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ブックラバー宣言

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カテゴリ:文化全般( 27 )

忘れられた言葉に光をあてる〜『1968[2]文学』

●四方田犬彦、福間健二編『1968[2]文学』/筑摩書房/2018年3月発行

b0072887_8375679.jpg 四方田犬彦が編集を務める『1968』シリーズの第二弾。文学作品に対象をしぼったアンソロジーである。本書では、詩人・映画監督の福間健二も編集に加わっている。

 ここで積極的に目を向けているのは「時代をすぐれて体現しているにもかかわらず、不当なまでに蔑ろにされたり、また一度も照明が当てられることなく、忘却に付されてきた文学作品」である。

 中上健次の若かりし頃の詩を読めたのはうれしい。寺山修司が編んだ無名の若者たちの詩も当時の若年層の知的レベルの高さがうかがえ、充実した読後感をもたらしてくれる。そして永山則夫の《無知の涙》からの抜粋。

 小説は三篇。ピンク映画女優などをしながら小説修業を重ねた鈴木いづみの《声のない日々》。読んだのはもちろん初めてだが、三十六歳の若さで縊死したのは惜しまれる。
 佐藤泰志の高校生時代の作品《市街戦のジャズメン》。文章は荒削りながら東京での学園闘争を遠く函館で眺めることしかできなかった若者の「独特のもどかしさ」が描かれていて興味は尽きない。
 石井尚史の《〈同士達〉前史》。高校バリケード闘争を描いた短編小説である。闘争に参加した高校生たちの心理を描写していく視点の移動はいささかぎこちないものの、何よりも高校生の視点から一九六八年を描き出したことに価値があるだろう。

 道浦母都子の短歌もこの時代の空気を鮮やかに伝えてあまりある。とりわけ国際反戦デーで逮捕された体験をもとに歌われた言葉は、その切実さにおいて、生々しさにおいて、今時のポップな短歌とはかなり隔たっているように感じられ、たいへん印象に残った。

 また芝山幹郎や帷子耀らの饒舌な詩作品に関して、四方田は一九九〇年代以降に日本でも興隆してきたラップ・ミュージックの先駆的表現と見なしているのも卓見ではないだろうか。

 四方田がかねてより熱い視線を注いできた平岡正明の批評はやはり外せないものだろう。《ジャズ宣言》《地獄系24》《永久男根16》から抄出している。過剰な性的表現は好悪を分かちそうだが。

 一九六八年の時点で東京大学の大学院博士課程に在学中だった藤井貞和は国文学研究の初期における国家権力との癒着を指摘している。つまり国文学は新しい国学としてのみずからの務めをまっとうしたのだと。そのうえで、研究者イデオロギーのよそおいを科学の名において暴き立てていくことを訴えている。人文学への逆風が一層強まりつつある現代、藤井の論考は改めてアクチュアリティを帯びてきているようにも思われる。

 土方巽の《犬の静脈に嫉妬することから》は談話とエッセイを再構成して編まれた書物らしい。土方独特の想念や表現には戸惑うところも多々あるのだが、四方田によれば「主題的な、また文体論的な意味で、そこには土方自身の舞踏との相同性を認められる」という。

 最終章に収められた、吉本隆明、澁澤龍彦、三島由紀夫ら大御所のテクストにはさほど面白味を感じなかった。三島が雑誌《アンアン》の創刊に際してお祝いの言葉を贈っているのはほほえましい。

 全体的に難解なテクストが少なからず含まれていて、それはそれでこの時代の知的雰囲気を色濃く体現したものともいえるのだろう。四方田は本シリーズの第一巻において次のように書いている。

 社会学者のなかには、こうした文化的実験が日本人の大多数には理解もされず、また知られていなかったという「統計」的事実を持ち出し、そのすべてが後年に神話化されたものであると断定する不幸な傾向が存在している。……(中略)……いうまでもなくこの論理は、前衛的実験が存在していたという事実を無視し排除しようとする、支配的な権力構造に出来する言説である。
 本書ではこうした官僚主義的な言説に対しては、明確にその態度を批判しておきたい。古今を通して、もっとも新しい文化運動、芸術思潮は、つねに時代の少数派によって担われてきた。その担い手たちは、望むと望まないとにかかわらず、少数派であるがゆえに社会的に孤立し、その孤立を政治的なものとして提示せざるをえない不可避性を抱え込んでいた。政治を表象する文化があったのではない。文化が政治的たらざるをえない状況が存在していたのだ。(『1968[1]文化』p29)


 そうした言葉を念頭に置いて本書に収められた言葉に接する時、私たちはよりいっそう「文化が政治的たらざるをえない状況」の切実さの一片に触れることができるだろう。それもまた一つの貴重な体験にほかならない。
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by syunpo | 2018-07-16 08:40 | 文化全般 | Comments(0)

時代が生み出した多彩な才能〜『1968[1]文化』

●四方田犬彦編著『1968[1]文化』/筑摩書房/2018年1月発行

b0072887_1173313.jpg 一九六八年。米軍がハノイ爆撃を本格的に開始しベトナム戦争が激化する。ドゴール政権打倒を叫ぶ学生たちによりパリで次々と大学が閉鎖され「五月革命」が始まる。西ベルリンで学生がゼネストを行なう。
 日本ではエンタープライズの佐世保入港をめぐり全学連と機動隊が激しく衝突する。東京大学医学部自治会では無期限ストに突入する。年末には入試中止が決定される。成田空港反対集会で反対同盟と全学連が警官隊と初めて激突する。日本大学で全共闘の大集会が行なわれ、初めてヘルメットが出現する……。

 こうした若者たちの政治的反乱と連動するかのように、文化の領域においても様々なムーブメントが発生した。「一九六八〜一九七二年は、世界の文化が同時性のもとに成立した歴史上はじめての瞬間であった」のだ。

 今年二〇一八年は、一九六八年から五十年目のメモリアルイヤーにあたる。本シリーズはもちろんそれを意識したもので、全三冊ともに四方田犬彦が編集を担当。〈文化〉編の本書では、美術、演劇、舞踏、図像、映画、音楽、ファッション、写真など文化領域における当時の前衛的な活動を掘り起こし現代に甦らせようとする。

 四方田の巻頭言がいい。

 ある時代の記憶に接近するために最初になすべきこととは何だろうか。
 まず先入観を捨てることだ。次に、そこに複数の地層が重なり合っていることを、冷静に認めることである。とりわけそれが変革と破壊、実験と試行錯誤に満ちた時代であった場合、生起していた事象の一つひとつを前に、スコップと軍手を用いて、丁寧に発掘の作業を試みなければならない。真実は埋められているか、封印されているかのどちらかであるからだ。その時代に一世を風靡していたものだけを追いかけてみても、時代の本質である真実に到達することはできない。(p23)


 椹木野衣は、一九七〇年の大阪万博を基軸にして、万博に協力した前衛美術家たちとそれに反旗を翻した一群(ダダカン、ゼロ次元など)の対照を浮き彫りにする。「祭りのあと」に台頭した「もの派」に言及しているのは当然としても、さらに、そのような大きな流れとは別の個別的な動き──美共闘、タイガー立石、菊畑茂久馬──に注目しているのも本書の趣旨に適っているかもしれない。

 四方田自身が執筆している「グラフィックス」の章もなかなかおもしろい。ベ平連発行の『週刊アンポ』がビジュアル的にも実験的な試みを行なっていたことは不勉強ながら知らなかった。粟津潔、横尾忠則、赤瀬川原平、佐々木マキなど錚々たるメンバーが入れ替わり立ち替わりに表紙を担当していたのだ。

「演劇」を担当している西堂行人の論考は、唐十郎、鈴木忠志、寺山修司らの活動を当時の政治動向と関連づけながら活写している。まさに「アングラ革命の時代」であった。時代が母体となって次々と才能を輩出する。そんな時節がそう遠くない過去の日本にあったのだ。

 大島洋の「写真」論もいささかカタログ的ながら当時の熱気をおおいに伝えてくれる。一九六八年は写真にとっても画期的な時代だった。特筆すべきは何といっても写真同人誌『PROVOKE──思想のための挑発的資料』。多木浩二、中平卓馬、森山大道らによる「ブレ・ボケ」の作品は既存の写真の価値観を大いに揺すぶったのだった。

「舞踏」に関しては、國吉和子がもっぱら暗黒舞踏の土方巽にスポットライトを当てる。「個人史と日本の近代が渾然と混ざりながら形成されてきた自分の肉体を、徹底的に対象化し、それによって自らをもつき放そうとする」土方の強烈な批判精神が言語化されている。

 社会学者・稲増達夫による「音楽」論は、ビートルズやGSへの若者の熱狂と大人からの批判について「世代断絶」とみなして興味深い。GSにこだわるのは「当時はビートルズよりもファンが多く影響力もあった」のに「商業主義」「欧米のコピー」「無思想」といったステレオタイプで貶められることが多いからという。ロックと歌謡曲が化学反応を起こした日本独自の「民族音楽」なのではという問いかけもあながち大げさとはいえまい。

「ファッション」について語る中野翠はみずからの実体験に即した書きぶりで、多くの資料と格闘したと思しき他の男性論客とは一味違う、いかにも中野らしい随想を寄せていて愉しい。

「映画」はもちろん編者の四方田犬彦による一文。まずは本書のテーマとなっている一九六八年から数年間の動向について端的な言明を下しているのが注目されよう。

 1968年から72年にかけての5年間とは、それまで独自の発展を見せてきた日本映画が、〈世界映画〉の最前線において受容されるという文脈が、ほぼ成立した時期である。(p306)

 大手映画会社によるプログラム・ピクチャーと個人の〈作家〉の映画という二つの軸に沿った論考では、とりわけ後者に対して高く評価しているのが目を引く。

 ATGや若松プロ、小川プロに代表される小さな制作会社はこの時期、もっとも豊かな結実を残しているという。実験映画で今まさに生成しつつある映像の現前を作品に仕立てた松本俊夫。『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』を世に問うた吉田喜重。青春映画というジャンルの解体へと進めた羽仁進。
 さらにこの時代にもっとも過激に活動し、機会あるたびにスキャンダルを引き起こした映画人として大島渚と若松孝二に紙幅を割いているのはこれまでの四方田の批評活動からすれば当然の流れだろう。

「雑誌」についても一章が割り当られていて、上野昂志が寄稿している。一九六〇年代後半はいろいろな雑誌が創刊された時代だった。六六年『話の特集』『デザイン批評』。六八年『血と薔薇』『季刊フィルム』『シネマ69』『PROVOKE』『月刊ビッグコミック』。六九年『季刊写真映像』『週刊アンポ』。こうして振り返ると、写真・映画・デザインなど表現に関わる分野における批評を主なテーマにした雑誌が多い。この時代は政治運動の時代であったが、表現活動に対する批評が「妍を競った時代」でもあったのだ。

 写真作品だけでなく映画のポスターや書籍の表紙などなど図版資料がふんだんに使われた編集で、目で見ても楽しめる作りになっている。一九六八年という時代の表現や知のあり方、そして何よりも当時の熱気が伝わってくるような本である。
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by syunpo | 2018-07-15 11:08 | 文化全般 | Comments(0)

キリコの震える線のように〜『創造&老年』

●横尾忠則著『創造&老年 横尾忠則と9人の生涯現役クリエーターによる対談集』/SBクリエイティブ/2018年1月発行

b0072887_1012348.jpg「長生きするのも芸のうち」とは演芸界でしばしば口にされる格言(?)である。早逝の天才の系譜にも惹かれるものはあるけれど、なるほど長生きしている創作家にも別様の魔力が宿っているに違いない。

 横尾忠則が八十歳を越えた年長のクリエーターたちに会って対話を交わす。本書はその記録である。登場するのは、瀬戸内寂聴、磯崎新、野見山暁治、細江英公、金子兜太、李禹煥、佐藤愛子、山田洋次、一柳慧。

 前世とか死後の世界だとかに関して熱弁をふるう横尾の死生観にはまったく共感できないが、彼の場合、一種オカルト的な想念が創作活動にうまく昇華した稀有なケースであることは確かだろう。

 老年期におけるクリエーターのおもしろい実例として、横尾はジョルジョ・デ・キリコの晩年に着目している。手が震えて、線も震えていて弱々しいけれど、それが味になっている、という話を何度も繰り返しているのが印象的。

 全体的には対談相手の話が総じて凡庸で私的にはいささか退屈なトークがつづくが、メインテーマからは少しずれる挿話ながら、故人となった金子兜太の戦争中のトラック島での深刻な体験談を「アニミズム」なるキーワードで引き出しているくだりは興味深く読んだ。
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by syunpo | 2018-05-13 10:17 | 文化全般 | Comments(0)

クヨクヨすることから表現は始まる!?〜『コンプレックス文化論』

●武田砂鉄著『コンプレックス文化論』/文藝春秋/2017年7月発行

b0072887_1964470.jpg コンプレックスについて語る。といっても本当に切実そうなものからネタ的なものまで種々雑多。リストアップされているのは〈天然パーマ〉〈下戸〉〈解雇〉〈一重〉〈親が金持ち〉〈セーラー服〉〈遅刻〉〈実家暮らし〉〈背が低い〉〈ハゲ〉の十項目である。

 それぞれの項目について、該当者へのインタビューをはさんで、関連するテクストを読み込み文化全般に目配りのきいた武田の批評的なエッセイを配する、という趣向。

 本書を読んであるある的な実感を得て安心するというような人がどれだけいるのかわからないが、かといって語られている内容に対して生真面目に反論したり違和感を表明したりする本でもないだろう。武田のクネクネした文章芸を楽しめばよろしいと思う。

 もっとも身体や生育環境に起因するコンプレックスがなにがしかの表現活動を産出する原動力になるというテーゼは、それじたいが一つの紋切型ではある。そういう意味では〈解雇〉とか〈遅刻〉など、通常なら「コンプレックス」の範疇に入ることのない異なった次元にあるものをテーマに採った場合に、武田の批評精神がいっそう活きているように思われる。

 たとえば〈解雇〉の場合、ロックバンドにまつわる解雇の事例を概観したうえで、所属事務所から契約解消され「ハイパー・メディア・フリーター」として活動している黒田勇樹へのインタビューをはさんで、シモーヌ・ヴェイユなんかを引用して「切実な表現は残酷な解雇から生まれる」と結論する展開は武田ならでは。

 これが〈遅刻〉話になると、仕事が遅れ気味だった宮崎駿の例をもちだし、中谷宇吉郎の随筆を引いて時間厳守することの精神的疲弊を指摘した後に、遅刻の常習犯・安齋肇のインタビューにすすむという寸法。主張の中味よりも道具立ての面白さで読ませるといったおもむきである。

 つけ加えれば〈親が金持ち〉コンプレックス論などは、貧乏人の私にはほとんどシュールレアリスムの世界をのぞいたような異様な読後感をもたらしてくれた。

 デビュー作の『紋切型社会』の切れ味には及ばないけれど、各界のコンプレックス文化人の語りと武田節がほどよくハーモニーを奏でた奇妙で興味深い本といっておこう。
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by syunpo | 2017-08-24 19:10 | 文化全般 | Comments(0)

人と本との出合いを邪魔しない〜『本屋、はじめました』

●辻山良雄著『本屋、はじめました 新刊書店Title開業の記録』/苦楽堂/2017年1月発行

b0072887_18304329.jpg 二〇一六年一月、東京・荻窪で『Title』という名の本屋をはじめた辻山良雄の奮戦記ともいうべき本である。いや奮戦記という表現は誤解を与えるかもしれない。その語が発散する汗臭さのようなものは記述からはほとんど感じられないところが本書の美点なのだから。

 幼少期の本にまつわる原風景的な記憶から語りおこし、リブロ勤務時代の挿話、退社を決意して開店準備を並行的に進めた時期の裏話、開店後の仕事のあらましや店作りにおける考え方などが順を追って綴られていく。

 一般的に個人が古書店を始めるのはよくあることだが、新刊書の書店を開くのは珍しいようだ。商品を仕入れるためには取次を利用するのが一般的で、書店が取次と口座を開く際には、最初に仕入れる商品の金額とは別に「信任金」を預けなければならず、初期費用が莫大にかかるのが個人で開業する場合に足かせになるらしい。辻山はリブロ時代の人脈を活かして、大手取次の日販と契約を交わすことができた。事前に詳細な事業計画書を作っていたことなども奏功したのではないかと辻山は振り返っている。

 辻山の本屋に関する考え方はとてもおもしろい。一時、どこの本屋に行っても同じような本が並んでいるということが「金太郎飴書店」といわれ、本屋が面白くなくなったことを指す代名詞のように使われた。しかしそれに対抗するように店主が厳選した品ぞろえをする「セレクト書店」というものにも抵抗があったのだという。

 ……自分も客として、さまざまな「セレクト書店」に足を運びましたが、特に最近ではその品ぞろえが似てくる傾向にあり、新しい店なのだけれど既視感が強い店が増えてきたようにも思います。(p95)

 セレクト書店もまた陳腐化してきたということなのだろうか。そこで辻山が目指す店作りは「現在世の中で売れているベストセラーを混ぜながらも、ある価値観で統一された品ぞろえを核としていくということを基本としました」。

 本の売り方についての辻山の姿勢にはもっと深く共感できるものがある。Titleでは販促用のPOPを置いていない。それにははっきりとした理由がある。

 ……店頭に並んでいる本を選び、気に入ればそれを購入するのはお客さまなので、本屋にできることは、なるべくお客さまと本との出合いがスムーズにいくように、邪魔をしないということです。(p150)

 また他業種の店舗にブックセレクションする仕事について語っている箇所で、本というモノの価値にあらためて思いをいたしているくだりもじつに印象深い。「通常本を置いていない店にとって、本というのはそれ一冊で、店の哲学を表してくれるような、店のアイデンティティに深くかかわるような商材」だというのだ。

 不特定多数の〈みんな〉のための店では、結局誰のための店でもなくなってしまう。これからの町の本屋は、町にあるからこそその個性が問われるという。そのためには、店を構えている土地の文化とも何らかの交わりがなくてはならないだろう。
 本書では巻末に細かな事業計画書や初年度の営業成績表も添付されている。これから書店を始めようと考えている読者を意識したコンテンツであるが、同時に全体としては誰が読んでもおもしろい記述内容になっている。この絶妙の匙加減こそは、まさにTitleの店作りとも重なりあうものではないか。

 ところで今はどんな本が売れているのだろうか。「切実な本」というのが辻山の答えである。

 マーケティングから売れる本の何が良くないかと言えば、必ず違う似たような本に取って変わられるからです。言ってみれば「替えがきく」という事なので。本は、元は一冊一冊が「替えがきかない」はず。替えがきかない「切実な本」にこそ、人の興味はあると思います。(p183)

 このような認識は、おそらく文化的な商材全般にあてはまりそうな気もする。本を映画や音楽に置き換えても言えることではないだろうか。いずれにせよ、地域で顔の見える客と常に対面している人だからこそ書きえた、という意味では、本書もまた「替えがきかない」本といえるかもしれない。
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by syunpo | 2017-06-26 18:38 | 文化全般 | Comments(0)

偽物は本物の対立物に非ず!?〜『ニセモノ図鑑』

●西谷大編著『ニセモノ図鑑 贋造と模倣からみた文化史』/河出書房新社/2016年10月発行

b0072887_1221674.jpg 国立歴史民俗博物館が二〇一五年に開催した企画展《大ニセモノ博覧会─贋造と模倣の文化史!》の展示内容をベースに編集した本。ニセモノ(フェイク、イミテーション、コピー、レプリカなど)の意義や価値を文化史の観点から再考しようという試みである。

 人をもてなすうえで重要な空間だった大家の「床の間」を歴史的に再検証したり、偽文書の時代背景を考察したり、コピー商品の価値を天目茶碗を実例として吟味したり、人魚などの架空の存在を博物学的に振り返ったり……と内容は多岐にわたる。

 全体をとおしてニセモノ文化に対して寛容な態度、という以上に積極的な価値を見出そうとする姿勢が貫かれている。たとえば偽文書の研究をとおして当時の社会状況や時代背景を個別具体的に知ることができるし、博物館におけるレプリカには、実際に見聞することのできない物事を時空を超えて展観できる大きなメリットがあるだろう。

〈本物/偽物〉という旧套な二項対立を相対化・無効化するような論考はジャン・ボードリヤールをはじめこれまでにも提起されてきたので、本書のスタンスに独創性があるわけではない。が、基本的には本物を志向しているはずの博物館の企画展示という点では、冒険的なものであった様子がうかがわれる。そのあたりの楽屋話も後半に披瀝されていて興味深い。

 いささか散漫な印象は拭えないが、写真やイラストなどビジュアル素材がふんだんに掲載された作りは「図鑑」の名にふさわしく、楽しい本であると思う。
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by syunpo | 2017-04-14 12:28 | 文化全般 | Comments(0)

文化の自己決定能力を〜『下り坂をそろそろと下る』

●平田オリザ著『下り坂をそろそろと下る』/講談社/2016年4月発行

b0072887_1152418.jpg 日本はこれから衰退期を迎える。これから日本人は三つの寂しさと向き合わねばならない。そのように平田オリザは言明する。

 日本はもはや工業立国ではない。
 日本はもはや成長はせず長い衰退期を戦っていかなければならない。
 日本はもはやアジア唯一の先進国ではない。

 以上三つの寂しさを受け止め、受け入れること。本書はそのための方策やヒントとなる事例を記した書物である。結論的にいえば、平田は「文化の自己決定能力が地域の競争力を決定する」と言い切る。第三次産業の比率が大きくなっている現状から考えれば、地域に人を呼び戻し人を集めるためには文化の力をおいてない、そしてその政策は中央に決めてもらうのではなく地元のことを最もよく知っている自分たちが決めること。そこに活路を見い出せというわけである。著者自身も書くようにこれは藻谷浩介の『里山資本主義』の文化版というべき趣の本といえよう。

 本書では具体的に取り組んでいる豊岡市や善通寺市の実例を細かく報告している。いずれも平田自身が関与しているのでやや手柄話めくが、それなりに説得力を感じさせるものだ。

 豊岡市は、志賀直哉の小説〈城崎にて〉で知られる城崎の温泉街をもっている強みを活かした町づくりを実践。平田の提案で城崎国際アートセンターを創設し、演劇人たちの拠点となるような施策を行なっている。アートセンターに滞在するアーティストたちは低料金で外湯に入れるなどの特典を与えられる。アーティストたちに安く温泉を利用してもらうために条例改正まで行なったという。
 善通寺市は四国学院大学を核とした町おこしを行なっている。この大学に本格的な演劇コースを設置し、学生たちを全国から集めているのだ。文化資本は「本物」に触れることでしか育たない。地域間格差を解消するためには「地方こそ教育政策と文化政策を連動させて、文化資本が蓄積される」環境をつくっていかなければならないというワケである。

 とはいえ疑問も残る。もともと歴史的に文化資本が伝承されてきた地方はいいけれど、これといってセールスポイントがない場合、ゼロから文化を発信していくのは口でいうほど簡単ではないとの反論もあるかもしれない。
 また「文化の自己決定能力が地域の競争力を決定する」というテーゼじたいは論理的には否定しがたいことは認めるけれど、結局は苛酷な地域間競争にさらされるしかないのかと思うと、やはり気が重くなる。限られたパイを奪いあう競争では勝者のカゲにそれ以上の敗者があらわれる。敗者はただ下り坂を転げ落ちていくだけではないか。これといって対案があるわけではないけれど、みんなで「下り坂をそろそろと下る」こともまた容易なことではないような気がする。
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by syunpo | 2016-10-08 11:55 | 文化全般 | Comments(0)

日本の文化を考えぬいた生涯〜『加藤周一最終講義』

●加藤周一著『加藤周一最終講義』/かもがわ出版/2013年12月発行

b0072887_2041434.jpg 標題が示すとおり加藤周一の「最終講義」をまとめた本。四つの講義記録からなる。

 佛教大学での講義〈マルキシズム、仏教、朱子学とその日本化〉では、マルクス主義や仏教、朱子学の受容ぶりをとおして、日本の現世主義・個別主義・実際主義・唯物論が浮き彫りにする。とくに面白味のある講義ではないが、代表作『日本文学史序説』で提示した日本論を終生維持していたことがよくわかる。

 加藤を囲む勉強会である白沙会の〈何人かの歴史上の人物について〉は中華料理店で行なわれたもので、全編にわたって質疑応答の形式をとっている。ピカソや富岡鉄斎、漱石研究のあれこれやメキシコ体験談など、いささかとりとめのない内容。

 北京・清華大学での〈私の人生、文学の歩み〉は本書のなかにあっては比較的まとまった文章で、自身の来歴を語りつつ『日本文学史序説』の自己解説的な話が展開される。

 どうしてばかげた戦争をしたのか、あるいは、一五年戦争をはじめてから無条件降伏まで続けるということは、いったいどういう文化がそれを可能にするのかということ。それが根本的な問題。私は生涯をあげてその点に答えようとした……(p114)

 そこで『日本文学史序説』では一つの回答を提出した。日本文化とは何かという問いへの答えはひとことで言えば「集団主義プラス超越的価値の不在」。集団主義は、どういう集団の成員の一人も超越的価値にコミットせず、集団の一致した多数意見があらゆる問題に対しての最後の答えになる、というものである。ゆえに集団の構造、枠組み、目的は動かすことができない。「日本社会のなかにおこるほとんどすべての現象は、いま言った根本的原理によって動かされていると思います」。

〈京都千年、または二分法の体系について〉と題した立命館大学における講義は、持続と変化をめぐって京都という場所に引きつけながら語ったもの。ヨーロッパから帰国したとき、自分自身の文化的アイデンティティを確かめる場所としては京都しかなかったという回想は、やや紋切型の域を出ないものの、加藤の日本文化論を理解するうえでは興味深い挿話といえるかもしれない。
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by syunpo | 2015-11-11 20:10 | 文化全般 | Comments(0)

複数の速度、複数の歴史〜『視覚文化「超」講義』

●石岡良治著『視覚文化「超」講義』/フィルムアート社/2014年6月発行

b0072887_22411218.jpg 紀伊國屋じんぶん大賞二〇一五年度の第二位にランクインした本。著者によれば「視覚文化論は、作品批評を含めた文化論であり、哲学や芸術論に隣接した分野」ということらしく、ハリウッド映画、絵画、ポップミュージックのPV、アニメ、ゲームなどなど、視覚文化全般への目配りの広さにはなるほど感心させられる。引用・参照される文献も、ボードリヤールやマクルーハン、ドゥルーズは当然として、リオタール、ガルブレイス、荒木飛呂彦、千葉雅也をはじめ「デジタルゲームの教科書制作委員会」なるユニットの著作まで幅広い。

 ただその博覧強記が本書の面白味につながっているかというと疑問符がつく。概論的な能書きにけっこうな字数が費やされているうえに、作品名が具体的に次々と挙げられていくくだりはクリティックというよりも紹介文に毛の生えたレベルだったりする。むろんそうしたカタログ的な記述が一種の批評性を具えていると言えなくもないけれど。本書のハイライトともいえる《バック・トゥ・ザ・フューチャー》に関する分析も私にはいささか退屈だった。

 とはいえジャンルの垣根を超えシニカルな懐疑を排してあれもこれもと視線を滑らせていく軽さはやはり貴重なものだろう。インターネットが加速させた「文化の民主化」のなかから必然的にあらわれた書物とでもいえばよいか。またその豊富な参考文献リストは視覚文化を学ぼうとする読者には文字どおりガイダンス的な役割を果たしてくれるかもしれない。
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by syunpo | 2015-02-08 22:43 | 文化全般 | Comments(0)

アウトサイダーの視点〜『こんにちは、ユダヤ人です』

●ロジャー・パルバース、四方田犬彦著『こんにちは、ユダヤ人です』/河出書房新社/2014年10月発行

b0072887_20293819.jpg 小説・劇作・演出など多方面で活躍中のユダヤ人、ロジャー・パルバースとイスラエルに滞在経験をもつ四方田犬彦の対談集。ユダヤ人とシオニズムをテーマに「抽象的で頭デッカチの哲学談義」ではなく、「どこまでも自分が体験し、邂逅した人々の話から出発する」ことを原則に交わされた二人の対話はなるほど具体的でおもしろい。オーストラリア国籍でイスラエルに行ったことのないパルバースが四方田にイスラエルの国内事情を尋ねるなど、時に出現する捩れた場面がいっそう本書に興趣を添えている。

 二人に共通しているのは政治的シオニズム、ひいてはイスラエルという国家の建設そのものに対してともに批判的であること。そのうえでパルバースは繰り返しユダヤ性に関する自身のポジティブな考えを力説している。

 ユダヤ人とは何かというと、ユダヤ人という一つの媒体を通して、他の民族、他の人たち、自分と違う人たちの悩みを癒そうとすることです。それがユダヤ人ではないでしょうか。(p43)

 アウトサイダーの目をもって、人間の悲しみ、犠牲になっている人たちの悲しみがどう乗り越えられるかについて悩む人を、本当のユダヤ人だと思いたいですね。(p136)

 自分がいかに他人、そしてかなり悪意のある他人に自分のことを説明できるか。いかに好意的に対応してもらえるか。ユーモアとかドラマとか日常のことを表現した芸術や美術を通してやっていこうと思ったのがユダヤ人ですね。(p155)


 言葉をかえて反復されるパルバースのこうした発言を読めば、イスラエル批判がただちに反ユダヤを意味するものでないことは当然ながら理解しうる。パルバースは以上のようなユダヤ性を米国で体現した人物として、モリー・ピコン、ファニー・ブライス、ゲルトルード・バーグの三人の女性を挙げている。
 それを受けた四方田はハリウッドに顕著なユダヤ性のもう一つの側面を浮き彫りにして議論の立体化を試みる。すなわちハリウッド映画におけるユダヤ人の自己言及の乏しさを問題にして、彼らはユダヤ性を脱色しながらアメリカンドリームを表現してきたことを指摘する。

 ユダヤ人はアメリカに過剰な同一化をはたしたと言われたけど、むしろ確実にWASPのドリームがあってそれに同一化したというよりも、彼らがWASPの夢をつくってきたような気がするんです。(p165)

 また後半で、四方田が三人のユダヤ人──マルクス、シェーンベルク、フロイト──に言及するくだりはパルバースが充分に対応できずに物足りなく感じられる箇所が散見されるものの、ユダヤ知識人試論として本書のハイライトともいっていいのではないか。

 マルクスについては批判的に論評している。彼はドイツの中心から排除され、同時にユダヤ人のコミュニティからも逸脱した人物だった。《ユダヤ人問題に寄せて》と題する論文で、ユダヤ教の根拠とは暴利と貪欲と利己主義だと述べ、資本主義とは貨幣=ユダヤの神様に支配された社会であり、ユダヤ人を世界から解放するのではなくて、世界をユダヤ人から解放しなければならないと主張した。四方田はこの点を捉えて「こうした偏見的修辞が彼の資本主義批判の前提になっていることをなぜ誰も問題にしないのか」と提起する。

 シェーンベルクは若い時にユダヤの信仰を捨てたものの、ヒトラーが政権をとったときにユダヤ教に入り直した。そしてオペラ《モーセとアロン》を書こうとしたが未完に終わった。

 ……ユダヤ教のユダヤ主義の神様に向かって今の芸術家が何ができるか。最後まで未完成だろうとも、覚悟していたのかもしれません。描いてはいけない神様を描くという、初めから失敗する、負けることをわかっている勝負に関わった。これはぼくは勇気ある、尊敬すべきことだと思います。この失敗に感動するんです。(p221)

 ユダヤ人がこれから迫害され虐殺されて大変だというときに、ユダヤ人をやめましたと言えばまだ助かるかもしれないのに「俺こそユダヤ人だと宣言してモーセのオペラをつくろう」としたシェーンベルクのユダヤ人としてのありかたを四方田は熱く肯定するのである。

 フロイトは文化的シオニズムに対してはある種の期待を持ちつつも、政治的シオニズムには否定的だった。「自分はヘブライ語の知識もなくて、ユダヤ教も信じていない。それどころか、あらゆる宗教を信じていません。民族という考え方も理解できない。民族という理念も共有できない。にもかかわらず、自分は本質的にユダヤ人だ。ユダヤ人である同胞と縁を切ったことは一度もない」と書いて、みずからのユダヤ性と向き合った。四方田の熱弁を受けて、パルバースが「これは二〇世紀における新ユダヤ人の原型」と評して共感する場面は印象的だ。

 またスピルバーグの《シンドラーのリスト》では、収容所で歌われる曲が一九六〇年頃のイスラエルの流行歌で、イスラエルでのプレミア上映では失笑をかったという挿話は本書で初めて知った。当然、四方田のスピルバーグ評は辛辣である。また原節子が反ユダヤ主義的な発言を残していることにも話は及び、小津=原節子の現代における無批判な受容を「日本の危険なノスタルジー」と警戒する四方田の発言は注目に値するだろう。

 とにもかくにもユダヤ性の何たるかを考察することは必然的にマイノリティやアウトサイダーをめぐる世界史的な思考へと読者を導かずにはおかない。野暮ったいタイトルで損をしているが、内容は濃密である。異論反論もあるだろうけれど様々な問題提起を孕んだ刺戟的な対談集であることは間違いない。
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by syunpo | 2014-11-10 20:51 | 文化全般 | Comments(0)