カテゴリ:思想・哲学( 163 )

熱狂を抑えることにおける熱狂〜『保守の真髄』

●西部邁著『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』/講談社/2017年12月発行

b0072887_19534350.jpg 西部邁といえば日本の近代保守思想の重鎮的存在であった。中島岳志をはじめ西部を参照する後進の保守思想家は多いし、討論番組でバトルを展開した宮台真司もその後は西部と何度か親密な対談を交わしている。二〇一八年一月に惜しまれつつ他界した直後には本書にも触れた追悼的文章をいくつか見かけたこともあり、久しぶりに西部の本を手にとった。

 なるほど首肯しうる発言は少なくない。戦後日本の米国追従路線を厳しく糾弾しているあたりは、白井聡の『永続敗戦論』とも重なり合うものだろうし、新自由主義的なグローバリゼーションに対する異議は、むしろ社民主義やリベラリズムに近しいものと思われる。保守思想と社民主義の親和性の高さはつとに指摘されてきたことであるから、それは別段驚くほどのこともでもないのだろうが。

「『熱狂を抑えることにおける熱狂』こそが保守的心性の真骨頂なのである」とか「保守に必要なのは『矛盾に切り込む文学のセンス』」などはつい引用したくなるフレーズかもしれない。

 ただそれ以上に、同意できない見解もまた頻出する。何より伝統や歴史の持ち出し方がいかにも抽象的だ。スローガンの域を出ないのではないかと思う。もっとも引っかかるのは「近代への懐疑」の必要性を繰り返し力説しながら、近代の産物に他ならない国民国家という枠組みを疑う姿勢が微塵も見えないことだ。

 西部は、国民国家に関して人類史の全体をとおして存在してきたものと捉えているようだが、それは端的に誤りだろう。国家の形態をとらない社会や共同体で生きてきた経験の方が人類は長いのではないか。現代社会における国民国家の役割の重要性を私も否定しないが、国家が「シジフォスの如く難行苦行をエンドレスに引き受ける」べき理由は歴史的にも論理的にも見当たらない。

 その意味では西部の唱える保守思想の真髄にはやはり魅力を感じることはできなかった。徴兵制導入や核武装論など個別具体的な政策論となるとさらに違和感は強くなる。最後に異様な熱気をもって語られる死生観にもまったく共感しない。私には退屈な本というのが率直な感想である。
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by syunpo | 2018-03-28 20:00 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

自らを問い更新していくこと〜『欲望の民主主義』

●丸山俊一+NHK「欲望の民主主義」制作班著『欲望の民主主義 分断を越える哲学』/幻冬舎/2018年1月発行

b0072887_971299.jpg 本書はNHKが二〇一七年四月に放送したBS1スペシャル「欲望の民主主義〜世界の景色が変わる時〜」を書籍化したもの。六人の学者へのインタビューが軸になっている。

 登場するのは、ヤシャ・モンク(政治学)、ジョナサン・ハイト(社会心理学)、シンシア・フルーリー(政治哲学、精神分析学)、マルセル・ゴーシェ(政治哲学)、ジャン=ピエール・ルゴフ(社会学)、マルクス・ガブリエル(哲学)。

 今日、世界的に民主主義が危機に瀕していることを表明している点では、各論者ともに共通している。ただその克服をめぐっては観念的な説教調の話がならび、番組統括者の丸山俊一のコメンタリーもいささか通俗的で、「新たな次元への扉を開く」ような読後感を得るには至らなかった。 そのなかでは、最後に登場するマルクス・ガブリエルの話はエッジが利いていて、この気鋭の哲学者のことを知っただけでも読んだ甲斐があったというべきかもしれない。

 全体をとおしてトマス・ホッブズへの言及が多いのだが、ガブリエルは舌鋒するどく批判している。自然状態について挙げている唯一の喩えがアメリカ先住民の国家であることを指摘し、「『リヴァイアサン』は政治理論ではなく、大虐殺を正当化するプロパガンダのための本」とまで言い切るのは痛快。

 ですから私たちは、政府が何らかの残虐な力を管理しているという考え方を捨てなければなりません。政府は人間の残虐性や残酷性を管理するのと同じぐらい、それらを増やしています。政府は自然状態を克服しているのではありません。自然状態なんてないのです。(p215)

 そうしたホッブズ読解を示したうえで、ガブリエルは、政治とは何かとの問いに「声なき者に声を与えるもの」というジャック・ランシエールの言葉を引用して答える。そして民主主義の再帰的な特質を力説する。「民主主義とは自らを問うものなのです」と。民主主義とは何かをみんなで考えることも民主主義のうちだというわけだ。

 ついでに記しておけば、テロリズムに関する発言は欧米の状況を踏まえたものだが、日本にこそ最も当てはまるのではないかと思う。以下に引用しておく。

 ……「テロリズムの時代」とは通常よりテロリストによる攻撃が起きやすい時期のことではありません。実はヨーロッパでのテロの数は1980年代より減っているのです。テロが起きている数は少ないのですが、その「恐怖」ばかりが増しているのです。……(中略)……
 私が思うにテロリズムとは、国民を、恐怖をつくり出すことにより統治することです。それがテロリズムの意味です。(p207)

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by syunpo | 2018-02-21 09:08 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

伝統思想の重層的な相貌〜『日本思想史への道案内』

●苅部直著『日本思想史への道案内』/NTT出版/2017年9月発行

b0072887_181789.jpg 日本の思想を考えるときに鍵となる概念、〈日本神話〉や〈武士道〉などを取り上げ、それらについて複数の「読み」を提示する。ここで参照されるのは二人の読みの名手──和辻哲郎と丸山眞男である。

 学界ではすでに常識とされていることでも初学者にとっては「へぇ〜」と思えることはいくらもある。本書に関していえば、個人的には儒学や朱子学など江戸期の思想に関するステレオタイプの認識を改めさせられた。

 たとえば一般に儒学は江戸時代の身分制による支配体制を支えた思想として考えられている。私自身も日本史の授業でそのように習ったと記憶する。しかし「朱子学どころかそもそも儒学が一般に、徳川時代の身分制による支配体制とあいいれない性格をもっていること」は、津田左右吉が指摘していたという。儒学とはそもそも身分制批判の要素を含んだ思想なのである。

 また明治新政府が行なった西洋を規範とする政治体制の刷新を思想的にはどう考えればいいだろうか。明治維新によって人びとが突然、西洋由来の政治的理念に目覚めたわけではもちろんない。
 江戸時代の末期には民間から新たな学問を創造する動きが活発化し「身分の別を無視した知識階級といふ如きもの」が現われた。そうした背景があったからこそ、王政復古の後ただちに廃藩置県を導いて封建制に終止符を打つことが可能になったとする和辻の見解は興味深い。

 本書の記述は、良くいえば手堅い筆致、悪くいえばいささか辛気臭い読み味ながら、日本思想史の勘所をかいつまんでガイダンスしてくれるという意味では文字どおり良き道案内の書といえるだろう。
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by syunpo | 2018-01-20 18:25 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

誤配こそが連帯をつくる〜『観光客の哲学』

●東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』/ゲンロン/2017年4月発行

b0072887_21333374.jpg 意表をついた標題がまずは目を引く。観光客の哲学。これまで人文科学的には注目を集めてきとは言い難い存在=観光客に着目して、東浩紀はさていかなる哲学を差し出そうとしているのか。

 二一世紀の世界は、政治の層と経済の層、ナショナリズムとグローバリズムの層、国民国家の層と帝国の層……の二層構造で捉えられる。これが本書の基本認識である。それに連動するように政治思想面ではリベラリズムが失効して、コミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂したと東は考える。

 そのような時代の新しい政治の起点として「観光客」の存在が重要になるというのが観光客の哲学なのである。

 では観光客とはいかなる人びとなのか?
 それは「特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」存在のこと。ここでいう「村人」とは国民国家に属する人びとであり、「旅人」とは帝国に生きるコスモピリタンのような存在をさす。換言すれば「帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在」の名称である。

 すなわち政治の層と経済の層、国民国家の層と帝国の層など、二層をつなぐ可能性をもつのが観光客という存在なのである。そのような観光客的なあり方こそがこれからの時代において人生を豊かにしてくれるというのだ。

 観光客の哲学を考察するにあたって、東はアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの有名な「マルチチュード」を批判的に参照する。「マルチチュード」はひらたくいえば反体制運動や市民運動のことだが、「かつての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を拒否しない。むしろその力を利用する」点に一つの特長がある。

 ただしネグリ=ハートにはマルチチュードが世界を動かすについての戦略性が欠けていた、と東はみる。そこで東は従来のマルチチュードのもつ否定神学的な性質とは対極にある「郵便」という概念を提示するのである。

 ……「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。(p156)

 東はそのような失敗を「誤配」と呼ぶ。現代思想は、否定神学を脱して郵便的思考に生まれ変わるべきだというのが東のかねてからの主張であった。観光の本質は情報の誤配にあると考える東が「郵便的マルチチュード」と「観光客」を重ね合わせるのは当然の成り行きといえるかもしれない。

 本書では、上に記したネグリ=ハートだけでなく、他にも多くのテクストを参照している。とりわけヴォルテールの『カンディード』やカントの永遠平和論を独自に読み解いて観光客という存在につなげてしていくあたりは、なかなかスリリングである。

 そこからさらに第2部では観光客の哲学に対して家族の哲学という補完的な作業を付け加えている。「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」として「家族」が呼びだされるのである。

 家族という手垢にまみれた概念を再起動させようとする東の企てが成功しているかどうか微妙ながら、ドストエフスキー読解をベースにした論考などはアクロバティックな方法を採っていておもしろく読んだ。

 東のネット上でのアクチュアルな政治的発言には賛同できないものが多いが、本書に関しては読み出のある本といえる。
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by syunpo | 2018-01-13 21:38 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

救済もしくは平和〜『ヒューマニティーズ 哲学』

●中島隆博著『ヒューマニティーズ 哲学』/岩波書店/2009年5月発行

b0072887_18122936.jpg 人文学のエッセンスと可能性を、気鋭の執筆陣が平易に語る《ヒューマニティーズ》シリーズの一冊。ただしこの『哲学』に関しては、必ずしも平易とは言い難い。いや、はっきりいえば私にはすこぶる難解であった。

 もっとも、重要なことは冒頭にわかりやすく記されているように思う。

 では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的でることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。(はじめにⅶ)

 議論の足がかりとして、まずジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの哲学の定義から語り起こしている。哲学とは「尺度なしに概念を創造すること」。ついで、ギリシア哲学や中国哲学の始まりの一端に言及し、ヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、哲学の「翻訳」的性格について考察をめぐらせる。

 そもそも哲学は、……(中略)……複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。ドゥルーズとガタリのギリシアを考えてみれば、異邦の哲学者のオピニオンに耳を傾けるためには、翻訳の経験を避けて通ることができない。そうであれば、哲学の言語は、その始まりにおいて、翻訳において成立したということもできる。(p38)

 さらには西田幾多郎の「無の論理」に着目、中国の近代哲学者・胡適を横に並べて、哲学と政治の関連について検討する。そのような過程を経たうえで、冒頭の問題提起に応えるかのように、サラ・ロイやハンナ・アーレントの論考に触れて、哲学の未来を展望するのである。

「国家と植民の問題、そして暴力からの救済と言語の問題を、繰り返し考え抜くこと」を強調して、「他者との共生」こそが哲学の目標であると同時に、哲学の実践そのものだという。

 このように大雑把に論旨をまとめてみたところで本書の真髄は伝わらないだろうと思う。思えば「救済」も「平和」も「共生」も多くの人が口にしている言葉である。一見すると凡庸な結論に失望する読者もいるかもしれない。実際、否定的な言葉を投げかけている感想文をネットでいくつか見かけた。しかし結論的命題のみに哲学の真髄が宿っているわけでもないだろう。

 というわけで私のような浅学非才が本書について主観的に言えることはあまりない。来るべき哲学に向けて、一つの有効な道標として受け取る読者があらわれる可能性を想像し、中途半端ながらもここに本書を紹介する次第である。
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by syunpo | 2017-10-20 18:18 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

ディーセントな暮らし、フェアな社会〜『僕らの社会主義』

●國分功一郎、山崎亮著『僕らの社会主義』/筑摩書房/2017年7月発行

b0072887_195392.jpg 気鋭の哲学者とコミュニティデザインを生業としている二人による異色の対談集である。ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、ロバート・オウエンらの名前で知られるイギリスの初期社会主義がメインテーマ。

 といっても社会主義の理念や構想を真っ向から吟味するということではない。山崎が「社会主義をスパイスのように」取り扱うことを明言しているように、初期社会主義的な考え方を取っ掛かりとして、そこから地方創生や社会福祉、民主主義活性化のための方策などなど、話は多方面に展開していくのである。

 二人が初期社会主義から導出する理念としては「誰しもがディーセントな暮らしのできるフェアな社会」という英国労働党のジェレミー・コービンの言葉に集約されるだろうか。國分がその言葉を引用しつつ、社会主義が人々の心に強く訴えかけていた時代、そこにどのような魅力があったのか、ディーセンシーやフェアネスといった言葉で表現できるかもしれない、と指摘するのだ。

 それにしても二人が現代的に解釈し直そうと試みる「社会主義」にさほどの魅力を感じることはできなかった。それは資本主義を前提しつつ、その綻びを補正していく社民主義と似たようなものといえば失礼になるだろうか。

 本書に面白味があるとすれば「社会主義」とは直接関係のない箇所である。たとえば山崎が実践しているという公共建築をめぐるワークショップなどは今風の用語でいえば熟議民主主義の試みともいえそうで、そのあたりの話はもう少し具体的に聞いてみたかった。
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by syunpo | 2017-08-26 19:06 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

少しずつ自由に近づいていく〜『中動態の世界』

●國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』/医学書院/2017年4月発行

b0072887_1854230.jpg 薬物やアルコールの依存症は本人の「意志」や「やる気」ではどうにもできない。これは医療の現場では常識的な認識となっているらしい。「絶対にもうやらないぞ」と思うことが治療への出発点のように素人は思いがちだが、「むしろそう思うとダメ」なのだという。

「意志」とは、私たちにとっては一般的にポジティブな概念であるけれど、むしろマイナスに作用する場合もありうる。言い方を変えれば、意志とか責任という言葉で考えている限り、解決しない問題がある──。
こうして國分功一郎は「意志」をめぐる哲学的な思索に入っていく。

 中動態。能動態でもなく受動態でもない。書名が示すとおりこの聞き慣れない文法的概念が本書のキーワードである。

 言語学者のエミール・バンヴェニストによれば、言語には能動態と受動態の区別に先立って、能動態と中動態の区別があったという。それがいつのまにか能動態と受動態の区別にとって代わられ今日に至ったのだ。

 では、中動態とはいかなるものなのか。
 バンヴェニストの定義では、「在る」「生きる」などの能動では「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。対して「生まれる」「享受する」などの中動では「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題となる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるというわけだ。

 ここで興味深いのは、能動態と中動態が対立していた古代ギリシアでは「意志」の概念がなかったという点だ。意志の概念はあくまでも能動態と受動態の対立と結びつけられることによって生まれた。近代司法制度の基礎となる責任という考え方もその線上にあらわれる。

 ……意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(p26)

 能動と受動という対立図式は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化する。では、中動態の概念を再構成することで何がわかるのか。

 ハンナ・アレントやマルティン・ハイデッガーは、能動と受動の対立が意志なる概念を生み出すことを認識していたが、アレントは意志の概念を神学的に擁護してしまう点で、國分は批判に転じる。

 一方、ハイデッガーは、能動と受動に支配された言語の外に出るという問題に対して「きわめて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いをもって答えた」。ハイデッガーは「放下」という言葉で何事かを語ろうとしたけれども、それはいかんせん難解であった。

 そこで國分はあらためてスピノザを参照する。

 スピノザが「中動態」という用語を用いたことはないし、『ヘブライ語文法綱要』でもそのような表現は現れない。だが、その思想のなかにはこの失われた態に通ずる概念が明確に存在している。(p236)

 スピノザは中動態だけの世界を記述しようとした。そこでは神すなわち自然は無限であり、その外部は存在しない。スピノザのいう内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

 ……神は万物の原因という意味で作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。(p236)

 神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。実体の変状として存在する個物のことをスピノザは「様態」と呼んだ。

 スピノザは自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。そのためにスピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。しかし実際は違う。

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基いて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態を脱することができる。

 ここでさきほどの問いかけに戻ろう。中動態の概念を再構成することで何がわかるのか、という問いに。それに対する一つの答えはこうだ。──自由になるための道筋が見えてくるのだ、と。

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。
 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(p263)


 以上みてきたように〈能動態/受動態〉の対立図式と結びつけられた意志の概念を疑問視するところから本書は出発し、中動態の考察から自由へといたる道を提示することでひとまず一つの結論をみることになった。

 哲学史的には近代的な責任主体としての「意志」はつねに批判的に検討されてきたといってよい。その意味では本書の問題意識それじたいにとりたてて斬新さはない。國分の考察が優れているのは、その問題を中動態との関連で歴史的に深く掘り下げた点にあるといえるだろう。

 前述したように國分は本書の冒頭でアルコールや薬物の依存症をめぐる「意志」の問題を対話形式で記している。それは中動態の考え方がそのような依存症の治癒にも貢献できる可能性を示唆している。つまり中動態の世界は、単に思考のあり方を鍛えるだけでなく、実社会の臨床現場においても寄与しうることが示されているのである。

 哲学の研究者でもない私が本書を完全に理解したと断言できる自信はないけれど、本来なら地味で辛気臭いはずのインド=ヨーロッパ語における文法の話から、広汎な哲学的思考へとつなげていく本書の叙述がきわめて知的スリルにみちたものであることは確かである。余談ながら読了後に本書が今年度の小林秀雄賞を受賞することが発表された。一読者として心から祝福したい。
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by syunpo | 2017-08-20 18:56 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

人間を救い、同時に苦しめるもの〜『人はなぜ物語を求めるのか』

●千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』/筑摩書房/2017年3月発行

b0072887_19424445.jpg 人はなぜ物語を求めるのか。そのような素朴な問いから出発して、あれこれと思索の道を進み行き、本を閉じる頃には、どこか遠く高い見晴らしの良いところまで連れてこられたような気がする。いきなり結論めいたことを言うのも気が引けるが、そんな読後感をもたらしてくれる好著だ。

 物語とは人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマットである。それは人間や人間社会の成り立ちを基礎づける認知形式ではないか。千野帽子はそのように問いかけ、様々な学問的領域から知見を借りて考察を進めていく。

 まず「私」と物語との関係はどのように考えられるだろうか。
 認知神経科学においては、自己とは全人格のなかの一部にすぎず、そのありかたは状況に応じて刻々と変化しつづけていると考える。「私」とは、瞬間ごとに意味の違う「私」をバラバラ漫画のようにつなげたもので、一貫した実体であるかのように物語ることによって生じる、と考えるわけだ。

「自己」概念は物語的に構成されている──。そのような認識は哲学においても展開されてきた。ポール・リクールはそのものズバリ〈物語アイデンティティ〉なる概念を打ち出している。

 物語はもちろんそれだけでなく人間が他者や社会のあり方を理解しようとするときにも重宝される。言われてみればこれは誰しも経験的に理解できることかもしれない。

 一般的に、ストーリーは「物語」の形で表現・伝達されるが、ストーリーの筋において「できごと」が起こると、世界がある状態から別の状態へと遷移する。また、できごとは「報告する価値があるもの」として認識され、報告価値は内容だけでなく受信者の状況によっても決まる。

 人はそのようにして他者や社会との関わりで生じるできごとを理解しようとし、他者との関係を維持しようとする。そのことが私たちに一定の安心感をもたらすことは間違いない。物語が他者との相互の共感をもたらし、そのことによって社会の協同もスムーズにいくことだろう。

 人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。(p138)

 しかしその一方で、陥穽もある。たとえばできごとの前後関係をしばしば因果関係だと勘違いすることはよくあることである。ヒュームが指摘したように、人間は時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性をもっている。「前後即因果の誤謬」と呼ばれるものだ。ロラン・バルトは、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」と述べた。

 以上のような意味では、世の中のできごと理解するということは知性の問題という以上に感情的なことといえるかもしれない。さらにいえば「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ないということにもなるだろう。

 人間は世界を物語の形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、無自覚なままおこなっている。人生に期待するということの大部分はこの弾道予測への期待である。逆にいうと、失望とはこの無自覚な妄想的シミュレーションから生み出される感情にほかならない。

 僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。物語論を研究していて、教えられたことのひとつは、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在する、ということです。(p107)

 個人史としての物語を考える時、子ども時代に作り上げた一般論の集合体(世界観)はしばしば偏っていて、そこから生まれるストーリーは成長後の人を苦しめることがある。

 世界でひとつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である、と千野はいう。人は物語から完全に逃れることはできかもしれないが、それを相対視することは可能だということでもある。

 さらにまた人は不本意なできごとの原因を探し、その存在に報いを与えたがる心性がある。そのような義務や道徳を支える「べき論」もまた意外と感情的なものといえる。
「べき論」によって人は、世界や他者を操作できると思いこんでしまう。世界は公正であるべきだという考え(公正世界の誤謬)に無自覚だと、被害者を責めたり自責したりすることにもなるだろう。

 つまりまとめあげていえば、物語は人を救うこともできるが、逆に人を苦しめ原因ともなる。人間にとってはまさに両義的なものといえる。

 物語のもつ、そのような権能や副作用について、哲学や宗教、認知科学や人類学、生物学などあらゆる分野から知見を参照しながら考察する本書は、物語論としての奥深さを示してあまりある。
 時に心理学などの実験データを参照したアプローチのしかたは実験社会科学を標榜する亀田達也の『モラルの起源』に重なり合うかもしれない。また物語の発展的な解体へと誘う哲学的な姿勢は千葉雅也『勉強の哲学』とも共振するものだろう。知的刺激にみちた本である。
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by syunpo | 2017-06-14 19:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

アイロニーからユーモアへ折り返す〜『勉強の哲学』

●千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』/文藝春秋/2017年4月発行

b0072887_1914615.jpg 勉強しない者たちが実社会でたくましく生きていく姿にエールをおくる言葉は巷にあふれている。学生時代はロクに勉強もせずに遊び呆けていたと露悪的に告白するインテリもあとを絶たない。それらはいずれもアンチ勉強言説の紋切型といってよい。その裏返しとして、勉強することの気まずさやそこからじわじわと生まれる歓びに正面から原理的に言及した本はこれまでありそうでなかったような気がする。もちろん「気がする」だけで、単に私の勉強不足だけなのかもしれない。そこで気鋭の哲学者・千葉雅也の勉強論である。

 勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。これが本書の核となるメッセージ。自己破壊することなく状況に適応して生きていくのは「ノリのいい生き方」だが、勉強すると一旦その環境でのノリは悪くなる。いわば「浮いた」状態になる。けれども次のフェイズで新たな環境のノリに入るのだ。
 その一連の引っ越しにおいて、千葉は言語を重視する。不慣れな言葉の違和感に注意すること。その違和感を通して特定の環境における用法から別の用法を考え直す可能性が開けるというわけだ。

 深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。(p217)

 ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応する。思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)がある。前者は根拠を疑って真理を目指す。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。勉強の基本はアイロニーだが、本書ではそれを徹底化することを避けてユーモアに折り返すことを推奨する。

 アイロニーは過剰になると絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になるけれども、それは実現不可能な欲望である。むろん「見方の多様化」についても理念的には極限的な状態は考えられるが、事実上私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになる。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」である。もちろん「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化しうる。

 この一連の勉強過程でキーワードになるのが「有限化」。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されるていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指す。

 環境のなかでノッている保守的な「バカ」の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。これが本書における勉強の原理論のあらましである。

 本書の後半では、その具体的な実践方法を教示する。たとえば自己分析のための「欲望年表」の作成。「自分が何を欲望してきたか」をひろいだし、その背景となる出来事の年表を作ることをとおして「無意識と意識をつなぐ言葉を、仮に想定する」。これは一種の自己分析である。自分のこだわりの発端を分析してバラし、出来事と出会い直そうとすることで、享楽的こだわりもまた変化の契機を得るのである。

 さらに、勉強を有限化しつつ継続するために、当然ながら専門分野のノリに入ることが必要になるだろう。専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、オーソドックスな助言がなされている。

 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、ジャック・ラカンなどのフランス現代思想をベースにしつつ、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や分析哲学など、本書では多くの哲学的知見がベースになっている。ドゥルーズ=ガタリの〈器官なき身体〉のパロディとして〈器官なき言語〉なる造語を導入しているのも愉しい。

 またピエール・バイヤールのユーモアにあふれた『読んでいない本について堂々と語る方法』が読書の完璧主義の不可能性を指摘するコンテクストで引用されているのにも納得。なるほど「仮固定」や「有限化」の一助としてバイヤールを持ち出すというのは一つの生産的な読み方なのだろう。

 そうした先人たちの思考スタイルに立脚しながらも、同時に自身の経験的なエピソードを随所に織り込んでいるので、この種の本にありがちなフラットな読み味からは免れているのも本書の美点のひとつといえる。

 千葉が説く言語の玩具的な使用は、もちろん本書の記述においても活かされている。時に現代詩のフレーズを引用する。改行を多用してアフォリズム的なリズム感を醸成する。こうして読者は勉強の哲学的な言葉を享楽的に受け取ることができるだろう。

 バカの座に居直るのでもなく、環境のノリに合わせられる実利的な勉強のみを称揚するのでもなく。アクロバティックな勉強への道標。知性的なるものを冷笑する態度が幅をきかせる今だからこそ、読む価値のある一冊であるといっておこう。
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by syunpo | 2017-05-11 19:08 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

人間社会の枠組み自体を変えるもの〜『戦争とは何だろうか』

●西谷修著『戦争とは何だろうか』/筑摩書房/2016年7月発行

b0072887_1927559.jpg 戦争とは何だろうか。本書では、現在の戦争を理解するために世界の状況の変化につれて戦争がどう変わってきたのかを、近代以降にしぼって概観する。いわば近代の戦争史、あるいは戦争という出来事からみた世界近代史といえようか。戦争という行為の善悪をひとまず括弧に入れたうえで、その歴史的変遷を哲学的に検証している点に本書の特徴がある。

 戦争とは何だろうか。この一見素朴な問題提起による歴史的検証は実に奥の深いものであることが読み進むうちにわかってくる。現代の戦争を考えることは同時に主権国家のあり方や法の支配、個人の人権などについて考察することにもつながってくるからだ。

 近代の国民国家が成立して以後の戦争は主権国家同士の戦いとなった。これは重要な論点である。主権国家という以上、まず主権とは何かという問題は避けて通れない。西谷はその問題について以下のように論じている。

 ……では主権とは何なのか? 国内をみずからの課す法秩序に従わせ、その法を守らせるために死をもって罰することができる、そういう権力です。そして同時にその主権は外国に対して戦争を宣言し、その時には自国の兵士に、侵入や破壊や殺害を命じることができる。つまり、主権というのは、内に向けても外に向けても、「殺す」ことができる権力だということです。(p48)

 近代においては戦争の遂行を主権国家のみに認めた。それは全体としては戦争を抑止するシステムにもなった。いわゆるウェストファリア体制といわれるものである。

 主権国家間の戦争では当然ながら国民が戦場に駆り出される。そのことは政治の変化をも促すことになった。国民が生命を賭けて戦う以上は「当然そこに政治的発言権がついてくるように」なるからだ。国民軍による戦争が民主主義台頭のベースになったという西谷の逆説的な指摘は興味深い。

 こうした国家間の戦争は、二度にわたる世界大戦の経験を人類にもたらした。それは単に戦場の拡大ということのみを意味するわけではない。もっと大きくて深い変化である。

 ……「世界戦争」というのは、地理的に拡大しただけでなく、人間世界が丸ごと戦争に呑み込まれるようになる、そういう意味で「戦争が世界化する」と同時に「世界が戦争化する」ということでもあったのです。(p91)

 第二次世界大戦後には国際連合が創設される。しかしながら世界を二分する冷戦の時代という新たな局面を迎える。そこでは大国同士の大きな戦闘は避けられたが、局地的に代理戦争が戦われた。
 冷戦は旧ソ連の崩壊によって自由主義陣営が勝利したかのようにみえたが、その後にやってきたのは平和ではなく、さらなる混沌であった。先進国が「テロリズム」との戦争を行なう時代に入ったのである。いうまでもなくそれを主導したのは米国である。

 カール・シュミットは、主権者とは「例外状態について決定をくだす者」だとしたのだが、「テロとの戦争」宣言はアメリカの「世界の主権者」宣言といえる。もちろん「テロとの戦争」という表現じたいが、アメリカ主導の認識枠組みの典型である。その枠組みが戦争の概念そのものを変えてしまった。国家が対外的に暴力を行使することの制約が取り払われてしまった、と西谷はいう。

 ……「テロとの戦争」で決定的なのは、「殺してもよい人間」という新しいカテゴリーができてしまったことです。(p163)

 本来ならテロの首謀者や実行犯は司法の手続きをへたうえで有罪が確定したのちに処罰されるはずが、「戦争」となれば、そのような手続きなしにその場で「殺してもよい」ことになったのである。西谷はこれを否定的な意味をこめて「画期的なこと」と言明する。

 ……「テロとの戦争」という観念が作られ、それが現実化されて、全世界の主要国がそれを認めた時から、地上には存在を認められない人間、「非人間」という新しいカテゴリーができてしまった。アメリカの指導層が始めた「テロとの戦争」は、そのように根本から「文明」の倒錯に導くものなのです。(p166)

 本書を読むことによって、戦争という概念の変遷は同時に政治・経済から文明の問題にいたるまで基本的な理解の枠組み自体をも揺れ動かしているということが理解できる。その意味では戦争を知るとは人間社会そのものを知ることでもあるだろう。しかし戦争をしなくとも人間らしい社会を築くことは可能なはずである。
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by syunpo | 2017-05-05 19:35 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)