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カテゴリ:思想・哲学( 168 )

難解な哲学書への道標〜『誰にもわかるハイデガー』

●筒井康隆著『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』/河出書房新社/2018年5月発行

b0072887_8281949.jpg マルティン・ハイデガーの『存在と時間』は難解をもって鳴る哲学書である。文学部唯野教授こと筒井康隆がその難物にチャレンジした。本書はその講演記録を書籍化したものである。

 ハイデガーは私のような哲学の素人がいきなり読んでもチンプンカンプンだが、なるほど標題どおりわかりやすい読み解きを行なっている。何より鍵言葉がやたら難しいのがハイデガーの特質なのだけれど、たとえば〈現存在〉は「はやく言ってしまえば、人間のことなんです」とみごとに噛み砕かれる。〈実存〉は「人間の可能性のこと」とこれまた単純明快。そんなざっくりした理解で良いのかと不安になるほどだ。ちなみに〈不安〉もハイデガーでは重要な概念ではあるのだが。

 補遺を寄せている大澤真幸によれば、「唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である」という。その大沢の補遺も新約聖書を参照したスリリングなもので、たいへん面白く読んだ。ハイデガーをあらためて読んでみようかなと思わせる内容で、入門書としての役割を充分に果たしているのではないかと思う。
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by syunpo | 2018-08-18 08:30 | 思想・哲学 | Comments(0)

欲望し続けるための「制作」を〜『メイキング・オブ・勉強の哲学』

●千葉雅也著『メイキング・オブ・勉強の哲学』/文藝春秋/2018年1月発行

b0072887_8484470.jpg 自己啓発書の体裁をとりながら勉強することの意義を考察し話題を集めた『勉強の哲学』のメイキング物である。『勉強の哲学』はいかに構想され、書かれ、修正を加え、書き継がれていったのか。その舞台裏を見せることもまた一つの勉強論、創作論となる。『勉強の哲学』で論じられていた勉強のアート(技術)がまさにその書籍において同時並行的に実践されていたことが種明かしされるのだ。書籍でのこういう企画はもっとあっていいのかもしれない。

 構成としては、大学で行なった講演や書店でのトークイベントの記録、ネットのインタビュー記事を再編集したもの、それに新たな語り下ろしを加えて一冊にまとめている。このほか〈資料編〉として手書きのノートやアウトライナーの一部もたくさん収録していて、いかにもメイキング物らしい作りである。

「有限化」は『勉強の哲学』におけるキーワードの一つだが、ここではさらに噛み砕いて解説されている。たとえば睡眠の必要性などかなり具体的な助言がなされているほか、他者=友人も有限化の装置として考えられている。

 また各種のツールや媒体の比較論において、有限性の観点から紙の本を再評価しているのも印象に残った。デジタルデバイスの場合、さまざまなことが出来る。たとえば電子書籍デバイスでは、他の本のデータも読めるという潜在性がやはり集中を妨げてしまう。しかし紙の本を読むときには、本当にそれしかできない。「紙の本の有限性は、圧倒的です」。

 クリエイターは、作品という有限なものを、他者として生み出そうとする。「自分が考えたと思えないものが目の前にゴロッと出てくる」ところに創造のおもしろみがある。クリエイターは作品における他者性を「欲望」していると千葉は考えるのだ。

 ところで、ジャック・ラカンは、何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、と考えたらしい。ゆえに、人間にとって欠如とは悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が必要だと千葉はいう。

 そこで「占い」の効用が論じられる。占いは、他人がじかに意見を言うものではないけれど、現実の因果性からは完全に切断されている。占いとは現実から切断された余白、欠如を提示するものといえる。

 その観点からすると、占いもまた「制作」の一つと考えられるのである。欲望し続けるために、欠如のページをめくる。その一点で、ノート術も芸術も占いも、同じ「制作」という本質をもっている。『勉強の哲学』が文学論・アート論としても読まれたという反響に対して、本書のコンテンツで著者自身が意識的に応答しているようにも見受けられる。

『勉強の哲学』は、勉強の哲学の実践としても読むことが可能だった。その実践が読者(=他者)という有限性によってフィードバックされ、勉強の哲学がさらに補強されていく。それもまた現代における愉しい知の体験なのだろう。
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by syunpo | 2018-06-16 09:01 | 思想・哲学 | Comments(0)

後ろ暗さと快楽の矛盾を思考する〜『食べることの哲学』

●檜垣立哉著『食べることの哲学』/世界思想社/2018年4月発行

b0072887_18571557.jpg 食べることは他の生物を殺すことである。その営みには後ろ暗さと快楽が伴う。食べることを哲学するとは、その矛盾に生き、その矛盾を思考することにほかならない。

 そして食にまつわる後ろ暗さと快楽の両義性は、人間の身体には文化としての身体と動物としての身体があるという二面性にも通じることかもしれない。両者は「ぶつかりあってしか存在しえないのではないだろうか」と檜垣立哉はいう。このぶつかりあいは食という事例に見えやすいすがたをとって現れる。「食べることの哲学」の意義はそうした局面において浮上するというわけである。

〈第一章 料理の技法〉では、レヴィ=ストロースの「食の三角形」を引用して「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの」の三類型について考える。そのなかでは「腐敗させる」ことにこそ「もっとも微細な文化性」が関与すると檜垣はいう。

〈第二章 カニバリズムの忌避〉は、文字どおり人類のカニバリズムについて考察するものである。容易な要約を許さない深くデリケートな内容なのだが、臓器移植に関して「自分が生きながらえるために他人を身体にとりこむという意味ではまさしく(飢えに起因するカニバリズムと)類似的行為である」と指摘しているのには虚を衝かれた思いがする。

 また米国発祥の「生命倫理学」に疑義を呈しているのも印象に残った。いわく「生命倫理という学問分野がアメリカで成立したのは、そもそも医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためだということは誰もが知っている」と。

〈第三章 時空を超える宮澤賢治〉は批評的な一章である。宮沢の著作を本書の文脈に連関づけて読むと「自然と文化のあいだに横たわるグレイゾーンにそのまま踏みこんでいく気味の悪さ」がそこここに溢れているという。「よだかの星」や「注文の多い料理店」が提示していることは「人類がカニバリズムを避けるという事態をさらに拡張したもの」である。自然のなかにある生き物と人間とは、それぞれが捕食関係にある。両者の差異を狭めていき、その境界をなくしてしまうと、実はすべてがカニバリズムの忌避にひっかかる。このことは無視しえない論点であると檜垣は指摘する。

〈第四章 食べることは教えられるか〉は食育の実験授業として賛否両論を巻き起こした「豚のPちゃん」に関する考察。それは小学生たちが校内で豚を飼育し、卒業時にみんなで食べるという計画で始められた。ところが卒業が近づいてきたとき、実際に食べるのか豚を殺さずに在校生に託すのかが議論になる。

 この教育には無謀との批判が集まったが、「大変重要なテーマを突きつけてくる」ことも確かだろう。檜垣は安易に結論的な評価を下すことを慎重に回避しながら、この授業ではいずれを選択しても「無責任」を選ぶことになるといい、教師の選択の無責任性こそは宮澤賢治のいう「ほんたう」の行為ではないか、と締めくくる。

〈第五章 食べてよいもの/食べてはならないもの〉では、反捕鯨映画『ザ・コーヴ』が俎上にのせられる。やはりクリティカルな一文である。この映画は論理的には破綻しているが、そこにこそ食にまつわる問題の意味が詰まっているという。

 イルカの知性や情動性に対して評価をくだすとき、なぜそれがイルカに対してだけ向けられるのか。その線びきの根拠は必ずしも自明ではない。クジラ・イルカ漁に反対している人は「ただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのでは」と檜垣が身も蓋もないことを問いかけるのもあながち暴論ではないように思われる。

〈第六章 人間が毒を食う〉では、あらためてレヴィ=ストロースが取り上げられる。人間は「どこかで毒につながる『腐敗したもの』をこよなく愛する」生き物である。そうした意味で毒とは何だろうか。

 毒を食べることは、わざと「他のものを同化」することの業を、食の行為のなかで強調していることだとはいえないだろうか。それは他の生き物を殺していることとひきかえの「快楽」につながっている旨さではないか……。

〈最終章 食べないことの哲学〉では、一転して食べないことの哲学が展開される。宗教における絶食や拒食症が哲学的考察の対象となるのである。「食べない文明」はある種の潔癖症の人々にとっては一つの選択肢であり、唯一の抵抗として理論的にはありうる。

 しかし食べずに生きることはできない。ならば、もう毒を喰えばよいのではないか。「最初から毒を喰いつづけてきた人類は、別種の毒に適合するほどに強い。それだけのことかもしれない。食べないことの哲学の終わりには、毒であれ食べつづけるしかないという結論しかだせないのかもしれない」。

 食べることにおもなうある種の喜びや、それが抱える何らかの後ろ暗さは、社会がどのように変容しようと、生きている人間であるかぎり変わることはないとおもう。その境界線上のうえでいずれにせよ人間はもがきつづける。食べることは、こうした自然であり文化でもある人間の危うさについて、そのグレイゾーンを存分に示しつつ、なお地球のうえで、それでも先に進んで生きつづけなければならない人間の姿を、その情動すべてを含めて示すものであった。ここから紡ぎだされるもろもろの問いは、それこそわれわれがあるということの戸惑いそのものとかさなるものである。その戸惑いをひきうけることは、身体をもって生きている、人間でもあり動物でもあるわれわれの矛盾に満ちたありかたをはっきりと自覚することでもある。そしてそれは、身体をもち言語をもつわれわれの不可思議さを、よくよくわからせてくれる主題なのである。(p196)

 さまざまな思索を経たのちに結論的に書きつけられた文章は、一見するとまた最初の地点に回帰したようにも感じられる。しかしそれは初めに立っていた地点とはやはり違うだろう。うまく言えないが、一歩二歩三歩、少しステップアップしたような場所。そこからみえる風景は本書を読む前とは明らかに趣を異にしている。
 裏表紙に書かれた謳い文句をそのまま引用すれば「フランス現代哲学と日本哲学のマリアージュで独創的に調理し、濃厚な味わいに仕上げたエッセイ」なのである。
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by syunpo | 2018-06-05 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)

存在の複数性を認める新実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

●マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)/講談社/2018年1月発行

b0072887_18422987.jpg 新しい実在論を唱える哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の完全翻訳版。まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はない。以下に掲げるものは素人の素朴な感想文レベルにとどまるものかと思う。

 二〇一一年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにマルクスは新たな哲学を提唱する。「新しい実在論」とみずから呼ぶものである。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図された。

 新しい実在論とは何か。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形でそのすがたをあらわす。

 形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方である。本質主義といってもいい。

 一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考える。本質主義と対立する相対主義といえるだろう。

 ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込む。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めるのだ。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

 その考え方からすれば、宗教や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになる。

 物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえない。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えるが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのである。

 すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなった。もちろんそれはニヒリズムとは異なる。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるという。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

 一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれない。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておこう。

 ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

 本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えている。

 ……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

 とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれそうだ。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われる。私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性の認め方はかなり強引に感じられ、今ひとつ納得できなかった。新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられるのも私の違和感を増幅するものである。

 そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのだろうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではないだろうし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計だろう。
 ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用して少しムキになって反論しているけれど、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもない。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれない。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いだろう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難い。
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by syunpo | 2018-05-17 18:50 | 思想・哲学 | Comments(0)

西洋哲学の文脈で再評価しよう〜『京都学派』

●菅原潤著『京都学派』/講談社/2018年2月発行

b0072887_18595295.jpg 京都学派とは『善の研究』で知られる西田幾多郎、西田哲学を継承した田辺元、さらにそれを展開した京大四天王(西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高)たちの学派を指す。戦前は「大東亜共栄圏」のスローガンと結びつき、戦争に協力した哲学だと批判されてきたことは周知の事実だろう。ゆえに戦後は公職から追放され、京大に復帰できたのは西谷一人だけである。

 しかしながら、一九九〇年代以降、西田哲学が「西洋哲学の限界を打破するポテンシャルをもつもの」として海外で評価されるようになった。「京都学派の有していた国際性は、この学派誕生の当初から偏狭なナショナリズムを克服する側面を備えていた」という見方も出てきたらしい。そのような動向を受けて本書は京都学派の功罪両面に光を当てながらその内容を再検討するものである。

 京都学派の戦争協力についてはその責任の一端を認めながらも、過大に非難を寄せる動きについては疑義を呈している。

 ……時局に便乗した発言をした知識人や文化人は京都学派の哲学者だけでなく、一見すると時局に抵抗したかに思われた三木清をはじめとする左派知識人の多くも含まれていたのだから、戦争責任を京都学派だけに押しつけるのは適当ではない。(p117)

 そのうえで京都学派の位置づけに関しては西洋哲学の文脈から見直すことを提言する。「彼らが主張した、時流に乗った日本精神の正当化の論理は、端から破綻していた」と述べたうえで「彼らの言説は、むしろ西洋哲学的な文脈のなかにおける新たな理論として位置づけ直すべきだろう」という。

 たとえば、高山岩男の『文化類型学』や『場所的論理と呼応の原理』は「グローバル化と宗教衝突が同時進行する今の時代を読み解く理論として今後大いに注目されるべきだろう」との評価を与えている。

 また柄谷行人がウォーラーステインやウィットフォーゲルを参照して書いた『帝国の構造』に関して、新京都学派の上山春平がその論点を先取りしていた、と指摘している点も興味深い。西田幾多郎や田辺元をあらためて読んでみようという気にはならなかったが、柄谷の愛読者として上山春平への関心は喚起された次第である。

 ただし全体的な感想としては、とくに斬新な読解が提起されているようにも思えず、失礼ながら積極的に人に薦めたくなるような本ではない。何より菅原の筆致が生真面目にすぎて自由闊達な京都学派の気風に今ひとつフィットしていないような。
 ちなみに著者は宮城県出身で東北大学大学院文学研究科博士課程後期終了の日本哲学史研究者である。
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by syunpo | 2018-04-25 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)

熱狂を抑えることにおける熱狂〜『保守の真髄』

●西部邁著『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』/講談社/2017年12月発行

b0072887_19534350.jpg 西部邁といえば日本の近代保守思想の重鎮的存在であった。中島岳志をはじめ西部を参照する後進の保守思想家は多いし、討論番組でバトルを展開した宮台真司もその後は西部と何度か親密な対談を交わしている。二〇一八年一月に惜しまれつつ他界した直後には本書にも触れた追悼的文章をいくつか見かけたこともあり、久しぶりに西部の本を手にとった。

 なるほど首肯しうる発言は少なくない。戦後日本の米国追従路線を厳しく糾弾しているあたりは、白井聡の『永続敗戦論』とも重なり合うものだろうし、新自由主義的なグローバリゼーションに対する異議は、むしろ社民主義やリベラリズムに近しいものと思われる。保守思想と社民主義の親和性の高さはつとに指摘されてきたことであるから、それは別段驚くほどのこともでもないのだろうが。

「『熱狂を抑えることにおける熱狂』こそが保守的心性の真骨頂なのである」とか「保守に必要なのは『矛盾に切り込む文学のセンス』」などはつい引用したくなるフレーズかもしれない。

 ただそれ以上に、同意できない見解もまた頻出する。何より伝統や歴史の持ち出し方がいかにも抽象的だ。スローガンの域を出ないのではないかと思う。もっとも引っかかるのは「近代への懐疑」の必要性を繰り返し力説しながら、近代の産物に他ならない国民国家という枠組みを疑う姿勢が微塵も見えないことだ。

 西部は、国民国家に関して人類史の全体をとおして存在してきたものと捉えているようだが、それは端的に誤りだろう。国家の形態をとらない社会や共同体で生きてきた経験の方が人類は長いのではないか。現代社会における国民国家の役割の重要性を私も否定しないが、国家が「シジフォスの如く難行苦行をエンドレスに引き受ける」べき理由は歴史的にも論理的にも見当たらない。

 その意味では西部の唱える保守思想の真髄にはやはり魅力を感じることはできなかった。徴兵制導入や核武装論など個別具体的な政策論となるとさらに違和感は強くなる。最後に異様な熱気をもって語られる死生観にもまったく共感しない。私には退屈な本というのが率直な感想である。
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by syunpo | 2018-03-28 20:00 | 思想・哲学 | Comments(0)

自らを問い更新していくこと〜『欲望の民主主義』

●丸山俊一+NHK「欲望の民主主義」制作班著『欲望の民主主義 分断を越える哲学』/幻冬舎/2018年1月発行

b0072887_971299.jpg 本書はNHKが二〇一七年四月に放送したBS1スペシャル「欲望の民主主義〜世界の景色が変わる時〜」を書籍化したもの。六人の学者へのインタビューが軸になっている。

 登場するのは、ヤシャ・モンク(政治学)、ジョナサン・ハイト(社会心理学)、シンシア・フルーリー(政治哲学、精神分析学)、マルセル・ゴーシェ(政治哲学)、ジャン=ピエール・ルゴフ(社会学)、マルクス・ガブリエル(哲学)。

 今日、世界的に民主主義が危機に瀕していることを表明している点では、各論者ともに共通している。ただその克服をめぐっては観念的な説教調の話がならび、番組統括者の丸山俊一のコメンタリーもいささか通俗的で、「新たな次元への扉を開く」ような読後感を得るには至らなかった。 そのなかでは、最後に登場するマルクス・ガブリエルの話はエッジが利いていて、この気鋭の哲学者のことを知っただけでも読んだ甲斐があったというべきかもしれない。

 全体をとおしてトマス・ホッブズへの言及が多いのだが、ガブリエルは舌鋒するどく批判している。自然状態について挙げている唯一の喩えがアメリカ先住民の国家であることを指摘し、「『リヴァイアサン』は政治理論ではなく、大虐殺を正当化するプロパガンダのための本」とまで言い切るのは痛快。

 ですから私たちは、政府が何らかの残虐な力を管理しているという考え方を捨てなければなりません。政府は人間の残虐性や残酷性を管理するのと同じぐらい、それらを増やしています。政府は自然状態を克服しているのではありません。自然状態なんてないのです。(p215)

 そうしたホッブズ読解を示したうえで、ガブリエルは、政治とは何かとの問いに「声なき者に声を与えるもの」というジャック・ランシエールの言葉を引用して答える。そして民主主義の再帰的な特質を力説する。「民主主義とは自らを問うものなのです」と。民主主義とは何かをみんなで考えることも民主主義のうちだというわけだ。

 ついでに記しておけば、テロリズムに関する発言は欧米の状況を踏まえたものだが、日本にこそ最も当てはまるのではないかと思う。以下に引用しておく。

 ……「テロリズムの時代」とは通常よりテロリストによる攻撃が起きやすい時期のことではありません。実はヨーロッパでのテロの数は1980年代より減っているのです。テロが起きている数は少ないのですが、その「恐怖」ばかりが増しているのです。……(中略)……
 私が思うにテロリズムとは、国民を、恐怖をつくり出すことにより統治することです。それがテロリズムの意味です。(p207)

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by syunpo | 2018-02-21 09:08 | 思想・哲学 | Comments(0)

伝統思想の重層的な相貌〜『日本思想史への道案内』

●苅部直著『日本思想史への道案内』/NTT出版/2017年9月発行

b0072887_181789.jpg 日本の思想を考えるときに鍵となる概念、〈日本神話〉や〈武士道〉などを取り上げ、それらについて複数の「読み」を提示する。ここで参照されるのは二人の読みの名手──和辻哲郎と丸山眞男である。

 学界ではすでに常識とされていることでも初学者にとっては「へぇ〜」と思えることはいくらもある。本書に関していえば、個人的には儒学や朱子学など江戸期の思想に関するステレオタイプの認識を改めさせられた。

 たとえば一般に儒学は江戸時代の身分制による支配体制を支えた思想として考えられている。私自身も日本史の授業でそのように習ったと記憶する。しかし「朱子学どころかそもそも儒学が一般に、徳川時代の身分制による支配体制とあいいれない性格をもっていること」は、津田左右吉が指摘していたという。儒学とはそもそも身分制批判の要素を含んだ思想なのである。

 また明治新政府が行なった西洋を規範とする政治体制の刷新を思想的にはどう考えればいいだろうか。明治維新によって人びとが突然、西洋由来の政治的理念に目覚めたわけではもちろんない。
 江戸時代の末期には民間から新たな学問を創造する動きが活発化し「身分の別を無視した知識階級といふ如きもの」が現われた。そうした背景があったからこそ、王政復古の後ただちに廃藩置県を導いて封建制に終止符を打つことが可能になったとする和辻の見解は興味深い。

 本書の記述は、良くいえば手堅い筆致、悪くいえばいささか辛気臭い読み味ながら、日本思想史の勘所をかいつまんでガイダンスしてくれるという意味では文字どおり良き道案内の書といえるだろう。
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by syunpo | 2018-01-20 18:25 | 思想・哲学 | Comments(0)

誤配こそが連帯をつくる〜『観光客の哲学』

●東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』/ゲンロン/2017年4月発行

b0072887_21333374.jpg 意表をついた標題がまずは目を引く。観光客の哲学。これまで人文科学的には注目を集めてきとは言い難い存在=観光客に着目して、東浩紀はさていかなる哲学を差し出そうとしているのか。

 二一世紀の世界は、政治の層と経済の層、ナショナリズムとグローバリズムの層、国民国家の層と帝国の層……の二層構造で捉えられる。これが本書の基本認識である。それに連動するように政治思想面ではリベラリズムが失効して、コミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂したと東は考える。

 そのような時代の新しい政治の起点として「観光客」の存在が重要になるというのが観光客の哲学なのである。

 では観光客とはいかなる人びとなのか?
 それは「特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」存在のこと。ここでいう「村人」とは国民国家に属する人びとであり、「旅人」とは帝国に生きるコスモピリタンのような存在をさす。換言すれば「帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在」の名称である。

 すなわち政治の層と経済の層、国民国家の層と帝国の層など、二層をつなぐ可能性をもつのが観光客という存在なのである。そのような観光客的なあり方こそがこれからの時代において人生を豊かにしてくれるというのだ。

 観光客の哲学を考察するにあたって、東はアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの有名な「マルチチュード」を批判的に参照する。「マルチチュード」はひらたくいえば反体制運動や市民運動のことだが、「かつての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を拒否しない。むしろその力を利用する」点に一つの特長がある。

 ただしネグリ=ハートにはマルチチュードが世界を動かすについての戦略性が欠けていた、と東はみる。そこで東は従来のマルチチュードのもつ否定神学的な性質とは対極にある「郵便」という概念を提示するのである。

 ……「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。(p156)

 東はそのような失敗を「誤配」と呼ぶ。現代思想は、否定神学を脱して郵便的思考に生まれ変わるべきだというのが東のかねてからの主張であった。観光の本質は情報の誤配にあると考える東が「郵便的マルチチュード」と「観光客」を重ね合わせるのは当然の成り行きといえるかもしれない。

 本書では、上に記したネグリ=ハートだけでなく、他にも多くのテクストを参照している。とりわけヴォルテールの『カンディード』やカントの永遠平和論を独自に読み解いて観光客という存在につなげてしていくあたりは、なかなかスリリングである。

 そこからさらに第2部では観光客の哲学に対して家族の哲学という補完的な作業を付け加えている。「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」として「家族」が呼びだされるのである。

 家族という手垢にまみれた概念を再起動させようとする東の企てが成功しているかどうか微妙ながら、ドストエフスキー読解をベースにした論考などはアクロバティックな方法を採っていておもしろく読んだ。

 東のネット上でのアクチュアルな政治的発言には賛同できないものが多いが、本書に関しては読み出のある本といえる。
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by syunpo | 2018-01-13 21:38 | 思想・哲学 | Comments(0)

救済もしくは平和〜『ヒューマニティーズ 哲学』

●中島隆博著『ヒューマニティーズ 哲学』/岩波書店/2009年5月発行

b0072887_18122936.jpg 人文学のエッセンスと可能性を、気鋭の執筆陣が平易に語る《ヒューマニティーズ》シリーズの一冊。ただしこの『哲学』に関しては、必ずしも平易とは言い難い。いや、はっきりいえば私にはすこぶる難解であった。

 もっとも、重要なことは冒頭にわかりやすく記されているように思う。

 では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的でることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。(はじめにⅶ)

 議論の足がかりとして、まずジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの哲学の定義から語り起こしている。哲学とは「尺度なしに概念を創造すること」。ついで、ギリシア哲学や中国哲学の始まりの一端に言及し、ヴァルター・ベンヤミンを参照しつつ、哲学の「翻訳」的性格について考察をめぐらせる。

 そもそも哲学は、……(中略)……複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。ドゥルーズとガタリのギリシアを考えてみれば、異邦の哲学者のオピニオンに耳を傾けるためには、翻訳の経験を避けて通ることができない。そうであれば、哲学の言語は、その始まりにおいて、翻訳において成立したということもできる。(p38)

 さらには西田幾多郎の「無の論理」に着目、中国の近代哲学者・胡適を横に並べて、哲学と政治の関連について検討する。そのような過程を経たうえで、冒頭の問題提起に応えるかのように、サラ・ロイやハンナ・アーレントの論考に触れて、哲学の未来を展望するのである。

「国家と植民の問題、そして暴力からの救済と言語の問題を、繰り返し考え抜くこと」を強調して、「他者との共生」こそが哲学の目標であると同時に、哲学の実践そのものだという。

 このように大雑把に論旨をまとめてみたところで本書の真髄は伝わらないだろうと思う。思えば「救済」も「平和」も「共生」も多くの人が口にしている言葉である。一見すると凡庸な結論に失望する読者もいるかもしれない。実際、否定的な言葉を投げかけている感想文をネットでいくつか見かけた。しかし結論的命題のみに哲学の真髄が宿っているわけでもないだろう。

 というわけで私のような浅学非才が本書について主観的に言えることはあまりない。来るべき哲学に向けて、一つの有効な道標として受け取る読者があらわれる可能性を想像し、中途半端ながらもここに本書を紹介する次第である。
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by syunpo | 2017-10-20 18:18 | 思想・哲学 | Comments(0)