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●飯沢耕太郎著『深読み! 日本写真の超名作100』/パイインターナショナル/2012年1月発行
![]() 本書に収められた作品を見てあらためて興味深く感じたのは、写真の最初期から写真表現とは何かを問う自己言及的な創作活動が活発に展開されてきたという史実である。 シャッターを切れば何がしかの映像が写るということに対する原初的な悦びや驚きから、撮影後に様々な修整や加工をほどこす創作的行為が始まるまでにはそれほどの時間を要しなかった。つまり写真史を紐解けば早くから写真という方法への懐疑を含む実験的な試みがなされてきたことがわかる。そのような歴史の蓄積には、おのずと映像と世界との関係、映像と撮影者との関係をめぐる考察や実験のあとが刻まれてもいるだろう。 江崎礼二のコラージュ写真。高山正隆の『静物』のように撮影後に絵の具や鉛筆で修正を加えた「芸術作品」。関西の新興写真の流れから出てきたハナヤ勘兵衛や平井輝七らのモンタージュ写真。岡上淑子のフォト・コラージュ。山本捍右のシークエンス(連続写真)。特殊フィルターを使った山崎博のヘリオグラフィ。そして時代は一気に飛ぶが、やなぎみわや畠山直哉らに写真という枠組にとらわれない現代のインスタレーション的な創作活動……。 デジタル写真の時代になって以降、画像の修整が以前よりも容易になったことから、写真の〈真/偽〉があらためて議論になり、ヴィム・ヴェンダースは映画『パレルモ・シューティング』において、作中で死神らしきキャラクターに「映像は死んだ」と言わせた。 けれどもその種の加工は今に始まったことではなく、写真が発明されてすぐの頃から始まっていたのだ。写真という表現行為は当初から自己否定的な問題意識と実践を孕んでいたともいえる。写真が「真を写す」ものとして安穏とした地位に居座っていた時代は、日本の写真史をとおしてほとんどなかったのではないか。本書を見てそのようなことを再確認した次第である。 ただし本書の標題に「深読み!」とあるのは記述内容を反映したものとは言い難く若干の違和感をおぼえた。写真作品を「読む」ためには、前提として写真史や文化史の文脈を理解しておく必要がある。著者もそのことを念頭において、写真家たちの経歴や写真史における位置づけを解説しているのだが、本書の記述は個々の作品を「深読み」するために最低限押さえておくべき基礎知識の概説レベルにとどまっていると思われる。別にそのことを批判するつもりはない。標題はもう少し内容に即したものを付けた方がよかったのではないかということを言いたいまでである。 ■
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by syunpo
| 2018-04-14 17:45
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●ホンマタカシ著『たのしい写真 よい子のための写真教室』/平凡社/2009年6月発行
![]() では「真を写す」以外にいかなることができるというのか。 たとえば「偽を写す」やり方が紹介される。赤の他人どうしを家族の肖像と称して撮影・発表したりすることである。しかしこの種の話はこれまでさんざん論じられてきたことで、たいしておもしろくない。 そこで偽でも真でもなく「写す」行為そのものを放棄した写真家(?)の実例が紹介される。木村友紀やトーマス・ルフといった人たちである。前者はフリーマーケットで集めてきた家族写真を編集した作品で知られ、後者はネットからダウンロードしてきた画像を加工・編集してみずからの作品としている。 もっとも末尾に収録されている堀江敏幸との対談では、堀江の発言を受ける形でホンマは次のようにも述べている。 写真にとっての真実というのは、写真家がそのとき、その場所にいたということしかないというのは本当にそうだと思います。(p232) Photographが「真を写す」ものではないとしても、写真にとっての真実とは何か、リアルとは何か、という問いはホンマのなかでは依然として重要であり続けているらしい。 もっとも私にはそのような手垢にまみれた語彙による写真論よりも後半に収録されている、肩の力の抜けた文章の方がたのしい。八ヶ岳の謎の写真家・寅彦との交流記やシュルマンおじいちゃんのインタビューなど、ホンマのヒューモアがいい具合に言語化されているように思う。 ■
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| 2015-11-28 10:01
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●森山大道著『森山大道、写真を語る』/青弓社/2009年3月発行
![]() 森山にとって写真とは何なのか。答えは端的だ。 「写真は複写、そのことだけにこだわりたいですね」「まるで複写感覚、実写という感じがないんだな」「ぼくの場合、撮影とはいわば写真集を作るための資料を集めているといっていいんです。だから撮る一枚を外界の断片の採集だと思い込んでコピーを取る感覚で撮る」「アナログだろうがデジタルだろうが、しょせんカメラはコピーするツールなわけで、そこが写真のすごみ」と同趣旨の発言が繰り返し出てくる。 ただしここでいう「複写」「コピー」は私たちがふだん使っているような意味では必ずしもない。その内容は一筋縄ではいかない。たとえば新宿を撮るときの思いを森山は次のように吐露している。 実際の新宿の街の混沌と、ぼくのなかに広がっている新宿の街の混沌とが、常にカメラを持つぼくの目の前で交感し合って、写真という名のさらにもうひとつの場所が出現するのだと感じています。(p148) 盟友・荒木経惟とのリラックスした対話もいくつか収録されていて、森山の写真を見続けてきた人にはとりわけ楽しい対談集といえるだろう。 むろん森山自身、ことばで語ることの困難を〈あとがき〉のなかで表明してもいる。森山大道という人間から何か核心的なものを見出したい聞きだしたいと思うなら、やはり写真のなかから見出し聞きだすべきなのだろう。 ■
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| 2015-08-24 20:03
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●クレマン・シェルー著『アンリ・カルティエ=ブレッソン ──20世紀最大の写真家』(伊藤俊治監修、遠藤ゆかり訳)/創元社/2009年4月発行
![]() 「なぜ、写真なのか。表現方法としてカメラを使うようになった理由は?」という質問に対して「人生に真正面からとりくむため」と答えているのが、かっこいい。また「自分の存在を忘れさせることができたときしか、被写体は重要性を持たず、写真は力を持たない」という言葉も印象的。 ちなみに本書の原シリーズであるフランス・ガリマール社〈知の再発見双書〉の五百点を超えるタイトルのなかで写真家個人がとりあげられているのはブレッソンのみだという。 ■
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| 2013-11-15 20:28
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●『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト 内なる静寂』/岩波書店/2006年10月発行
![]() ……クリスティアン・ディオール、キュリー夫妻、エズラ・パウンド、マルセル・デュシャン、ロベルト・ロッセリーニ、ウィリアム・フォークナー、アーサー・ミラー、ロバート・オッペンハイマー、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、トルーマン・カポーティ、マルク・シャガール、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ココ・シャネル、アンリ・マティス、ルキノ・ヴィスコンティ、カール・グスタフ・ユング……。 この写真集は二〇〇三年に設立されたアンリ・カルティエ=ブレッソン財団が収蔵作品のみで構成する初めての展覧会を開いたのを機に刊行されたものである。 難しい講釈はジャン=リュック・ナンシーに任せよう。 マリリン・モンローはこんなにも可憐だったのか。ロラン・バルトって意外と気障ったらしいな。ホアン・ミロの顔は作品に描かれた顔そのまんまだね。ベケットの何とも形容しがたい印象的なまなざし……。人物を下半分に配し、上部に窓や本棚、街灯などをもってくる構図がお気に入りなのか、何ともかっこいい。 ポートレイトの写真集としてはやはり傑作中の傑作だと思う。 ■
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| 2012-09-22 21:03
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●森山大道、仲本剛著『森山大道 路上スナップのススメ』/光文社/2010年8月発行
![]() 本書はフリーライターの仲本剛が森山の撮影に同行して綴った、いわばスナップ撮影の入門書。森山の作品もふんだんに掲載されていて写真集的な趣もあり、読むだけでなく見ていて愉しい本だ。 撮影場所は、東京の砂町、佃島、銀座、羽田、そして栃木県足尾までの国道沿いの風景。銀座と羽田を除けばモノクロでの撮影。いかにも人間臭い風景。生活そのものが醸し出す人間的な匂いの立ちこめる風景がそこに写し出されている。 仲本が書き記す森山の言葉が森山ワールドへのアプローチとスナップ撮影への道標となる。 写真の一般的ノウハウとは離れてしまうかもしれないけれど、とにかく撮影するときはコンセプトだとか、テーマだとかは頭から外せ、と僕は言ってきた。(p19) 森山が好んで撮影に用いてきたのはコンパクトカメラである。 やっぱりね、一眼レフや大型カメラを持つと、頭で考えちゃうだろ。構図を気にするとか。その点、コンパクトカメラは考えなくても撮れる。それに、サイズは小さくても意外によく写るしね。(p71) 「絵葉書みたいな写真」という表現は、往々にしてネガティブな響きを伴って使われる。しかし森山の考えはすこし違う。それはおよそ「絵葉書みたいな写真」とは対極にある写真を撮ってきたカメラマンの言葉としては意外なものである。 考えてみるまでもないけれど、絵葉書の写真って、じつは、みな良い写真なんだよ。だから、この言葉は決して馬鹿にした表現じゃない。絵葉書の写真って、たいがい対象のちょっと上から撮ってる。あの撮り方に辿り着いた先人は、やっぱり凄いな、と本当につくづく思ってるから。(p104〜105) 森山のスタンスや考え方について私は全面的に共感はするわけではない。けれどもスナップ撮影に本領を発揮する森山大道という写真家を理解し味わう上で本書が一助となることは確かだろう。 ■
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| 2011-12-12 19:53
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●ヴァルター・ベンヤミン著『図説 写真小史』(久保哲司編訳)/筑摩書房/1998年4月発行
![]() 「芸術としての写真」という議論はしばしば堂々めぐりに陥ってしまうが、「写真としての芸術」という一見はるかに明白な社会的事実はほとんど一顧だにされなかった。ベンヤミンはそのように述べた後で次のように記す。 芸術の機能に関して、芸術作品の写真複製がもたらす影響は、写真を多かれ少なかれ芸術的に造形すること……とは比較にならないほど重要である。(p44) ベンヤミンの認識は、その後に膨張していったマスメディアの時代、さらには二〇世紀末から現在につづくデジタル技術の進展を先取りしていたといっていい。七〇年代に『写真論』を著わしたスーザン・ソンタグがベンヤミンを引用して「写真術のもっとも独創的で重要な批評家であった」と評したのもうなづけよう。 なお本書はベンヤミンが本文中で言及している写真家の作品画像を数多く掲載しており、見た目にも愉しい本になっている。 ■
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| 2010-12-30 11:21
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●辺見庸著『私とマリオ・ジャコメッリ』/日本放送出版協会/2009年5月発行
![]() 本書は、近年病いに倒れ、生死の境をさまよった作家・辺見庸の手になるマリオ・ジャコメッリ論である。ジャコメッリがホスピス病棟に通って撮った《死が訪れて君の眼に取って代わるだろう》シリーズに関する批評などに著者ならではの言葉が紡ぎ出され、ジャコメッリに対する共感が強くうかがわれる。 ジャコメッリの映像は、私に快感をもたらさない。不快というのでもない。快不快をこえた風景の深みに連れていかれて、むしろ、心がかき乱される。かれの映像が通常ではありえない意識作用を私にもたらし、私は映像に感染してしまうのだ。(p54) いくつか掲載されているジャコメッリの作品をみていると、なるほど名状しがたい力を湛えた奥深い世界が広がっている。 ただ、本書において辺見が執拗に繰り返している〈資本〉批判は陳套極まりない。 辺見の〈資本〉批判・テクノロジー批判は、ジャコメッリの映像作品を賞賛するに際して持ち出される論理である。同時に辺見は「内面」世界を表現することに格別の価値を見出しているらしく、それを具現化したものとしてジャコメッリを高く評価してもいる。それは以下のような物言いにあらわれている。 「スカンノの少年」に代表される〈異界〉の映像は、〈資本〉に食いつくされる以前に人間がもっていたであろう豊かなイマジネーションを回復するための手がかりでもある。(p21) 現在の一部の写真家のように、戦争をやっているところへ行って撮らなければ写真じゃないとばかりに戦地や飢餓地帯におもむく怪しげなヒロイズムは、かれのなかにはまったくない。ジャコメッリの関心事はあくまで内面世界にあったので、もっぱら自分の住む町やその周辺で写真を撮った。(p44) しかし、写真というメディアはまぎれもなく〈資本〉によって生み出されたものであり、テクノロジーの成果のうえに成り立つ表現方法である。それに何より辺見のいうような人間の「内面」じたいが、近代的自我の所産であり、それこそ「人々が〈資本〉に食いつくされる」時代——近代以降に問題化されたものではないか。 「テクノロジーと資本にからめとられてどこまでも貧しくなってしまったわれわれの想像力」(p22)と辺見が慨嘆する時、それ以前の、豊かな想像力をもっていた人間社会などというものは、現代人が捏造したイデオロギー的仮構にすぎない。 誰が撮影した写真作品であれ、そこに近代以前の古き良き時代の豊かな何物かを見出そうとする言説は倒錯した観念論にすぎないのである。 そもそも今、〈資本〉の強大な運動に対して辺見のような単純な論法で敵意を示したところで、どれほどの実効性を持ちうるのだろうか。「資本とはなまやさしいものではなく、ビジネス・チャンスと見れば、ジャコメッリ作品でさえもとりこむ力があるのだ」と辺見はいう。何を今さら。ジャコメッリどころではない。マルクスやレーニンの言説でも、チェ・ゲバラをめぐる伝説でも、資本の横暴を告発するエコロジー思想でも、ありとあらゆる反〈資本〉的なものでさえも〈資本〉のサイクルの中に取り込みながら自己言及的に増殖を続けていくのが〈資本〉の力だ。そんなことは自明の話ではないか。 二〇世紀の世界を生きたマリオ・ジャコメッリ。彼が具体的に〈資本〉とどう関わったのかは知らない。だが彼の「創作」した映像作品は、なべて〈資本〉の運動なくしては極東の島国の人々の眼に触れることもなかったろう。〈資本〉の運動がジャコメッリと辺見とを引き合わせた。そうした僥倖を受けて辺見の想像力が刺戟され思考が活性化される——。良くも悪しくもそれが現代という時代なのである。その事実を無視して組み立てられた言説はただただ空しいというほかないのだが、かかる空しさを炙り出すのもまた〈資本〉の力というべきなのかもしれない。 ■
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by syunpo
| 2009-09-15 09:18
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●アンリ・カルティエ=ブレッソン著『こころの眼』(堀内花子訳)/岩波書店/2007年7月発行
![]() かなり断片的な記述を集めたものなので、彼の作品や業績・経歴をよく知らない読者にとっては今一つインパクトに欠ける書物かもしれない。 ■
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| 2008-11-12 08:23
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●多木浩二著『肖像写真』/岩波書店/2007年7月発行
![]() 本書は、以上のような基本認識に基づいて執筆されたものである。ここでは、異なった時代に活躍した三人の著名な写真家、ナダール、アウグスト・ザンダー、リチャード・アヴェドンの撮った肖像写真が比較考証される。 十九世紀後半に活動したナダールは、同時代のパリで活躍した著名な文化人、芸術家の肖像写真を数多く残した。ボードレール、デュマ、ドラクロワ、マネ、ロッシーニ……。新しく登場してきたブルジョワ階級を知的エリートで象徴していたのである。 ザンダーは二十世紀前半の写真家で、一時代の社会全体をさまざまな職種の人物によって見ようとした。多木の認識によれば、彼を動かしたのはある時代の世界像を捉えようという意図であった。 二十世紀後半に活躍したアヴェドンの場合は、視覚的表現の進展と成熟という条件のもとで、人間のイメージとは何かをかなり自覚的に把握できるようになっていた。彼が肖像写真を撮るにあたって人の顔やポーズに見出したのは「パフォーマンス」である。 三人の偉大なる写真家の肖像作品をならべることで、著者は「写真のまなざしは記述できない歴史の無意識に到達しうる」ことを訴えようとした。その試みが成功しているかどうか、私には何とも即断できない。ただ、全体を通して肖像写真の面白さを再認識させてくれたことは間違いない。 ザンダーの〈舞踏会へ向かう3人の農夫〉や〈子供の儀仗兵〉などは、魅力にみちた写真である。またアヴェドンが撮った元奴隷のウィリアム・キャスビーの肖像写真は、私たちのまなざしを「歴史的現実」に開かんとする圧倒的な強度で見る者にせまってくる。 多木の記述は繰り返しや重複が散見され、やや単調な感じがしないでもなかったが、数々の写真論を世に問うてきた著者ならではの論考が示された興味深い本である。 ■
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by syunpo
| 2007-11-22 11:37
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