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カテゴリ:思想・哲学( 174 )

哲人の人生に学ぶ〜『はじめての哲学』

●石井郁男著『はじめての哲学』/あすなろ書房/2016年2月発行

b0072887_09211949.jpg 本書で取り上げる哲学者は十四人。タレスに始まり、サルトルで〆る。それぞれの伝記的事実に着目して、その哲学のエッセンスを解説するというシンプルな構成である。

 著者の石井郁男は、小学校・中学校・高等学校で四十年間教えた後、現在、福岡県立大学、健和看護学院で哲学教師をつとめている。

 難解をもって鳴るカントやニーチェも石井の手にかかると実にわかりやすい。ということは、それなりに単純化や通俗化がほどこされているということでもあるだろう。まぁ入門書とは多かれ少なかれそういうものかもしれないが。

 ヨシタケシンスケのイラストが親しみやすい雰囲気を醸し出している。

by syunpo | 2019-06-05 20:30 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

大切なのは気持ちでなく結果なのだ〜『偽善のすすめ』

●パオロ・マッツァリーノ著『偽善のすすめ 10代からの倫理学講座』/河出書房新社/2014年2月発行

b0072887_09200377.jpg 今日「偽善」という言葉が他者に向けられるとき、たいていは否定的なニュアンスを帯びて使われる。辞書を引いても「うわべだけ善人のようにみせかけること」「みせかけだけの善行」のように好ましくない語義が記されているばかりだ。

 しかし、パオロ・マッツァリーノはそこで立ち止まる。いわく「うわべか本心かを見抜くのは、現実には不可能です」と。そのうえで、著者は「偽善はいけないというけれど、偽善者はだれかを救ってます。なにもしない人は、たとえ善人であっても、だれも救っていないのです」と言い切るのだ。これが本書の基本的なスタンスである。

 偽善の語句が日本でどのように受容され使われてきたか。それを歴史的に検証することに多くの紙幅が費やされている。
 もともと偽善は「西洋の宗教や哲学、倫理学といった崇高なものごとを語るために使われて」いた。ヒポクラシーの訳語として日本語に導入された後も、しばらくの間は一般化しなかった。本格的に使われるようになったのは明治四〇年頃だっただろうと著者は推測している。

 重要なのは、当時から偽善を一方的に悪いことと決めつけた用例が大半を占めていたことである。永井荷風も太宰治も批判すべきものとして偽善なる言葉を使った。もっぱら人を批判するときの切り札的な語句として機能してきたのだ。

 風向きが変わったのは一九五〇〜六〇年代。知識人のあいだから偽善の価値を見直す論調が出てきた。

 中野好夫は「まさにぼくは偽善者であり、偽善者たらんと欲するものであり、さらにまた進んでは偽善の必要をすら言いたいものである」と書いた。哲学者の福田定良も『偽善の倫理』で「すべての人間は偽善者である」と言明した。

 偽善とわかっていても悪いことは悪いと批判しなければ、ますます世の中が悪くなっていくだけではないかと主張したのは丸山眞男。加藤周一は、政治家に期待できる最高の美徳はおそらく偽善だろうという言葉を残している。

 ところが七〇年代に入ると、メディアではあらためて偽善者批判が目立つようになったという。週刊新潮がその急先鋒だった。自分たちが批判したい対象に「偽善」のレッテルを貼る記事を乱発した。その後は偽善肯定論は後退し、偽善批判の声ばかりが大きくなっていく。

「偽善氷河期」ともいえる時期に偽善肯定論を展開したものとして浅田彰と柄谷行人の対談を引用しているのが目を引く。
「理念を語る人間は何がしか偽善的ではある」(浅田)
「偽善者は少なくとも善をめざしている」(柄谷)

 このような「偽善」をめぐる言説の系譜学を概観した後に、著者はあらためて「偽善のすすめ」を説くのである。

 私はもちろん偽善肯定派です。しない善よりする偽善、ってスローガンには大賛成です……(p200)

  偽善を批判する人たちの最大のあやまちは、動機や気持ちを重視するところです。私はその考えかたは危険だとすら思ってます。なにより大事なのは、動機や気持ちでなく、結果なんですから。(p202)

〈14歳の世渡り術〉シリーズの一冊ということで若年層を意識した今風のくだけた文体だが、内容は深く濃い。おもしろい本である。

by syunpo | 2019-05-31 20:00 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

模倣は人間の自然本性に由来する!〜『詩学』

●アリストテレス著『詩学』(三浦洋訳)/光文社/2019年3月発行

b0072887_09194665.jpg アリストテレスの『詩学』は芸術論の古典中の古典として世界中で読み継がれてきた。本邦でも、これまで十種類の和訳が刊行されている。
 本書は近年の研究動向を参照しつつ現代の日常語に近い訳語を選んだというだけあって読みやすい和文に移し変えられている。おまけに、微に入り細を穿った注釈をほどこし、巻末の解説も一八〇ページ近いボリュームである。

 本書全体を貫くキーワードは「ストーリー」である。というより「ストーリー」を持つものとして叙事詩、悲劇、喜劇に限定して考察の対象としている。詩作が素晴らしいものとなるために「ストーリー」はどのように組み立てられるべきかということが本書の主題だ。ちなみに「ストーリー」の原語は「mythos(ミュトス)」である。

 アリストテレスはストーリーを「単線的なもの」と「複雑に絡み合わされたもの」に二分した。後者の要素として「逆転」「再認」「受難」などを列挙しているくだりは本書の読みどころのひとつだろう。

 注釈を気にしなければ本文は割とスラスラと読めてしまうのだが、プラトンの『国家論』との対比で『詩学』を読み解いていく解説が『詩学』の時代背景を理解するのに極めて有益だ。

『国家論』では、理想の国家を建設するためには詩人は有害であるとして詩人追放論を唱えたことはよく知られている。悲劇や喜劇の呼び起こす感情は魂の非理知的部分だけを満足させるにすぎないというわけである。

『詩学』はそれに対する応答ともいえる書物で、反論が用意周到になされている。アリストテレスは憐れみや怖れを認知的な感情として積極的に捉え、感情が理知的部分を滅ぼすという考え方を斥けた。

 芸術活動を、人間の自然本性に由来する「模倣」ととらえることは、アリストテレスの思想にとって極めて大きな意味を持つ。ゆえに本書では、従来、芸術活動の意味での「模倣」が「描写」や「再現」などと訳されてきたものを含めてすべて「模倣」という訳語で統一している。

 アリストテレスは模倣を人間本性に即した活動として大いに肯定し、それに伴う感情的な「快」の積極的意義も同時に認めるのである。

 ちなみに今日の実験心理学では、感情が理性を方向づけるのであって逆ではないことが証明されている。その意味では感情の働きを重視したアリストテレスの識見は正当なものであったといえよう。

 また解説後半で『詩学』が近代文芸や美学に与えた貢献、逆に現代思想からの批判について言及している点などもたいへん参考になった。光文社古典新訳文庫ならではの一冊といえるだろう。

by syunpo | 2019-05-30 19:30 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

不安な大衆が安住の世界観を求める危うさ〜『悪と全体主義』

●仲正昌樹著『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』/NHK出版/2018年4月発行

b0072887_21172072.jpg 世の中全体がきな臭くなってきた。排外主義や強権的政治手法が世界のあちらこちらで見られるようになり波紋を呼んでいる。そのような世界的な思潮にいかに向き合うべきなのか。

 仲正昌樹は一つのヒントとしてハンナ・アーレントを提示する。ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組み、全体主義の構造を歴史的に解き明かそうとした稀代の哲学者。本書では彼女の著作のなかから主に『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』を取り上げ、アーレントが析出した全体主義のメカニズムについて読み取っていく。

 本書にいう全体主義とはもっぱらナチス・ドイツ時代の政治動向を指す。それは反ユダヤ主義と一体のものだった。

 アーレントは、ナチス時代の全体主義の構造を考察するにあたってヒトラーやホローコーストで重要な任務を担ったアイヒマンの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った大衆のメンタリティに着目した。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が安住できる世界観を求め、吸い寄せられていく──その過程をアーレントは全体主義の起原として重視したのだ。

 とりわけアーレントの考察の非凡なところは、そもそも近代の国民国家のなかに差別感情を生み出す構造を見てとったことにある。「まさに国民国家がその発展の頂点においてユダヤ人に法律上の同権を与えたという事実のなかには、すでに奇妙な矛盾がひそんでいた」と。
 どういうことか。

 ……なぜなら国民国家という政治体が他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出自が、また、その住民全体の在り方として同質性が、決定的に重視されることにあったからである。(p42)

 かつては「外」にあって憎悪の対象だったユダヤ人は、国民国家が形成される過程で「内」なる異分子となった。ユダヤ人を「内」に取り込むことが、実は先鋭的なユダヤ人「排除」の序曲となっていたのである。

 さらに、帝国主義が「人種」という概念を生み出したこともアーレントは指摘している。具体的に南アフリカにおけるオランダ人とイギリス人の覇権争いにからめて論じているのは説得的。南アフリカの支配権を握っていたオランダ人(ボーア人)は「人種」という概念にみずからの正当性をみようとしたのだ。

 ……危機的状況に追い込まれたボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想だったとアーレントは考察しました。つまり、同じ人間の姿はしているけれど、我々=白人と、彼ら=黒人は「種」が違う。その違いに優劣の価値観を持ち込み、劣等な野性には暴力をもって対峙するほかない、と考えたわけです。(p73)

 国民国家という枠組みから展開された近代の帝国主義には最初から無理があったと、アーレントはいう。

 アーレントの考えによれば、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義──ということになる。

 本格的な全体主義の形成に際しては、最初に記したように「大衆」が一つのキーワードになる。かつてはそれぞれの階級におさまっていた人々が大衆となって巷にあふれ出す。拠りどころを失った大衆に強く働きかけたのが「世界観」である。ドイツの場合「ユダヤ人が世界を支配しようとしている」という虚構の物語に基づく世界観で大衆をひきつけていった。このような世界観に立脚した国体はつねに手を加え続けなければ権力を維持できない。それはおのずと「運動」となる。アーレントによれば全体主義とは「運動」にほかならない。

 ナチスの全体主義支配で、議論によって人々が結びつく公的領域が崩壊すると、人々はますますプロパガンダのわかりやすい言葉に反応しやすくなる。そこでは時として道徳的人格が解体されていくこともありうる。その典型的な実例がアイヒマン裁判によって明らかになった。

 元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人虐殺の実務を取り仕切った人物。戦後しばらくたった後、潜伏先のアルゼンチンで捕らえられイスラエルで裁かれることになった。アーレントはその裁判を傍聴して『エルサレムのアイヒマン』を著したのである。

 アイヒマンには「特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾るような憎しみもなかった」とアーレントは指摘した。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしただけの平凡な官僚にすぎなかった、と。

 この著作でアーレントはユダヤ人の同胞から多くの批判を浴び、実際、多くの友人を失った。しかしながらアーレントが提起した「悪の凡庸さ」という概念は今なお多くの研究者によって引用されている。アイヒマンのような官僚を生み出してしまった社会構造やプロセスを冷静に見ようとした彼女の考察に多くの人が価値を見出しているからにほかならない。

 アーレントは分かりやすい政治思想や、分かったつもりにさせる政治思想を拒絶し、根気強く討議しつづけることの重要性を説いた。全体主義に対抗するための概念として複数性を重視したのはそのためでもあるだろう。

 アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。(p189)

 複数性に耐えること。対立意見に耳を傾けること。言うは易く行うは難し、かもしれない。しかし過去の失敗を繰り返さないための簡便な処方箋などありはしない。アーレントの深い洞察は現代にあっても私たちの思考を煌々と照らし続けているというべきだろう。
by syunpo | 2018-11-21 21:20 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

高校倫理を侮るなかれ!?〜『試験に出る哲学』

b0072887_18161333.jpg「倫理」のセンター試験に出された問題を引用して、それをもとに西洋哲学の歩みを復習する。本書のコンセプトは明快である。著者によれば、高校で学ぶ倫理という科目では「西洋哲学の部分を取り出すと、入門的な内容がじつにバランスよく配置されて」いるという。この種の企画では、とかく問題の内容を批判したり皮肉ったりするようなことが多くなりがちだが、本書ではそのような態度はとらない。

 古代ギリシャ哲学から始まり、中世のキリスト教神学を経て、近代哲学へと至る道筋を手際よくまとめていく筆致は、参考書の執筆で鍛えられた著者ならではのものといえるだろう。

 ソクラテスのエイロネイア(アイロニー)を説明するのに千葉雅也の『勉強の哲学』を参照していたり、巻末のブックガイドで國分功一郎の『中動態の世界』にも言及していたり、最新の研究動向にも目配りがきいている。筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』までリストアップしているのも一興。とくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、一般読者向けの哲学入門としては面白いやり方ではないだろうか。
by syunpo | 2018-11-13 18:20 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

近代日本を体現した二人の同窓生〜『夏目漱石と西田幾太郎』

b0072887_18232046.jpg 一九〇一年七月二二日、ロンドンに留学していた夏目漱石のもとに、金沢に住んでいた西田幾多郎から手紙がとどく。その手紙にどのようなことが書かれていたかはわからない。しかしこのやりとりを糸口に、著者は二人の間に多くの共通点があったことを明らかにし、彼らを包みこんでいた時代環境やネットワークを検証していく。これは近代日本を体現していたともいえる二人の知的巨人の精神史的評伝である。

 漱石と西田は何よりも東京大学の同窓生であった。漱石は一八九〇年に帝国大学文科大学英文科に入学し、三年後には大学院に進んだ。西田は一八九一年に帝国大学文科大学哲学科選科に入学した。選科生とは今日でいえば聴講生のようなものだという。ただし在学中は「お互いに顔を知っている程度」の関係でしかなかったらしい。

 小林はまた二人には「禅」に打ち込んだという共通体験のあったことに言及する。西田が本気で禅と取り組むのは帝大選科生になってからのことで、一八九一年、鎌倉円覚寺の今北洪川のもとで修行を始めていた鈴木大拙を訪ねたのが最初。一方、漱石は友人・菅虎雄の勧めで一八九四年末から正月明けまで円覚寺に参禅した。ただしこの時すでに洪川は亡くなっており、西田や大拙とはすれちがいとなったようだ。

 いずれにせよ「禅」は二人の作品には様々な形であらわれていることは確かである。漱石に関しては『門』において参禅体験が活かされているのは有名だろう。そのほか『我輩は猫である』『草枕』などの初期の作品にも、多く禅に関する言葉や人名が出てくる。
 漱石に比べると西田の禅は本格的。禅における無字の公案を自分の携わる哲学の分野で考えたといっていい。西田は当時の哲学の中心をなす認識論、存在論、判断論、といった分野に「無」を導入しようとしたのである。

 そして、二人はともにベストセラーの著者として文壇・論壇にデビューし、さらには広く一般読者の間にもその名が知られるようになった。今でも難解をもって鳴る西田の『善の研究』が広く国民に読まれるようになったのは、当時の新興出版社である岩波書店によって再販されたことが大きい。同時に岩波は漱石の全集をいちはやく手がけてもいる。

 個人的にはほとんど直接交流のなかった漱石と西田が、図らずも岩波書店というプリント・メディアの場で出会っていたということ、そしてそのメディアのもたらす力によって、あの難解な『善の研究』という哲学書がベストセラーにまでのしあがったという数奇な縁は知っておいていいだろう。(p127)

 ところで、前半では二人に共通する心性として「反骨精神」や「独立心」をキーワードとして論じられている。

 漱石にも西田にも「父親の欠落」ともいうべき生い立ちにおける問題があった。「父親の欠落」によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけ自己抑制が弱くなりがちだが、逆にいえば、弱い自己抑制は自己主張や反発心と合流しうる。その観点から、小林は二人に「人並み以上」の反骨精神や独立心を見出すのだ。とりわけ西田の反骨心は四高在学中に発揮された。上からの押しつけ的な校則を嫌って退学処分を受けた挿話に小林は彼の反骨心をみている。

 ところが太平洋戦争が近づくと、西田と京都学派は軍部や彼らの周辺の人々に目をつけられる。一種の恫喝を受けながら、戦争体制に協力していくことを余儀なくされた。とりわけ京都学派の戦争加担責任は戦後に厳しい批判の対象となったが、その経緯をみると釈明の余地がまったくないというわけでもなさそうである。

 いずれにせよ、西田の独立心は戦時においても完全に貫き通すことは困難だっただろう。もし漱石が長生きしていたら太平洋戦争の時代をどう生きただろうかと、つい余計な想像をしてしまった。

 二人を並べて論じることで新たな視座が開けるというところまではいかないと思うが、明治日本の優れた知性をこのように比較しながら読み直すことには一定の意義があるかもしれない。
by syunpo | 2018-10-23 18:31 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

難解な哲学書への道標〜『誰にもわかるハイデガー』

●筒井康隆著『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』/河出書房新社/2018年5月発行

b0072887_8281949.jpg マルティン・ハイデガーの『存在と時間』は難解をもって鳴る哲学書である。文学部唯野教授こと筒井康隆がその難物にチャレンジした。本書はその講演記録を書籍化したものである。

 ハイデガーは私のような哲学の素人がいきなり読んでもチンプンカンプンだが、なるほど標題どおりわかりやすい読み解きを行なっている。何より鍵言葉がやたら難しいのがハイデガーの特質なのだけれど、たとえば〈現存在〉は「はやく言ってしまえば、人間のことなんです」とみごとに噛み砕かれる。〈実存〉は「人間の可能性のこと」とこれまた単純明快。そんなざっくりした理解で良いのかと不安になるほどだ。ちなみに〈不安〉もハイデガーでは重要な概念ではあるのだが。

 補遺を寄せている大澤真幸によれば、「唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である」という。その大沢の補遺も新約聖書を参照したスリリングなもので、たいへん面白く読んだ。ハイデガーをあらためて読んでみようかなと思わせる内容で、入門書としての役割を充分に果たしているのではないかと思う。
by syunpo | 2018-08-18 08:30 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

欲望し続けるための「制作」を〜『メイキング・オブ・勉強の哲学』

●千葉雅也著『メイキング・オブ・勉強の哲学』/文藝春秋/2018年1月発行

b0072887_8484470.jpg 自己啓発書の体裁をとりながら勉強することの意義を考察し話題を集めた『勉強の哲学』のメイキング物である。『勉強の哲学』はいかに構想され、書かれ、修正を加え、書き継がれていったのか。その舞台裏を見せることもまた一つの勉強論、創作論となる。『勉強の哲学』で論じられていた勉強のアート(技術)がまさにその書籍において同時並行的に実践されていたことが種明かしされるのだ。書籍でのこういう企画はもっとあっていいのかもしれない。

 構成としては、大学で行なった講演や書店でのトークイベントの記録、ネットのインタビュー記事を再編集したもの、それに新たな語り下ろしを加えて一冊にまとめている。このほか〈資料編〉として手書きのノートやアウトライナーの一部もたくさん収録していて、いかにもメイキング物らしい作りである。

「有限化」は『勉強の哲学』におけるキーワードの一つだが、ここではさらに噛み砕いて解説されている。たとえば睡眠の必要性などかなり具体的な助言がなされているほか、他者=友人も有限化の装置として考えられている。

 また各種のツールや媒体の比較論において、有限性の観点から紙の本を再評価しているのも印象に残った。デジタルデバイスの場合、さまざまなことが出来る。たとえば電子書籍デバイスでは、他の本のデータも読めるという潜在性がやはり集中を妨げてしまう。しかし紙の本を読むときには、本当にそれしかできない。「紙の本の有限性は、圧倒的です」。

 クリエイターは、作品という有限なものを、他者として生み出そうとする。「自分が考えたと思えないものが目の前にゴロッと出てくる」ところに創造のおもしろみがある。クリエイターは作品における他者性を「欲望」していると千葉は考えるのだ。

 ところで、ジャック・ラカンは、何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、と考えたらしい。ゆえに、人間にとって欠如とは悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が必要だと千葉はいう。

 そこで「占い」の効用が論じられる。占いは、他人がじかに意見を言うものではないけれど、現実の因果性からは完全に切断されている。占いとは現実から切断された余白、欠如を提示するものといえる。

 その観点からすると、占いもまた「制作」の一つと考えられるのである。欲望し続けるために、欠如のページをめくる。その一点で、ノート術も芸術も占いも、同じ「制作」という本質をもっている。『勉強の哲学』が文学論・アート論としても読まれたという反響に対して、本書のコンテンツで著者自身が意識的に応答しているようにも見受けられる。

『勉強の哲学』は、勉強の哲学の実践としても読むことが可能だった。その実践が読者(=他者)という有限性によってフィードバックされ、勉強の哲学がさらに補強されていく。それもまた現代における愉しい知の体験なのだろう。
by syunpo | 2018-06-16 09:01 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

後ろ暗さと快楽の矛盾を思考する〜『食べることの哲学』

●檜垣立哉著『食べることの哲学』/世界思想社/2018年4月発行

b0072887_18571557.jpg 食べることは他の生物を殺すことである。その営みには後ろ暗さと快楽が伴う。食べることを哲学するとは、その矛盾に生き、その矛盾を思考することにほかならない。

 そして食にまつわる後ろ暗さと快楽の両義性は、人間の身体には文化としての身体と動物としての身体があるという二面性にも通じることかもしれない。両者は「ぶつかりあってしか存在しえないのではないだろうか」と檜垣立哉はいう。このぶつかりあいは食という事例に見えやすいすがたをとって現れる。「食べることの哲学」の意義はそうした局面において浮上するというわけである。

〈第一章 料理の技法〉では、レヴィ=ストロースの「食の三角形」を引用して「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの」の三類型について考える。そのなかでは「腐敗させる」ことにこそ「もっとも微細な文化性」が関与すると檜垣はいう。

〈第二章 カニバリズムの忌避〉は、文字どおり人類のカニバリズムについて考察するものである。容易な要約を許さない深くデリケートな内容なのだが、臓器移植に関して「自分が生きながらえるために他人を身体にとりこむという意味ではまさしく(飢えに起因するカニバリズムと)類似的行為である」と指摘しているのには虚を衝かれた思いがする。

 また米国発祥の「生命倫理学」に疑義を呈しているのも印象に残った。いわく「生命倫理という学問分野がアメリカで成立したのは、そもそも医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためだということは誰もが知っている」と。

〈第三章 時空を超える宮澤賢治〉は批評的な一章である。宮沢の著作を本書の文脈に連関づけて読むと「自然と文化のあいだに横たわるグレイゾーンにそのまま踏みこんでいく気味の悪さ」がそこここに溢れているという。「よだかの星」や「注文の多い料理店」が提示していることは「人類がカニバリズムを避けるという事態をさらに拡張したもの」である。自然のなかにある生き物と人間とは、それぞれが捕食関係にある。両者の差異を狭めていき、その境界をなくしてしまうと、実はすべてがカニバリズムの忌避にひっかかる。このことは無視しえない論点であると檜垣は指摘する。

〈第四章 食べることは教えられるか〉は食育の実験授業として賛否両論を巻き起こした「豚のPちゃん」に関する考察。それは小学生たちが校内で豚を飼育し、卒業時にみんなで食べるという計画で始められた。ところが卒業が近づいてきたとき、実際に食べるのか豚を殺さずに在校生に託すのかが議論になる。

 この教育には無謀との批判が集まったが、「大変重要なテーマを突きつけてくる」ことも確かだろう。檜垣は安易に結論的な評価を下すことを慎重に回避しながら、この授業ではいずれを選択しても「無責任」を選ぶことになるといい、教師の選択の無責任性こそは宮澤賢治のいう「ほんたう」の行為ではないか、と締めくくる。

〈第五章 食べてよいもの/食べてはならないもの〉では、反捕鯨映画『ザ・コーヴ』が俎上にのせられる。やはりクリティカルな一文である。この映画は論理的には破綻しているが、そこにこそ食にまつわる問題の意味が詰まっているという。

 イルカの知性や情動性に対して評価をくだすとき、なぜそれがイルカに対してだけ向けられるのか。その線びきの根拠は必ずしも自明ではない。クジラ・イルカ漁に反対している人は「ただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのでは」と檜垣が身も蓋もないことを問いかけるのもあながち暴論ではないように思われる。

〈第六章 人間が毒を食う〉では、あらためてレヴィ=ストロースが取り上げられる。人間は「どこかで毒につながる『腐敗したもの』をこよなく愛する」生き物である。そうした意味で毒とは何だろうか。

 毒を食べることは、わざと「他のものを同化」することの業を、食の行為のなかで強調していることだとはいえないだろうか。それは他の生き物を殺していることとひきかえの「快楽」につながっている旨さではないか……。

〈最終章 食べないことの哲学〉では、一転して食べないことの哲学が展開される。宗教における絶食や拒食症が哲学的考察の対象となるのである。「食べない文明」はある種の潔癖症の人々にとっては一つの選択肢であり、唯一の抵抗として理論的にはありうる。

 しかし食べずに生きることはできない。ならば、もう毒を喰えばよいのではないか。「最初から毒を喰いつづけてきた人類は、別種の毒に適合するほどに強い。それだけのことかもしれない。食べないことの哲学の終わりには、毒であれ食べつづけるしかないという結論しかだせないのかもしれない」。

 食べることにおもなうある種の喜びや、それが抱える何らかの後ろ暗さは、社会がどのように変容しようと、生きている人間であるかぎり変わることはないとおもう。その境界線上のうえでいずれにせよ人間はもがきつづける。食べることは、こうした自然であり文化でもある人間の危うさについて、そのグレイゾーンを存分に示しつつ、なお地球のうえで、それでも先に進んで生きつづけなければならない人間の姿を、その情動すべてを含めて示すものであった。ここから紡ぎだされるもろもろの問いは、それこそわれわれがあるということの戸惑いそのものとかさなるものである。その戸惑いをひきうけることは、身体をもって生きている、人間でもあり動物でもあるわれわれの矛盾に満ちたありかたをはっきりと自覚することでもある。そしてそれは、身体をもち言語をもつわれわれの不可思議さを、よくよくわからせてくれる主題なのである。(p196)

 さまざまな思索を経たのちに結論的に書きつけられた文章は、一見するとまた最初の地点に回帰したようにも感じられる。しかしそれは初めに立っていた地点とはやはり違うだろう。うまく言えないが、一歩二歩三歩、少しステップアップしたような場所。そこからみえる風景は本書を読む前とは明らかに趣を異にしている。
 裏表紙に書かれた謳い文句をそのまま引用すれば「フランス現代哲学と日本哲学のマリアージュで独創的に調理し、濃厚な味わいに仕上げたエッセイ」なのである。
by syunpo | 2018-06-05 19:02 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

存在の複数性を認める新実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

●マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)/講談社/2018年1月発行

b0072887_18422987.jpg 新しい実在論を唱える哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の完全翻訳版。まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はない。以下に掲げるものは素人の素朴な感想文レベルにとどまるものかと思う。

 二〇一一年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにマルクスは新たな哲学を提唱する。「新しい実在論」とみずから呼ぶものである。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図された。

 新しい実在論とは何か。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形でそのすがたをあらわす。

 形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方である。本質主義といってもいい。

 一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考える。本質主義と対立する相対主義といえるだろう。

 ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込む。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めるのだ。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

 その考え方からすれば、宗教や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになる。

 物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえない。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えるが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのである。

 すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなった。もちろんそれはニヒリズムとは異なる。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるという。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

 一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれない。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておこう。

 ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

 本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えている。

 ……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

 とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれそうだ。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われる。私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性の認め方はかなり強引に感じられ、今ひとつ納得できなかった。新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられるのも私の違和感を増幅するものである。

 そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのだろうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではないだろうし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計だろう。
 ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用して少しムキになって反論しているけれど、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもない。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれない。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いだろう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難い。
by syunpo | 2018-05-17 18:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)