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ブックラバー宣言

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カテゴリ:美術( 24 )

芸術から遠く離れて〜『反アート入門』

●椹木野衣著『反アート入門』/幻冬舎/2010年6月発行

b0072887_19583288.jpg〈反(=アンチ)〉を唱える身振りによって、そのジャンルは延命をはかっていく。それはアートの諸分野に限らず、文学の領域でも政治勢力においても日常的に観察しうるありふれた光景である。本書にみえる〈反〉の態度もまたしかり。細部にキラリと光るフレーズもなくはないが、基本姿勢においては一つの紋切型の反復であり、その意味では退屈な本である。

 しかもこの退屈さと戯れようにも論旨があまりにも混乱しすぎている。たとえば美術作品が投機の対象として隆盛している現状を概観した後、美術作品と貨幣経済との関係を経済学のタームを駆使して壮大に論じるという大立ち回りを演じたうえで、椹木は「いまアートの世界で起こっていることは芸術の堕落ではなく、それがもともと持つ野性が、思うがままに解き放たれた生の状態」と大見得を切る。そうであるならば、これからも村上隆や奈良美智のような市場価値満点の作品を愛でて芸術の野性あふるる「生の状態」を謳歌すればよろしいはずである。

 ところが最終章にいたって、椹木は芸術の現状に不満を示し、その行く末を深刻に憂えている様子なのだ。しかも問題がすっかり通俗化された形で。

 現在の社会は、政治・経済の難問に始まり、環境破壊、疫病の蔓延、戦争の恒常化、そして生活のこまごましとした次元に至るまで、解決がむずかしく先行きの見えない多くの問題を抱えています。元来であれば、こうした閉塞状況に希望や新しい可能性を兆すのがアートの役割であるはずです。けれども現在のアートは、そうした答えを持っていません。(p245)

 政治・経済の難問や環境破壊などの課題に明解な「答え」を示したアート作品が過去にあったというなら、それは具体的に誰の何という作品なのか是非知りたいと思うが、それに言及した箇所は残念ながらみつからない。そもそも経済の難問も環境破壊も端的に資本主義下での貨幣経済が生み出しているものなのだから、「芸術作品と貨幣経済とは元来は同じもの」だったという認識に同意を示している論者が芸術作品に答えを期待することじたいがマヌケというものだろう。
 もっとも椹木自身はみずからの現状認識に含まれる矛盾には無自覚なまま、ハイデッガーを引用して「即座に有効な処方箋を求める渇望自体が、問題を抱えた社会に固有の特徴」だとして「思索の余裕」を取り戻すべきだと陳腐な「答え」で片付けている。

 では、何が問題なのか。
 続いて椹木は「アートや芸術の復興」について問いかけ、さらに後段では「日本ではアートが社会に根づく余地はないのでしょうか」とも思案している。

 それらの問題に対しても参照されるのはハイデッガーだ。彼の「隠れ・なさ」なる概念に着目して、それを柳宗悦の「民藝」運動や水墨画・禅画などに見出そうとする。しかしすでに東西の多くの論者によって言及されてきた東洋的な美術を引っ張り出してきて西洋哲学風味の理論で再武装を図ったところで、いやそれゆえに、オリエンタリズムの紋切型をオリエント側から反復することにしかなるまい。
 もとより不思議なのは、本文において椹木自身が明確に繰り返し採用している「西洋/東洋」という議論の図式について、〈あとがき〉では「いまやほとんど意味をなさない枠組」とみずから無効を宣言していることだ。

「アートが社会に根づく」ことを妨げているのは、何よりもこういうアカデミズムの意匠をまとった支離滅裂な言説ではないか。本書の壮大な空転ぶりに現代美術批評の混迷の一端が「あらわれ」ているように思う。
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by syunpo | 2013-03-07 20:06 | 美術 | Comments(0)

時代を再生させる対話の火花!?〜『なにものかへのレクイエム』

●森村泰昌著『対談集 なにものかへのレクイエム 二〇世紀を思考する』/岩波書店/2011年10月発行

b0072887_1983120.jpg 森村泰昌は二〇一〇年から二〇一一年にかけて〈なにものかへのレクエイム/戦場の頂上の芸術〉展を開いた。本書はその個展にあわせて行なった対談をまとめたものである。対談相手は、鈴木邦男・福岡伸一・平野啓一郎・上野千鶴子・藤原帰一・やなぎみわ・高橋源一郎。なかなかバラエティに富んだ顔ぶれだ。

 特定の展覧会にちなんだ対談ではあるけれど、そこにはおのずと森村の芸術そのものに対する態度や認識が随所ににじみでる。話し相手が様々なジャンルから選ばれたこともあって、多角的に美術家・森村の像が浮きあがってくるような対談集となっている。

 森村の作品にはパロディ的なものが多い。それは上野によって「ハイコンテクスト性」「文脈依存性」と言い換えられるわけだが、それに対して森村は「ハイコンテクスト性のないものはない」と言い切る。芸術上のあらゆる創作は文脈依存性を有する、それが程度の差としてあらわれるにすぎないというわけだ。
 古いものを懐かしんで「昔はよかった」と懐古するわけでもなく、新しい時代の新しいイメージに追随するのでもない。「古いものと新しいものとの新しい関係を見出すことによって、何かを産み出す」こと。森村が目指すのはそういうものである。

 高橋源一郎との対談で森村が大震災後の「シンプル」な言葉の氾濫に異議を唱えているくだりも興味深い。「頑張れニッポン」「社会貢献」「いま私たちに何ができるか」……震災後にあふれた紋切型のフレーズ。イエスかノーかが端的に問われてしまうような風潮に対して「それは本当にあなたの言葉なんですか」と問いかける。

 音楽でも美術でも、芸術は人を勇気づけるようなものじゃないとぼくは思っています。「頑張れニッポン」じゃないと思うし、「頑張れキミ」でもない。「私が悪うございました」ってひたすら謝ることに徹するのは芸術の本分じゃないかな。(p179〜180)

 「正しさへの同調圧力」に抗う姿勢を隠そうとしない森村の一見自虐的な言葉に美術家としての矜持を見る思いがした。
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by syunpo | 2012-07-02 19:21 | 美術 | Comments(0)

天才アーティストの魂の軌跡〜『無限の網』

●草間彌生著『無限の網 草間彌生自伝』/新潮社/2012年4月発行

b0072887_10472538.jpg 水玉と網目模様。反復と増殖。一見単調なモチーフの繰り返しの中に人間の不安と癒しとが共存しているかのような独特の世界が見えてくる。この不思議なクサマ・ワールドはいかにして形成されてきたのか。みずからの芸術観を語る草間自身の言葉はところどころ紋切型におさまっているようにも感じられるが、それでもやはり一気に読まされてしまう。
 現代において心身の病いを彼女ほど切実かつポジティブに創作活動に昇華しえた例を私は他に知らない。二〇一二年一月から四月にかけて大阪で開催され、その後各地を巡回している《草間彌生 永遠の永遠の永遠》展も並外れた創造力を感じさせるものだ。

 ところで本書には自身の作品に関する批評家のコメントが随所に引用されている。前衛アーティストとして自由奔放に創作活動を続けてきた草間の自伝としてはいささか意外に感じられないでもない。しかし幼少の頃から母には絵を描くことを禁じられ、時には罵詈雑言を浴び、また米国での活動を扇情的に報じる日本のメディア報道をもとに母校の同窓会除名の署名運動まで起こされたという草間にとって、他者から承認を得ることはやはり重要なことだったのだろう。

 いつも私を元気づけていた 君のやさしさに打ちのめされて
 心の底から私は「幸福への願望」を道づれに
 探し求めてきたのだった
 それは「愛」という姿なのだ
 (p270、「落涙の居城に住みて」)

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by syunpo | 2012-06-20 10:52 | 美術 | Comments(0)

科学の芸術のあいだ〜『フェルメール 光の王国』

●福岡伸一著『フェルメール 光の王国』/木楽舎/2011年8月発行

b0072887_19115139.jpg 美術にも造詣の深い売れっ子の生物学者がフェルメールの絵画を観て廻る。それぞれの地にゆかりのある科学者を想起しながら時にフェルメールの画業と重ねあわせるその視点は、いかにも生物学者らしい眼と想像力を感じさせる。ニューヨークと野口英世。パリとガロア。ロンドンとワトソン&クリック。ベルリンとシェーンハイマー。

 そして本書をとおしてキーワードとなっているのは「微分」「界面」といった科学的な用語である。福岡からみれば、フェルメールの絵画は「光のつぶだち」を凝視しながら移ろいゆく世界の動的平衡を画家の立場から「微分」したものとして捉えられるのだ。

 この世界にあって、そこに至る時間と、そこから始まる時間を、その瞬間にとどめること。フェルメールは絵画として微分を発見したのである。(p238)

 同じような趣向でニューヨーク在住のジャーナリストが記した『フェルメール全点踏破の旅』とは一味も二味も違う世界が広がっている。旅に同行したカメラマン・小林廉宜の写真がふんだんに使われた美しい本である。
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by syunpo | 2011-10-31 19:17 | 美術 | Comments(0)

明暗の対比にみる絵画史〜『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』

●宮下規久朗著『フェルメールの光とラ・トゥールの焔──「闇」の西洋絵画史』/小学館/2011年4月発行

b0072887_18395436.jpg 西洋絵画は中世の終わり頃から一貫して光と闇の対比の効果を追求してきた。ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが確立した革新的な「闇」の表現。バロック絵画の先駆者カラヴァッジョによる光と闇のドラマを経て、ラ・トゥールやレンブラントらの静謐な光と闇の描写へ。そこからさらにフェルメールは闇を払拭する白昼の光をそのまま結晶させたような美の世界に到達した。その後につづく印象派になると戸外の明るい陽光を写し出して華やかな色彩が画面を彩るようになった。

 以上のように宮下規久朗は西洋絵画史の流れを「光/闇」という視点で手際よくまとめてみせた。小学館ビジュアル新書の第二弾だが、本文で言及されている約七〇点の作品がカラー図版で掲載されているのが何より好ましい。編集者の労にも拍手をおくりたい。
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by syunpo | 2011-08-10 18:55 | 美術 | Comments(0)

美と知識の宝庫へ〜『肖像画論』

●高階秀爾著『肖像画論 モーツァルトの肖像をめぐる15章』/青土社/2010年5月発行(新版)

b0072887_18152821.jpg 現在に伝わるモーツァルトの肖像画は全部で十四点あるという。美術的には価値のある作品は少ないようだが、一人だけの独立像や集団肖像、正面を向いたものもあれば横顔もあり、材質・技法でいえば油絵のほか、水彩、素描、シルエット、ミニアチュアなど実にバラエティに富んでいる。
 本書はそうしたモーツァルト象を出発点として、西欧美術史上の作品を中心に肖像画にまつわる問題を論じたものである。

 作者未詳の《黄金拍車勲章をつけたモーツァルト》から説き起こして、芸術家の社会的地位の変化や王家の権威表象の変遷などに考察を進めたり(第5章)、横顔の肖像画から絵画の起源(をめぐる物語)について遡行的に論じたり(第9章)、高階の筆は自在に展開していく。

 オランダ発祥の集団肖像画はオランダの市民社会の要請によって生まれたものであるが、さらに時代が下ると画家たちの主張を込めた「マニフェスト」的な意味をも含有することとなった(第7章)。たとえばモーリス・ドニの《セザンヌ礼賛》。この絵は当時ほとんど無名に近かったセザンヌとナビ派への支持を表明しているのはいうまでもないが、画中画としてかつてゴーギャンが所蔵していた静物画が描かれていることから同時にゴーギャンに対する敬意の表明でもあるのだ。

 また油彩画のための予備的習作という意味をもつことの多いデッサンについて、著者は「完成されたひとつのジャンル」という視点から叙述する(第13章)。デッサンのなかで肖像画の分野に大きな足跡を刻んだアングルは「線こそがデッサンであり、それがすべてだ」と考え、そのようなデッサンを数多く残した。一方でその孫弟子にあたるスーラは線を用いず明暗だけで描画した。《シニャックの肖像》などはその優れた作品の一つである。彼が新印象主義の理論家として色彩表現の上で後の世代に大きな影響を与えたことはよく知られた史実だろう。

 肖像画という一つの限定されたジャンルにスポットをあてるだけでも、美術史の大きな流れや絵画表現に転換をもたらした時代の社会背景や思潮、芸術観が浮き上がってくる。ちょっと面白い本である。
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by syunpo | 2010-12-21 18:28 | 美術 | Comments(0)

自発的な公共空間としての〜『美術館をめぐる対話』

●西沢立衛著『美術館をめぐる対話』/集英社/2010年10月発行

b0072887_20244651.jpg 美術館が公金で建てられるとき、それはしばしば「ハコモノ行政」の典型とみなされる。美術館の内容や運営次第では地域社会を活性化する起爆剤となりうるが、逆に財政を圧迫するだけの単なるハコに成り下がってしまうこともある。

 美術館とは本来的には「アート」や「町づくり」や「公共性」の接点となるべき公共空間ではないのか。その意味では今日多様な視点からの再吟味が要請されている。あらためて私たちは問い直さねばならない。……美術館はどうあるべきか? そしてアートとは? 公共性とは?

 そうした問題をめぐって、これまでいくつか美術館の設計を手がけてきた建築家の西沢立衛が五人の関係者と語りあった。対話相手は、青木淳(建築家)、平野啓一郎(小説家)、南條史生(森美術館館長)、オラファー・エリアソン(アーティスト)、妹島和世(建築家)。このうちエリアソンとの対話は電子メールを通じて行なわれた。

 全編をとおして西沢たちは美術館を作品を容れるための単なるハコとしてのみ捉えるのではなく、周辺環境や共同体との連関のなかで「開かれた空間」として位置付けようと心をくだき、さらには都市や地域社会の再生の契機として捉えようとしているのが特筆される。
 そのような文脈で、西沢が手がけた金沢21世紀美術館や十和田市現代美術館などの具体例が引かれ、それらの美術館がいかに街に溶け込み、地域の活性化に貢献しているかが具体的に語られる。
 たとえば、十和田市現代美術館は「(美術館が建つ)官庁通り全体を美術館と見立てる」というコンセプトでコンペティションが行なわれ、通りに広がるアート活動全体の一部として建設されたものだという。開館後には市内に新しくできた病院で展覧会が開かれるといった波及効果も生まれている。

 その一方で、海外においては企業の倉庫や発電所、校舎などの古い建物が美術館に転用され成功しているケースが少なくない。「もともと違う目的のためにつくった建物のほうが、結果的に優れた回答になりうるというのは、建築設計の側にとっては皮肉な話」(西沢)だが、そのような事例についても建築家たちが関心を示しているのも注目に値するだろう。

 また「公共性」や「公共空間」を行政のみの課題に矮小化することなく、官民を問わず市民たちが能動的につくっていくべきとの認識が繰り返し示されている点も本書の重要な問題提起といえよう。

 総じて論者たちの理念が強く押し出された内容になっているが、実例が具体的に紹介されているので、それなりに説得力を伴った議論になっているように思う。
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by syunpo | 2010-11-26 20:34 | 美術 | Comments(0)

《真珠の耳飾りの少女》の白い点〜『誰も知らない「名画の見方」』

●高階秀爾著『誰も知らない「名画の見方」』/小学館/2010年10月発行

b0072887_1923034.jpg 美術史家の第一人者・高階秀爾が「絵の見方」をわかりやすく解説した本である。小学館101ビジュアル新書の〈Art〉編の第一弾ということらしい。

 多くの作品を鑑賞し、互いに比較し、歴史や背景を探っていくうちにまるで山道で突然に眺望が開けるように、今まで気づかなかった新しい視点が浮かびあがってくることがある。それは思いがけない細部の特質であったり、歴史とのつながりや画家の仕掛けた密かな企みなど、様々だ。著者のいう「絵の見方」とはそのような視点を見出すことにほかならない。
 というわけで、本書では八章にわけてこれまで見落としがちであった「絵の見方」が具体的にレクチュアされる。週刊誌形式で刊行された絵画全集に掲載された文章を書き改めたもので、要点を簡潔にまとめた短文形式が新書の体裁には適っていると思う。言及されている主要作品には写真が必ず掲載されているのも好ましい。

 とりわけ冒頭の〈もっともらしさの秘訣〉と題された小論が面白かった。
 フェルメールの《真珠の耳飾りの女》における少女の魅力は神秘的ともいえるそのまなざしにある。この表情豊かな目をじっと見ると瞳に白い点が描かれていることがわかる。ハイライトとして白い点をひとつ加えることだけで、生命感あふれた人間の顔になった。
 同じように徹底した写実表現で知られるヤン・ファン・エイクはどうだろう。《ファン・デル・パーレの聖母子》に描かれた老人の目をよく見ると、瞳の真ん中に線が描かれているのが知れるだろう。この線は画家がこの絵を描いたアトリエの光源となっていた窓の枠なのである。

 すなわち、同じ「写実的な画家」といってもその表現は大きく異なる。ファン・エイクは光を即物的に「自然のとおり」に描くことで、人物の存在感や質感を豊かに表した。一方、フェルメールは「不自然で人為的」な白い点を描き加えることで、瞳に生き生きとした輝きを与えることに成功した。ちなみに現代においても写真家は生き生きとした表情をつくり出すために被写体のなかに人為的な光を加えることがあるという。フェルメールは、メディアこそ違うものの現代にも通じる技法を四百年近くも先取りしていたことになる。

 このほかゴーガンの「隠された代表作」や、黒の使い方からその画業を見直そうとするルノワール論、モデルの背中を実際より長く描いて女性の身体の丸みを強調したアングルの《グランド・オダリスク》についての分析などなど、多様な角度から「名画の見方」が提起されている。
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by syunpo | 2010-11-10 19:09 | 美術 | Comments(0)

競売人による新たな美術史〜『印象派はこうして世界を征服した』

●フィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』(中山ゆかり訳)/白水社/2009年7月発行

b0072887_19211569.jpg ドガ、ルノワール、モネ、ピサロ……フランスの十九世紀後半に始まった印象派は今日、美術作品の「ブランド」として押しも押されもせぬ地位を築いている。しかし、当初はまったく受け入れられなかったばかりか、画家たちにはしばしば「精神異常者」「無能者」「アナーキスト」などの罵詈雑言が浴びせられた。

 そんないかがわしい前衛芸術の一つにすぎなかった印象派絵画がいかなる経緯で世界的に認められるようになったのか?
 本書は、絵を観る人、買う人たちが印象派をどのように受け止めてきたのか、その受容のしかたがこの百数十年のあいだにどのように変遷してきたのかをあとづけたものである。著者はクリスティーズとサザビーズという二大オークション会社の競売人として経歴をつみ、画商としても活躍した英国人。

 フランス本国では強い反発をもって迎えられた印象派を先駆けて評価したのは米国でありドイツであった。米国には生来のフランス贔屓と若い国に特有のセンス、すなわち芸術的偏見が少ないという背景があった。また国の富が急激に増加している時期にあたり、巨額のアメリカン・マネーが印象派絵画の購入を可能ならしめた。ドイツにあっては、急進的で反帝国主義的な政治的心情が印象主義と結びついた。ナチスは印象派を認めなかったが、その経済的価値については充分に理解していた。

 第二次世界大戦の後、一九五〇年代になると美術市場は活況を呈するようになるが、なかでも印象派絵画の価格は劇的に上昇した。印象派以降に生まれたモダンアートのおかげで、印象派の「親しみやすさ」が相対的に浮かびあがってきたことに加え、古い時代の絵画とは違って真贋論争に巻き込まれるリスクが少ないというメリットのあったことも見逃せない。

 印象派絵画は富豪層のステータスシンボルとなり、その傾向は世界的規模に拡大する。芸術的嗜好のグローバリゼーションはオークション会社の台頭とともに加速した。それはまた米国の世界的な文化覇権の確立を背景としたものでもあっただろう。エリザベス・テイラーがオークションでモネの絵を落とし、ニューヨークの海運王がルノワールの作品を落札する……。
 こうして印象派の絵画を「多額の金銭と同一視する見方」は大衆の意識のなかにも根をおろすようになった。バブル期の日本ではもっぱら投機的な理由から印象派の絵画が購入され、しばしば外国から非難を浴びたが、その傾向はすでに六〇年代後半の欧米において芽吹いていたといえる。

 「二十世紀後半の社会では、芸術は新しい宗教である」(p212)というフィリップ・フックの記述は、文脈こそ異なるものの、アカデミズムの立場から書かれた松宮秀治の『芸術崇拝の思想』と奇しくも重なりあう。印象派はその主題が睡蓮やカフェなどきわめて日常的・庶民的なもので、聖書や信仰の世界から切り離されたものであったのに(それ故に当初は軽視された)、いつのまにか新たな〈宗教〉の中心に祭り上げられてしまったようだ。

 絵画市場という資本主義のただ中を生きてきたビジネスマンの手になる書だからといって侮ってはいけない。これは美術史に新たな視角を与えてくれる実に面白い本である。
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by syunpo | 2009-12-24 19:40 | 美術 | Comments(0)

未来の祖母たちの姿〜『やなぎみわ マイ・グランドマザーズ』

●東京都写真美術館、国立国際美術館企画・監修『やなぎみわ マイ・グランドマザーズ』/淡交社/2009年3月発行

b0072887_18485992.jpg CGや特殊メイクを使ったユニークな写真作品で知られ、二〇〇九年ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表作家に選ばれたやなぎみわ。これはシリーズ《マイ・グランドマザーズ》を中心に収録した作品集で、今春、東京都写真美術館で開催された《やなぎみわ マイ・グランドマザーズ》展、大阪・国立国際美術館で開催中(六月二〇日〜九月二三日)の《やなぎみわ 婆々娘々》展の公式カタログとして発行された。

 《マイ・グランドマザーズ》は、モデルとなる女性が自らイメージする半世紀後の姿に扮したお婆さん像をやなぎが撮影したもので、それぞれの写真には短い文章が添えられている。出来上がった写真はいずれも長時間モデルとの間で対話が積み重ねられた結果であるという。一九九九年より制作がスタートし現在も継続中のシリーズらしいが、展覧会ではこれまで完成した全作品二十六点が集められている。

 会場でこれらの作品群を観た時、最初はその制作過程や企画趣旨をまったく把握していなかったので、正直、今一つピンとこなかった。会場に置かれていたカタログをめくりこのシリーズのあらましを知って、あらためて作品一つひとつを見直していったという次第である。

 砂丘で舞い踊るMOEHA、森の奥の小さな家のベッドに横たわるKAHORI、飛行機の窓から雲海を眺めているSACHIKO、「看取り屋」として契約した人の死に水を取っているMIKIKO……五〇年後の想像的な存在である「老女」たちは、人生を達観していたり、人間社会の破滅を見届けようとしていたり、あるいは若い男とアメリカ横断を企てていたり、まさに十人十色の世界が繰り広げられている。
 こうしてモデルとのコラボレーションによって作り込まれた作品は、たとえば被写体との一期一会の瞬間性、偶発性を捉えた横溝静の写真作品《Stranger》シリーズとは極めて対照的だ。

 さらに、《マイ・グランドマザーズ》シリーズは、写真における時間のあり方を再考させるものではないだろうか。

 写真は撮られた瞬間に、時間が凍結し、過去となる。写真とはおしなべて過去の記録である。
 ここでのモデルたちは五〇年後の自分を先取りしながら、思い思いにフレームに収まって「未来」を「過去」にする。それは来たるべき「未来」の映像であるかもしれないが、こんな「未来」を夢見たのだ、という自分の「過去」の痕跡ともなる。

 仮に、私が子供の頃にやなぎみわと出会ってこの企画に参画していたとすれば(実際、本シリーズには三人の男性がまじっている)、かなりお気楽で能天気な「お婆さん」に扮していただろう。けれども今の私には五〇年後の自分を想像することさえかなわない。(生きていたら百歳になっている!)

 時間とは希望の源泉でもあり、同時に苛酷なものである。
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by syunpo | 2009-07-09 19:02 | 美術 | Comments(0)