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カテゴリ:思想・哲学( 171 )

不安な大衆が安住の世界観を求める危うさ〜『悪と全体主義』

●仲正昌樹著『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』/NHK出版/2018年4月発行

b0072887_21172072.jpg 世の中全体がきな臭くなってきた。排外主義や強権的政治手法が世界のあちらこちらで見られるようになり波紋を呼んでいる。そのような世界的な思潮にいかに向き合うべきなのか。

 仲正昌樹は一つのヒントとしてハンナ・アーレントを提示する。ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組み、全体主義の構造を歴史的に解き明かそうとした稀代の哲学者。本書では彼女の著作のなかから主に『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』を取り上げ、アーレントが析出した全体主義のメカニズムについて読み取っていく。

 本書にいう全体主義とはもっぱらナチス・ドイツ時代の政治動向を指す。それは反ユダヤ主義と一体のものだった。

 アーレントは、ナチス時代の全体主義の構造を考察するにあたってヒトラーやホローコーストで重要な任務を担ったアイヒマンの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った大衆のメンタリティに着目した。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が安住できる世界観を求め、吸い寄せられていく──その過程をアーレントは全体主義の起原として重視したのだ。

 とりわけアーレントの考察の非凡なところは、そもそも近代の国民国家のなかに差別感情を生み出す構造を見てとったことにある。「まさに国民国家がその発展の頂点においてユダヤ人に法律上の同権を与えたという事実のなかには、すでに奇妙な矛盾がひそんでいた」と。
 どういうことか。

 ……なぜなら国民国家という政治体が他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出自が、また、その住民全体の在り方として同質性が、決定的に重視されることにあったからである。(p42)

 かつては「外」にあって憎悪の対象だったユダヤ人は、国民国家が形成される過程で「内」なる異分子となった。ユダヤ人を「内」に取り込むことが、実は先鋭的なユダヤ人「排除」の序曲となっていたのである。

 さらに、帝国主義が「人種」という概念を生み出したこともアーレントは指摘している。具体的に南アフリカにおけるオランダ人とイギリス人の覇権争いにからめて論じているのは説得的。南アフリカの支配権を握っていたオランダ人(ボーア人)は「人種」という概念にみずからの正当性をみようとしたのだ。

 ……危機的状況に追い込まれたボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想だったとアーレントは考察しました。つまり、同じ人間の姿はしているけれど、我々=白人と、彼ら=黒人は「種」が違う。その違いに優劣の価値観を持ち込み、劣等な野性には暴力をもって対峙するほかない、と考えたわけです。(p73)

 国民国家という枠組みから展開された近代の帝国主義には最初から無理があったと、アーレントはいう。

 アーレントの考えによれば、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義──ということになる。

 本格的な全体主義の形成に際しては、最初に記したように「大衆」が一つのキーワードになる。かつてはそれぞれの階級におさまっていた人々が大衆となって巷にあふれ出す。拠りどころを失った大衆に強く働きかけたのが「世界観」である。ドイツの場合「ユダヤ人が世界を支配しようとしている」という虚構の物語に基づく世界観で大衆をひきつけていった。このような世界観に立脚した国体はつねに手を加え続けなければ権力を維持できない。それはおのずと「運動」となる。アーレントによれば全体主義とは「運動」にほかならない。

 ナチスの全体主義支配で、議論によって人々が結びつく公的領域が崩壊すると、人々はますますプロパガンダのわかりやすい言葉に反応しやすくなる。そこでは時として道徳的人格が解体されていくこともありうる。その典型的な実例がアイヒマン裁判によって明らかになった。

 元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人虐殺の実務を取り仕切った人物。戦後しばらくたった後、潜伏先のアルゼンチンで捕らえられイスラエルで裁かれることになった。アーレントはその裁判を傍聴して『エルサレムのアイヒマン』を著したのである。

 アイヒマンには「特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾るような憎しみもなかった」とアーレントは指摘した。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしただけの平凡な官僚にすぎなかった、と。

 この著作でアーレントはユダヤ人の同胞から多くの批判を浴び、実際、多くの友人を失った。しかしながらアーレントが提起した「悪の凡庸さ」という概念は今なお多くの研究者によって引用されている。アイヒマンのような官僚を生み出してしまった社会構造やプロセスを冷静に見ようとした彼女の考察に多くの人が価値を見出しているからにほかならない。

 アーレントは分かりやすい政治思想や、分かったつもりにさせる政治思想を拒絶し、根気強く討議しつづけることの重要性を説いた。全体主義に対抗するための概念として複数性を重視したのはそのためでもあるだろう。

 アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。(p189)

 複数性に耐えること。対立意見に耳を傾けること。言うは易く行うは難し、かもしれない。しかし過去の失敗を繰り返さないための簡便な処方箋などありはしない。アーレントの深い洞察は現代にあっても私たちの思考を煌々と照らし続けているというべきだろう。
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by syunpo | 2018-11-21 21:20 | 思想・哲学 | Comments(0)

高校倫理を侮るなかれ!?〜『試験に出る哲学』

b0072887_18161333.jpg「倫理」のセンター試験に出された問題を引用して、それをもとに西洋哲学の歩みを復習する。本書のコンセプトは明快である。著者によれば、高校で学ぶ倫理という科目では「西洋哲学の部分を取り出すと、入門的な内容がじつにバランスよく配置されて」いるという。この種の企画では、とかく問題の内容を批判したり皮肉ったりするようなことが多くなりがちだが、本書ではそのような態度はとらない。

 古代ギリシャ哲学から始まり、中世のキリスト教神学を経て、近代哲学へと至る道筋を手際よくまとめていく筆致は、参考書の執筆で鍛えられた著者ならではのものといえるだろう。

 ソクラテスのエイロネイア(アイロニー)を説明するのに千葉雅也の『勉強の哲学』を参照していたり、巻末のブックガイドで國分功一郎の『中動態の世界』にも言及していたり、最新の研究動向にも目配りがきいている。筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』までリストアップしているのも一興。とくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、一般読者向けの哲学入門としては面白いやり方ではないだろうか。
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by syunpo | 2018-11-13 18:20 | 思想・哲学 | Comments(0)

近代日本を体現した二人の同窓生〜『夏目漱石と西田幾太郎』

b0072887_18232046.jpg 一九〇一年七月二二日、ロンドンに留学していた夏目漱石のもとに、金沢に住んでいた西田幾多郎から手紙がとどく。その手紙にどのようなことが書かれていたかはわからない。しかしこのやりとりを糸口に、著者は二人の間に多くの共通点があったことを明らかにし、彼らを包みこんでいた時代環境やネットワークを検証していく。これは近代日本を体現していたともいえる二人の知的巨人の精神史的評伝である。

 漱石と西田は何よりも東京大学の同窓生であった。漱石は一八九〇年に帝国大学文科大学英文科に入学し、三年後には大学院に進んだ。西田は一八九一年に帝国大学文科大学哲学科選科に入学した。選科生とは今日でいえば聴講生のようなものだという。ただし在学中は「お互いに顔を知っている程度」の関係でしかなかったらしい。

 小林はまた二人には「禅」に打ち込んだという共通体験のあったことに言及する。西田が本気で禅と取り組むのは帝大選科生になってからのことで、一八九一年、鎌倉円覚寺の今北洪川のもとで修行を始めていた鈴木大拙を訪ねたのが最初。一方、漱石は友人・菅虎雄の勧めで一八九四年末から正月明けまで円覚寺に参禅した。ただしこの時すでに洪川は亡くなっており、西田や大拙とはすれちがいとなったようだ。

 いずれにせよ「禅」は二人の作品には様々な形であらわれていることは確かである。漱石に関しては『門』において参禅体験が活かされているのは有名だろう。そのほか『我輩は猫である』『草枕』などの初期の作品にも、多く禅に関する言葉や人名が出てくる。
 漱石に比べると西田の禅は本格的。禅における無字の公案を自分の携わる哲学の分野で考えたといっていい。西田は当時の哲学の中心をなす認識論、存在論、判断論、といった分野に「無」を導入しようとしたのである。

 そして、二人はともにベストセラーの著者として文壇・論壇にデビューし、さらには広く一般読者の間にもその名が知られるようになった。今でも難解をもって鳴る西田の『善の研究』が広く国民に読まれるようになったのは、当時の新興出版社である岩波書店によって再販されたことが大きい。同時に岩波は漱石の全集をいちはやく手がけてもいる。

 個人的にはほとんど直接交流のなかった漱石と西田が、図らずも岩波書店というプリント・メディアの場で出会っていたということ、そしてそのメディアのもたらす力によって、あの難解な『善の研究』という哲学書がベストセラーにまでのしあがったという数奇な縁は知っておいていいだろう。(p127)

 ところで、前半では二人に共通する心性として「反骨精神」や「独立心」をキーワードとして論じられている。

 漱石にも西田にも「父親の欠落」ともいうべき生い立ちにおける問題があった。「父親の欠落」によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけ自己抑制が弱くなりがちだが、逆にいえば、弱い自己抑制は自己主張や反発心と合流しうる。その観点から、小林は二人に「人並み以上」の反骨精神や独立心を見出すのだ。とりわけ西田の反骨心は四高在学中に発揮された。上からの押しつけ的な校則を嫌って退学処分を受けた挿話に小林は彼の反骨心をみている。

 ところが太平洋戦争が近づくと、西田と京都学派は軍部や彼らの周辺の人々に目をつけられる。一種の恫喝を受けながら、戦争体制に協力していくことを余儀なくされた。とりわけ京都学派の戦争加担責任は戦後に厳しい批判の対象となったが、その経緯をみると釈明の余地がまったくないというわけでもなさそうである。

 いずれにせよ、西田の独立心は戦時においても完全に貫き通すことは困難だっただろう。もし漱石が長生きしていたら太平洋戦争の時代をどう生きただろうかと、つい余計な想像をしてしまった。

 二人を並べて論じることで新たな視座が開けるというところまではいかないと思うが、明治日本の優れた知性をこのように比較しながら読み直すことには一定の意義があるかもしれない。
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by syunpo | 2018-10-23 18:31 | 思想・哲学 | Comments(0)

難解な哲学書への道標〜『誰にもわかるハイデガー』

●筒井康隆著『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』/河出書房新社/2018年5月発行

b0072887_8281949.jpg マルティン・ハイデガーの『存在と時間』は難解をもって鳴る哲学書である。文学部唯野教授こと筒井康隆がその難物にチャレンジした。本書はその講演記録を書籍化したものである。

 ハイデガーは私のような哲学の素人がいきなり読んでもチンプンカンプンだが、なるほど標題どおりわかりやすい読み解きを行なっている。何より鍵言葉がやたら難しいのがハイデガーの特質なのだけれど、たとえば〈現存在〉は「はやく言ってしまえば、人間のことなんです」とみごとに噛み砕かれる。〈実存〉は「人間の可能性のこと」とこれまた単純明快。そんなざっくりした理解で良いのかと不安になるほどだ。ちなみに〈不安〉もハイデガーでは重要な概念ではあるのだが。

 補遺を寄せている大澤真幸によれば、「唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である」という。その大沢の補遺も新約聖書を参照したスリリングなもので、たいへん面白く読んだ。ハイデガーをあらためて読んでみようかなと思わせる内容で、入門書としての役割を充分に果たしているのではないかと思う。
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by syunpo | 2018-08-18 08:30 | 思想・哲学 | Comments(0)

欲望し続けるための「制作」を〜『メイキング・オブ・勉強の哲学』

●千葉雅也著『メイキング・オブ・勉強の哲学』/文藝春秋/2018年1月発行

b0072887_8484470.jpg 自己啓発書の体裁をとりながら勉強することの意義を考察し話題を集めた『勉強の哲学』のメイキング物である。『勉強の哲学』はいかに構想され、書かれ、修正を加え、書き継がれていったのか。その舞台裏を見せることもまた一つの勉強論、創作論となる。『勉強の哲学』で論じられていた勉強のアート(技術)がまさにその書籍において同時並行的に実践されていたことが種明かしされるのだ。書籍でのこういう企画はもっとあっていいのかもしれない。

 構成としては、大学で行なった講演や書店でのトークイベントの記録、ネットのインタビュー記事を再編集したもの、それに新たな語り下ろしを加えて一冊にまとめている。このほか〈資料編〉として手書きのノートやアウトライナーの一部もたくさん収録していて、いかにもメイキング物らしい作りである。

「有限化」は『勉強の哲学』におけるキーワードの一つだが、ここではさらに噛み砕いて解説されている。たとえば睡眠の必要性などかなり具体的な助言がなされているほか、他者=友人も有限化の装置として考えられている。

 また各種のツールや媒体の比較論において、有限性の観点から紙の本を再評価しているのも印象に残った。デジタルデバイスの場合、さまざまなことが出来る。たとえば電子書籍デバイスでは、他の本のデータも読めるという潜在性がやはり集中を妨げてしまう。しかし紙の本を読むときには、本当にそれしかできない。「紙の本の有限性は、圧倒的です」。

 クリエイターは、作品という有限なものを、他者として生み出そうとする。「自分が考えたと思えないものが目の前にゴロッと出てくる」ところに創造のおもしろみがある。クリエイターは作品における他者性を「欲望」していると千葉は考えるのだ。

 ところで、ジャック・ラカンは、何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、と考えたらしい。ゆえに、人間にとって欠如とは悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が必要だと千葉はいう。

 そこで「占い」の効用が論じられる。占いは、他人がじかに意見を言うものではないけれど、現実の因果性からは完全に切断されている。占いとは現実から切断された余白、欠如を提示するものといえる。

 その観点からすると、占いもまた「制作」の一つと考えられるのである。欲望し続けるために、欠如のページをめくる。その一点で、ノート術も芸術も占いも、同じ「制作」という本質をもっている。『勉強の哲学』が文学論・アート論としても読まれたという反響に対して、本書のコンテンツで著者自身が意識的に応答しているようにも見受けられる。

『勉強の哲学』は、勉強の哲学の実践としても読むことが可能だった。その実践が読者(=他者)という有限性によってフィードバックされ、勉強の哲学がさらに補強されていく。それもまた現代における愉しい知の体験なのだろう。
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by syunpo | 2018-06-16 09:01 | 思想・哲学 | Comments(0)

後ろ暗さと快楽の矛盾を思考する〜『食べることの哲学』

●檜垣立哉著『食べることの哲学』/世界思想社/2018年4月発行

b0072887_18571557.jpg 食べることは他の生物を殺すことである。その営みには後ろ暗さと快楽が伴う。食べることを哲学するとは、その矛盾に生き、その矛盾を思考することにほかならない。

 そして食にまつわる後ろ暗さと快楽の両義性は、人間の身体には文化としての身体と動物としての身体があるという二面性にも通じることかもしれない。両者は「ぶつかりあってしか存在しえないのではないだろうか」と檜垣立哉はいう。このぶつかりあいは食という事例に見えやすいすがたをとって現れる。「食べることの哲学」の意義はそうした局面において浮上するというわけである。

〈第一章 料理の技法〉では、レヴィ=ストロースの「食の三角形」を引用して「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの」の三類型について考える。そのなかでは「腐敗させる」ことにこそ「もっとも微細な文化性」が関与すると檜垣はいう。

〈第二章 カニバリズムの忌避〉は、文字どおり人類のカニバリズムについて考察するものである。容易な要約を許さない深くデリケートな内容なのだが、臓器移植に関して「自分が生きながらえるために他人を身体にとりこむという意味ではまさしく(飢えに起因するカニバリズムと)類似的行為である」と指摘しているのには虚を衝かれた思いがする。

 また米国発祥の「生命倫理学」に疑義を呈しているのも印象に残った。いわく「生命倫理という学問分野がアメリカで成立したのは、そもそも医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためだということは誰もが知っている」と。

〈第三章 時空を超える宮澤賢治〉は批評的な一章である。宮沢の著作を本書の文脈に連関づけて読むと「自然と文化のあいだに横たわるグレイゾーンにそのまま踏みこんでいく気味の悪さ」がそこここに溢れているという。「よだかの星」や「注文の多い料理店」が提示していることは「人類がカニバリズムを避けるという事態をさらに拡張したもの」である。自然のなかにある生き物と人間とは、それぞれが捕食関係にある。両者の差異を狭めていき、その境界をなくしてしまうと、実はすべてがカニバリズムの忌避にひっかかる。このことは無視しえない論点であると檜垣は指摘する。

〈第四章 食べることは教えられるか〉は食育の実験授業として賛否両論を巻き起こした「豚のPちゃん」に関する考察。それは小学生たちが校内で豚を飼育し、卒業時にみんなで食べるという計画で始められた。ところが卒業が近づいてきたとき、実際に食べるのか豚を殺さずに在校生に託すのかが議論になる。

 この教育には無謀との批判が集まったが、「大変重要なテーマを突きつけてくる」ことも確かだろう。檜垣は安易に結論的な評価を下すことを慎重に回避しながら、この授業ではいずれを選択しても「無責任」を選ぶことになるといい、教師の選択の無責任性こそは宮澤賢治のいう「ほんたう」の行為ではないか、と締めくくる。

〈第五章 食べてよいもの/食べてはならないもの〉では、反捕鯨映画『ザ・コーヴ』が俎上にのせられる。やはりクリティカルな一文である。この映画は論理的には破綻しているが、そこにこそ食にまつわる問題の意味が詰まっているという。

 イルカの知性や情動性に対して評価をくだすとき、なぜそれがイルカに対してだけ向けられるのか。その線びきの根拠は必ずしも自明ではない。クジラ・イルカ漁に反対している人は「ただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのでは」と檜垣が身も蓋もないことを問いかけるのもあながち暴論ではないように思われる。

〈第六章 人間が毒を食う〉では、あらためてレヴィ=ストロースが取り上げられる。人間は「どこかで毒につながる『腐敗したもの』をこよなく愛する」生き物である。そうした意味で毒とは何だろうか。

 毒を食べることは、わざと「他のものを同化」することの業を、食の行為のなかで強調していることだとはいえないだろうか。それは他の生き物を殺していることとひきかえの「快楽」につながっている旨さではないか……。

〈最終章 食べないことの哲学〉では、一転して食べないことの哲学が展開される。宗教における絶食や拒食症が哲学的考察の対象となるのである。「食べない文明」はある種の潔癖症の人々にとっては一つの選択肢であり、唯一の抵抗として理論的にはありうる。

 しかし食べずに生きることはできない。ならば、もう毒を喰えばよいのではないか。「最初から毒を喰いつづけてきた人類は、別種の毒に適合するほどに強い。それだけのことかもしれない。食べないことの哲学の終わりには、毒であれ食べつづけるしかないという結論しかだせないのかもしれない」。

 食べることにおもなうある種の喜びや、それが抱える何らかの後ろ暗さは、社会がどのように変容しようと、生きている人間であるかぎり変わることはないとおもう。その境界線上のうえでいずれにせよ人間はもがきつづける。食べることは、こうした自然であり文化でもある人間の危うさについて、そのグレイゾーンを存分に示しつつ、なお地球のうえで、それでも先に進んで生きつづけなければならない人間の姿を、その情動すべてを含めて示すものであった。ここから紡ぎだされるもろもろの問いは、それこそわれわれがあるということの戸惑いそのものとかさなるものである。その戸惑いをひきうけることは、身体をもって生きている、人間でもあり動物でもあるわれわれの矛盾に満ちたありかたをはっきりと自覚することでもある。そしてそれは、身体をもち言語をもつわれわれの不可思議さを、よくよくわからせてくれる主題なのである。(p196)

 さまざまな思索を経たのちに結論的に書きつけられた文章は、一見するとまた最初の地点に回帰したようにも感じられる。しかしそれは初めに立っていた地点とはやはり違うだろう。うまく言えないが、一歩二歩三歩、少しステップアップしたような場所。そこからみえる風景は本書を読む前とは明らかに趣を異にしている。
 裏表紙に書かれた謳い文句をそのまま引用すれば「フランス現代哲学と日本哲学のマリアージュで独創的に調理し、濃厚な味わいに仕上げたエッセイ」なのである。
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by syunpo | 2018-06-05 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)

存在の複数性を認める新実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

●マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)/講談社/2018年1月発行

b0072887_18422987.jpg 新しい実在論を唱える哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の完全翻訳版。まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はない。以下に掲げるものは素人の素朴な感想文レベルにとどまるものかと思う。

 二〇一一年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにマルクスは新たな哲学を提唱する。「新しい実在論」とみずから呼ぶものである。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図された。

 新しい実在論とは何か。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形でそのすがたをあらわす。

 形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方である。本質主義といってもいい。

 一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考える。本質主義と対立する相対主義といえるだろう。

 ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込む。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めるのだ。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

 その考え方からすれば、宗教や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになる。

 物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえない。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えるが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのである。

 すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなった。もちろんそれはニヒリズムとは異なる。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるという。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

 一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれない。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておこう。

 ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

 本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えている。

 ……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

 とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれそうだ。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われる。私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性の認め方はかなり強引に感じられ、今ひとつ納得できなかった。新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられるのも私の違和感を増幅するものである。

 そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのだろうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではないだろうし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計だろう。
 ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用して少しムキになって反論しているけれど、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもない。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれない。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いだろう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難い。
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by syunpo | 2018-05-17 18:50 | 思想・哲学 | Comments(0)

西洋哲学の文脈で再評価しよう〜『京都学派』

●菅原潤著『京都学派』/講談社/2018年2月発行

b0072887_18595295.jpg 京都学派とは『善の研究』で知られる西田幾多郎、西田哲学を継承した田辺元、さらにそれを展開した京大四天王(西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高)たちの学派を指す。戦前は「大東亜共栄圏」のスローガンと結びつき、戦争に協力した哲学だと批判されてきたことは周知の事実だろう。ゆえに戦後は公職から追放され、京大に復帰できたのは西谷一人だけである。

 しかしながら、一九九〇年代以降、西田哲学が「西洋哲学の限界を打破するポテンシャルをもつもの」として海外で評価されるようになった。「京都学派の有していた国際性は、この学派誕生の当初から偏狭なナショナリズムを克服する側面を備えていた」という見方も出てきたらしい。そのような動向を受けて本書は京都学派の功罪両面に光を当てながらその内容を再検討するものである。

 京都学派の戦争協力についてはその責任の一端を認めながらも、過大に非難を寄せる動きについては疑義を呈している。

 ……時局に便乗した発言をした知識人や文化人は京都学派の哲学者だけでなく、一見すると時局に抵抗したかに思われた三木清をはじめとする左派知識人の多くも含まれていたのだから、戦争責任を京都学派だけに押しつけるのは適当ではない。(p117)

 そのうえで京都学派の位置づけに関しては西洋哲学の文脈から見直すことを提言する。「彼らが主張した、時流に乗った日本精神の正当化の論理は、端から破綻していた」と述べたうえで「彼らの言説は、むしろ西洋哲学的な文脈のなかにおける新たな理論として位置づけ直すべきだろう」という。

 たとえば、高山岩男の『文化類型学』や『場所的論理と呼応の原理』は「グローバル化と宗教衝突が同時進行する今の時代を読み解く理論として今後大いに注目されるべきだろう」との評価を与えている。

 また柄谷行人がウォーラーステインやウィットフォーゲルを参照して書いた『帝国の構造』に関して、新京都学派の上山春平がその論点を先取りしていた、と指摘している点も興味深い。西田幾多郎や田辺元をあらためて読んでみようという気にはならなかったが、柄谷の愛読者として上山春平への関心は喚起された次第である。

 ただし全体的な感想としては、とくに斬新な読解が提起されているようにも思えず、失礼ながら積極的に人に薦めたくなるような本ではない。何より菅原の筆致が生真面目にすぎて自由闊達な京都学派の気風に今ひとつフィットしていないような。
 ちなみに著者は宮城県出身で東北大学大学院文学研究科博士課程後期終了の日本哲学史研究者である。
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by syunpo | 2018-04-25 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)

熱狂を抑えることにおける熱狂〜『保守の真髄』

●西部邁著『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』/講談社/2017年12月発行

b0072887_19534350.jpg 西部邁といえば日本の近代保守思想の重鎮的存在であった。中島岳志をはじめ西部を参照する後進の保守思想家は多いし、討論番組でバトルを展開した宮台真司もその後は西部と何度か親密な対談を交わしている。二〇一八年一月に惜しまれつつ他界した直後には本書にも触れた追悼的文章をいくつか見かけたこともあり、久しぶりに西部の本を手にとった。

 なるほど首肯しうる発言は少なくない。戦後日本の米国追従路線を厳しく糾弾しているあたりは、白井聡の『永続敗戦論』とも重なり合うものだろうし、新自由主義的なグローバリゼーションに対する異議は、むしろ社民主義やリベラリズムに近しいものと思われる。保守思想と社民主義の親和性の高さはつとに指摘されてきたことであるから、それは別段驚くほどのこともでもないのだろうが。

「『熱狂を抑えることにおける熱狂』こそが保守的心性の真骨頂なのである」とか「保守に必要なのは『矛盾に切り込む文学のセンス』」などはつい引用したくなるフレーズかもしれない。

 ただそれ以上に、同意できない見解もまた頻出する。何より伝統や歴史の持ち出し方がいかにも抽象的だ。スローガンの域を出ないのではないかと思う。もっとも引っかかるのは「近代への懐疑」の必要性を繰り返し力説しながら、近代の産物に他ならない国民国家という枠組みを疑う姿勢が微塵も見えないことだ。

 西部は、国民国家に関して人類史の全体をとおして存在してきたものと捉えているようだが、それは端的に誤りだろう。国家の形態をとらない社会や共同体で生きてきた経験の方が人類は長いのではないか。現代社会における国民国家の役割の重要性を私も否定しないが、国家が「シジフォスの如く難行苦行をエンドレスに引き受ける」べき理由は歴史的にも論理的にも見当たらない。

 その意味では西部の唱える保守思想の真髄にはやはり魅力を感じることはできなかった。徴兵制導入や核武装論など個別具体的な政策論となるとさらに違和感は強くなる。最後に異様な熱気をもって語られる死生観にもまったく共感しない。私には退屈な本というのが率直な感想である。
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by syunpo | 2018-03-28 20:00 | 思想・哲学 | Comments(0)

自らを問い更新していくこと〜『欲望の民主主義』

●丸山俊一+NHK「欲望の民主主義」制作班著『欲望の民主主義 分断を越える哲学』/幻冬舎/2018年1月発行

b0072887_971299.jpg 本書はNHKが二〇一七年四月に放送したBS1スペシャル「欲望の民主主義〜世界の景色が変わる時〜」を書籍化したもの。六人の学者へのインタビューが軸になっている。

 登場するのは、ヤシャ・モンク(政治学)、ジョナサン・ハイト(社会心理学)、シンシア・フルーリー(政治哲学、精神分析学)、マルセル・ゴーシェ(政治哲学)、ジャン=ピエール・ルゴフ(社会学)、マルクス・ガブリエル(哲学)。

 今日、世界的に民主主義が危機に瀕していることを表明している点では、各論者ともに共通している。ただその克服をめぐっては観念的な説教調の話がならび、番組統括者の丸山俊一のコメンタリーもいささか通俗的で、「新たな次元への扉を開く」ような読後感を得るには至らなかった。 そのなかでは、最後に登場するマルクス・ガブリエルの話はエッジが利いていて、この気鋭の哲学者のことを知っただけでも読んだ甲斐があったというべきかもしれない。

 全体をとおしてトマス・ホッブズへの言及が多いのだが、ガブリエルは舌鋒するどく批判している。自然状態について挙げている唯一の喩えがアメリカ先住民の国家であることを指摘し、「『リヴァイアサン』は政治理論ではなく、大虐殺を正当化するプロパガンダのための本」とまで言い切るのは痛快。

 ですから私たちは、政府が何らかの残虐な力を管理しているという考え方を捨てなければなりません。政府は人間の残虐性や残酷性を管理するのと同じぐらい、それらを増やしています。政府は自然状態を克服しているのではありません。自然状態なんてないのです。(p215)

 そうしたホッブズ読解を示したうえで、ガブリエルは、政治とは何かとの問いに「声なき者に声を与えるもの」というジャック・ランシエールの言葉を引用して答える。そして民主主義の再帰的な特質を力説する。「民主主義とは自らを問うものなのです」と。民主主義とは何かをみんなで考えることも民主主義のうちだというわけだ。

 ついでに記しておけば、テロリズムに関する発言は欧米の状況を踏まえたものだが、日本にこそ最も当てはまるのではないかと思う。以下に引用しておく。

 ……「テロリズムの時代」とは通常よりテロリストによる攻撃が起きやすい時期のことではありません。実はヨーロッパでのテロの数は1980年代より減っているのです。テロが起きている数は少ないのですが、その「恐怖」ばかりが増しているのです。……(中略)……
 私が思うにテロリズムとは、国民を、恐怖をつくり出すことにより統治することです。それがテロリズムの意味です。(p207)

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by syunpo | 2018-02-21 09:08 | 思想・哲学 | Comments(0)