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カテゴリ:政治( 124 )

中立機関による公文書管理を徹底せよ〜『官僚制と公文書』

●新藤宗幸著『官僚制と公文書 改竄、捏造、忖度の背景』/筑摩書房/2019年5月発行

b0072887_10345408.jpg 公文書の改竄や捏造、隠蔽など官僚による不法・不正行為が目立つようになってきた。現代の政治と官僚機構は一体どうなっているのか。そのような疑問を国民の多くは以前にもまして強く感じ始めているのではないか。その意味ではまことにタイムリーな本である。

 昨今顕在化している官僚たちの破廉恥な行為は、何よりも安倍政権の強権政治がもたらしたものと考えて政権批判に傾きがちだが、それだけでなく官僚制の構造にも目を向けている点に本書の特長を見出すことができる。

……行政機構を構成する行政組織にひとまず視点を限定するならば、そこには戦後憲法体制=民主主義政治体制とは調和しえない組織要因が、当初より内在しているのではないだろうか。(p34)

 新藤は具体的に二つの問題を挙げている。キャリア組とノンキャリア組に分ける「入口選別」といわれる職員採用方式と、官僚制組織における職位の責任と権限が不明確であることである。「それらは、昨今の政権と官僚制組織の不可解な関係にも、色濃く反映されているといってよいだろう」。

 こうした点を踏まえて「「官僚制の劣化」とは、現象的にはそのとおりだとしても、官僚制の構造に歴史的に胚胎してきた欠陥が噴出したもの」と捉えるのである。

 もちろん、現在進行中の安倍政権による「政治主導」ならぬ「政権主導」に対しても批判的に吟味している。

 政権のいう政治主導は、伝統的な各省官僚機構の分立体制を克服すべく、内閣の政治指導を確立するものと説明される。内閣官房・内閣府の権限・組織の拡大や内閣人事部の設置はその具現化である。しかしそうした体制は官邸の意を忖度する「官邸官僚」、それに「面従腹背」する官僚、官僚制幹部の指示に苦悩しつつも従わざるをえない職員といった、幾重もの「亀裂」を生み出したのではないか、と新藤はいう。
「内閣官房・内閣府の権限と機能の拡大は、組織としての官僚制の劣化を招いてはいないか」との認識はひとり新藤だけのものではないはずだ。

 また安倍政権下では、二〇一三年一二月に特定秘密保護法が制定された。公文書管理法の施行から二年後のことである。「これは、緒についたばかりの公文書管理に重大かつ否定的な影響をもたらすものといってよい」。
 その両者は法のコンセプトからして真っ向から対立するものである。特定秘密保護法の問題点は今さらここに列挙するまでもないだろう。

 いかにして「政権主導」の暴走を正し「政治主導」の政治的正当性を実現するか。それは現代日本政治の喫緊の課題だという認識を示した後、最終章では官僚制の改正案が具体的に提示される。

 内閣官房と役割が重複している内閣府の廃止、内閣人事局の機能を限定した首相府(内閣官房を継承するもの)の再編などを提案しているのは良いのだが、中央行政組織の編成に関して、国会制定法ではなく執政部の権限にせよとの主張には賛否両論ありそうだ。前段で安倍政権の暴走を検証した後だけにいささか違和感を禁じえない。

 前半で真っ向から疑問視した官僚の入口選別については廃止して選抜試験の一本化を主張しているのは当然。
 職位の責任・権限規定の不明確さについても、きちんと法律で定めることを提唱している。「職階制の全面的導入に改めて舵を切らなくとも、組織の長の権限と責任を明示することはできよう」と述べ、「所掌事務規程と行政作用法の関係について精査したうえで、所掌事務の実施権限と責任が組織単位の長にあることを法的に明確にすれば済むこと」と確言する。

 同時に本書の文脈で重要なのは公文書管理である。「官僚機構が日々作成している公文書の管理システムの改革が果敢に実行されるべき」なのはいうまでもない。

 公文書について包括的に網をかけたうえで、各省の公文書管理に監督権限をもつ内閣から相対的に独立した行政機関の設置を謳うことには異論はない。具体的なアイデアとして、立憲民主党など野党四党一会派が二〇一八年に衆議院に提出した法案に明記されている「公文書記録管理院」を評価しているのが目を惹く。それは組織形態としては人事院をモデルとした、政権からの高度の独立性を保障するものである。
 さらに「情報公開法・公文書管理法の精神と真逆」の特定秘密保護法の廃止をはっきりと主張している点も特筆すべきだろう。

 行政学の研究者らしい手堅い書きぶりで、官僚制と公文書管理の問題を再検討するうえでは格好のテキストといえそうだ。

by syunpo | 2019-07-03 19:25 | 政治 | Trackback | Comments(0)

市民の力で対抗する〜『安倍晋三が〈日本〉を壊す』

●山口二郎編『安倍晋三が〈日本〉を壊す この国のかたちとは─山口二郎対談集』/青灯社/2016年5月発行

b0072887_09182767.jpg 安倍政権を批判的に検討する対論集はすでにいくつか刊行されているが、本書は政治学者の山口二郎が「抵抗と対抗提案を打ち出す」べく行なった対談の記録である。相手は、内田樹、柳澤協二、水野和夫、山岡淳一郎、鈴木哲夫、外岡秀俊、佐藤優。

 結論的にいえば、どこかで聴いたようなやりとりが多く、新味には欠ける内容というのが正直な感想。その中であえて言及するなら、内田と佐藤の発言が賛否は別にして一味違った趣きで安倍政治に肉薄しているように感じられる。

 内田は相変わらず印象批評的な言説が多いものの、安倍首相の内面の葛藤の欠如を厳しく指弾しているくだりは面白く読んだ。私的野心と公的規範の別がないというのだ。日本社会もそのような指導者を戴くことに抵抗がないようである。「葛藤を持たないことの方が、生存戦略上有利というか、葛藤を持たない方が競争において大きなアドバンテージがあるということが、どこかで集団的に確認されたんでしょう」。

 佐藤の安倍批判もかなり辛辣だが、それよりも昨今引用されることの多い白井聡の永続敗戦論に異議を唱えているのが目を引く。これまでも浅田彰が「敗戦の否認」論に対しては否定的に論評していたように記憶するけれど、佐藤は対米従属論そのものに疑義を呈するのである。外交官として実務に携わっていた立場からすれば一方的に米国に追随していたわけではないということだろう。ただ反証の具体例として挙げているのが日本の宇宙政策で、論拠としてはかなり脆弱な気がするのだが。

 山口は野党の力不足を認めながらも、市民の政治的実力については「楽観できる」と結んでいるのが印象に残った。

by syunpo | 2019-05-17 18:30 | 政治 | Trackback | Comments(0)

政治学者と作家の異色の対論〜『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』

●原武史、三浦しをん『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』/KADOKAWA/2019年2月発行

b0072887_18474207.jpg 天皇制の研究で知られ、同時に「鉄学者」としての一面ももつ原武史が作家の三浦しをんと対話を交わす。天皇制という日本政治の根幹に関わる論題がメインになっているが、全体をとおしてリラックスした雰囲気で話は進む。三浦はもっぱら聞き役に徹して、原の事細かな知見を引き出しながら、随所で巧みに絡んで面白い対談集に仕立てている。

 対話の多くが皇室論に費やされているなかで、生前退位をめぐる日本社会の反応に対して原が違和感を表明している点はやはり傾聴に値する。

「存命中の天皇が主語に使われるトップニュースはにわかに信じがたく、きわめて強い違和感を抱きました」と述べ、当初NHKだけが一元的に情報を独占していた点について「後世、必ず検証されるべき事態」と指摘している。天皇の意向を受ける形で政府が法の改正や制定に着手するのは順番がおかしいというのも憲政上の一つの見識を示すものだろう。

 またそれ以外に印象に残ったのは大正天皇に関するやりとり。健康に恵まれず在位期間が短かかったこともあって言及されることの少ない天皇であるが、原は一時期の自由な行動に関して好意的あるいは同情的に論じている。

 たとえば大正天皇が作った漢詩の材料は「葉山でヨットに乗る、日光で馬に乗るといった感じで、漢詩がまるで夏休みの絵日記のようです」。後年、病気がちで摂政を立てられたという経緯から想像されるのとは少し違った人間像が立ち上がってくる。さらに皇太子時代は全国を積極的に回り、人力車夫や機織りの少女や路傍の子供たちなどにも話しかけていたという。
「天皇になってそういったことが許されなくなったのは、体調悪化の原因になったと思います」と推察するくだりも興味深い。

 三浦の発言で鋭いと思うのは、男系天皇に固執する意見に対して繰り返し疑義を呈している点だ。私自身も女系天皇を認めない理由について説得力ある根拠を示している見解を読んだ覚えがない。

 また原の「鉄学者」としての一面も本書からは濃厚に立ち上がってくる。そのなかで鉄道の駅が社会の変化を露骨に反映して変化していることに言及している点は特記しておきたい。JR各線の主要な駅では大都市の富裕層しか入れないスペースを作ることが進んでいるらしいのだが、原それに対しては批判的なのはいうまでもない。「鉄道が格差を可視化する装置になっていき、駅が公共空間としての性質を失っていく」のは鉄学者ならずとも由々しき事態だと思う。

 このほか『シン・ゴジラ』を鉄学的に論評する対話もおもしろいし、二人が揃って鬼怒川温泉に出かけて特急「スペーシアきぬがわ」で対話を交わすという趣向も愉しい。
 三浦の愛読者にはどのように読まれるのかはよくわからないが、対談としては異色の組合せでうまい具合に化学反応が生じているように思われる。その過程で原のオタクぶりが単著以上に浮き彫りになるという本である。

by syunpo | 2019-05-04 20:02 | 政治 | Trackback | Comments(0)

主権者の作法を身につけるために〜『ハッキリ言わせていただきます!』

●前川喜平、谷口真由美著『ハッキリ言わせていただきます! 黙って見過ごすわけにはいかない日本の問題』/集英社/2019年2月発行

b0072887_18401709.jpg 前川喜平は文科事務次官を退官後はすっかりマスコミの寵児になった。文科省のこれまでの政策と現在の前川の発言に齟齬を感じることもなくはないのだが、退官後の発言だけを読めば真っ当なものが多いと思う。本書は全日本おばちゃん党代表代行で大阪国際大学准教授の谷口真由美との対談集である。

 現在の教育全般に対する批判や注文、ラグビーにおけるフェアネスの精神、前川の官僚時代の挿話、〈桃太郎〉の問題点、憲法と教育基本法……などなど話題は多岐にわたる。全編をとおして社会や公権力に対する批判精神の重要性を説いているのが本書の肝といえるだろう。

 谷口の専門が国際人権法ということで、当然ながら人権問題や教育にまつわる権利の問題には熱がこもる。前川の憲法論も教育を重視したもので、それはそれで傾聴に値するものだ。

 憲法で平等権と言ったら普通は憲法第14条のことを考えますけど、私は教育に関する平等権は、憲法第14条の平等よりも広いと思っているんです。(p149~150)

 私は、本当に主権者が主権者たり得るためには、知る権利だけではなくて、「学ぶ権利」がちゃんと保障されていないといけないと考えています。学ぶということがいかに大事かということを最近、痛切に感じているんですね。(p207)

 対する谷口も親しみやすい関西弁で噛み砕いた話しぶりで前川の話にうまく絡んでいく。「主権者の作法」という表現を使いながら主権者の体たらくに鞭打つ言葉が印象的だ。

 ……主権者の作法があると思うんですね。主権者として同じフィールドで議論しなきゃいけないことがたくさんあるのに、大半は「難しいことは分からへん」と平気で言う。難しいことが分からへんことをそんな自慢気に言うなよ。反知性とか非知性って言われて何年か経ちますけど、知らんことがそんな偉いですか。(p207)

 前川が高校時代にラグビーをやっていた話をすれば、谷口も子どもの頃、両親の仕事の関係で花園ラグビー場のメインスタンドの下にあった近鉄の寮に住んでいたと応じる。ラグビー選手と「楽しく暮らしていた」時期があったのだ。そうしたことから二人のラグビー談義に花が咲くのも愉しい。谷口が引く「君たちはなぜ、ラグビーをするのか。戦争をしないためだ」という大西鐵之佑の言葉もおもしろい。

 これからの道徳教育や公共教育に二人が強い違和感を表明するくだりも本書の読みどころの一つ。ありていにいえば国家による思想統制や管理が露骨に目指されているのだ。前川の発言は教科書や学習指導要領の内容を踏まえた具体的なものなので、危機感の表明にも説得力が伴っている。今使われている教科書には「上の言うことを聞け」「無制限に働くのはいいことだ」というような話ばかりが掲載されているのだという。

 さらに驚くことには、社会科の学習指導要領には、すでに天皇を敬愛すると書いてあることだ。象徴天皇に対して国家が「敬愛」の対象とする方向で教育に踏み込むのは明らかに憲法理念や戦後民主主義とは相容れない。

「道徳」が最初に導入されたのは、一九五八年の岸内閣の時代らしい。岸と安倍という二人の政治家が道徳教育による国民統制を志向する──いかにもわかりやすい戦後史の系譜の一つだが、前川によれば「岸内閣が『道徳』を最初に導入したときの学習指導要領のほうが今よりもまだマシ」だという。岸政権下では「自分たちで決めた決まりを守る」と書いてあるからだ。

 自分たちで決めた決まりを守る。それが都合悪ければもう一遍、また決め直すという話がビルトインされているわけですから、これは自治とか民主主義につながる考え方ですよね。ところが、今の学習指導要領は「決まりを進んで守る」に変わってしまった。その決まりができた経緯とか、変えられる力があるということはまったく不問。そこはなくなってしまった。(p235)

 上野千鶴子が今年度の東京大学入学式で行なった(東大への批判を含む)祝辞に対して揶揄しているツイートを読むと大半が陳腐な言葉遣いの低劣なもので、上野批判が批判のレベルに達していない。いかにこの社会の人びとが批判の作法を身につけていないかを痛感する。長きにわたる自民党的な教育行政は着々と成果を上げてきているのだ。この流れに対抗するのは本当に難事だと思わずにはいられない。

 その状況をみるにつけ日本では「民主主義を自分たちで勝ち取っていない」から云々というやりとりが前半に何度も出てくるのは理解できなくもない。が、同時にその手の常套句はもう聞き飽きたという思いも拭えない。後続世代には歴史的条件を書き換える術はないのだから、そんな繰り言を重ねても詮無きこと。いかなる歴史的経緯があろうとなかろうと民主主義の看板を掲げていく以上は自分たちで民主主義を鍛えていく以外にないではないか、と強く思う。

by syunpo | 2019-04-15 19:22 | 政治 | Trackback | Comments(0)

〈都市官僚制の論理〉と〈納税者の論理〉の間で〜『大阪』

●砂原庸介著『大阪 大都市は国家を超えるか』/中央公論新社/2012年11月発行

b0072887_183849100.jpg 大阪維新の会によって提案された大阪都構想は住民投票によって否決されたが、それでも維新側の執拗な問題提起によって政治課題として生き続けているらしい。いったん決着した問題を同じ維新系首長のもとで議論し続けることは政治エネルギーと予算の浪費であると私は考える。

 ただし大阪都構想に込められた問題提起には、純政策論的には真剣に検討に値する課題が含まれていることも事実。政治史を振り返るとそれなりに議論の蓄積がある課題であることがよくわかる。古くて新しい問題なのだ。大阪都構想は大都市政策を考える場合の象徴的なアジェンダともいえるかもしれない。本書は大阪というフィルターを通して、日本における大都市の問題を考えるものである。

 まず戦前から終戦直後にかけての大都市をめぐる政治をみることによって、本書では現代にまで通じる三つの対立軸を析出する。

 選挙によって選ばれた代表を通じて個別的な利益の実現を追求する立場と、都市全体の収益を上げることを追求する立場の対立。

 東京都を首都として特別なものとみなす考え方と、東京以外の都市を含めた大都市というグループを重視する考え方の対立。

 大都市が自らを中心とした都市計画を構想すべきという考え方と、大都市といえども全国的な計画のなかに位置づけられるべきであるとする考え方の対立。

 大阪は住宅問題など都市問題が非常に先鋭的に現れていた課題先進地域であった。戦後、都市問題の解決への期待から社会党を中心とした革新勢力が台頭し、一時は戦前の六代都市をすべて影響下におくが、すぐに失速した。その後は大都市における成長の果実を農村への再分配に回す自民党システムが確立するなかで、大都市はその自律性を封印される。

 高度経済成長期には、大阪の範囲が広がっていたにもかかわらず大阪市域の大きな拡張とそれに併せて大阪府と周辺自治体との合併が提案されたが、関係自治体の賛成を得られず挫折する。それ以降、府県と政令指定都市という関係は固定化されていく。

 一九九〇年代以降の政治や社会の変化を受けて、あらためて大都市への注目が集まる環境が整ってきた。大阪維新の会はその転換期に鮮烈に登場する。そうして大阪府と大阪市の再編に取り組むことになる。

 大阪都構想では、あらためて二つの対立が内包されているとの砂原の指摘は鋭い。「大都市としての成長を追求する」立場と「特別区への分権や民営化によって事業ごとの効率性を求める」立場である。本書では前者を「都市官僚制の論理」、後者を「納税者の論理」と名づけている。
 その矛盾をいかに克服または解消すべきか。統治システム論としては以下のような提起がなされている。

 都市官僚制を率いる知事・市長が一元的に自治体の公共性を引き受けるのではなく、地方議会での多元的な政党間の競争が公共性を引き受ける都市の政党政治を創出することである。そのために、利益誘導や個人のカリスマに頼らずに、有権者の期待に根ざした政党を育成するしくみが、都市のガバナンスを考える上で重要となるのである。(p215)

 政策として「都市官僚制の論理」と「納税者の論理」のどちらを重視すべきか、あるいはいかにバランスをとるかは難しい問題である。本書ではその課題にはっきりとは応えていないが、両者のバランスを考慮するにあたって国家単位での統合との関係を整理する必要を説いているのは無難なまとめ方といえるかもしれない。
by syunpo | 2019-03-26 18:42 | 政治 | Trackback | Comments(0)

弾けた文体の辛口記事〜『仕方ない帝国』

●高橋純子著『仕方ない帝国』/河出書房新社/2017年10月発行

b0072887_9463520.jpg 著者の執筆当時の肩書は朝日新聞の政治部次長。肩書とのギャップを感じさせる今風のカジュアルな弾けた文体がひとつの持ち味といえそうだ。もっとも内容以前にそこが非難の的になったりもしているようだが。

 論題はさまざまだが、あえてキーワードを一つピックアップするなら「自由」ということになるだろうか。自由をめぐって自由を求めて思考し行動する著者のすがたが本書の随所ににじみ出ているように思う。自由の観点からすれば、安倍政権の強権的政治も、上司のマウンティングも、世間の掟も、おしなべて批判や懐疑の対象となる。もちろんその基本姿勢に異存はない。

 後半に収録されているインタビューは人選に明確なコンセプトが感じられず、良くも悪しくも多方向からオピニオンを汲み取ってくる新聞の性格を反映している。白井聡や片山杜秀らの発言は彼らの著作を読んでいる者にはほとんど新味はないが、そのなかで特定秘密保護法案に賛同した長谷部恭男との丁々発止のやりとりは読み物としては面白い。

 ただそれにしても、こうして本になったものを読んでみると、紙面で読んだ時と比べてなんだかインパクトが薄まったように感じられるのは何故だろう。紙面では他のありきたりな文体で書かれた記事の中で、彼女独特の文体が異彩を放っているように思えたものだ。しかしこうして一冊の書籍となると、比較の対象となるのは彼女の同僚記者の退屈な文章ではなく、世界に広がるあまたの本となる。このようなスタイルの文章なら、あのコラムニスト、この作家の方が……となってしまうのは避けがたい心理なのか。読者というのはまことに勝手な存在なのである。
by syunpo | 2018-11-18 09:47 | 政治 | Trackback | Comments(0)

現代日本の最大のリスク〜『アベノミクスによろしく』

●明石順平著『アベノミクスによろしく』/集英社インターナショナル/2017年10月発行

b0072887_18222743.jpg アベノミクスは大失敗に終わっている。現代日本の最大のリスクはアベノミクス。本書のメッセージは実に明快だ。

 アベノミクスの三本の矢とは「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」である。本書ではとくに第一の矢である金融緩和政策を中心に論じている。大胆な金融政策とは「日銀が民間銀行にたくさんお金を供給してデフレを脱却する」というものだ。

 その結果はどうであったか。一口でいえば金融緩和は円安を引き起こし、それが増税との合わせ技で物価を急上昇させ、消費を異常に冷え込ませた。アベノミクス以降の実質GDPの成長率は、三年かけても2%にすら届かず、民主党政権時代の約三分の一しか伸ばせなかった。

 さらに重大な問題がある。二〇一六年に内閣府はGDPの算出方法を変更し、それに伴い、一九九四年以降のGDPをすべて改定して公表した。この「改定」がどうにもいかがわしいというのだ。

 改定の理由は「2008SNA対応によるもの」と「その他」となっている。GDPの算出について準拠する国際基準が「1993SNA」から「2008SNA」というものに変更された。以前の基準との違いは、研究開発費などが加わることである。問題は「その他」のかさ上げ額がアベノミクス以降だけが桁違いに突出している点だ。この改定によって、アベノミクス失敗を象徴する五つの現象のうち四つが消失し、二〇一六年度の名目GDPは史上最高額を記録したことになった。

 明石は、以上の事実から「『2008SNA対応』を隠れ蓑にして、それと全然関係ない『その他』の部分でかさ上げ額を調整し、歴史の書き換えに等しい改定がされた疑いがある」と述べている。

 とはいうものの、部分的にはアベノミクスの成果を指摘する経済学者は少なからずいる。安倍政権に批判的な論客もそのなかに含まれる。たとえばよく言われるのは雇用改善である。

 しかし、それは生産年齢人口の減少、医療・福祉分野の大幅な需要拡大、雇用構造の変化によるもので、民主党政権時代から続いていた傾向だ。

 また正規雇用者の増加についてはどうか。正規社員の男女別比率をみると、女性の正規社員が増えていることがわかる。これは労働契約法の改正が影響している。非正規でも五年を超えて雇った場合は、その社員から申込みがあれば、正社員として雇うことが義務づけられた。ちなみにその法改正が公布されたのは二〇一二年、民主党政権の時代である。アベノミクスとは関係ない。

 円安の恩恵を一番受けた製造業ですら実質賃金は大きく下落した。賃上げ2%を達成できたのは、全労働者のわずか5%程度。労働組合組織率の低いことも影響して、そもそも日本は賃金が上がりにくい構造になっている。

「多くの場合、アベノミクスの前から改善傾向が続いている数字について、アベノミクスの『成果』とされてしまっている」ことに明石は注意を促すのだ。同時に「アベノミクスのせいで悪化したと言われている数字についても、同様に鵜呑みにしてはいけない」ことを指摘しているのは公正な態度というべきだろう。

 増税や財政出動に関しては詳しく述べていないのだが、やや引っかかる記述も見受けられる。たとえば以下のような発言だ。

 ……長い目で見ると、借金が返せない状態にならないように、増税をして、いろんな支出を削らないといけない。だけど、それをやると選挙で負けちゃう。(p193)

 これを裏返せば、増税と緊縮財政については本書では推進する立場をとるということになる。増税はその中味が重要であるからこれだけでは何ともいえないが、法人税の引き上げではなく、消費増税を含むようなものであるならば批判は多いだろう。また緊縮財政に関しても、市場全体がさらに冷え込み、税収を減少させ、かえって国の借金を膨らませるという意見は少なくない。

 アベノミクスを全面否定するのは良いとしても、それに替わる経済政策が間違っていたなら元も子もない。アベノミクスを葬り去った後の経済政策については、さらなる議論が必要だろう。
by syunpo | 2018-10-07 18:32 | 政治 | Trackback | Comments(0)

歪んだ「政治主導」の矢面に立つとき〜『面従腹背』

●前川喜平著『面従腹背』/毎日新聞出版/2018年6月発行

b0072887_941299.jpg 表面は服従するように見せかけて、内心では反抗すること。──「面従腹背」の広辞苑における語釈である。前川喜平がマスコミに登場するようになってから、この言葉を盛んに口にするのを見聞して、当初は少し違和感をおぼえたものだ。

 日本の政治の問題点として、かつて「官僚内閣制」による弊害が盛んに強調されたことがあった。政治決定の実質を握っているのは官僚であって、政治家は彼らの手のひらで踊らされているだけだという認識を端的に表現した用語である。「官僚内閣制」に不満を感じる国民の多くは、民主党や自民党の唱える「政治主導」に大いに期待をかけた。その一つの結果として、今日のモリカケ問題や公文書改竄に象徴されるような安倍政権の暴走に歯止めが効かない状況がもたらされた。「政治主導」といえば聞こえは良いが、実態は独裁国家と変わらぬ縁故主義の蔓延である。

 安倍政権の実情が明らかになってくるにつれて、前川のいう「面従腹背」にも一理あると思えるようになってきた。実際、本書に記された前川の「面従腹背」的な行政の具体例には賛同できる点も多い。

 たとえば、道徳の教科化の問題。これはいうまでもなく「国家に立脚する教育改革の色彩を色濃く持つ」政策である。前川はもちろんそれに反対の立場であった。政治がそれを決めた以上それに従うほかないのだが、文科省は「道徳教育を学習者である子どもの主体性を重視する方向に転換する姿勢」を打ち出している。二〇一七年六月に公表した学習指導要領解説道徳編では「道徳科の授業では、特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性を持たずに言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるもの」と言い切った。安倍政権がやろうとしている道徳教育の枠組みのなかで「考え、議論する道徳」のために様々な工夫をするよう促しているのである。

 また一般に審議会は民主的な政治決定を装うための形式的なものと考えられているが、前川によれば文科省における教育に関する審議会は「政治介入へのバッファー(緩衝材)」になっているという指摘も興味深い。中央教育審議会では、委員の学識や経験に基づく発言をかなり丁寧に拾い上げている。「政治主導で提起された政策課題についても、審議会で検討することによって軌道修正が図られることが多い」という。

 末尾には、毎日新聞の倉重篤郎と文科省の先輩・寺脇研との座談記録も収録されていて、こちらもなかなかおもしろい。とりわけ加計学園獣医学部認可をめぐる政権内部の確執を前川が解説している舞台裏の挿話では閣内が必ずしも一枚岩でなかったことが明らかにされている。
 当初、安倍首相が推進、獣医師会をバックにした麻生が反対、石破が慎重……と均衡していた。衆院福岡六区補選で獣医師会=麻生支持候補が安倍支持候補に惨敗して、流れが一気に安倍首相サイドに傾いたらしい。

「面従腹背」は前川の現職時代の座右の銘だが、退官後のそれは「眼横鼻直」だという。鎌倉時代に宋から曹洞宗を伝えた道元禅師の言葉で、「眼は二つ横に並んでいる。鼻は縦についている」ことから、当たり前のこと、ありのままでいいということを意味する。

 官僚と国民から選ばれた政治家との関係はいかにあるべきか。近代民主政の根本に関わる古くて新しい重要課題だが、本書はそれを再考するための生きた教材となるものだろう。
by syunpo | 2018-09-01 09:47 | 政治 | Trackback | Comments(0)

民主主義の欠点を補完する制度!?〜『立憲君主制の現在』

●君塚直隆著『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』/新潮社/2018年2月発行

b0072887_18482855.jpg 二一世紀の世界では「時代遅れ」とみなされることの多い君主制。それでも英国をはじめ北欧やベネルクス諸国では維持されている。君主制はかつての絶対君主制から立憲君主制に移行することによって今日まで生き延びてきた。本書ではその歴史を検証する。その作業は日本の象徴天皇制を再考するうえで多くの示唆を与えてくれるものであると著者はいう。

 英国の君主制は日本の象徴天皇制のモデルとなった。憲法学者の高柳賢三は、戦後の日本国憲法で天皇を「象徴」と表現する際に、GHQの高官たちが念頭に置いたのが、「英国王は英コモンウェルズの成員の自由な結合の象徴」であると規定した、一九三一年の「ウェストミンスタ憲章」の前文であったと指摘している。

 英国における立憲君主制は時代や状況に柔軟に対応し、その時々の国民の要求にも応えてきた。そのことで国民の支持を得てきたといえる。その意味では日本の天皇制の始まりから今日まで、つねに良きモデルとなってきたものといえるだろう。

 本書では、英国のほか、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧諸国、オランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス三国、さらにはタイやブルネイ、中東諸国における君主制の歴史を概観している。憲法学者のカール・レーヴェンシュタインや思想家のウォルター・バジョットらの著作を参照した考察は、欧州の君主制理解をベースにしたものといえるだろう。

 北欧では、質実剛健な君主たちが歴史を彩ってきた。女性参政権や多党制の実現など「最先端をいく君主制」を確立してきた歴史からは日本にとっても学ぶ点が多いかもしれない。

 ベネルクス三国では、さまざまな歴史的背景もあって政党政治の調整役として君主が実質的な役割を果たしている。そして注目すべきは「生前退位」が慣例化していることだ。

 アジアに残る君主制は、欧州のそれに比べるとかなり見劣りする。とりわけ中東の湾岸諸国における君主制は「王朝君主制」と呼ばれる寡頭政で、石油輸出による潤沢な予算があってこそ成立するもの。政体としてはかなり危ういものと感じる。

 海外の君主制を振り返った後に、日本の象徴天皇制が検討に付される。戦後七〇年以上に及ぶ象徴天皇制は「国事行為」「公的行為」「私的行為」を三本柱として「国民生活に安定をもたらしてきた」と総括しているのだが、もっぱら天皇制のポジティブな面にのみ光をあてた記述には違和感も残る。
「日本が、太平洋戦争の敗戦という未曾有の困難を乗り越えて、立憲君主制の下で安定した繁栄を遂げてこられたのは、昭和天皇の『カリスマ性』に拠るところが大きかった」というのは本当だろうか。

 たとえば、憲法施行直後、昭和天皇は米国に沖縄を基地として使用するようメッセージを発したことはよく知られている。そのメッセージ内容もひどいものであるうえに、明らかに「国事行為」の矩をこえた政治行為である。沖縄の半永久的な軍事基地化の決定的な契機になったともいえるわけで、そうした史実をまったく無視して、天皇の「カリスマ性」を強調し君主制日本の「安定した繁栄」を寿ぐのはいくらなんでも研究者としては偏向した態度ではないか。

 ことほどさように、全体をとおして君主制に対する著者のシンパシーが前面に出た記述で、君主制擁護の演説ならともかくも、政治学の書物としてはいささかバランスを欠いているとの読後感を拭えなかった。
by syunpo | 2018-08-22 18:55 | 政治 | Trackback | Comments(0)

社会民主主義で政治の回復を〜『嘘に支配される日本』

●中野晃一、福島みずほ著『嘘に支配される日本』/岩波書店/2018年7月発行

b0072887_18323067.jpg 政治学者の中野晃一と社民党参議院議員・福島みずほの対談集。
 一連の公文書改竄や国会での虚偽答弁で日本の政治は嘘で塗り固められた惨憺たる様相を呈している。その割には安倍政権の支持率は思ったほど落ちない。長期腐敗政権によるやりたい放題の悪政が堂々とまかり通っている摩訶不思議な時勢である。

 安倍政権がやっているのは政治ではなく支配だと中野はいう。政治を回復するためにはどうすればよいのだろうか。

 キーワードは社会民主主義。日本の社会民主党が掲げる社民主義の理念とは、公式サイトによれば「平和・自由・平等・共生」の四つが中心となる。ただし他の主要政党でもこれらの理念を否定するところはないだろう。

 本書ではそれらに加えて、次のようなフレーズでも社民主義をアピールしている。すなわち「社会民主主義にはフェミニズムが入っている」「みんなが安心して望めば子どもを生み育て、安心して働き続け、安心して年を取ることができる社会」「構造的な抑圧を社会、政治、経済、から取り除いていくことが社会民主主義の目標」「公平な税制の実現と労働法制の規制強化が大切」……。

 率直にいって一般的なスローガンが断片的に提示されているだけという印象が拭い難い。ついでにいえば、「政治」ならぬ「支配」を受け入れているのがほかならぬ国民ということも忘れてはいけないだろう。

 というわけで二人の主張にとくに異論はないのだが、積極的に人に薦めたくなるような内容でもない。そのなかでは、中野が政治における説得の論法として、カント主義的に絶対的な価値に訴える方法と、功利主義的な打ち出し方を指摘している点は印象に残った。その観点から、社民主義の目玉政策をさらに具体的に打ち出していたなら、もっとインパクトは増したかもしれない。
by syunpo | 2018-08-17 18:35 | 政治 | Trackback | Comments(0)