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カテゴリ:経済( 32 )

成功ゆえに自壊するシステム!?〜『14歳からの資本主義』

●丸山俊一著『14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために』/大和書房/2019年2月発行

b0072887_10351456.jpg NHK番組《欲望の資本主義》の制作統括者があらためて「資本主義の限界と未来」についてまとめた本である。「14歳からの〜」という枕詞が付いているからといって無知な若者向けの入門書と侮ってはいけない。

 何よりもまず斜に構えず資本主義という大文字中の大文字の論題に正面から挑むのがよい。当然ながら多くの識者の知見を借りてくることになるが、あまた引用されているヨーゼフ・アロイス・シュンペーターやマルクス・ガブリエルらの言葉はなるほど示唆に富んでいる。

「資本主義は、成功する。だが、その成功ゆえに、自ら壊れる」というシュンペーターの警句を開巻早々に掲げているのはインパクト充分。最初に提示したその脅し文句が通奏低音のように響きつづける。すなわち現代の資本主義は「あまり調子の良いものではない」という認識を読者と共有しようというわけである。

 そのうえで、世界の総需要が不足しているというジョセフ・スティグリッツの認識を確認し、成長なしでも維持できる資本主義のスタイルを構想しようとしたトーマス・セドラチュクを参照する。

 さらに資本主義とITや人工知能との関連など今風の問題に多く紙幅を割いているのが目を惹く。現在のデジタル革命とかつての産業革命の相違を指摘するダニエル・コーエンなどを引きながら、失業の問題を論じるのは型通りだろう。産業革命の果実は人々全体の生活レベルを押し上げたが、現在進行中のデジタル技術の進歩はむしろ格差を拡大させ分断を招いてしまう。その事実にこれからの人類はどう立ち向かうのか。

 そうしてあらためて冒頭に掲げたシュンペーターの警句に戻ってくるのである。資本主義はまさにその成功ゆえに「システムを支える社会制度が揺らぎ、崩壊を迫られる状況が、社会主義への移行を強く示唆する状況が、必然的に訪れる」とシュンペーターは述べた。もちろんそれがカール・マルクスの資本主義理解を踏まえたものであることはいうまでもない。ここまでの理路は鮮明に描かれている。

 ところが、終盤まとめの段階に入ったところで足取りが怪しくなる。AI主導の社会における課題へと論点が横滑りしていき、唐突に「今日の資本主義が代替案のないシステム」となったことを告げるマルクス・ガブリエルの発言を引いたりするのである。

 そして「合理的経済人」という概念を批判したり、マルクス・アウレリウスの「畏敬の念」に言及してみたり、日本的な資本主義を考えると称して「ZEN」を持ち出してみたり……。

 序盤から資本主義そのものとがっぷり四つに組んでおきながら、そこで提起された根本的な論題に正面から向き合うことは避けて、曖昧な形で総括に入ったという印象が拭い難い。最終盤での議論が観念論に流れ、論点が拡散してしまったのは残念。
 また貧困や労使関係の歪んだあり方など剥き出しの資本主義が避けることの困難な生々しい政治経済的課題への言及も薄く、その点に隔靴掻痒の感をおぼえる読者もいるかもしれない。

 本書はタイトルからも察せられるように、新曜社〈よりみちパン!セ〉シリーズや河出書房新社〈14歳の世渡り術〉を意識したような作りになっている。この種の本はよく出来たものなら大人が読んでもおもしろいものだが、本書がそうした部類に入る良書かどうかは保証のかぎりではない。

by syunpo | 2019-07-06 18:32 | 経済 | Trackback | Comments(0)

「人本位制」という仮想〜『「通貨」の正体』

●浜矩子著『「通貨」の正体』/集英社/2019年1月発行

b0072887_09184911.jpg 通貨とは何か。この古くて新しい問題を通してグローバル時代を再考する。これが本書の趣旨である。

 通貨は、人がそれを通貨だと認定すれば通貨となる。その意味では通貨の基本は「人本位制」である。言い換えれば全ての通貨は仮想通貨だということだ。本書の結論はこの命題に凝縮されている。

 最初にスパッと結論をぶち上げ、それをベースにして個別具体的に通貨を順次俎上に載せて解説していくという形式はそれなりに分かりやすい。

 シェイクスピアを引用した「嘆きの通貨」としてのドル論は、なかなか読ませるし、政治的パニックが欧州の統一通貨を生み出したというユーロ論も興味深い。仮想通貨ならぬ仮装通貨としてビットコインを分析する論考も勉強になった。

 日本円を「隠れ基軸通貨」と見なし、オペラのトスカに喩えて考察を進めていくのも一興。

 本書が唱える「人本位制」なる認識は、通貨の根拠を自己循環論法に求めた岩井克人の貨幣論と重なり合うものと思われ、とくに目新しいものではない。とはいえ最新の世界的な通貨現象を盛り込んで、おどけた調子で論述していくスタイルは類書にはないセールスポイントといえるだろう。

 ただ冒頭で示された本書のコンセプトに即して、キチンとした着地点が確保されているかといえば、その点は曖昧なまま。「グローバル時代を通貨の観点から考え」た結果、そこに浮かび上がる時代の特質についてクリアな言説が与えられているわけではない。最終章を日本の円の分析にあてていることからもわかるように起承転結が未完成で、尻切れ蜻蛉的な読後感を拭いきれなかった。

by syunpo | 2019-05-21 19:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

国民の生活よりも大企業の利益!?〜『日本が売られる』

●堤未果著『日本が売られる』/幻冬舎/2018年10月発行

b0072887_18532488.jpg 日本を世界一ビジネスのしやすい国にする。これは安倍政権が掲げる主要政策のひとつである。これまで何気なく聞き流していたが、本書を読んでその意味するところを十二分に理解することができた。要するに国民一人一人の生活向上よりも企業の利益を優先するという宣言なのである。

 周回遅れの新自由主義国家として日本は公共部門が管理統制すべき分野で規制緩和を行ない、市場原理の支配する領域を広げている。水、農地、森林、海、学校、医療……。どれもこれも故宇沢弘文が「社会的共通資本」と命名した大切なものごとである。

 企業は「今だけカネだけ自分だけ」の論理で動く。それを政府が後押しする。それが今の日本の政治経済のありようだ。堤未果はその実態を具体的にあぶり出していく。

 世界では水道の再公営化が趨勢になっているのに、日本では今さらながら民営化を推進しているのは周知のとおり。日本の水道運営権は巨額の手数料が動く優良投資商品として海外の水企業からターゲットにされている。

 二〇一八年、これまで日本の農家を守ってきた種子法が廃止された。ざっくりいえば農産物の種子そのものが「国民の腹を満たすもの」から「巨額の利益をもたらす商品」として、民間企業に開放されることとなった。この分野でもモンサント社をはじめ多国籍企業が大きな力をもっていることはいうまでもない。
 公的制度が廃止された今、農家は自力で種子開発するのは経済的にも物理的にも厳しくなる。安価な公共種子が作られなくなると、農家は開発費を上乗せした民間企業の高価な種子を買うしかなくなり、コメの値段も上がってゆくとみられる。

 日本が世界に誇る国民皆保険制度も米国との関係でいびつなものになっている。一九八〇年代に日米間で交わされたMOSS協議。これによって日本政府は医療機器と医薬品の承認を米国に事前相談しなければならなくなった。それ以来、日本は米国製の医療機器と新薬を他国の三~四倍の値段で買わされているという。費用は国民皆保険制度でカバーされている。医療費高騰の最大の理由は高齢者の増加ではなく日米関係にあるのだ。

 グローバル化した世界では、利益を出したい投資家や企業群が、公的資産であるはずの、種子や森、地下水や遺伝子、CO²を排出する権利に至るまで、何もかもに値札をつけてゆく。それを受けて日本では規制改革推進会議が「全てに値札をつける民営化計画」でアシストするという具合だ。

 自由貿易の旗を振り、TPPやEPAを進めつつ、国内を守る規制や補助金という防壁を自ら崩し自国産業を丸腰にする、そんなことをしているのは日本政府だけだ。(p96)

 世界中の右派政権が自国ファーストの政治を行なっているなか、ひとり日本だけが米国ファーストあるいは多国籍企業優先の政治を推進している。そのような政策を遂行することによって与党政治家にいかなるメリットが転がり込むのか定かではないが、常識的に考えれば不思議というほかない。

 ことほどさように本書に記された内容は読むほどにゲンナリするものばかりだけれど、知らずに穏やかに過ごした後に突然地獄を見るよりも、現実を直視して早く手を打った方が良いのは自明である。ほろ苦い現実から目を逸らしても現実そのものが変わるわけではない。

 後半では売国的政治=多国籍企業に対抗するために諸外国で展開している具体的な政治や市民運動を紹介して本書にささやかな希望を与えつつまとめている。イタリアの草の根政治革命。マレーシアの消費税廃止政策。フランスにおける水道公営化。スイスでの共同組合運動……などなど。

 ただし引っかかる点もなくはない。本書では肯定的に論じられている公的セクターによる管理統制や業界内の自主的な調整はその公共的意義が認められる一方で、腐敗の温床として部外者から批判を受けてきた一面もある。本書における〈規制緩和=悪、公共部門による管理調整=善〉という単純な二元論的図式の評価には留保が必要ではないかと思う。

by syunpo | 2019-04-08 20:25 | 経済 | Trackback | Comments(0)

学際化がすすむ “社会科学の女王”〜『現代経済学』

b0072887_19275770.jpg 二〇世紀半ば以降、急速に多様化がすすんだ経済学はそれゆに複雑さを増してきたともいえる。基礎知識のない者がいきなり現代の経済学の専門書を読んでもチンプンカンプンだろう。

 本書は現代の経済学の多様なあり方を初学者向けにわかりやすく解説。ミクロ・マクロ経済学はいうに及ばず、ゲーム理論、行動経済学や実験経済学、制度論、経済史などなど、経済学の最前線をコンパクトにまとめている。著者の瀧澤弘和は、ゲーム理論・経済政策論などを専門とする研究者である。

 市場が経済にとって決定的に重要だという問題意識は、交換と分業が文明の根底にあるとするアダム・スミスの洞察にあった。以降の経済学は、消費者や生産者の選択という形で人間行動を具体的にモデル化し、同時に市場のモデルを提示することで、分権的市場経済のすばらしさを証明することができた。それは二〇世紀半ばのことである。

 二〇世紀の主流派経済学として世界を席巻した新古典派経済学の市場メカニズムの理論では、経済主体が合理的であると仮定され、方法論的個人主義が採用されてきた。

 けれどもその後、経済主体が合理的であるという仮定には利点もあるけれど限界もあることが明らかになってきた。以下に紹介される研究分野はいずれもそうした限界を見据えたところから出発したものといえよう。

 ゲーム理論は、従来の経済学が市場を経由した主体間の相互作用に焦点を当ててきたのに対して、プレーヤーの行動が直接的に他のプレーヤーに影響を与えあう「ゲーム的状況」の経済分析へと経済学を拡張するものである。これにより「神の見えざる手」の論理が働く市場の世界とは異質の世界を分析の俎上に載せることになった。

 ゲーム理論によって、人間行動における規則性を説明する際に、信念と行為の組み合わせという観点が導入されたのである。その結果として、われわれは異なる複数の均衡が存在しうることを理解できるようになった。

 ゲーム理論はマクロ経済学にも影響を与えた。経済システムの内部にいる人々が将来の予想を形成しつつ行為を選択するという「期待」概念の導入によって、その後のマクロ経済学は大きく理論的な変貌を遂げてきたのだ。

 行動経済学は、それまでの経済学の理論体系のなかで「公理」として前提されてきた現実の人間行動の分析にまで経済学を拡張することに成功した。そこでは、心理学、認知科学、脳科学、進化生物学との間で垣根を越えた交流がみられ、これが経済学全般の学際化にも寄与することになったという。

 行動経済学が「人間の不合理性を明らかにすることによって、逆に人間にとってどうしても手放すことができない『合理性』への問いを際立ったものにしているように思われる」との逆説的な指摘はまことに興味深い。

 実験経済学は、従来の経済学でまったく価値のないものとみなされていた「実験」という発想を導入することで経済学の多様化をうながした。今日の実験は、主にゲーム理論の文脈で、行動経済学と連携して人間行動の社会性を解明するために用いられている。また、実験研究の成果は政策決定の場面でも大きな役割を果たしているという。

 もっぱら市場制度を対象としてきた二〇世紀の経済学は、市場以外の制度の重要性に着目するようになった。とりわけ企業に注目した研究など、種々の「制度の経済学」が台頭してきたことは最近の経済学における注目すべき動向の一つといえそうだ。

 経済史は人類が実際に辿ってきた経路を事実の側面から見るものである。歴史的時間を考慮することができない経済理論に対して、応用の素材を提供したり、新理論へのインスピレーションを与えたりすることで、理論と歴史との新しい対話の可能性を追求するものともいえる。

 社会理論家のヤン・エルスターは、社会科学は普遍的に成立する法則を把握する段階にはなく、社会現象を説明するために、小規模あるいは中規模のメカニズムを解明することに専心すべきであると述べたが、瀧澤もこの考え方に共感を示している。本書のなかで紹介されている経済学研究は、すべてこのようなメカニズムの探求とみなすことができるのだ、と。

……一つのメカニズムで経済現象全体を網羅することは到底不可能であり、われわれは多くのメカニズムを提案することによって現実の経済現象をカバーしようとしている。研究者は自分が関心を持つ現象について、その現象に対応したメカニズムを探求しているのである。(p248〜249)

 本書の記述は初学者にはやや難しい箇所もあるものの、総じて簡潔な解説がほどこされていて、現代経済学の最前線を知るうえでは最適の入門書といえるだろう。
by syunpo | 2018-11-09 19:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

今こそ反緊縮政策を〜『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』

●ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大著『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学』/亜紀書房/2018年5月発行

b0072887_13464215.jpg ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大の鼎談集。どうにも意味不明な書名が付けられているので期待せずに読み始めたのだが、案の定、本書の左派批判は脳内で戯画化した標的を一方的に攻撃しているだけという印象を拭えなかった。だいたい左派のエリート主義を揶揄するのは昔から左派の定番しぐさ。自分たちだけが物事の本質を理解している的なセールストークが執拗に繰り返されるのには辟易した。

 かろうじて松尾の理論経済学者としての発言にはアカデミックな味わいがあり、その限りで本書を読む意義はある。経済成長を〈長期の成長〉と〈短期の成長〉に区別した上で後者の重要性を訴えるのは毎度おなじみではあるけれど、議論の整理には役立つだろう。もっとも松尾が主張する財政・金融政策にしても基本線は反緊縮を基軸としたケインズ主義的政策の現代版というもので、少なからぬ左派言論人が言ってきたこととさして違いはない。
by syunpo | 2018-09-08 13:50 | 経済 | Trackback | Comments(0)

「蒐集」の歴史のあと〜『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

●水野和夫著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』/集英社/2017年5月発行

b0072887_1942698.jpg 資本主義の破綻。国民国家の機能不全。……それらは無関係に生じているのではない。国民国家の基盤である、五〇〇年続いた近代システムそのものが、八〇〇年の資本主義とともに終わりを迎えつつある。これが本書の基本認識である。

 では、新たな時代にはいかなるシステムや社会形態が望ましいのか。エコノミスト・水野和夫は、歴史的な視点をもとに経済学の垣根を超えた知的成果に立脚して、近未来への道標を提示しようとする。

 人類史を読み説くうえでの本書のキーワードは「蒐集」。英国の歴史家、ジョン・エルスナーとロジャー・カーディナルが「社会秩序それ自体が本質的に蒐集的」と述べたことに基づいている。
 水野によれば、現代は蒐集することが限界にいたった時代である。フロンティアはもう地球上には残っていない。すなわち「五〇〇〇年も続いた『蒐集』の歴史の終わり」のときを迎えているのだ。

 平等が要請される国民国家システムと格差を生んで資本を増やす資本主義が矛盾を露呈することなく両立できるのは、「実物投資空間」が無限で経済が成長し続ける場合においてのみなのです。(p183)

「作れば売れる」というセイの法則が成立しない現代において、資本主義と民主主義が結合することはない。この条件を忘れて成長を追い求めれば、そのツケは民主主義の破壊となって現れる、と水野はいう。

 水野はそのような議論を、利子率や経済成長率の世界的変遷やなどを検討し、エビデンスに基いてすすめていく。日本は一九九七年に、一〇年国債の利回りが二・〇%を下回った。超低金利の時代がすでに二〇年続いている。それは端的に資本主義の危機を示すものなのである。

 中世から近代への移行期、ブローデルが「長い一六世紀」と呼んだ大転換期のさなかに超低金利が生じたが、それは「歴史の歯車が動くサイン」だった。同じことは低金利を迎えている現代にもいえる。いわば「長い二一世紀」と呼ぶべき大転換期を迎えているのだ。

 それでは、以上のような歴史的危機を乗り越えるために求められるシステムとはいかなるものであろうか。

 世界を拡張していくような従来のやり方では経済をうまく回していくことは望めない。また現在の国民国家では政治的な要請に対しては充分に対応することができない。世界秩序に対して責任を担うことができないし、地域の細かなニーズを吸収することもむずかしい。

 もはや、無限の膨張が不可能なことは明らかなのですから、ポスト近代システムは、一定の経済圏で自給体制をつくり、その外に富(資本)や財が出ていかないようにすることが必要です。その条件を満たすには、「閉じてゆく」ことが不可欠になります。(p207)

 すなわち「政治的には地域帝国、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性」を提起する。「閉じた帝国」が複数並び立つという世界システム。それこそがこれからの時代を生きていくために適した世界のあり方なのだと水野は結論づける。

 ちなみに「地域的・世界的権威」は地域帝国がもち、「国家・民族の下位にある権威」は地方政府がもつという構想は、水野の創見ではなく国際政治学者のヘドリー・ブルを参照したものである。

「閉じた帝国」の具体例として、水野はEUの例を挙げている。一国単位の主権でおこなうのが難しい政治課題については「帝国のような大きい単位の共同体」で対応すべしというわけである。

 また経済のあり方としては、ブローデルの市場経済論を引用している。ブローデルは市場経済と資本主義を区別した。前者は「予想外のことの起こらぬ『透明』な交換、各自があらかじめ一部始終を知っていて、つねにほどほどのものである利益が大体推測できるような交換」を指す。それは資本家が不透明な取引から富を獲得する資本主義とは異なるものである。水野はこの「市場経済」という概念が、新しい経済システムのヒントになると指摘する。

 留保つきながらも「帝国」を再評価する議論じたいは、文脈がやや異なるとはいえ柄谷行人や佐藤優など何人もの論客が提起してきたもので、とくに斬新というわけではない。また帝国が並び立つ世界秩序は地球全体の秩序に責任をもちうる主体とは言い難く、資本主義の暴走がもたらした地球規模の課題をうまく解決できるのかという点では疑問もなくはない。
 しかしながら、広汎な分野から知見をとりいれたスケール豊かな本書の考察は、熟読に値するものだと私は思う。
by syunpo | 2017-10-30 19:15 | 経済 | Trackback | Comments(0)

二世紀前に登場した新しい概念!?〜『経済成長という呪い』

●ダニエル・コーエン著『経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史』(林昌宏訳)/東洋経済新報社/2017年9月発行

b0072887_10105951.jpg 人類の壮大な歴史を駆け足で振り返り、「経済成長」という概念を様々な角度から再検討する。コンセプトははっきりしているが、参照される知見は学際的で多岐にわたっていて、さながら知の万華鏡ともいうべき本である。

 コーエンは「経済成長」という概念が近代の産物であって、人類史を通じてつねに追求されてきたものではないないことを指摘する。

 ……経済成長はほんの二世紀前に登場した新しいアイデアなのだ。太古から一八世紀の産業革命前夜までの期間、人類の収入は今日の貧困者たちと変わらない一日一ユーロ程度で低迷していた。(p22)

 ただコーエンの関心は、その「アイデア」をもっぱら心理学的な側面から捉えることにあるようである。人々の不安を和らげるのは「経済成長」という約束であって約束が実現することではないとさえコーエンはいう。

 たとえば心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーは「本人が標準と考える状況と比較」することによって、その人の幸福/不幸が判断されるのだと主張した。

 であるから、人間が成長神話から解放されない理由の一つをその心理的な機制に見出そうとするのも本書の文脈からすれば必然というべきであろう。当然ながらそのような考察を経て提起される処方箋は良くも悪しくも観念論的といえる。

 人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。ゆえに人間は飽くなき無限の欲望を抱くことになる。そうした人間の欲望を地球の保全と整合性をもたせるためには、新たな転換が必要になる。それは物質的な経済成長の追求ではなく、人々の精神構造の変化によってもたらされるだろう。これが本書の結論的な展望である。聡明なる読者諸氏はこのような見解に、賛同できるだろうか。
by syunpo | 2017-10-14 10:12 | 経済 | Trackback | Comments(0)

リスク・決定・責任の一致を〜『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』

●松尾匡著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼 巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた』/PHP研究所/2014年11月発行

b0072887_1918277.jpg 昔の自民党のように公共事業で経済を活性化させようというケインズ的な政策はすっかり不人気になってしまった。といって、かつての革新自治体が行なった福祉重視の財政もバラマキの言葉とともに支持されなくなった。
 そこで登場した新自由主義路線も、格差を拡大させ、地方を荒廃させただけの大失敗。英国のブレア政権に象徴される「第三の道」も新自由主義に少し修正を加えたようなもので、人々を幸福な生活へと導いたとはいいがたい。

 そうして世界的に台頭してきたのが極右勢力である。日本も例外ではない。しかし自国中心主義的な経済路線に明るい未来が待っているはずもない。

 では、どうすべきか。本書ではケインズ型政策や新自由主義的路線が行き詰ったあとのとるべき改革を「転換X」として具体的な政策を提示する。キーワードは「リスク・決定・責任の一致」。そして「予想は大事」。
 興味深いのは、本書の文脈では一般的に斥けられるはずのジョン・メイナード・ケインズやフリードリッヒ・ハイエクの経済理論からヒントを見出している点である。

 前半、ソ連型社会主義の失敗について考察するくだりでは、ハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュを参照する。通常、競争のないシステムでは皆が怠けてしまうことが社会を停滞させてしまうと考えがちだが、それは事実ではない。コルナイ=松尾はシステム破綻の原因を別のところに見出す。

 ソ連経済は慢性的なモノ不足に悩まされた。企業が機械や工場に設備投資して生産規模を拡大していくことに歯止めがかからなかった。ノルマを達成しなければならないという圧力が働いていたからである。裏返せば、消費財生産の割合を膨らませることができない構造になっていた。

 ソ連型システムの崩壊の大きな原因は「リスクと決定と責任」が重なっていなかったということに尽きる。国有企業経営者は、企業長単独責任制のもとで、資材購入や労働雇用の決定権を持っていた。だが、決定の結果起こることについては責任をとる必要がなかった。資材のためこみにも設備投資にも歯止めがかからないのは当然である。

 リスクのあることは、すべてそのリスクにかかわる情報を持つ現場の民間人に決定をまかせ、その責任は自分で引き受けさせる。公共機関は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する。この両極分担がハイエクの提唱した図式だと言えるのだが、ソ連型システムは明らかにそれに反していた。

 ソ連の破綻を教訓にして、西側諸国では資本主義をさらに押し進めた新自由主義的な路線を強化することになった。ハイエクは自由主義経済思想の巨匠で、その後の政策はハイエクに基づいているように一般には理解されてきた。しかし彼によるソ連批判が最もよくあてはまる失敗をしたのが皮肉にも新自由主義的政策であったことを松尾は指摘する。

 ハイエクは「競争が有効に働くためには、よく考え抜かれた法的枠組みと政府の介入が必要だ」と考えた。「リスク・決定・責任の一致」が必要だと訴えたのである。また国家がさだめるルールは恣意的なものではなく、計画に及ぼす国家の影響が予測できなくてはならない。

 ところが新自由主義的な社会ではそれらが必ずしも一致していない。すべて民間事業者の競争にゆだねることが社会をうまく回すことになる、と短絡されてしまったのである。

 新自由主義の大御所ミルトン・フリードマンも同様に、人々の予想が経済の動きに影響することを指摘した。政府は民間の人々の予想を不確実にすることに手を出してはならない。人々の予想を確実ならしめるのがその役割でなければならない。それは「不況になっても景気対策も何もせずにほったらかしておくべきだ」という主張ではないのだ。

 以上のような基本認識から松尾は具体的にはインフレ目標政策やベーシックインカムを「転換X」に適した政策として提唱する。

 ベーシックインカムは、景気対策について、そのときそのときの政府の判断に頼る度合いを少しでも減らす方向にある点で、「転換X」の課題にのっとっている、と松尾は指摘する。
 またインフレ目標政策は、デフレ不況の均衡を脱し、好況の均衡を実現するために必要な「人々の予想を確定する政策」として適している、という。

 松尾の構想は、繰り返せば「リスク・決定・責任の一致」を説き、人々の予想を確定することを重視するものである。すなわち本書にいう「転換X」とは、胸三寸の「裁量的政府」から、人々の予想を確定させる「基準政府」への転換を意味する。であるから〈大きな政府/小さな政府〉のように財政規模で二分するような発想とはまったく無関係である。
 また経済学にいう「効率性」とは「少なくとも誰も犠牲にすることなく、誰か一人でも厚生を改善できる余地があるならばそれを実現すべきだ」という意味である、というフレーズが印象に残った。
by syunpo | 2017-10-11 19:28 | 経済 | Trackback | Comments(0)

大切なものはお金に換えてはいけない〜『人間の経済』

●宇沢弘文著『人間の経済』/新潮社/2017年4月発行

b0072887_18513572.jpg 二〇一四年に他界した経済学者・宇沢弘文の晩年のインタビューや講演録をまとめた本。当然ながら平易な語り口で、宇沢の学識に触れたことのない読者にも理解しやすい作りになっている。

 宇沢は旧制一高時代は医学部志望クラスに在籍していたが、東大数学科に進んで代数的整数論や数学基礎論を学んだ。しかし数学にも「貴族趣味」のようなものを感じて、悩んだあげくに経済学に転じたという経歴をもつ。「医学が人間の病を癒す学問であるとすれば、経済学は社会の病を癒す学問であると自分に言い聞かせて、経済学の道に移りました」と当時の心境を回顧するくだりはとりわけ印象深い。

 その言葉どおり、本書における発言もまた社会の歪みや疲弊に対する警鐘的な色合いの濃いものになっている。そこでベースになるのは自身が提唱した「社会的共通資本」という概念である。宇沢が一般の読書人にも広く知られることになったのはこの概念の創出によるところが大きいだろう

 本書では厳密に定義している文章は出てこないが、そのものズバリの著作『社会的共通資本』には「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」と規定されている。
 こうした社会的装置として、宇沢はおもに自然環境(大気・森林・河川など)、社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電力など)、制度資本(教育・医療・司法など)の三類型を考えた。注目すべきは農村のような存在もそれを単なる農家の集合体としてのみ考えず、社会的共通資本として捉えている点だ。

 社会的共通資本を維持していくためには「それぞれの職業的専門家が職業的なdiscipline(規範)にもとづいて、そして社会のすべての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事すること」が求められる。しかし戦後世界は必ずしもそのような形で運営されたわけではなかった。世界中が医療や教育など社会的共通資本をも市場原理に組み込む新自由主義的な傾向が高まるにつれて、しばしばそれらは破壊されていったことは宇沢のみならず多くの論者が指摘しているところである。とりわけ日本の場合には、中曽根政権以降、米国の要求によって莫大な公共投資が実施された。それらがもたらしたのは、地域の医療、経済、社会、自然環境の破壊であった。

 そうした経緯を語るときには、おのずと先に記したように社会の病を診断する医師の態度にも似たようなものになってくる。宇沢は言う。「大切なものは決してお金に換えてはいけない」と。
 さらに宇沢はジョン・ラスキンを引いて「富を求めるのは、道を聞くためである」という考えを「経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」と結びで述べている。

 農村礼賛や新自由主義批判にステレオタイプの表現が散見されるとはいえ、社会的な運動にも関与した宇沢の識見には温かな息吹を感じとることができるのも確かである。それは凡百の経済学者からは感受できない人間味のようなものといえばよいか。昭和天皇やヨハネ・パウロ二世と面会した時のエピソードなども興味深い。

「人間の経済」を重視した宇沢流国富論は、公正や平等を重視する近代リベラリズムと共同体に根ざした公共的価値を受け継ぎ次代に伝えることを本旨とする正統的な保守思想の交差するところに位置づけられるのではないだろうか。つまり多くの人々によって共有することが可能な考え方ではないかと私は思う。
by syunpo | 2017-05-13 19:00 | 経済 | Trackback | Comments(0)

モラル・サイエンスとしての〜『経済学のすすめ』

●佐和隆光著『経済学のすすめ ──人文知と批判精神の復権』/岩波書店/2016年10月発行

b0072887_20213177.jpg 日本で「制度化」された経済学は「数学の僕」と成り果てながら人文知の欠如と批判精神の麻痺を招いた。今こそ文学・歴史学・思想史を学び、経済学を水面下で支える思想信条に基づく批判精神を培わねばならない。本書がすすめる「経済学」復興の内容を要約すればそのようになる。

 そもそも科学が「制度化」されるとはどういうことなのか。佐和は「科学の制度化」のための必要十分条件は以下の四つであるという。

(1)標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。
(2)査読付き専門誌が存在していて、業績評価は専門誌への掲載論文の質量により定まること。
(3)当該科学を専門的に担う職業集団が存在すること。
(4)当該科学の有用性が社会的に認知されていること。

 米国では以上四つの条件が満たされていて、その意味では経済学は「制度化」されている。しかし日本では事情が異なる。日本ではフェアな査読性が機能している経済学の専門誌は数少ないし、エコノミストの職業集団は存在しない。さらに「有用性」をめぐって日米で大きな違いがあるというのだ。

 アメリカでは、経済現象を論理的かつ数量的に「科学」する経済学の「有用性」が社会的に認知されている。他方、日本では、経済現象を「科学」する有用性よりも、府省の政策を正当化するという意味での「有用性」の方に重きが置かれている点、日本における経済学の制度化は、きわめて特異だと言わざるを得ない。(p144)

 むろん佐和は米国流に制度化された経済学を無批判に信奉しているわけではない。それどころか米国の経済学もまた「人文知と批判精神を失い、数学の僕と化したジャーナル・アカデミズムに現を抜か」しているとみなして批判している。反面教師とすべき米国の経済学と日本のそれを比較衡量するのに紙幅を割いているのは、いささか混乱を招きやすい論じ方だとは思うのだが、日本の現状もやはり佐和の構想する経済学のあり方からはほど遠い。そこで佐和が注目するのはヨーロッパの経済学である。

 ヨーロッパの経済学者の多くは、次のように考えている。「経済学は論理学の一分野であり、一つの思考法である。経済学はモラル・サイエンスであり自然科学ではない」と。モラル・サイエンスとは、イギリス経験論の伝統にしたがえば、自然科学と対をなす、人間的行為を対象とする学問である。モラル・サイエンスとしての経済学は、社会のあるべき姿を想定し、現実社会を、あるべき社会にできるだけ近づけるための手段を研究する学問である。経済学がモラル・サイエンスであるからには、異分野の人文社会科学をよく学び、「社会のあるべき姿」の何たるかについて人社系の知を総動員するだけの心構えが、経済学者には求められるのではないだろうか。(p185〜186)

 佐和はモラル・サイエンティストのモデルとしてジョン・メイナード・ケインズとアンソニー・アトキンソンを挙げつつ、トマ・ピケティの来歴や仕事についても肯定的に言及している。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』なども引用されていて、ヨーロッパのリベラル・アーツの伝統を受け継ぐ姿勢が明瞭に打ち出されているのだ。

 本書の現状認識もそれに基づいた問題提起も明快ではある。ただし世界の経済学に関する佐和の見立てが本当に妥当するのかどうかは私には判断できないし、さらに人文社会科学の必要性を力説するくだりは、すでに誰かがどこかでやっていたような議論でさして新味はない。全体をとおして理念を繰り返しているだけという印象が拭い難く、そのことの意義を否定はしないけれど、やはりお題目よりも具体的な成果を示すことが研究者に一番求められていることではないかとあらためて思う。人文社会科学に対する蔑視は今に始まったことではないのだから。
by syunpo | 2016-11-25 20:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)