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カテゴリ:社会学( 27 )

社会学者の回答芸〜『また身の下相談にお答えします』

●上野千鶴子著『また身の下相談にお答えします』/朝日新聞出版/2017年9月発行

b0072887_12211389.jpg 新聞にはたいてい人生相談のコーナーが常設されているが、個人的には数多いる回答者のなかで上野千鶴子がいちばん面白いのではないかと思う。本書は朝日新聞に掲載中の〈悩みのるつぼ〉の上野回答分を書籍化した第二弾である。とにかく切れ味鋭い。同時に苦労を重ねてきたであろう相談者、社会の不条理に翻弄されている相談者らには暖かい慰労や激励の言葉を贈る。当然のことながら、回答の内容が社会学的知見の披瀝にもなっているのだ。

 古臭いジェンダー差別が伝統となっている国立大学体育会に所属する女子学生の悩み。マッチョな部活の体質を変えたいけれど……という相談には「武闘派だってムダな闘いはしません」と言い、壁にぶつかって自爆するより、独立して新しい女子サークルを立ち上げることを提案するのはすぐれて現実的なアドバイスだろう。

 女装が好きな息子への対処のしかたを相談する五十代の母。相談者に対して、女装趣味を知ったのは何故なのかを最初に問うところが秀逸。
「あなたが息子の部屋に無断で入ってクローゼットを開けたせい? そちらの方が問題ですよっ!」。家族崩壊が起きるとしたら、息子さんの趣味によるものではなく、母親が大学生の息子のプライバシーにずけずけ立ち入る配慮のなさによって、でしょうと言い切るのには感心した。

 保健室に入り浸るやっかいな子に関する教師からの相談。身体の不調を文字どおり受け取ることの愚を指摘して教師を叱咤したうえで、話を「聴いてあげる」ことを助言する。当たり前といえば当たり前の話だが、カウンセリングの基本に沿った回答といえようか。

 日々ボランティア活動に勤しみながらも認知症の心配をする七十一歳の女性。それに対する回答も振るっている。認知症高齢者とは「過去と未来がなくなって現在だけに生きる」存在であり、「死を思わずに毎日を暮らせるのは、人生の最期の日々に神が与えた恵」とする見解を紹介する。そのうえで「脱社会化の過程」としての認知症に罹っても「もともと自分にないものが出てきたりはしないでしょう」と述べ、「笑顔でボランティアをしながら周囲に感謝を絶やさないあなたは、きっとすてきなぼけバアサンにおなりでしょう。どうぞ安心してボケてくださいませ」とまとめる。けっして嫌味でも皮肉でもない。

 上野は〈あとがき〉でみずからの立ち位置について語っている。

……身の上相談回答者とは、人生の酸いも甘いもかみわけた達人、ということになっています。……(中略)……わたしのように「戸籍のきれいな」おひとりさまで、出産・育児の経験もなく、看取る夫も育てる孫もいない者が、身の上相談の回答を務めるのはおこがましい、でしょうか。(p274)

 このように問いかけた後に、社会学者としての矜持のようなものを淡々と述べて「ここでの回答は、まじめな質問にまじめに答えるというより、それ自体が回答芸というべきパフォーマンスを求められるものだからこそ、わたしにも回答者が務まっているのでしょう」と述懐する。
 そうなのだ。これは何よりも上野千鶴子という社会学者の回答芸をたのしむ本なのである。
by syunpo | 2018-12-14 12:23 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

「肯定する革命」へ〜『現代社会はどこに向かうか』

●見田宗介著『現代社会はどこに向かうか ──高原の見晴らしを切り開くこと』/岩波書店/2018年6月発行

b0072887_123204.jpg これからの人間社会がどこに向かうかを考えるとき、まずは人類の足跡を振り返る、その歴史を踏まえて未来を構想するのが常道だろう。人類史を顧みる場合には様々な時代区分のしかたがあるが、本書ではカール・ヤスパースを援用する。

 ヤスパースによればまず「軸の時代」があった。ユーラシア大陸の東西に出現した貨幣経済と、これを基とする都市社会の勃興がその時代の大きな特徴である。それまでの共同体の外部の世界、〈無限〉に開かれた世界の中に初めて投げ出された人びとの恐怖と不安と開放感の時代。「軸の時代」とは、近代に至る力線の起動する時代であったともいえる。それは二〇世紀後半の情報化・消費化社会において、完成された最後のかたちを実現する。

 しかし近代という原理は、世界を覆ったグローバリゼーションによって、初めて環境と資源の両面において〈有限〉に直面することになった。この第二の巨大な曲がり角に立つ現代社会は、どのような方向に向かうのだろうか。本書ではこの問いに対して正面から応答しようとする。

 宇宙は無限かもしれないけれども、人間が生きることのできる空間も時間も有限である。「軸の時代」の大胆な思考の冒険者たちが、世界の「無限」という真実にたじろぐことなく立ち向かって次の局面の思想とシステムを構築していったことと同じに、今人間はもういちど世界の「有限」という真実にたじろぐことなく立ち向かい、新しい局面を生きる思想とシステムを構築してゆかねばならない。(p16)

「新しい局面を生きる思想」を構想するにあたって見田が最初に参照するのは、NHK放送文化研究所が一九七三年から五年毎に行っている「日本人の意識」調査の結果である。そこから見田が読み取った青年たちの精神の変化はざっくりいうと三つある。
「男女の性別役割分担を基本とする近代家父長制家族の解体」「生活満足度の増大と結社闘争性の鎮静」「魔術的なるものの再生」……の三つである。

 見田はこの傾向を概観した後、一九八一年に開始された「ヨーロッパ価値観調査」とその拡大展開である「世界価値観調査」の分析に入る。そこでは日本の若年層と同様の傾向が見られることを確認し、さらに諸外国の若者の幸福観を読み取っていく。

 多くの先進諸国において共通している価値は「寛容と他者の尊重」であり、「仕事にはげむ」「決断力・ねばり強さ」「利己的でないこと」などの価値も重んじられるようになった。「仕事」に関する意識が、「かせぐための仕事」から「社会的な〈生きがい〉としての仕事」へと変化していることを見田は指摘する。

 それを踏まえて、フランスで二〇一〇年に行われた「幸福観調査」の回答を引用しているのだが、これはある意味で興味深い内容である。全体的な幸福度について訊いた後、その理由について自由に記入してもらったもので、そこでは家族や恋人との団欒や旅行、勉学などで幸福を感じている様子が淡々と綴られているのだ。「単純な至福」のありふれた実例が並んでいて逆に圧倒されてしまったと、とでも言えばいいか。

 何はともあれ、そのような若年層の意識の変化をとおして、見田は壮大な人類史の分岐点における幸福感の転回を見出す。これ以上の経済成長のない社会とは、停滞した退屈な社会ではないか。その問いに対して見田は答える。「欲望と感受性の抽象化=抽象的に無限化してゆく価値基準の転回」であると。これが本書の認識の核心を成す。

 経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界への旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちとの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。(p135)

 それに付け加えて、二〇世紀の真剣な試行錯誤の成行の根底にあるものとして、見田は「否定主義」「全体主義」「手段主義」を挙げている。
「否定主義」とはとりあえず体制を打倒するという否定から出発する行動様式である。「全体主義」は理想の実現のために特定の組織に権力を集中するイデオロギーである。「手段主義」とは未来にある目的のために現在生きている一回限りの生を手段化するという感覚である。

 当然ながら、新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準は、その逆をいくものと考えられる。すなわち「肯定的であること」「多様であること」「現在を楽しむ、ということ」。「肯定する革命」とはそのような公準を踏まえた概念にほかならない。

 それにしても、と思わないではない。「転回の基軸となるのは、幸福感受性の奪還である」という認識にたって成される「肯定する革命」という概念はいささか観念論に過ぎるのではないか。しかも上に引用した幸福的な楽しみの列挙からは生産活動がすっぽり抜け落ちている。人びとがアートやスポーツや自然との交感を楽しむあいだ、誰が生産活動に従事しているのだろうか。

 欧米の先進国はともかく今の日本ではあらためて貧困が社会問題化している。経済成長は一旦は「完了」し、高原状態に達したといえるかもしれないが、その後、そこから後退したと見るべきではないか。恵まれた人間関係も娯楽も学習もすべては一定レベルの物質的充足を基盤としている。脱物質というスローガンは何よりも物質の充足を前提しているのだ。
 ついでにいえば、人間は未来に期待がもてないとき、現状に一定の満足感を示すことは多くの社会学者が指摘していることである。

 人類史の長い射程で考えるならば「幸福感受性の奪還」「肯定する革命」は鍵言葉になりうるかもしれないけれども、個々人の一度きりの人生をそのような雄大な人類史のなかで捉えることに「イエス」と答えられる人はどれほどいるだろう。本書が描きだす未来社会は今地球上に住まう多くの人間にとっては机上の構想にすぎないといえば言い過ぎだろうか。
by syunpo | 2018-12-05 12:33 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

人間はなぜ〈男〉と〈女〉に分類するのか〜『はじめてのジェンダー論』

●加藤秀一著『はじめてのジェンダー論』/有斐閣/2017年4月発行

b0072887_1991240.jpg「人間には男と女がいる」という認識は一見自明であり自然なことであるように感じられる。しかし実際には私たち人間がそのような現実を社会的につくりあげている。ではどのようにつくりあげているのか。本書ではその問題がメインテーマとなる。

 ジェンダーとは何か。それは「社会的性差」と訳されることがある。「性差には社会的なものと生物学的なものがあり……」との解説のあとにそのように規定されるようである。しかし、社会学や法学、教育学などではジェンダーを「性差」という意味で用いることはむしろ少ないらしい。

 そこで本書の定義は以下のようなものとなる。

 私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(または、そのどちらでもないか)に〈分類〉している。ジェンダーとは、そうした〈分類〉する実践を支える社会的なルール(規範)のことである。(p7)

 以上の定義から二つの論点を取り出すことができる。一つは「〈分類〉する実践とはどういうことを指すか」。もう一つは「その実践を『私たち』が行なうことの意味」は何かという問題である。

 トランスジェンダーや性分化疾患などの実例を引きながら、性別二元性社会が自明なものではないことを説いていく筆致は明快だ。そのうえで性別の自己決定権という概念の解説に向かうのも自然な流れだろう。

 性自認と性的指向にまつわる問題に関しては、とりわけ興味深く読んだのは、自民党が二〇一六年に発表した文書「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」に言及した箇所である。

「まず目指すべきは、カムアウトできる社会ではなくカムアウトする必要のない、互いに自然に受け入れられる社会」であるという文言を留保つきで評価しながら、次のくだりに懐疑を挟んでいるのは注目に値する。すなわち「性的指向・性自認の多様性を認め受容することは、性差そのものを否定するいわゆる『ジェンダー・フリー』論とは全く異なる」と述べている点だ。「ジェンダー・フリー」論が「性差そのものを否定する」というのは「悪質な誤解ないし曲解」だという。

 そのような「曲解」に基づいて男女平等のためのさまざまな教育実践をしばしば自民党の政治家たちが弾圧してきた。このようなあからさまな矛盾を克服していくつもりがあるのかどうか、著者は疑義を呈するのも当然だろう。これは、今年になって杉田水脈が「新潮45」誌上に発表した論考に発する一連の騒動をみれば、著者の疑義がけっしてためにするものではなかったことがわかる。本書の指摘は自民党のそうした欺瞞を予告したと読むこともできよう。

 また加藤は、生物学的性差を肯定することに対する警戒心には十分に合理的な理由があるとも指摘する。生物学的性差という観念によって性差別を正当化し、性役割規範を固定化することが繰り返し行われてきた歴史があり、かつそうしたことが今後も繰り返される危険はなくなってはいないからだ。

 実際、自然科学に潜むジェンダーバイアスを指摘している点はとても勉強になった。たとえば「哺乳類」という動物分類学的カテゴリーを確立したのは、リンネだが、彼は母親自身による母乳育児を推奨する社会運動に関わっていたという。「どうやらそこには、客観的事実への謙虚な姿勢よりも、リンネという個人の価値判断が色濃く反映されていたようです」。

 リンネの事例は古いものだが、生物学的な語彙をジェンダーの強化に利用する言説は今もありふれている。「男女はこうあるべき」という価値判断をもっともらしく見せかけるための道具として科学的知識が利用されることがある。これはジェンダー論にとって重要な認識だろう。ポップ心理学などもその典型だという。

 性暴力に関する考察にも多くの紙幅が費やされている。昨今、政治の場で社会に混乱をもたらしたと否定的に論じられることもあるセクシャル・ハラスメントについては、その概念の発見が「性暴力被害という問題が問題として認識される可能性の増大であった」と積極的な評価を与えていることはいうまでもない。

 さらに性教育への政治介入については、介入の根拠がきわめて乏しい例の多いことを指摘している。性教育の現場では「自分で考え、自分の意見を持ち、主体的に行動できるようになること」を目指しているのだが、これはとりもなおさず民主主義の基本理念に重なるものである。子どもに性知識を教えることをやみくもに反対する政治家たちは、そのような教育が気に食わないらしい。すなわち民主主義の基本理念そのものに通じる教育を抑圧しようとしているのだという加藤の指摘は正鵠を射ているように思われる。

 このほか、男女の賃金格差の問題やリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(生殖に関わる諸権利と健康)などなど様々な論点に目配りがきいていて、ジェンダー論の入門書としては最適の本ではないかと思う。
by syunpo | 2018-10-18 19:17 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

語ることの政治性を自覚しながら〜『はじめての沖縄』

●岸政彦著『はじめての沖縄』/新曜社/2018年5月発行

b0072887_21243760.jpg 社会学者の岸政彦が沖縄について語る。あるいは沖縄の語り方について語る。必ずしも歯切れの良い記述がなされているわけではない。一歩一歩自分の足元を確認しながらゆっくりと進んで行くかのような筆致。結論的なことから先に記せば牛歩を思わせるような遅い歩みにこそむしろ著者の誠実さがあらわれている気がする。

 社会学者として沖縄で体験したことや自分が遭遇した人びとの挿話を書き記す。あるいは歴史的な大きな物語にも言及する。どのような話をするにせよ、そこから系統立てて一つの提題に収束させていくわけではないことは、話題になった『断片的なものの社会学』と同じスタイルかもしれない。しかしそこから沖縄の人びとの生き生きとした日常的なすがた立ち上がってくることも確かである。それは加藤秀俊のいう「世間話の延長」としての社会学のありかたを想起させもする。

 むろん個々の挿話から岸なりの仮説めいたものは提示することも忘れていはない。たとえば、あるところでは沖縄の「自治の感覚」について述べる。紙ナプキンでバレリーナをつくるタクシーの運転手。突然路肩に車を止めて「もう降りましょうね」と言い、そのまま帰宅する運転手。彼らの自由なタクシーの営業ぶり。あるいは図書館で寒さを訴えると私物のストーブを足元に置いてくれた職員。彼らの仕事ぶりに「自治の感覚」を見出すのだ。

 また別のところでは、沖縄の自立的な経済成長について述べている。

……戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分たち自身で成し遂げたことなのだ。(p110)

 そうした沖縄の特質や歴史を語りつつも、随時、みずからの語りの方法について自己言及的に省察を加えていくところが本書の大きな特徴でもある。沖縄を語るとき、学術的にいえば本質主義にも構成主義にも偏らない態度が可能なのかが自問自答されるのだ。

 私は、沖縄的なものは、「ほんとうにある」と思っている。あるいは、もっと正確にいえば、ほんとうにあるのだということを私自身が背負わないと、沖縄という場所に立ちむかうことができないような気がしている。
 でもそれは、文化的DNAとか気候風土とか、そういうことではなくて、おそらくはもっと世俗的なものと関係あると思っている。また、そのように世俗的に語らなければならない、と思っている。特に、ナイチャーとしての私は。(p187)


 さらに岸は「沖縄を語ることを考える」というメタレベルに立つことの「政治性」についても指摘する。

 どのように語ればよいか、ということについて、はっきりとした正しい答えは存在しない。ただここでは、この、どのように語るにしても私たちは何らかの意味で政治的になってしまう──南の島への素朴な憧れも含めて──ということについて、もう少し考えてみたい。
 どう語っても政治的になってしまう、ということが、言いかえればつまり、私たちの沖縄についての語りが、その語り方にかかわらず常に政治的な場にひきつけられ、そこから自由になりえない、ということが、それがそのまま日本と沖縄との社会的な関係の、ひとつの表れになっているのである。
(p240〜241)


 ここでは沖縄を語ることの困難は、時に社会学を実践することの困難とも重ね合わされているようにも思う。そしてそのうえで「言葉というものが、あらゆる政治性から自由でありえないとしても、私たちにできることは、まだあるはずだ」と岸は考えるのだ。その時、「日本がこれまで沖縄にしてきたことの責任を解除するような方向で語らないこと」と銘記している点は何よりも重要な前提だろう。
by syunpo | 2018-08-06 21:32 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

失うことで可能性は開ける!?〜『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』

●堀内進之介著『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』/集英社/2018年3月発行

b0072887_18562168.jpg 人工知能の発展をベースにした情報通信技術のハイテク化は、私たちを常時世界と結びつけ、膨大な量の情報にアクセスできる利便性をもたらした。だが本当に人工知能時代はバラ色の未来を約束してくれるものなのだろうか。

 その問いに対しては二つの態度を想定することができる。一つは人工知能の進化によって人間は単純なルーティンワークから解放され自由を得ることができるとの楽観的な展望をもとになされる「待望論」。今一つは人工知能に象徴される技術の進展を懐疑しあくまでも人間の主体を重視する態度にもとづく「脅威論」。

 堀内進之介はその両者を批判する。「技術の危険性を指摘することができるのと同じだけ、人間の危険性を指摘することもできる」からだ。現代社会をデストピアにしないためには、技術も人間も、どちらも過信してはいけない。それは「技術と人間を截然と区別するのではなく、相互産出的かつ相補的な関係として捉え直すことを意味する」。

 あたらしい技術が「脅威」になるのは、技術それ自体の問題というよりも、サービスとして社会にあらわれる場面で、必要以上に手助けすることでかえって状況を悪化させるイネーブリングの性格を帯び、共依存関係における支配を生み出すときである。

 しかし新しい技術を単純に敵視して、それへのカウンターとして「人間らしさ」を持ち出すことも得策とはいえない。むしろイネーブリングを強化するだけである、という。

 では、技術の便益を最大限に引き出し、現在の技術との関係を刷新するためには具体的にどうすればよいのか。

 堀内はそこで「アンプラグド・コンセプト」なるものを提起する。その基本理念は、スマート化を牽引する「あたらしい技術」を、常時接続による複数タスクの同時的な処理技術の軛から解放し、それらを時空間的に適切に再販分する技術へと転換することを目指す。いわば「スヌーズ機能」である。
 たとえば、休暇中は仕事のメールが来ても「休暇中」であることを伝える自動返信メールを送ることができる技術はすでに多くの企業が導入している。またフランスでは、労働者に「オフラインになる権利」を与える法律が施行されている。勤務時間外は仕事のメールを送受信しなくてよいことが法的に認められたのである。

 そのような「アンプラグド・コンセプト」は、本書でとくに言及されているわけではないが、つながることと切断することのバランスを考察した千葉雅也の『動きすぎてはいけない』の基本姿勢とも重なる点があるのではないだろうか。

 いずれにせよ、堀内のいう「アンプラグド・コンセプト」を支える思想は「技術による解放論」だと言える。「技術による解放論」は、人間はこれまでにも「大事にしてきた物事」を失いながらも、しかし、それによって多くの可能性を獲得してきたという歴史を参照している。そして、この時代でも、私たちは何かを失う運命にあるなら、ただ失うのではなく、やはり新たな可能性が生まれるようなかたちで失うべきなのだ。

 堀内はリチャード・セネットを引用して次のように述べる。

 かつてリチャード・セネットは、ルーティンワークは卑しいかもしれないが、それでも人間を守ってくれると言った。「ルーティンワークはAIに、創造的な仕事は人間に」というのは聞こえは良いが、創造的な仕事は、いつまでも終わらない仕事であるし、人間コミュニケーションも、ときには承認疲れや気疲れを引き起こす、終わりのない実践だ。そうした仕事や実践に、始終邁進せざるを得ない世の中に本当にしてよいのだろうか。(p199)

 そう考えるとき、次の可能性と引き換えに失うべきなのは、他ならぬ「ヒューマニズム」かもしれないのである。
 人工知能に対して、何かといえば「人間らしさ」を持ち出して対抗しようとするありふれた発想から脱却しようとする本書の考え方は私には新鮮に感じられた。
by syunpo | 2018-08-05 19:10 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

世間話の延長としての〜『社会学』

●加藤秀俊著『社会学 わたしと世間』/中央公論新社/2018年4月発行

b0072887_18381376.jpg 社会学者・加藤秀俊による肩のこらないエッセイ集とでもいえばよいか。「集団」「コミュニケーション」「組織」「行動」「自我」「方法」などをキーワードにした章立てをして、新書らしく読みやすい構成。平易な語り口ではあるが、内容は滋味に富んでいる。

 社会学とは何か。どのようにあるべきか。そうした基本的な問いに対して狭義の社会学だけでなく人類学や民俗学、歴史学など隣接する学問をも視野に入れながらいくつもの答えを提示していく。

 社会学とは「世間話」の延長線上にあるものだという。社会とは「society」の訳語だが、それ以前からそれに相当する言葉として「世間」があった。すなわち社会学とは世間についての学問ということである。日本では歴史上、世間話の集大成のような著作がいくつも書かれてきたのである。松浦静山の『甲子夜話』や太田南畝の『一話一言』などだ。芸術の領域では、浮世絵などもその名が示すとおり世間を描いたものである。G・H・ミードのいう「見られる自我」「一般化された他者」も加藤にかかると「世間」「世間の眼」とひらたく言い換えられる。

 世間の学においては法則や公理などというものはなく、文学性が求められるという見解も、「話」である以上、自然に出てくる考え方だろう。『断片的なものの社会学』を書いた岸政彦が本当に文学作品に向かったのは自然な流れなのかもしれない。

 社会学という学問は極言すれば「ふるさとの学」なのであるともいう。宮本常一やロバート・リンド、エヴェレット・ロジャースなどの例を引いて、そのように言うのである。宮本は故郷の山口県周防大島を終生愛した。全二十五巻におよぶ著作集のどの巻をひらいてみても「そこには周防大島の住民としての著者の息づかいがかぐわしく立ちこめている」。
 またアメリカ中西部に誕生したアメリカ社会学にとっての「社会」とは抽象的な「社会一般」ではなく、特定の地域社会とそこで暮らすひとびとのことにほかならなかった、という。

 もちろん、自分の生まれ故郷だけが「ふるさと」なのではない。その気になりさえすれば、いつでも任意の「第二のふるさと」をつくることができる。つまりは地域に愛着をもって、その地における人々の生活を観察し、あるいは体験することから社会学は始まるということなのだろうか。

 このほか、随所に社会学の豆知識が盛り込まれているのも勉強になる。
 たとえば、人間の相性について本格的に研究したのは米国の戦略空軍だった。無差別爆撃機のチームワークを重視し、心理学者モレノが提唱した「社会計測学」を導入したのだという。
 米国のハースト系新聞がスペインの印象を悪化させるような捏造記事を連発して米西戦争の機運を煽ったというジャーナリズム史の一コマも現代人には教訓的ではないだろうか。

 各章の末尾には参考文献リストが掲げられているので、社会学への入門的読書ガイドとしても役立つ。私自身、社会学関連の著作は数多く読んできたが、あらためてこの学問への関心を喚起させられた。
by syunpo | 2018-07-07 18:47 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

親子関係にノイズをもたらす〜『ウンコのおじさん』

●宮台真司、岡崎勝、尹雄大著『子育て指南書 ウンコのおさじん』/ジャパンマシニスト社/2017年12月発行

b0072887_8374160.jpg 子育て指南書と銘打たれてはいるが、書かれていることはもっと広くて深い。単なる子育てのノウハウ伝授にとどまらない、広義の世直しの書ともいえる内容である。

 本書ではまず親たちにコントロールされた子どもたちの存在、いやそのような関係性に警鐘を鳴らす。コントロールされてきた娘が、母親となって、自分の娘をコントロールする。いわば「病理の伝承」が生じているというのだ。

 コントロールする/されるという関係が全面化すると「相手の悦びが自分の喜びになるから、それが動機づけになって行動する」という構えが失われる。親の歪んだ〈妄想〉によって育てられた子どもたちが増えれば、大人になったとき、社会がデタラメになる。そうしたデタラメな社会は制度の手直しでは治すことができない。

 では、本書にいう「ウンコのおじさん」とはいかなる存在なのか。その正体はようやく半分くらい読んだところで輪郭をあらわす。子どもたちの通学路で地面にウンコの絵を書いているヘンなおじさん。……それらしく敷衍すれば「いろいろな方角から親子関係のノイズになる力を働かせる」存在のこと。
「そうした力が働かないと、たとえ親が子どもをコントロールしようと思っていなくても、〈妄想の玉突き〉が生まれ、子どもがコントロールされてしまうのです」。

 損得よりも正しさ。カネよりも愛。

 けれどもいまの社会は「正しさ」への動機づけが枯渇し、他者をコントロールしたり支配したりするための損得、そのような計算のもとに知識が使われる。正しさへの動機づけは知識の伝達では調達できない。「体験による学び」で成長するほかないというのが本書の考えだ。それは今や人為的に設計するほかない。かくしてウンコのおじさんこと「体験デザイナー」の出番となる。

 自分が子どものころに体験したワンダーランドを再現する。たとえば一緒に昆虫たちを観察する。セミの羽化を観察するだけでも、生命への畏怖を感じることができだろう。理科系の好奇心と文科系の探究心を刺激する。「数日後には、すてきな絵画や、絵入りの観察記録や、作文ができ上がっています」。

 コストパフォーマンスだのリスクマネジメントだの損得勘定を持ち込むのは教育の劣化をもたらすだけ。繰り返せば、子育て指南書の体裁をとりながら同時に射程の広い社会批評にもなっているのが本書の醍醐味。勉強田吾作(ガリ勉)の官僚を批判し、デタラメな社会を糾弾する。体験せよ。自分が体験デザイナーになれないのなら、他を探して委ねよ。本書の提言は明快そのものである。
by syunpo | 2018-03-03 08:40 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

他者への想像力をきたえるために〜『「今、ここ」から考える社会学』

●好井裕明著『「今、ここ」から考える社会学』/筑摩書房/2017年1月発行

b0072887_2032337.jpg『排除と差別の社会学』『戦争社会学』などの著作で知られる好井裕明による社会学の入門書である。ちくまプリマー新書の一冊。

 導入部で六人の社会学者を紹介しているのが本書の良き羅針盤となっている。行為の社会性に注目したマックス・ウェーバー。相互行為に焦点をあて闘争の社会学を論じたゲオルグ・ジンメル。「構造」という視点から秩序や道徳を考えたエミール・デュルケーム。主我(I)と客我(me)のダイナミクスによる自己の形成を考えたジョージ・ハーバート・ミード。「日常生活世界」を再発見しそれを重要な課題としたアルフレート・シュッツ。互いに差異をもった「人々の方法」論としてエスノメソドロジーを提唱したハロルド・ガーフィンケル。

 本書のタイトル「今、ここ」はシュッツの日常生活世界に拠る。ただし本書の解説を読んでも、その意味や画期性は私には今ひとつ理解できなかったのだが。

 この世界は、私という人間存在を中心として空間的、時間的に位相を変えて構成されています。そしてその世界のゼロ点であり、意味を生きている私の存在を確認できる原点が「今、ここ」という瞬間なのです。(p36)

 この箇所に限らず全体を通して理念やお題目が先行していて、私にはいささか退屈な読み味だったというのが正直なところ。
 スマホを中心とするIT時代の考察も紋切型の域を超えているとは思えないし、障害者の問題に関してもとくに異論はないものの優等生的な記述がつづき、私的には社会学の醍醐味を充分に感じるまでには至らなかった。

 考えてみればすぐわかるように、私たちが普段生きているとき、具体的に出会う人々よりも出会わない人の数の方が圧倒的に多いのです。とすれば出会わない人々と自分が「今、ここ」で生きているとはどういうことなのかなどを考え、「見たことのない、会ったことのない他者」が同じ時間を生きていることへの想像力を鍛え他者理解のセンスを磨くことは、けっこう面白い営みではないでしょうか。(p189)

「今、ここ」と「会ったことのない他者」とをいかにつなげて考えていくのか。口でいうほど簡単なことだとは思えないが、具体的にそれを思索し実践するのは読者自身ということなのだろう。
by syunpo | 2017-03-23 20:36 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

人をもう少しだけ利口にする環境を〜『感情で釣られる人々』

●堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』/集英社/2016年7月発行

b0072887_2014392.jpg サブタイトルにある「なぜ理性は(感情に)負け続けるのか」という問いは、米国大統領選のドナルド・トランプの勝利でますます切実なものとなってきている。あからさまに女性や移民を蔑視する下品な男が超大国の政治リーダーの座につこうとしているのだ。その結果について「理性が感情に敗れた」とする論評はすでにたくさん出回っている。本書は大統領選の結果が出る前に刊行されたものだが、まことにタイムリーな主題を扱ったものといえよう。

 もともとアカデミズムの世界では「理性」と「感情」の関係は昔から定番のテーマとして考察されてきた。最近では「理性よりも感情の方が大事なのではないかということがあらためて議論になっている」という。その流れのなかで「感情」のポジティブな面を評価する見解もさまざまに提起されているらしい。

 ……感情的になること自体は否定されるべきでもないし、その必要もない。むしろ感情的であることが足りない場合さえあるかもしれない。大切なのは、感情的であることと同時に、それを自覚することであり、無自覚にならないための予防をすることだ。(p29)

 堀内は、感情の動員に関して、動員「される側/する側」それぞれの視点から、広告やマーケティングの手法などを検証していく。また政治における感情の動員についても歴史的に概観している。

 昔も今も、労働・消費・政治のそれぞれにおいて感情の動員が存在している。うまくいっている社会には必ず感情の連帯がある。それゆえ、感情的な連帯であるところのコミュニティに期待する論者が近代において数多く生まれてきたのである。アレクシ・ド・トクヴィル、ロバート・パットナム、マイケル・サンデル、ロバート・N・ベラーらがそうである。

 そして最新の社会学の教えるところによれば、次のようになる。
 必ずしも、感情の連帯が豊かになれば、社会がより健全になるということはできない。感情の連帯はよい社会に必要だが、それだけでは十分ではない。結局、感情の連帯はよい社会であればよりよく、悪い社会であればより悪く、その社会の構造を強くしてしまうだけだからだ。

 では私たち一人ひとりはどのようにすればよいのか。感情の動員が一定の成果をおさめてきたことを見た以上、あらためて理性の復権をストレートに説くことが有効でないことは明らかである。そこで重要になってくるのは「ナッジ」である。

 「ナッジ」とは行動経済学で「多過ぎる選択肢を体系化して選びやすくする技術」を指す言葉である。〈iNcentive=インセンティブ〉〈Understand mappings=マッピングを理解する〉〈Defaults=デフォルト〉〈Give feedback=フィードバックを与える〉〈Expect error=エラーを予期する〉〈Structure complex choices=複雑な選択を体系化する〉の頭文字をとって「ナッジ」と呼ばれる。

 たとえばトイレの男性用便器。尿はねを防ぐために適切な場所に標的を表示しているものを見かけることがある。標的以外には何も記されてはいない。感覚的についつい標的を狙ってしまう人間の習性を利用して、尿はねを防止するのだ。

 権力者が尿はねを嫌うならば、絶対に尿はねしないようにしなければ用を足せない仕組みを作りあげることもできるだろう。選択肢を狭めることで人々を管理しようとする環境管理型権力とはそのようなものである。それに対してナッジには選択の余地が十分に残っている。堀内はナッジに期待する理由を以下のように説明する。

 ……トイレに描かれた標的は尿はねがもたらす掃除の苦労に思いを馳せながら便器の前に立つことを私たちに要求しない。また、立つ位置、目がける位置を側に立って教えてくれる補助員を必要としない。そして何よりも重要なのは、私たちの理性と意志が適切に働くことを前提としたシステム設計である点だ。つまり、コストを可能な限り抑え、選択の余地のないパターナリズムを避けることをナッジは可能にしてくれるのだ。(p200)

 むろん、ナッジを可能にする制度に対しては、アーキテクチャーによる支配、パターナリズムではないかという批判はありうる。ならば、ナッジを権力者のパターナリズムに転化させないことが必要だ。「ナッジであることを明記する」などナッジを自覚的に使うこと。堀内はささやかながらそのように提案している。それは、理性を助ける「環境」をちょっとした「やり方」でととのえること、と敷衍していいだろう。

 正直、結論的に述べられているナッジの効用については、私には今ひとつピンとこないものがある。わかったようなわからないような、とでもいえばよいか。しかし、感情の動員がいかに行なわれ、いかに効果を発揮してきたかを知ることは無駄ではない。理性が負け続けるメカニズムを知っておくことは、理性の力を信ずることと矛盾しない。

 感情による動員が必要だという人々は、まるで私たちの社会が理性を中心に回っているかのようにいう。しかし、繰り返し述べてきたように、理性的過ぎることが問題になるほど人類が理性的であったことは一度もない。理性それ自体への批判は重要だが、それは、いまだ十分に理性的でないことへの批判であるべきではないだろうか。だからこそ、私たちは、人間の非合理性を解決しようとしてきた。それなのに、「理性の時代は終わりだ、これからは感情の時代だ」などと言うのは楽観的過ぎる。(p210〜211)
by syunpo | 2016-12-07 20:25 | 社会学 | Trackback | Comments(0)

社会構造の変化を見極める〜『私たちはどこへ行こうとしているのか』

●小熊英二著『私たちはどこへ行こうとしているのか 小熊英二時評集』/毎日新聞出版/2016年6月発行

b0072887_20372787.jpg 小熊英二の時評集としては『私たちはいまどこにいるのか』につづく第二弾。二〇一一年から二〇一五年にかけて公表した時評類を収めている。

 反原発デモに関する論考は、あくまで前向きな論調が良くも悪しくも印象的。東日本大震災後に行なわれた衆議院選挙で、反原発を訴える政党が伸びず投票率が振るわなかった点にもポジティブな要素を見出そうとする。

……棄権が多かったのは、入れたい党や人がどこにもいない、そもそも今の政治の制度に納得できない、と思う人が多いこととほぼ同義です。政治の正統性が落ちているということですから、国としては危機ですよ。でも、今の「民主主義」のあり方に対する疑問が広がるのは、悪いことではない。考え直したり、変わったりすることにつながりますからね。(p67)

 率直にいってこのような認識には必ずしも同意できない。棄権の多くは単に政治に無関心なことのあらわれではないのか。しかもこの後の政治動向はますます民主政から離れ、政権の横暴に歯止めがかかっていないことを考えれば、本書に示された小熊の見立てが読者を勇気づける可能性は残念ながらいっそう低くなっているのではないか。

 地域の再活性化のヒントになりそうな題材を扱った次の章では、話が具体的であるだけに読み応えを感じた。とりわけ朝鮮学校のルポルタージュ的な文章は示唆に富んだ内容である。

 憲法問題や戦後史について考察した一連の文章も文献を丹念に読み込む小熊の良さが出ているように思う。なかでも〈改憲論の潮流〉がおもしろい。善き生の追求という観点から憲法問題を考えることを提起していて、憲法学者にはない切り口で興味深く読んだ。
by syunpo | 2016-08-12 20:40 | 社会学 | Trackback | Comments(0)