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カテゴリ:日本語学・辞書学( 9 )

言語を一元的管理することの不可能性〜『国語審議会』

●安田敏朗著『国語審議会 迷走の60年』/講談社/2007年11月発行

b0072887_1961077.jpg 近代の国民国家は「国語」によって国民統合を実現しようとする。そのときから人間にとって自然な存在であるはずのことばが、政策という人為の対象となってきた。日本でその役割を担ってきたのが国語審議会である。一九三四年、官制にもとづいて文部大臣の諮問機関として発足。一九四九年からは文部省設置法で設置が定められ、国語審議会令で規定された組織として二〇〇一年に廃止されるまで存続した。それ以降は、新たに設置された文化審議会の国語分科会に引き継がれている。

 本書は国語審議会・国語分科会で展開されてきた議論を振り返り、日本の国語政策の歴史を検証するものである。

 近代国家が「国語」をつくりあげていくときには、一般に二つの方向が提示される。ひとつは、国家の領域内で遍く(地域的にも階層的にも)通用するものを目指すやり方。この場合、国語はより簡略化の方向に向かう。もうひとつは、言語がその国家の歴史・文化などをあらわすことを重視する方向であり、いたずらな簡略化には否定的である。

 この二つの方向は相互補完的であるが、時と場合によっては対立する。国語政策は一般的にその重点をこの二つの方向のどちらかに重きを置きつつ推移しているともいえる。本書では便宜的に前者の方向を「現在派」、後者の方向を「歴史派」と名づけ、その両者間の議論を軸に国語政策の変遷を見ていく。

 戦前の日本では、対外的な拡張政策を背景に植民地下の住民でも簡単に学べるよう国語の簡略化を訴える現在派勢力が存在した。それは漢字廃止やローマ字化までを視野に入れた表記簡易化をめざすものであった。文部省や言語運動団体などではこうした現在派が中心的な役割を担っていた。しかし歴史をみれば明らかなとおり、その方針を貫徹させることはできなかった。結果的には、漢字かなまじりの形態、歴史的かなづかいで均衡を保持することに落ち着いていったのである。

 戦後も、戦前の現在派と歴史派によるせめぎあいをひきずりつづけた。ただし主張を支える論拠はかなり違ったものになった。
 戦前の現在派が目論んだ標準漢字表制定という事業を継続するところから、戦後の国語審議会は始まる。敗戦直後から十数年は「民主化」を理想とする国家にあわせて「国語もわかりやすく、いま現在を重視した『改革』がめざされてきた」のである。

 文部省国語問題研究会による『国語の新しい書き方』では、戦後経営として国語問題が浮上するという構図を示し、一九四五年の敗戦をこれまでにない大きな社会変動としてとらえ、従来解決できなかった問題を一気に「伝統や感情にとらわれ」ずに解決すべきだ、と主張している。現在派が上からの一元的な改革を志向していたという点では、戦後になっても変わりはなかったといえる。

 そのような現在派に対する疑義を表明した歴史派の代表格として時枝誠記をあげることができる。時枝はあくまでも「下からの施策」を求めたのである。この対立は建設的なかたちで交わることはなかった。

 国語審議会が建議を頻繁におこなったことにより、あまりにも世論を顧慮せずに特定の方向を示しすぎたのではないか、という危惧は表面化し、一九六一年には五人の委員が審議会を脱退するにいたった。当時の土岐善麿会長が主導した国語簡易化方針に反対する委員たちである。

 一九六六年以降は「正しい国語」を示すのではなく、「正しい国語のありかた」を示すことになった。基準から目安を提示するにとどめるという方針の転換である。その具現化として当用漢字にかわる常用漢字の制定があげられる。「分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用」の「目安」となることを目指したものである。

 それに伴い審議会の答申内容は「説教くさく」なったと安田は指摘する。たとえば日本語は今や日本人のものではないとの認識を示しながら、「国語を愛護する精神を養うこと」が相変わらず望まれたりしているのである。そのことに関する安田の評価はかなり辛辣である。

 表記について歴史派と現在派の対立の軸が設定できなくなり、両者の調和がはかられた。そこで生じたのは、表記のありかたに国語の歴史をみるのではなく、国語そのものに歴史と文化をみる、歴史の思想化だった。つまりは、精神主義である。(p179)

 国語の伝統・国語への愛をどれだけ強調してみせたところで、この社会の構造的格差は解消されない。むしろ、国語への愛にまどろませることで、現実を直視することから逃避させたいのかもしれない。(p196)


 また敬語をめぐる議論についても批判的に検証している。とりわけ二〇〇七年に文化審議会が答申した「敬語の指針」は相当珍妙なシロモノであるようだ。指針の末尾には以下のような認識が提示されている。

 敬語や敬意表現が、コミュニケーションに参加する人同士の人間関係、また互いの人格や立場を尊重し反映させる言語表現である以上、多様化した人間関係の下に行われる現代社会のコミュニケーションにおいて、その重要性はこれまで以上に高まっているものと考えなければならない。さらに、社会や生活様式のこうした変化が、この先も持続するものと考えれば、敬語や敬意表現の重要性は将来においても変わらない。(p249〜250)

 格差が拡大する社会を多様化・複雑化としてとらえ、そのなかで「相互尊重」のための円滑なコミュニケーションには敬語が不可欠だという立場である。それに対して安田は次のように疑問を投げかける。

 敬語を使いこなすことが人間関係の平等性をしめすのだ、と主張するのであれば、社会的な不平等はそこでは隠蔽されるしかない。これはまさに統治技法としての敬語である。
 敬語は社会規範だ、と宣言したほうがよっぽどすっきりする。(p250)


 国語審議会・国語分科会の指針がいっそう倫理化していく一方で、他の省庁による日本語の具体的な整備も進められたのは皮肉というべきか。
 国語審議会が「国語は伝統だ」などといって倫理化しているときに、通産省はワープロで使用する日本工業規格(JIS)漢字第一水準、第二水準などを制定していった。同様に、人名用漢字の選定に関しては戸籍行政を担当する法務省が主導権を握るようにもなった。つまり、国語審議会は、日々の生活で直面する言語問題について中心的に議論をする場ではなくなっていったのである。

 そして倫理化した審議会の問題提起はいっそう観念的なものになっていく。「文化審議会のいう『多様性』のある社会とは所詮、混乱をきたさない予定調和的な社会である」と安田はアイロニカルに述べている。

 本書を通読し終えたのちに前半に掲げられた著者の結論的言辞を読み返すと、いっそう説得力をもって迫ってくるように感じられた次第である。

 ことばは伝統である、と唱えてもよい。「母語としての国語」とはその意味である。しかし、ことばは趣味の問題でもある。ことばが多様であることは、けっして「乱れ」ではない。ことばが通じないことは、けっして恐怖ではない。ことばを一元的に管理することはできない。それは国語審議会の漂流の歴史からもあきらかである。とりわけ技術的な側面から一元的な管理がめざされたのであるが、それがほとんど意味をなさなくなってきている現在、簡単な日本語から複雑でめんどくさそうな日本語、そして日本語以外のことばが入り込んだ日本語までをふくめたさまざまな日本語を同時に流通させることだって可能なはずである。ことばは、政策的に管理されてはならない、とはいえるだろう。さまざまな日本語が存在することを、混沌や混乱などとみなさないこと、これが本書の主張である。(p22)
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by syunpo | 2018-05-08 19:00 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

ことばをめぐるドラマ〜『辞書の仕事』

●増井元著『辞書の仕事』/岩波書店/2013年10月発行

b0072887_9581955.jpg 岩波書店で広辞苑など国語辞典の編集にかかわってきた人の肩のこらないエッセイ集。同じ年に刊行された光文社新書の『辞書を編む』がもっぱら辞書作りの楽屋話に重きがおかれていたのに対して、本書では読者とのやりとりやことばにまつわる著者の考えなども認められていて話題は幅広い。

 辞典の解説の姿勢として記述主義と規範主義という二つの態度があるという話は辞書のユーザーにとっても有意義だろうし、そのあとにことばの「正しさ」について毅然と記すくだりにはなるほどと思わせられた。

 いかに残念であろうとも、多くの人が普通に使っている「誤用」を辞典が正すことはほとんど不可能です。誤用には誤用の理屈があるからです。実態に合わないのに規範を説くことが辞典の態度として正しいか、これはつねに辞典作りにかかわる最大難問です。
 法則性を持った誤りはことばの変化です、誤りが大多数の人の誤りであればそれも変化です。日本語は千何百年以上にわたって、誤用を重ねて今日に至りました。(p25)


 狐や狸にまつわる日本人のイメージに言及しつつ「ことばが偏見や先入観に依拠して強い表現力を持つことは認めざるを得ません」と述べているのも印象的。「科学的な正確さとことばの意味における正しさとは必ずしも一致するものではない……」。

 語釈や用例にポリティカル・コレクトネス的(という語句は使われていないが)な観点が求められる現代の辞書作りの苦心談なども興味深い。また逆引き辞典について「クロスワードパズルを解くのに使うというのは予想していた使用法でしたが、いまだに残る私の素朴な疑問は、そんなことをしてパズルを解いて楽しいだろうかというものです」と述べるあたりは、スパイスもきいている。

 つい手元の辞書をパラパラと読んでみたくなる、そんな本である。
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by syunpo | 2016-11-19 10:00 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

失われた時を求めて〜『日本語の考古学』

●今野真二著『日本語の考古学』/岩波書店/2014年4月発行

b0072887_201310100.jpg 残された文献や木簡などモノを通して日本語の変遷を分析する。これが日本語の考古学だ。ゆえに本書では文献に残された文章の内容以上に、もっぱら文字のかたちや表記、書き方(レイアウト)などが考察の対象となる。

 それぞれの章の標題に沿って本書の問題設定をまとめてみると以下のようになるだろう。
 万葉集はどのような漢字字体で書かれていたか。『源氏物語』の作者は誰か。平仮名の字体はどのように変わってきたか。「書く単位」としての「行」はいつ頃発生したのか。和歌をどのように書いたのか。口頭で語られた言葉をどのように文字化したのか。語構成意識はどのようにして形成されたか。書き間違いはいかに意識され処理されてきたか。正しい日本語とは何か。テキストの完成とは何か。

 本書では以上の課題に対して「考古学」レベルで検討を加えていくのだが、問題そのものは文学者や哲学者の思考にも示唆を与えるような根源的な射程を有しているものも含まれているのではないかと思う。

 私には、日本語の漢字仮名混じり表記という特徴に関する考察がとりわけおもしろく感じられた。漢字は公式の文字、仮名はもっぱら女性などが使った非公式的な文字……というような認識を私は漠然ともっていたのだが、「実は平仮名がどのような場で成立し、発達していったかについて、はっきりとわかっているわけではない」という。そのようなことを考えるための文献がほとんど存在していないからである。

 平仮名が、原則として漢語を使わない和歌を書くということと結びつきながら、また漢語を使うことで表現される「公性」とやや距離をとりながら発達していったとみてよいのであれば、やはり、漢字との併用は(ある時点までは)前提ではなかったといってよい。(p52)

 しかし結果的には平仮名も漢字とともに使用されていくことになった。和歌のように主として平仮名のみで書かれていたテキストの中でも、漢字の使用率は次第に高まっていった。

 また、現代では「ヂ/ジ」「ヅ/ズ」の発音の違いは失われているけれども、かつては区別されていたことが知られている。今野は十六世紀末につくられた「キリシタン版」の正誤表などを参照しながら、こうした音韻変化が十五世紀には始まっていて、十七世紀頃には終わっていたと推察するくだりも興味深い。

「失われた部分」への意識をつねに持ち続けること。今目の前にある日本語がすべてだと思わないこと。そうしたことが、言語の長い歴史を復元していくときに必要な態度ではないかと思う。(p19~20)

 いささか専門的で考察の内容は細かいが、それだけに岩波新書らしい一冊といえるかもしれない。
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by syunpo | 2014-09-09 20:21 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

字引は小説より奇なり!?〜『辞書になった男』

●佐々木健一著『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』/文藝春秋/2014年2月発行

b0072887_8314214.jpg 三省堂国語辞典(三国)と新明解国語辞典(新明解)。日本を代表する二つの国語辞書である。創刊時の三国の編纂者は山田忠雄。新明解はケンボー先生こと見坊豪紀。二人はともに東京大学で国語学を学んだ同級生。若くして明解国語辞典(明国)を編纂した仕事仲間でもあったが、その後、袂を分かつ。そうして二つの個性的な辞書が屹立することとなった。

 本書は「昭和辞書史の謎」ともいえる二人の人間関係に深く立ち入りながら、両者の辞書に賭けた人生を精彩に描き出す。NHKのテレビ番組の企画・制作過程での取材内容に、新たに証言や検証を加えて執筆したもので、著者の佐々木健一はディレクターとして活躍してきた人である。

 三国は現代語を多数収録していることで知られ、語釈は簡潔平明を旨とする。対する新明解は主観的な語釈で人気を集める辞書。二つの辞書にあらわれる「個性」の違いは、まさに見坊豪紀と山田忠雄という二人の編纂者の人物像の違いから醸し出されるものだった。
 ケンボー先生は用例採集に精力を傾け、生涯に一四五万例の用例を採集した。そのカードは今も三省堂の倉庫に保管されている。一方の山田先生は『新解さんの謎』という単行本が登場したほどに、独自の編集方針で辞書の世界に新風をもたらした。

 関係者の証言を組み合わせつつ辞書の語釈を読み込んだうえでなされた記述は、テレビ番組の副産物という以上の出来映えといえるだろう。一見味気ない解説がほどこされているだけと思われている辞書のことばの中に、編纂者の人生観や世界観がこめられている──。周到な資料の渉猟と調査によってあぶり出された物語はドラマティックとさえいいたいほどだ。

 ただし、二人の関係にまつわる機微に触れた物語は随所に生臭さも漂わせ、本書の面白さの少なからぬ部分は楽屋話的なエピソードに負っている、といえば失礼になるだろうか。またプロの書き手ではないので文章の運びが野暮ったいのはしかたないとしても、重複する記述が多く冗漫な印象が拭えない点は編集サイドからの助言があっても良かったのではないかと思う。
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by syunpo | 2014-08-16 08:38 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

ことばによる世界の模型〜『辞書を編む』

●飯間浩明著『辞書を編む』/光文社/2013年4月発行

b0072887_20272368.jpg 映画にもなった三浦しをんのベストセラー小説《舟を編む》の話題性を意識した企画であることは間違いなかろうが、実際に辞書を編纂している人が書いた本だけに内容的にはしっかりした本である。著者は日本語学を専攻する研究者で、三省堂国語辞典(通称『三国』)の編集委員を務める人物。二〇一三年末に刊行を予定している三国第七版の改定作業を例にとり、「編集方針」の確認から「用例採集」「取捨選択」「語釈」「手入れ」まで辞書作りの楽屋話を面白く読ませる。

 三国の編集方針は「実例に基づいた項目を立てる」実例主義と、中学生にもわかる語釈を目指すという二点に要約される。それがおのずと三国のセールスポイントにもなっているようだ。
 ことばの用例採集は辞書作りの基礎となる作業。その方法はいくらもある。雑誌を最初から終わりまで舐めるように読む。街へ出て新奇なことばの記された看板やポップを片っ端からデジカメで撮影する。テレビ番組を見るときはすべて録画する。……用例採集はまさに五感を動員して行なわれる。

 とはいえ新たに採集したことばで新規に辞書に掲載されることばは二割〜三割だという。個々の編纂者が集めてきたことばは、他の編纂者の判断とあわせてひとつひとつ吟味に付されていく。新規項目の選定会議の様子も具体的に描出されていて本書の読みどころの一つといえようか。

 ことばの意味を説明するのが語釈である。語釈の執筆はいわば総決算ともいえる作業という。それでも新たなリサーチは必要である。〈カピバラ〉の語釈を書くために上野動物園で実物を見たり、〈キャバクラ〉を知るために実際に行ってみたり……。

 既存項目の語釈や注釈を書き改めるのが手入れである。地味な作業だがこれも辞書の改訂には重要なこと。〈右/左〉といった意味の自明のことばをより的確な語釈にしようと悪戦苦闘する様子などは《舟を編む》でも言及されているお約束の挿話ながらやはりおもしろい。

 最終章では「これからの国語辞典」のあり方を構想していて、いささか三国の宣伝めいた記述も散見されるものの、著者の真摯な姿勢がにじみでており読み味は悪くない。
「辞書を編むという営みを通じて、ことばによる世界の模型が作りたいのです」という著者の熱い思いは本書から充分に伝わってきた。国語辞典に対していっそう関心が喚起されるような愉しい本である。
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by syunpo | 2013-09-30 20:45 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

身近な言葉に刻まれた歴史〜『原始日本語のおもかげ』

●木村紀子著『原始日本語のおもかげ』/平凡社/2009年8月発行

b0072887_1618240.jpg 書き言葉として記録に残されている日本語以前に、話し言葉としての日本語があった。
 
 声だけの言葉は、時の彼方に姿を消した人々とともに消え去って、モノのようにはそのカタチが遺ることはない。けれどもまた、消えてしまった人々の、消えたコエの一部は、別のどこかの人々に共有されていたコエとして伝わり、そのことが繰り返されて、今に生き続けている場合もある。(p4)

 本書は、そうしたコエと書き言葉の、悠久の時間における共鳴のありようを考察したものである。
 たとえば「クツ=靴」文化は、文明開化の洋風化によってもたらされたものだと思われがちだが、クツという語は和語そのものと考えられる。万葉集など古代の文献上にその音のままで登場しているのだ。もちろんクツは皆が常時履いているものではなかったが、官人らは漆塗りの木グツをつっ繋けていたらしい。神代記上でも、黄泉国から逃げ帰ったイザナギが身につけた穢れた物を投げ捨て、それが種々の神になるというくだりでは「クツ=履」を投げると道敷神になったとある。
 神代の昔から存在していたクツという語が外来洋風の革靴にすんなりくっつくことができた大まかな経緯を、著者は《古事記》や《万葉集》《宇津保物語》、平安時代の絵巻物など多彩な資料から跡付けていく。

 このほか、古くは神の座を意味した「クラ」を基本に「マクラ=枕」の語を分析したり、「踏む」という言葉(行為)に宿る呪性をめぐって考察したりと、日本語の歴史性について興味深い洞察が繰り広げられている。
 学者らしい手堅い叙述で、その分ややかったるい感じがなくもないが、言語文化論の面白味が十二分に伝わってくる一冊である。
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by syunpo | 2009-11-09 17:03 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

生きた言語論のための〜『差別語からはいる言語学入門』

●田中克彦著『差別語からはいる言語学入門』/明石書店/2001年11月発行

b0072887_922089.jpg 書名の「言語学入門」というのは著者自身も認めているようにやや大仰で、内容的には「差別語をめぐる言語学者の随想」とでもいうべきものである。
 そもそも「差別語」なるものが言語学的にも社会的にも厳密にカテゴリー化されているわけでは、もちろんない。それは一般に「差別語糾弾運動」によって問題化されたものである。糾弾運動について田中は「言語史の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごと」と捉え「ことばのよし悪しを決める権利を非エリートが、言語エリートから、部分的にでも奪取しようという動き」としてひとまず「支援」する立場を言明している。

 一方で、そこでは様々な弊害がみられることも事実である。差別語糾弾運動が、中央集権的な「方言撲滅運動」をしのばせるおもかげをたたえている点、言語レベルでとらえるかぎり民衆的というよりはむしろ反民衆的運動になっている点……などの問題点についても著者は指摘することを忘れない。
 しかし、それ以上に田中が強調するのは差別語の問題を通して、言語学的な考えに触れ、「ことばのあらゆる現象にもこまかい観察の態度と方法を養う」訓練の場を形成していこうという展望である。内容はともかく構えとして著者が本書に「言語学入門」と銘打った所以もそこにある。

 田中の主張はところどころ議論の精緻さを欠いていて賛同しかねる点も少なくないのだが、前半部で、差別語ひいては言語そのものをめぐる「妄説」「邪説」への根本的な批判を行なっているくだりは言語学者としての田中の基本的な考えが明快に示されている。「邪説」のなかでもとりわけよく聞かれるのが「ことばだけいじくっても、差別という現実はなくならない。したがって差別語を議論することじたいが無意味である」という見解である。このような主張は言語学者からもなされることがあるらしい。
 これに対する田中の批判は次のようなものである。

 「差別という、人間の心理状態を作り出すのはことばであり、そもそも差別という観念そのものが、ことばなくしては発生しないものである」。また「サベツがあると感じたりそう指摘したりするのは人間だけである」。だから「人間に固有の差別という現実を問題にできるのはことばによるしかなく、したがって差別語を問題にしないで差別を論じる議論など、原理的には不可能なことはあきらかである」。(p30〜31)

 このような認識にたって、欠損をあらわす専用形「カタ」をめぐって言語学的考察が進められ、「トサツ」と「ホフル」についての人類学的知見を織り込んだ考証がなされていく。
 本書の記述からどれだけの読者が言語学に強い関心を抱くかは定かではないけれど、しばしば事なかれ主義に陥って活発に議論することの難しい差別語の問題を再考するうえで刺戟に満ちた本であることは相違ない。
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by syunpo | 2009-08-06 09:41 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

語呂つき文章家の言葉の世界〜『辞書を読む愉楽』

●柳瀬尚紀著『辞書を読む愉楽』/角川書店/2003年3月発行

b0072887_8442121.jpg 語呂合わせや地口を「オヤジギャグ」と呼び、日常会話においてはことさら禁忌するようになったのはいつ頃からだろう。古今東西の詩や小説、演劇、日本の落語など言葉を使った学芸の大海のなかでは、次元は異なるとはいえその種の言葉遊びであふれかえり、今なお新たな息吹を感じさせる表現や翻訳が生み出されることもあるというのに。

 本書は、英文学者で翻訳家でもあり「語呂つき文章書き」を自称する柳瀬尚紀が文字どおり辞書を読んで言葉と戯れる愉楽を語ったエッセイ集である。同じ趣旨の著作として新潮文庫に入った『辞書はジョイスフル』があり、本書はその姉妹編とでもいえばよいか。
 ここに取り上げられている辞書は、日本語辞典、英語辞典の類は無論のこと、岩波イスラーム辞典、アイヌ語辞典、グロウヴ音楽辞典、将棋戦法大事典、種牡馬辞典……などなど多岐にわたる。

 この種のエッセイにはつきものの記述——辞書の記載内容に対する異論や項目の漏れなどの指摘——はやり始めるとキリがなくて、そればかりが続くと途中で飽きたりするのだけれど、柳瀬は標題どおり辞書を楽しむ姿勢を堅持し批判的な語りにしても遊び心を忘れることはないので最後まで退屈することはなかった。
 ウェブスター3版の“fugu”の解説、「フグ科の魚で、クラーレに似た熱分解しない毒素を有し、日本では自殺目的で食されることがある」という意味のトンチンカンな記述など、著者ならずとも日本人なら誰でも一言叱責したくなるであろう。
 
 柳瀬の言葉に対する鋭敏なセンスや辞書の細かな読みには、いつもながら舌を巻かずにはいられないのだが、言葉以外の浮世の知識についてはいささか貧困な様子がうかがえる。
 カーリングや中島みゆきの歌や寅さんの口上を知らずにいて、辞書や編集者への電話で初めて知ったことを素朴に綴っているくだりなど、読者としてどう反応すべきなのか戸惑ってしまう。もっとも翻訳不能といわれたジョイスの《フィネガンズ・ウェイク》を七年半も費やして訳すような教養人の知識のありさまが脳のなかで極端なマダラ模様を描いているのは当然なのかもしれない。

 いずれにせよ、仮にこういう人物と付き合うとなると、電子メール一本送るにも、ネタにされないように辞書を脇において慎重に言葉を選ばなきゃ、と変なプレッシャーがかかってしまいそうだ。
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by syunpo | 2009-04-10 08:47 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

話すことと書くことの狭間で〜『日本語の歴史』

●山口仲美著『日本語の歴史』/岩波書店/2006年5月発行

b0072887_18333522.jpg 日本語の歴史を「話し言葉と書き言葉のせめぎあい」という観点から概説した本である。ただし時代によって記述の主題をかえている点に本書の特色がある。奈良時代は文字、平安時代は文章、鎌倉・室町時代は文法、江戸時代は音韻と語彙を中心に論述し、明治以降はもっぱら言文一致体について述べている。こうした叙述スタイルを採った理由は、本文を読めばそれなりに理解できるものだ。日本語の歴史のあらましをざっと知りたいという読者には、よく書けた入門書ではないかと思う。

 幕末に「漢字廃止」の議を唱えた前島密や明治時代にローマ字を国字にせよと訴えた「羅馬字会」の運動など、現代からみれば噴飯モノと思われる主張が大真面目になされた文脈や背景を知るだけでも本書を読む意義はあるというべきだろう。それらはいずれも話し言葉と書き言葉がかけ離れている状況に危機意識をもった知識人による問題提起だったのである。

 もっとも、明治以降に開始された「言文一致体」については、もともと文学上の問題として文学者・作家が起こした運動を核とするものであったから、その考察には文学史的な視点は不可欠なのだが、著者は分をわきまえてあくまで日本語学的な観点からのみ分析している。記述がいささか平板に終わっているのを批判するのは酷だろう。
 この言文一致体運動をめぐる困難に関しては、柄谷行人の《定本柄谷行人集〜日本近代文学の起源》に秀逸な論考が収められていることを付記しておく。
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by syunpo | 2008-11-30 18:39 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)