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ブックラバー宣言

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カテゴリ:文学(詩・詩論)( 33 )

空白の時間に遊ぶ〜『俳句の誕生』

●長谷川櫂著『俳句の誕生』/筑摩書房/2018年3月発行

b0072887_1993925.jpg 俳諧連歌にはいろいろな形式があるが、江戸時代に流行したのは歌仙である。五・七・五の長句と七・七の短句を連衆と呼ばれる参加者が交互に三十六句詠み連ねるもの。

 歌仙では一句ごとに描かれる場面が変わる。同時に句を詠む主体も次々に変わっていく。主体の転換こそが歌仙を進めていく原動力となる。言い換えれば自分ではない他者になって句を詠むことが行なわれる。俳諧の「俳」の文字は白川静によると「二人並んで戯れ演じること」を意味する。それは「ある人が別の誰かに成り代わって演技」することにほかならない。「俳優」と「俳句」に共通して「俳」の字が使われているのは偶然ではないのだ。

 では歌仙の発句が独立して俳句が誕生したとき、主体の転換はどうなったのか。結論だけをいえば一句のなかでそれは実現されたというのが本書の認識である。

 一句の中での主体の転換は「切れ」によってもたらされる。芭蕉の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」では「古池や」で切れが生じ、そのあとに間が広がる。この空白の時間のうちに「現実の芭蕉」から「心の世界の芭蕉」へと主体の転換が起こった、というのが長谷川の読解である。

 こうした主体の転換こそは、柿本人麻呂の時代から日本の詩歌で実践されてきた重要な特徴といえる。詩歌を作るとは「詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体になりきること」。他者を宿すには役者は空の器でなければならない。我を忘れてぼーっとする。空白の時間に遊ぶとはそのような意味である。それは言葉以前の世界の消息を伝えようと試みることでもある。

 ところで俳句の創始者・松尾芭蕉が生きたのは古典主義の時代だった。江戸の太平の時代が訪れたとき、内乱で滅んだ王朝と中世の古典文化復興の機運が沸き起こる。文学の世界でそれに取り組んだのが芭蕉である。すなわち、芭蕉は俳諧と発句という江戸時代の新しい文学の器に古典文学を蘇らせようとした。先の文脈に即して言えば、俳句のなかで「空白の時間に遊ぶ」ことをやろうとしたわけである。

 ところが江戸時代の半ば以降、家斉の贅沢三昧な治世の下で貨幣経済が農村にも浸透していく。社会の大衆化がすすみ、大衆文化が花開いた。俳句人口も膨れ上がり、当然ながら古典文学を知らなくても作れて読める俳句が求められるようになる。そのニーズに応えたのが小林一茶である。一茶は古典など引用せず、日常のふつうの言葉で誰でもわかる俳句を作った。

 そのとき近代が始まったと長谷川はいう。なぜなら大衆化こそが近代をもたらしたものだから。
政治に参画する主権者が特権階級から市民階級にまで拡大したこと、政治の大衆化をもって政治の近代化というならば、大衆化こそが近代化というのが長谷川の見解である。その意味では、一茶の俳句は芭蕉や蕪村の古典主義俳句を脱してすでに近代俳句だったということになる。

 そうなると正岡子規に与えられてきた近代俳句の創始者としての看板はおろさねばならなくなる。が、単なる中継者の地位に下落するわけでもない。子規は「写生」という近代俳句にふさわしい方法を提起した。そのことを長谷川は評価する。

 それは「目の前にあるものを言葉にしさえすれば誰でも俳句ができるという、近代大衆俳句が待ち望んでいた俳句の方法」だった。子規は近代大衆社会の新しいメディアである新聞を舞台に読者大衆に写生俳句を広めていった。子規の写生は近代大衆俳句の立て看板になったのである。

 ただし子規の写生は「詩歌の源泉である心を遊ばせること」を否定するようなものだった。言葉の想像力を視野に入れないという重大な欠陥を抱えていたのである。

 子規の弟子・高浜虚子は写生をさらに先に進めて「客観写生」を唱えた。それは長谷川によると、想像力の働きを無視するという写生の欠陥をさらに際立たせる方法であった。それに対して批判が起きると「花鳥諷詠」を提唱する。これは事実上「客観写生」を否定するものである。

 その後、加藤楸邨、飯田龍太の二人にいたって、俳句はふたたび言葉の想像力を回復し、古代以来の詩歌の大道に立ち返った。

 ……以上が本書によって描き出される俳句の大まかな流れである。このような俳句史が研究者のあいだでどの程度の支持を得ているのか、私はよく知らない。率直にいって本書を読んだかぎりではいくつか疑問も残った。芭蕉の句「古池や……」に関する解説はやや大仰な感じがするし、連句とシュルレアリスムとの共通性に言及するくだりも面白いといえば面白いが、やはり少々の無理を感じないではない。

 一茶論のくだりで大衆化すなわち近代化とする大雑把な用語法にも違和感は拭い難いが、とはいえ一茶の句が親しみやすい庶民性をもっていることも確かだろう。俳句に限らず映画でも美術でもそれを味わうためには歴史的文脈をある程度知悉しておくことは必要だが、作品のハイコンテクスト性が強ければ強いほど、そのジャンルはより閉鎖的になることも否めない。その意味では一茶が俳句の歴史に刻んだ足跡は貴重だと思う。あらためて一茶の句集を手にとってみたくなった。
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by syunpo | 2018-12-03 19:10 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

詩人がパフォーマーに近づくとき〜『対詩 2馬力』

●谷川俊太郎、覚和歌子著『対詩 2馬力』/ナナロク社/2017年10月発行

b0072887_19111969.jpg 谷川俊太郎と覚和歌子による詩のキャッチボール。連句・連歌の伝統をもつ日本の詩歌の歴史を振り返れば、連詩・対詩のような企ても自然なものと考えられ、実際、過去にもいろいろな試みがあったらしい。ただ現代詩の世界で書籍化できるレベルの完成度に達したのは本書が初めてかどうか知らないが珍しいのではないだろうか。

 谷川が、狭い読者層を対象にした難解な現代詩の世界に対する違和感から出発したことは折りに触れ本人が広言してきた。また詩の発表を活字媒体だけに限定せず、詩の朗読などライブ活動に注力してきたこともよく知られている。その意味では本書のようなスタイルの対詩集を出すことは谷川らしい実践ともいえよう。

 谷川はまえがきに次のように記している。

 詩はふつう独りで書くものですが、そのとき作者はどこかで読者を意識していると思います。独りで書く時には見えない読者が、ライブ対詩では目の前に見えている。その違いは小さなものではありません。(p3)

 本書は、そのようにして行なわれたライブ対詩の作品を収録するとともに、二人が取り交わしたいくつかの対談を挿入している。二人の創作活動とその舞台裏が一冊に凝縮されているといえばよいか。

 覚和歌子は詩人としてよりも作詞家としての印象が強いが、詩に関しては「朗読するための物語詩」というジャンルを開拓したことでも知られているらしい。谷川も対談のなかでそのことに言及して覚作品への関心の在り処を語っている。

 二人の詩のやりとりは、付かず離れず、絶妙の間合いをとりながら展開されていく。「相手の言葉に触発されて自分でも思いがけない言葉が出てくる」(覚)ことも詩の作り手にとっては対詩の醍醐味の一つなのだろう。

 ちなみに詩をつなげていくには、相手の一つの言葉を受けるような方法だけでなく、前句と対向する視点で付ける〈向付〉を用いたり、雰囲気でつなげる〈匂い付け〉をやったり、いろいろな技法があるらしい。

 末尾の作品にはフレーズごとに作者のコメントも付されていて、読解のヒントが示されている。現代詩の難解さに辟易している読者に対しても詩の可能性を感じさせるに違いない、ユニークな詩集といえるだろう。

 1 ランチタイムのざわめきの中に

   もつれている意味と無意味

   はるか遠くにたたずむ山々に向かって

   幼児がむずかっている (俊)

 2 山はいつもここにある

   森の呼吸を忘るるなかれ

   経済危機も温暖化も基地問題も

   高天原から見れば解決はちょろいのだが (覚)

 3 久しぶりの祖父の大言壮語の愛嬌に

   カナダの大学で学ぶ孫は生真面目に反論している (俊)

 4 ドミトリーのセントラルヒーティングが

   調子の良かったためしはなくて

   あっちからもこっちからも

   聞こえてくるパイプを叩く音

   それが宿題するときのBGM (覚)
   (p106〜107、〈駒沢通りDenny's Ⅰ〉より抜粋)

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by syunpo | 2018-11-17 19:17 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

テイストの違いを味わう〜『短歌と俳句の五十番勝負』

●穂村弘、堀本裕樹著『短歌と俳句の五十番勝負』/新潮社/2018年4月発行

b0072887_21585923.jpg 五十人にお題を出してもらい、歌人・穂村弘と俳人・堀本裕樹が作品をつくる、文字どおり短歌と俳句の真剣勝負。「短歌的感情」と「俳句的思索」を読み比べる面白味に加えて、作品ごとに短いエッセイが付けられていてなかなか愉しい趣向だ。新潮社の読書情報誌〈波〉に連載された企画を書籍化したものである。

 荒木経惟の出したお題は「挿入」。ビートたけしは「夢精」、柳家喬太郎が「舞台」と、いかにもその人らしいもの。かと思えば、壇蜜が「安普請」という意表をついたお題で二人を驚かせているのも一興。

 安普請の床を鳴らして恋人が銀河革命体操をする(穂村弘)

 鎌風の抜け道のある安普請(堀本裕樹)


 穂村の歌に登場する「恋人」は大学時代に付き合っていた年上の女性をイメージしたものらしく、部屋のなかでストレッチングを教えてもらったりしたのだとか。銀河革命体操という跳んだ表現がおもしろい。堀本の句にでてくる「鎌風」は鎌鼬(かまいたち)のことで、冬の季語。

 迫田朋子が出したお題はジャーナリストらしく今風に「忖度」。

「忖度」とひとこと云ってねむりこむ悟空を抱いて浮かぶ筋斗雲(穂村弘)

 忖度をし合ひ差しあふ冷酒かな(堀本裕樹)


 堀本の句は、私のような素人にはさっと一読しただけでは意味がわからないものが多い。解説のエッセイを読んでなるほどと合点がいくという次第。でも素人的にはそうした過程もまた定型詩を読む愉しさといえようか。

 作品を並べることで、二つのジャンルの表現力の違いだけでなく両者の対照的な持ち味がいっそう際立つようにも感じられた。造語などでちょっとズレた独特の世界観を表現する穂村の作風に対して、堀本には「古風」なテイストを感じさせるところがある。なお巻末には二人の対談が収録されている。
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by syunpo | 2018-06-20 22:01 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

大作家が自費出版で出した俳句の本〜『句集ひとり』

●瀬戸内寂聴著『句集ひとり』/深夜叢書社/2017年5月発行

b0072887_18364579.jpg 作家の瀬戸内寂聴が九十五歳にして初めて出した句集。「死んだ時、ごく親しい人だけに見てもらえればいい」ということで自費出版されたものらしいが、めでたく第六回星野立子賞を受賞した。

 巻末には俳句と関係の深い人々との交遊録的なエッセイが併録されていて、瀬戸内と俳句との関わりに関する舞台裏をも知ることができるという構成である。

 ちなみに句集の題は一遍上人の言葉を意識したものという。
「生ぜしもひとりなり/死するもひとりなり/されば人とともに住すれども/ひとりなり/添いはつべき人/なきゆえなり」

 生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
 はるさめかなみだかあてなにじみをり
 子を捨てしわれに母の日喪のごとく
 寂庵に誰のひとすぢ木の葉髪
 湯豆腐や天変地異は鍋の外


 自由に生きてきたひとりの文学者の矜持や孤独が、小さな文字の宇宙のなかに畳み込まれている。そこから聞こえてくるのは、ことばとともに生きてきた人の歌い語る声であり、また生命ある者の幽かな鼓動でもあるのかもしれない。
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by syunpo | 2018-05-09 18:40 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

かくて私には歌がのこつた〜『中原中也』

●佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』/岩波書店/2017年8月発行

b0072887_1942413.jpg 中原中也の詩のなかにある「歌」を聴く。それは最終的には「沈黙の音楽」としてある。──本書は、みずからも詩人でもあり一九九八年に評論『中原中也』でサントリー学芸賞を受賞した佐々木幹郎ならではの秀逸な中原中也論といえる。

 たとえば開巻そうそうに記された「中原中也が詩のなかに、字下げの箇所を作るようになったのは、おそらく詩の言葉のなかにある『音楽』を意識したからだろうと思われる」との指摘はいわば本書のメインテーマを奏でる前の序曲といった趣だ。

 実際、中也は諸井三郎ら同時代の音楽家たちとも交友し、生前にも自作の詩に曲をつけてもらうことが何度もあった。しかしそういう次元の話にはとどまらない。佐々木は中也の詩を徹底的に読み、その言葉に「歌」を聴き、音を聴き、それが究極的には「沈黙の音楽」として成立していることを全編をとおして論じているのだ。

 ここでクロースアップされるのが岩野泡鳴である。彼は評論『神秘的半獣主義』のなかで「言語も表象であれば、音響も表象だ」と述べ、言語と音響とを並立して論じた。これは当時としては画期的なものであったという。中也がこの評論を読んだかどうかは定かではないが、泡鳴から様々な影響を受けたことはよく知られている。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 (『在りし日の歌』所収〈曇天〉より)


 佐々木によると、この詩は泡鳴が『新体詩の作法』で、日本の詩は二、三、四音を音律的な基礎としていると論じたことに従ったもので、彼が提唱した分かち書きの記述法で書かれている。

 ……中也が目指していた「歌」と「声」は、この作品に見られるように、岩野泡鳴と呼応して、日本の詩語のなかに、文字化されることによって削り取られてしまった身体的なリズムを回復しようとしていた。しかも、「ゆたりゆたり」とした「旗」のなびく反復運動の音は、無音(沈黙)であることが重要で、それが究極の「歌」として成立したのである。(p143)

 佐々木は、むろんこの詩だけでなく他の作品にも沈黙の音楽を聴き取ろうとして緻密な読解を披瀝していく。とりわけ〈汚れつちまつた悲しみに……〉〈生ひ立ちの歌〉など雪が登場する詩作品から、雪の声を聴く論考は本書の核心を成すものだろう。

 もう一つ「歌」に関連して興味深く思ったのは、中也が民謡の作詞をしていたことである。彼は晩年に極度の神経衰弱を患い入院生活を余儀なくされたが、そこで「療養日誌」をつけていたらしい。一九九九年に発見されたその日誌に民謡が記されていたのだ。もっとも中也の熱心な読者にはよく知られた事実かもしれないけれど。

 丘の上サあがつて、丘の上サあがつて、
  千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
 県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
  緑のお椀が一つ、ふせてあつた。
 そのお椀にヨ、その緑のお椀に、
  雨サ降つたば、雨サ降つたばヨ、
 つやがー出る、つやがー出る(p241)


 病棟にあっても詩人であること、という強い意志がこの俗語で書かれた詩には秘められているように思う、と佐々木は書いている。そして、中也は詩人としての自分を認めよと院長に伝えたかったのだ、とその心中を推し量るのである。

 中原中也は、若い頃に短歌をつくることで詩人としての才能を発揮し始め、長男を失ってもそれゆえに神経を病んでも、詩人であること歌うことを希求し続け実践した。そのすがたが本書からはひしひしと伝わってくる。自筆原稿などの新発見資料を丁寧に読み込んだ解釈は、時に細かで専門的な議論に傾きがちだが、本書から立ち上がってくる中原中也像には中原文学を読み味わうのに新たなヒントが随所に刻まれているような気がする。
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by syunpo | 2017-11-12 19:06 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

言語の大洋へ漕ぎ出そう〜『俳句いきなり入門』

●千野帽子著『俳句いきなり入門』/NHK出版/2012年7月発行

b0072887_20384428.jpg 日曜文筆家を自称する千野帽子の俳句入門書である。冒頭の一文が千野の俳句観を明快に言い表しているように思われる。

 俳句では作者以上に読者の仕事が大きくて、自分の俳句を作ることよりも句会で他人の俳句を読むことのほうが俳句を支えている。(p20)

 同じようなことをかつて寺山修司も語っていたと記憶する。演劇は完成させちゃいけない、半分は観客の想像力によって補ってもらうのだ、と。そこに共通するのは作者の主体性や万能を相対化する姿勢ではないだろうか。

「俳句とはこういうものである」という錯覚のない者だけが、「自分」という矮小な村を出て言語の大洋に漕ぎ出していくことができるのだ。(p63)

 自分なんて全員同じだが、言葉は無限だ、というフレーズをここに付け足してもいいだろう。そのような安っぽい自分語りを徹底的に自粛しようという態度は本書において一貫している。対話の場に言葉を開いていくこと。言葉の豊かさのなかに漕ぎ出していくという悦楽。俳句に関する技術的なアドバイスもその悦楽を体験するための方策にほかならない。

 ところで、千野は作句における四つの段階を示している。
 第一段階は「自己表現期」である。「こういう内容を言いあらわそう」と考えて言葉を捜す段階。意味がわかりすぎて、「で?」というしかない俳句ができあがる。第二段階は「自動筆記期」。意味不明の自動筆記のような句ができる。第三段階は「前衛俳句期」で、意味不明だが読者たちが想像でいろいろと補える句ができる。最後の第四段階が「伝統俳句期」で、読者たちが想像でいろいろと補って、単一のもしくは複数の意味に回帰する句ができる。千野の考えでは、第三段階以降であれば「堂々と『俳句です』と名乗っていいと思う」ということらしい。

 作句上のアドバイスとしてはタイトルに「入門」をうたっているだけあって、かなり具体的である。
 初めての歳時記は合本を買うこと。季語の説明はしない。季語以外のフレーズをストックしておく。文語俳句を作るときは旧仮名遣いが有利。……などなど実践的な助言が多く、実際に俳句を作る人にはたぶん参考になることだろう。

 いずれにせよ、本書に示された俳句観はその後に書かれた『人はなぜ物語を求めるのか』にもつながっている。俳句を作れば私の人生や思いを他人に承認してもらえる、という考えをまずは放棄すること。
 何者でもない俺らは、「作者(=私)の人生」なしで届く句を作ろうぜ。千野はそのように俳句の世界へといざなうのである。
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by syunpo | 2017-06-24 20:40 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

短歌に人生の居場所を見つけた〜『キリンの子』

●鳥居著『キリンの子 鳥居歌集』/KADOKAWA/2016年2月発行

b0072887_18341739.jpg 壮絶というほかない。ここに収められた短歌を読むと、言葉にすがるようにして何とか生きている人もいるのだ、ということを思い知る。

 著者の鳥居は、小学校五年生のとき、目の前で母親に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験。義務教育もまともに受けられず、文字を覚えるのも短歌に関してもほぼ独学で学んだとプロフィール欄にはある。自殺をはかったこともあるようで、そのことをうたった短歌もいくつか収められている。

 亡母や祖母との思い出にふれた歌は、美しくも哀しい。母や家に関する歌といえばあの寺山修司を想起するが、それはかなり虚構性や演技性に富んだ、作り込まれたものだっただろう。寺山の真価はまさにそうしたところにあったと思われるが、鳥居の場合はもっと切羽詰ったところから絞り出してきた言葉という印象を受ける。もちろんどちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

 いずれにせよ本書に付された「短歌に出会って人生に居場所を見いだせた」というキャッチコピーには誇張はないだろうと思う。

 あたらしいノートの初めの一頁まだぎこちない文字を並べる
 目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
 雑草の葉の部分だけむしりつつ祖母の畑に見上げるトマト
 女子生徒たちの自転車石鹸の香り引きつれ隣町まで
 手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた

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by syunpo | 2017-02-03 18:35 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

引用とコラージュの世界〜『オバマ・グーグル』

●山田亮太著『オバマ・グーグル』/思潮社/2016年6月発行

b0072887_196880.jpg ゴダール映画のセリフは引用の多いことで知られる。インターネット上の画像を集めて一冊の写真集をつくった「写真家」も存在する。……引用。コラージュ。これらは現代の文化シーンにあっては欠かすことのできない方法である。という以上に、そうしたスタイルが一つの思想や考えの表現ともいえるかもしれない。本書もまたそのような系譜に連なる詩集といえるだろうか。

 表題作の〈オバマ・グーグル〉。Googleで「オバマ」を検索した結果表示された上位百件のウェブページの記事を引用してつなぎ合わせた作品である。そこではオバマのプロフィールやら演説の一節やら彼に関する批評文やらが雑多にひしめいている。

 ・・・なお、宣誓に用いた聖書は事前にエイブラハム・リンカーン第一六代大統領が一八六一年の一期目の就任式で使用した聖書を用いると発表した通りオバマ大統領夫人(ミシェル・オバマ)が紫色の包みにて持参。・・・約一四分間のスピーチは全部で四ヶ所に分かれています。・・・わたしがこの政治家を知ったのは春頃に偶然聞いたラジオインタビューによってだったが、最初に感じた印象は「クリントンの再来だ」というものだった。・・・(p50〜51)

〈現代詩ウィキペディアパレード〉も同じような手法で、タイトルどおりウィキペディアの記事からの引用のみで構成する。参照項目は「現代詩」をメインに「田村隆一」「谷川俊太郎」「長嶋茂雄」など多岐にわたる。

〈日本文化0/10〉は「ユリイカ」の目次を利用して書かれ、〈みんなの宮下公園〉は二〇一〇年四月二二日時点に宮下公園内に存在した文字が集められたものである。

 こうして見出され紡ぎだされた膨大な文字の列をみていると〈バーチャル/リアル〉を問わず、私たちの住む空間は「文字」にあふれていることにあらためて驚かされる。いや、それじたいが一つの世界を成している。

 むろんこれに似たような試みは過去にもなされてきただろう。谷川俊太郎に同じ趣向の作品があったし、あるいは「電話帳はこの世で最も分厚い詩集である」といった寺山修司の言葉を想起するのも一興かもしれない。冒頭にも記したように、本書に方法としての斬新さはほとんどないと思う。それでもなお、この詩集には新鮮な何かがうごめいているようには思われる。「何か」が何なのかはうまく言えないのだが、ことばが虫のようにごにょごにょと生きて動いているような感じ、そのありさまがかそけき生の息吹を感じさせるというのは陳腐にすぎるだろうか。

 ただし余談ながら、長編の表題作だけ何故か一昔前の文庫本みたいに文字ポイントが小さいため、視力に衰えのきている私は読み通すのに一苦労した。ちと残念。
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by syunpo | 2016-11-16 19:08 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

いざという時に寄り添ってくれるもの〜『詩のなぐさめ』

●池澤夏樹著『詩のなぐさめ』/岩波書店/2015年11月発行

b0072887_20153816.jpg 著者の父・福永武彦に『芸術の慰め』という著作があった。タイトルはそれを意識したものであろう。内容は詩にまつわるエッセイ集とでもいえばよいか。

 漢詩、ギリシア・ローマの抒情詩などの古典から始まり、俳句、シェークスピアのソネット、エリオット、島崎藤村、西脇順三郎などなど古今東西の詩についてリラックスした雰囲気で語っている。

 池澤に言わせれば、ローマの諷刺詩の諧謔は落語に似ているし、マヤコフスキーはロシアのジョン・レノンであり、中原中也の詩は歌謡曲と同じ原理でできている。

「僕たちはみんな谷川俊太郎を模範として生きてきたと思う」と同時代の詩人に最高の賛辞をおくったかと思うと、蕪村の平和な句に照井翠の東日本大震災にまつわる句を並べてみせたりする。

 巻頭に収められた一文の締めに「われわれは他人と口論してレトリックをつくり、自分と口論して詩をつくる」というイェイツの言葉を引いているのも印象に残った。「圧縮された言葉と感情の塊である詩が解凍したときに広がる沃野」を池澤は奔放な読みでわれわれに示してくれる。

 ちなみに本書は岩波書店の『図書』という雑誌に連載していたもので、岩波文庫で読める詩を対象にしている点など版元の宣伝めいた雰囲気もなくはないのだが、それを差し引いても味わい深い好著だと思う。
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by syunpo | 2016-10-27 20:15 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

仮定の力〜『もしも、詩があったら』

●アーサー・ビナード著『もしも、詩があったら』/光文社/2015年5月発行

b0072887_2044579.jpg「歴史には〈もしも〉は禁物だ」と歴史の授業で言われたアーサー・ビナードは、〈もしも〉が許される歴史以外の分野に自分は向いているかもしれない、と思ったらしい。そうして彼は詩人になった。実際、詩の世界には〈もしも if 〉が満ちあふれていたのだ。本書は〈もしも〉という発想から生まれた詩論風エッセイである。

〈もしも〉という語句が巧みに使われた詩歌。〈もしも〉という発想をもとに書かれた詩歌。本書では必ずしも有名ではない詩人たちのそのような作品をすくい上げてきては、独自の読解をまじえて紹介していく。ビナードの批評は作品の選択を含めて、ときにシニカルであったりアイロニカルであったりするけれど、けっしてニヒリズムに陥ることはない。

 ビナードは本書の前半部で〈もしも〉の力を次のように解析している。

……詩作りのためにもifは欠かせない存在だ。「仮に」を積み重ねて、狭い常識から抜け出せる階段をつくり、詩人はのぼって想像上の空から眺め回す。最終的に、活字になった作品の文言から「もしも」も「仮に」もifも、すべて削ぎ落とされて残らないにしても、作品の思考回路のあちあこちらには、仮定の力が生きている。(p28)

 そうして、まど・みちお、ジャック・プレヴェール、ヴァーン・ラツァーラ、カール・サンドバーグ、マリアン・ムーア、ヒレア・ベロック、竹内浩三、ベンジャミン・マッサーらの詩が吟味される。

 ローレンスの《女性のみなさんに、言わせてもらえるなら》と古今和歌集の和歌を並べて「平安歌人とローレンスとでは、『理』と『情』の調合の仕方に共通点があるらしく、作品から立ちのぼる匂いが似ているように思えた」という比較論はなかなか興味深いし、二葉百合子の歌った《岸壁の母》の「もしやもしやに ひかされて」の歌詞に強い「引力」を感じとるというのもビナードならではの読みだろう。
 またピート・シーガーがベトナム戦争時に発表した《帰国させよう》を取り上げているところは、ビナードの愛国心に対する姿勢が色濃くあらわれている。

〈もしも〉の力に助けられながら作品を書いている、というビナードが最後に引用している自作の詩もおもしろいが、それは是非本書を手にとってお読みいただきたい。
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by syunpo | 2016-08-08 20:47 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)