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人間にしか指せない手はあるか〜『不屈の棋士』

●大川慎太郎著『不屈の棋士』/講談社/2016年7月発行

b0072887_1015852.jpg 将棋の世界は今世紀に入って人工知能の進化で様相が劇的に変化した。人間を負かすソフトが台頭してきたからだ。二〇一三年に行われた第二回電王戦で現役棋士が初めてソフトに敗北したのだ。その二年後には、情報処理学会が「トップ棋士との対戦は実現していないが、事実上ソフトは棋士に追い付いた」との声明を出した。

 棋士の存在意義は端的に「将棋が強い」ことである。それでは人間よりもソフトの方が強いとなった時、人間がプロの看板を掲げたまま将棋を指し続けることはできるのだろうか。棋士という職業はこれからも存在し続けることができるのだろうか。

 本書は現役棋士十一人にインタビューした記録。ソフトを積極的に活用して悪びれることなくソフトが叩き出すレーティングを話題にする若手棋士。ソフトには背を向けひたすら自分の頭で考えることを重視する中堅・ベテラン。棋界の将来に危機感を抱いている点では共通するものの、自らが目指すべき方向や研究姿勢には相違点も浮き彫りになる。とくに将棋ファンでなくとも楽しめる内容だろう。

 羽生善治の談話はあくまで慎重で、使用しているソフトも明かさない。が、ところどころで話が具体的になるのは興味深い。たとえばソフトの進化があまりに進むと「二日制はやりづらくなるでしょう」と述べている点などだ。封じ手時点でかなり進んだ局面になった時に、ソフトで調べている人にはすでにおおよその結論がわかってしまう。それでは二日目の興味はかなりそがれてしまうというわけだ。

 ソフトの進化に伴って「人間にしか指せない手はあるか」という問題がよく問われるようになった。

 渡辺明は「人間にしか指せない将棋、というものはない」という。対して勝又清和は、必ずしも合理性にとらわれない勝負手をコンピュータは指せないが人間には指せるという。
 またソフト研究に熱心な西尾明が、ソフトには否定的な山崎隆之の名を挙げて「誰が見ても自分の特徴がくっきりと見えるような将棋を指したい」といっているのも印象に残った。

 ソフトの使用にもっとも熱心な一人が千田翔太。千田は良くも悪しくもデジタル的思考が徹底している。棋力向上の内容を説明するときにレーティングの話を最初に持ち出したのがいかにも象徴的だ。ただし「自分はタイトルを獲ることを目標に勉強しているわけではない」とまで言われると年季の入った将棋ファンは反発するかもしれない。

 ソフト隆盛の状況に懐疑的な態度を示しているのは、上述の山崎のほか佐藤康光、行方尚史だ。
 山崎はソフトを使っている若手棋士に対して「尊敬する気持ちは消えましたね」と言い切っているし、行方はタイトル戦の中継でソフトによる評価値が出ることに「はっきり言って不愉快ですね」と言い切る。また佐藤は棋士対ソフトの勝負に関して、勝ち負けばかりが話題になって棋譜の精査が行われていないことに疑義を呈しているのが印象に残った。

 そのようななかで、大学院では哲学を専攻している糸谷哲郎の発言は紋切型におさまらない独自の考えを示していかにも彼らしい。ソフトの活用にはさほど熱心ではないが、あからさまな嫌悪感をあらわすこともしない。
「ソフトが完全に棋士を上回って、棋士の存在価値がなくなることがあるとして、それ自体が危機なのか問題なのかもよくわかりません。それはソフトが進歩するということですし、将棋が究明されることに近づいているわけですから」。

 本書刊行後の二〇一七年、名人位をもつ佐藤天彦が第二期叡王の立場で将棋ソフトのポナンザと対戦して二連敗した。人間とソフトの力関係はいっそうはっきりした感がある。棋士どうしの公式タイトル戦でソフトの予想手や形勢判断、評価値を紹介するネットの中継スタイルもほぼ定着してきた。将棋界は明らかに新しいステージに入ったといえるだろう。

 将棋の歴史は長い。ルーツはインドのチャトランガというゲームで、日本に伝来した時期は諸説あるものの、平安時代には将棋が行われていたといわれている。現行と同じルールになったのは五百年前。将棋のプロ制度が始まったのは江戸時代である。

 そうした悠久の歴史と伝統をふまえて精進を重ねてきた棋士たちが強いプライドと矜持をもつのは当然のことだろう。将棋に関してはアマチュアである人々が開発した将棋ソフトに敗北したり、自分の手を評価されたりすることに抵抗や反発を感じるとしてもあながち時代遅れと一蹴するわけにもいかない。

 本書が描きだす棋士たちのさまざまな感情や態度の表出のしかたには、なるほどクールなコンピュータにはありえない葛藤がにじみ出ているように思われる。そのような精神のありようを人間らしさと名付けてもいいのではないか。人間にとって感情の伴わない理性の発露などありえないのだから。

 将来のことは断言できないけれど、将棋ソフトが今後どれだけ進化しようとも、私はやはり人間の指す将棋を見守りつづけることになるような気がする。
by syunpo | 2018-12-15 10:16 | 将棋 | Trackback | Comments(0)

いくらやっても将棋のコツがつかめない〜『才能とは続けられること』

●羽生善治著『才能とは続けられること 強さの原点』/PHP研究所/2012年2月発行

b0072887_18213213.jpg 十九歳の時に竜王になり、その後、前人未到の七冠独占の偉業を成し遂げ、今なお三冠を保持して将棋界を牽引し続ける羽生善治。本書は二〇〇八年にNHK・BSハイビジョンで放送された番組「100年インタビュー/棋士 羽生善治」をもとに単行本化したものである。

 とくに斬新なことを語っているわけではない。むしろこれまで他の分野の偉人たちが残した言葉と重なりあうようなものが多いかもしれない。しかし勝負の厳しい世界を生きる羽生善治が発した言葉であるがゆえの味が醸し出されているようにも思われる。

 なぜ私がそれほどまで将棋に強く惹かれたかというと、一つは、勝負の結果がはっきり出ること。もう一つは、いくらやっても将棋のコツがつかめなかったからです。(p16)

 以前の私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていました。
 しかし、今は、十年、二十年と、ひとつの物事をずっと長く続けること、継続することが、一番の才能ではないかと思います。(p47)

……今日勝つ確率が一番高いというやり方は、十年後には一番リスクが高くなるといえるでしょう。(p52)

 膨大な情報から自分に役立つ、あるいは必要な情報を得るには、「選ぶ」より、むしろ「いかに捨てるか」のほうが、重要だろうと思います。(p119)

 将棋は武道と似ているなと思う部分があります。
 どんな武道も突き詰めていけば、相手を打ち負かすこととは関係なくなっていくように、将棋からも何か深いものを感じます。(p123)

by syunpo | 2016-10-25 18:23 | 将棋 | Trackback | Comments(0)