・スタルチャコフ。ボリショイ劇場からの委嘱であったが、何らかの事情でこの企画は潰え、そして忘れられた。

 ショスタコーヴィチには完成しているのに政治的な理由によって演奏されない曲があった。交響曲第四番である。その当時スターリンがショスタコーヴィチに対して懐疑的な態度をとっていたため、演奏することが躊躇われたらしい。ただし演奏されない幻の交響曲があることは誰もが知っていた。しかし《オランゴ》は誰からも忘れられ、ショスタコーヴィチ自身の書き残した文献にもまったく登場しない。本当にヤバい作品なら燃やされたはずだが、楽譜はそのまま生き続けた。

 そして二〇〇四年、グリンカ中央博物館の主席研究員オリガ・ディゴンスカヤによって楽譜が発見された。その後、研究者による補筆作業がなされ、二〇一一年に「プロローグ」が初演され、二〇一二年には晴れてCDとしてリリースされた。

 発見した研究員によると、楽譜を捨てるように指示された家政婦が密かに持ち出したのだという。ショスタコーヴィチと親しかった作曲家レヴォン・アトヴミヤンがショスタコーヴィチ家の家政婦に依頼し、彼が廃棄した楽譜を定期的に届けてもらっていたらしい。アトヴミヤンがどういう目的で楽譜を入手していたのかは不明である。

 そうした曖昧な事実関係ゆえに、中川は《オランゴ》が本当にショスタコーヴィチが書きかけたものかどうか、しっかりした検証が必要と指摘して論考を締めている。

 またブルックナーの交響曲第九番に関する論考もなかなか興味深い。九番は第四楽章の作曲途中でブルックナーが他界した。弔問に訪れた友人や知人が部屋に散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまったため、ほぼ完成していた第四楽章の楽譜は散逸してしまい「幻の楽章」となったのである。

 その後、散逸した楽譜の回収作業が行われ、研究もすすんだ。一九八四年、ウィリアム・キャラガンが完成版をつくったのを手始めに、その後も複数の研究者が第四楽章の補完楽譜を世に出している。

 それでもブルックナーの九番は演奏会ではアダージョの第三楽章までしか演奏されないケースが多い。その場合、ブルックナーはアダージョでこの世に別れを告げた、という虚構的な物語を伴って演奏される。

 ブルックナーの死によって最初に「未完」となり、楽譜の散逸により二重の「未完」になった第九番は、興行会社とレコード会社と聴衆によって三重の「未完成」となった。(p90)

 作品それ自体を鑑賞すれば事足りるというテクスト主義の立場からすると、未完成の理由や背景などを詮索することは邪道ということになろう。が、「未完なのに、演奏される」事情を知ることはその作曲家が音楽の世界においてどのような存在なのかを理解する上でも不可欠であり、事実を検証した上でそのセンチメンタルな伝説も含めて楽しむ──というのが本書の基本姿勢である。
 ベルリン・フィルの内幕を描いた『カラヤンとフルトヴェングラー』はあまり好きになれなかったけれど、本書は楽しく読むことができた。
by syunpo | 2018-12-19 21:22 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

ハーモニーを生きる〜『ピアニストは語る』

●ヴァレリー・アファナシエフ著『ピアニストは語る』/講談社/2016年9月発行

b0072887_9335287.jpg 旧ソ連からベルギーに亡命し、活躍を続ける世界的ピアニストが講談社現代新書のために語りおろした記録。アファナシエフは文筆家としても知られ、二〇〇一年に出たエッセイ集『音楽と文学の間』はとても面白く読んだ記憶が残っている。

 本書では、第一部で旧ソ連からベルギーに亡命するまでのドラマティックな半生を振り返る。第二部ではベートーヴェンへの新たな挑戦を具体例として、近年の演奏の変容を中心に彼の音楽に対する思索と実践を語っている。

 モスクワ音楽院での恩師ヤコブ・ザークとの屈折した師弟関係にまつわる回顧談がとりわけ興味深い。彼はある時、レッスン中のアファナシエフの楽譜に「呪われてあれ」と書きつけたという。「この言葉によって私がさらに強く鍛えあげられることを彼はもくろんでいたのです」。教師からは必要なものだけをもらえばよい。それがアファナシエフの考えであった。

 海外でのコンクール出場、コンサートツアーから亡命に至るまでの経緯もかなり生々しく語られていて映画化すれば面白かろうという内容だ。もっとも亡命後の西側での生活に関しては失望感もあったらしい。
「西側にも、これは日本も含めてですが、コマーシャリズムによる見えない巨大な検閲制度が存在していたのです」という批判は今さら珍しくもないけれど、アファナシエフの口から語られるとやはり重みは違ってくる。

 二〇一五年、アファナシエフはベートーヴェンの三曲のソナタ(『悲愴』『月光』『熱情』)を録音した。そこではハーモニーを重視する新たなアプローチを示したことで話題になった。

 私はいまハーモニーの意味について深く考えています。私の人生にとって、非常に重要な変化ですから、このことについてお話ししましょう。私はここ数年来、ハーモニーという面から、音楽を見つめ直すようになったのです……。(p155〜156)

 ……論理的にというよりも、ハーモニーに沿って多くを聴きとるということが重要です。すると、メロディーそのものが横に延ばされて、時間を拡張したハーモニーになってくる。演奏していると、そのようなことが起こるのです。これを感じとることができると、私ではなく、誰かべつの人が演奏しているように思えてくる。コンサートホール自体が演奏している感じです。これは大切な感覚で、そこから自分のすべきことに熟達していくのです。(p156)


 ハーモニー、メロディー、リズムの要素を、どのように一体のものとしてオーガナイズするのか、という問いには「ただ、ひたすら聴くことです。そして、フランス語の表現にいう『音に無理強いしない』こと。過剰にやりすぎない、音楽から外れない──これが私の信条です」。

 アファナシエフ自身が語った音楽論・文化論としては『音楽と文学の間』に収録されている浅田彰や小沼純一、川村二郎によるインタビューの方が私にはスリリングに感じられたが、自身の半生を回顧し、演奏の変遷をたどる談話として本書もまた意義深い本といえるだろう。
by syunpo | 2016-10-30 09:36 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

恩人たちへの感謝〜『おわらない音楽』

●小澤征爾著『おわらない音楽 私の履歴書』/日本経済新聞出版社/2014年7月発行

b0072887_19365281.jpg 本書は日本経済新聞の〈私の履歴書〉に連載した文章に加筆修正をほどこしたものである。すでに新潮文庫に入っている『ボクの音楽武者修業』という自伝的な書物があり、当然ながら記述内容に重なる部分も少なくないのだが、本書では「恩人たちを紹介する」ことに重きが置かれているのが特長。

 世界的指揮者として活躍してきた小澤だけあって、音楽畑以外の「恩人」たちも錚々たる顔ぶれであることにあらためて驚かされる。日野原重明、小林秀雄、井上靖、イサム・ノグチ、広中平祐……。

 一九六〇年、ヨーロッパでの活動をあきらめて帰国を考えていた時に「どんなことがあっても、ここにいなさい」と助言してくれたのが井上靖で、その言葉がその後も心の支えになったという挿話はなかなか興味深い。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいことなんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても翻訳なしで理解してくれるじゃないか……」

 音楽仲間との関係では、オペラについて助言をくれたクラウディオ・アバドやコンサート・キャラバンを一緒に始めたムスティスラフ・ロストロポーヴィチらにまつわる話が印象に残った。

 ただ本書はもっぱら社交上のエピソードが中心になっていて、内容的にはやや皮相的で薄味。文体の軽さもそのような読後感を強めている。功成り名遂げた音楽家としての含蓄豊かな文化論的な読み物を期待した私にはいささか物足りない感じがした。
by syunpo | 2016-10-14 19:38 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人体と宇宙のハーモニー〜『138億年の音楽史』

●浦久俊彦著『138億年の音楽史』/講談社/2016年7月発行

b0072887_20115081.jpg 音楽から世界をみるのではなく、世界から音楽をみる。ここに書かれてあるのは壮大な音楽のタペストリーである。音楽史はもちろん、宇宙物理学から数学、医学、生物学、考古学、キリスト教神学、政治学、哲学などなど様々な分野から知見を取り込んで、悠久の音楽史を浮かびあがらせる。

 ここでは娯楽とか芸術とか現代的な観点がひとまず括弧に括られ、政治的機能や権力との関係、他の学問分野との関連など、音楽の多面的な性質が万華鏡のように読者の前にあらわれる。著者はパリで音楽学、歴史社会学、哲学を学び、現在は文化芸術プロデューサーとして活躍している人物。並の音楽史研究者にはなし得ない力技といっていいだろう。

 音霊や言霊を媒介に「神との交感」として生まれた音楽の事始め。宇宙の調和と音の関係を考えたピュタゴラスのひらめき。古代の戦場で武器とともに活躍した太鼓やトランペットなどの楽器。古代中国における法としての音律。聖歌を教える苦労から記譜法の考案にいたった修道士の機知。……世界の歴史に刻印された音楽にまつわるエピソードにふれていると、まるで音楽のテーマパークを周遊しているような気分になってくる。

 感情の音楽としてオペラを捉え、それは同時代のデカルトの処女論文『音楽大要』の認識と軌を一にしていると指摘するくだりなどもなかなか勉強になるし、マックス・ウェーバーが『音楽社会学』の未完論文を残していたというのも初めて知った。

 ただし諸手をあげて人に薦めるには躊躇せざるをえない難点がいくつかある。まずブッキッシュな人の記述の常として、先人の著作からの引用が中心になっているので、内容が多彩な割には読み味がやや平板なこと。時に衒学的な匂いがするところも嫌味に感じられる。また現代における音楽と社会との関連を概観する最終章で、疑似科学的な挿話がいくつか紹介されているのも少し引っかかった。むろんそれらを差し引いても一読の価値はあると思う。
by syunpo | 2016-10-01 20:13 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(0)

搦め手から迫る〜『クラシックの核心』

●片山杜秀著『クラシックの核心 バッハからグールドまで』/河出書房新社/2014年3月発行

b0072887_1981957.jpg 片山杜秀とは私にとってはまず現代音楽の批評というジャンルで知ることになった名前である。ナクソス・レーベルのカタログに解説文なんかも書いていて、私などはその影響でCDを買ったりもした。政治学を専攻する学者であることを知ったのは少し後のことである。

 さて本書は編集者相手に問わず語りに喋った内容を一冊にまとめたもの。バッハ、モーツァルト、ショパン、ワーグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤン、カルロス・クライバー、グレン・グールド……と九人の作曲家・演奏家が俎上にのせられている。

 カラヤンもフルトヴェングラーも知らない人が入門書的な意味合いで手にとったならば、それなりの役目を果たす本かもしれない。しかし少しでもクラシック音楽に親しんできた読者には失礼ながら新味はほとんどない。どこかで聞いたような紋切型の論評もしくはそのヴァリエーションといった印象を大きく超えることはないのだ。「へそ曲がり」を自称する片山でも、スタンダードな音楽家を語ると批評の言葉もまたスタンダードになってしまうのか。カルロス・クライバー論など伝記的事実に基いて同じことを延々と喋っているだけで退屈極まりない。

 面白味があるとすれば、個人的な随想としての味わいとでもいえばよいか。たとえばテレビ番組との組み合わせで強烈にインプットされてしまった音楽体験(『レインボーマン』におけるバッハ《トッカータとフーガ》!)の懐旧談など、ほぼ同世代の私にも懐かしさを共有できる事例もあったりして、そういうくだりは楽しく読めた。
by syunpo | 2016-05-01 19:12 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

●許光俊著『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』/講談社/2014年2月発行

b0072887_22272620.jpg 大仰なタイトルが付けられているが、早い話が有名な標題音楽の録音聴き比べである。ありきたりの企画ながら類書と一線を画すところがあるとすれば、凡百の専業音楽評論家と違い、その書名からも推察されるように音楽の領域を超えた人文系教養を(ぎこちない身振りながらも)感じさせる点だろうか。プロローグで本書の試みをベンヤミンの翻訳論に準えることに始まって、ヴィヴァルディ《四季〜春》のカラヤンの演奏評にエドマンド・バークを引用してみたり、パイヤールを賞賛するのにフーコーの『性の歴史』を持ち出してみたり、あるいはスメタナの音楽を語るにサイードを参照してみたり。

 本書には全体をとおして貫かれている一つの認識がある。「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である」という命題だ。演奏家の「感覚や想像力」を語ろうとするときに思想家たちの言説がふと紛れ込んだりするわけである。

 ヴィヴァルディ《四季〜春》、スメタナ《わが祖国〜モルダウ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、ムソルグスキー《展覧会の絵》のわずか四曲のCD聴き比べだけで、薄くはない一冊の選書を書いてみせた著者の饒舌には驚嘆すべきかもしれない。

 もっとも著者の「理念」を追求せんとする文章が読者を音楽の楽園へと向かわせる魔力を有しているかどうかは微妙である。オーケストラの特徴を論じるくだりなど紋切型に収まってしまう記述も多く、新たな感興を呼び起こすようなインパクトには欠ける。何よりも高みから演奏家を見下ろすような官僚的な書きぶりからは、書名に示されている「遊戯」の悦楽も恍惚も当然ながらほとんど伝わってこなかった。
by syunpo | 2016-01-07 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)