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ブックラバー宣言

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カテゴリ:政治( 114 )

二つの現場から政府の虚偽を暴いた記録〜『日報隠蔽』

●布施祐仁、三浦英之著『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』/集英社/2018年2月発行

b0072887_18175436.jpg 二〇一一年、南スーダンにPKO(国連平和維持活動)の一環として自衛隊の派遣が始まった。二〇一六年七月、現地で激しい戦闘が起こっている様子がインターネット上で伝えられる。自衛隊の国外派遣には様々な前提条件が課せられているが、その条件が崩れているのではないか。そのような声が沸き起こったのは当然だろう。

 フリージャーナリストの布施祐仁は防衛省に対して情報開示請求を開始する。開示された文書には、はっきりと「戦争」を感じさせる記述があった。異常を感じた布施は、さらに戦闘発生以降、現地の派遣部隊とそれを指揮する日本の中央即応集団司令部との間でやり取りしたすべての文書について開示請求した。二〇一六年七月のことである。
 しかし二カ月後に開示された文書はごくわずかなもので、およそ現地の状況を詳しく把握できるようなものではなかった。この時点で、防衛省・自衛隊内部で文書の隠蔽が始まっていたのだ──。

 本書は、南スーダンにおける自衛隊の活動に関して国内で粘り強く取材を続けてきた布施と朝日新聞アフリカ特派員として現地を何度も見てきた三浦英之のコラボレーションによる記録である。

 三浦の現地取材に基づく報告を読むと、かなり生々しい戦闘が自衛隊駐屯地の周囲でも発生していたことがわかる。政府軍と反政府軍の対立は激しく、一時は自衛隊宿営地に隣接するビルが反政府軍に占拠されることもあったらしい。反政府軍のリーダーであるマシャール副大統領へのインタビューも複数回行なっていて、その具体的な描写もなかなかスリリングである。
 混乱の只中にあった南スーダンでは、政府軍が「正義の味方」というわけでもなく、彼らによる暴行や略奪の証言がいくつも出てくる。政府軍と国連PKO部隊が交戦することもあった。まぎれもなくそこは戦地だったのだ。

 自衛隊はそのような状況のなかで毎日、駐屯地での状況を記録していた。「日報」である。布施は日報の存在を知ると、当然ながらその開示請求も行なった。だが、日報はまったく開示されなかった。

「本件開示請求に係る行政文書について存否を確認した結果、既に廃棄しており、保有していなかったことから、文書不存在につき不開示としました」というのが不開示の理由である。

 二〇一六年一一月には、安倍内閣は南スーダンの自衛隊PKOに「駆け付け警護」「宿営地の共同防護」などの新任務を付与した部隊のを派遣した。同年に施行された安保法制によって可能になった新たな任務をさっそく南スーダンのPKO部隊に与えたのである。
 現地の治安が悪化したとなれば、新任務どころか自衛隊の撤退も検討しなければならないはずなのだが、政府はむしろそれに逆行するかのように自衛隊に新たな役割を負わせて「実績」を作ろうと考えたらしい。現地の実態を生々しく記録した日報がオープンになれば、政府の目論見を実現することは困難になるだろう。日報を隠蔽する動機は政府側にあきらかに存在した。

 国会では現地の状況を糊塗すべく、稲田美防衛大臣は日本独自の定義を用いて現地の状況は「武力紛争」にはあたらない旨の答弁を繰り返し行なっていた。日報は廃棄されたとの説明も維持していた。

 しかし、布施が入手した文書の内容と日報廃棄という説明にはどうしても矛盾が生じる。安倍首相の国会答弁も「日報を廃棄したことを是とするのか非とするのか」という野党の質問にきちんと答えることはできていなかった。

 あるものをないというようなごまかしをいつまでも続けることはやはりできなかった。防衛省は、まず職員の一人が個人的に保存していたという説明で日報の存在を認め、その後、その説明は二転三転して、結局は組織として日報を保存していたことを認めざるをえなくなったのである。

 日報の存在が明らかになると、当初の隠蔽工作がどのレベルの指示で行なわれたのかが問題となる。が、事実は有耶無耶のまま、最終的には稲田防衛大臣、黒江防衛事務次官、岡部陸幕長の辞任ということで一応の結末をみるに至る。この間、大臣と防衛庁・自衛隊との間でさまざまな思惑が働いて、自衛隊側から情報のリークがいくつか行なわれた。当然、文民統制の観点から疑義の残る振る舞いであるが、布施は一連の隠蔽工作を次のように総括している。

 陸自内部からと思われる情報流出が続いたのはシビリアンコントロールの観点から問題ではあったが、今回の事件は、制服組が暴走したというよりシビリアン(文民)である背広組が官邸を守ろうとするが余り迷走したというのが本質だと思う。(p257)

 また、三浦は南スーダンと原発問題の共通点に触れて「PKO派遣にしても原発にしても、すべては極めて高度な政治的判断で進められているのに、政府は国民が判断するのに必要な情報をこれまでずっとひた隠しにしてきたという共通項があります」と指摘する。

 本書は、東京と南スーダンを映画のカットバックのように編む込んだ構成で、事実を複層的に浮かび上がらせた労作である。今後、南スーダンにおける自衛隊のPKO活動を検証する際の必読書になることは間違いない。
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by syunpo | 2018-06-15 18:36 | 政治 | Comments(0)

永続敗戦のその先へ〜『国体論』

●白井聡著『国体論 菊と星条旗』/集英社/2018年4月発行

b0072887_20333024.jpg 明治維新から現代に至るまでの日本近代史を「国体の歴史」としてとらえる。本書のコンセプトは明快である。戦前の国体は、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」として規定しうる。戦後のそれは、対米従属を旨とする国家体制とみなすことができるのではないか。一九四五年の敗戦に伴ってもたらされた社会改革によって「国体」は表面的には廃絶されたにもかかわらず、実は再編されたかたちで生き残った──というのが白井の見立てである。

 もともと戦前戦中に使われた「国体」にしても曖昧模糊とした概念であり、人によってその指し示す内容は微妙に異なるだろう。とはいえ白井の認識に従えば「いずれの時代にあっても『国体』が国民の政治的主体化を阻害する」ものとして捉えうることは重要である。

 だとすれば、これからの日本社会が正常な政治的主体として生きていくためには「国体護持の政治神学」を徹底的に解体するほかないだろう。そのためには国体の構造を可視化し、その実態を見極めることから始めるしかない。ゆえに本書の記述の大半はその作業に費やされる。その際、戦後の国体のありようは戦前戦中の国体からアナロジカルに描出されていくところにとりわけ白井の才気が発揮されているように思われる。天皇が日本人にとっての「憧れの中心」だった時代から「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が「憧れの中心」となった戦後社会へ、というワケである。

 日本がポツダム宣言を受諾するにあたって「国体護持」が最優先課題とされたことはよく知られている。その交渉に際しては、当然ながら「国体」なる概念の客観化が迫られた。公式的な定義は「天皇ノ国家統治ノ大権」とされた。

 当然ながら、戦後は新憲法によって主権者が変更されたのだから、国体は変更されたと考えるのが一般的であった。それに対して長尾龍一は国家統治の権限はGHQに隷属する以上、主権の所在をめぐる国体護持論争は不条理な論争との認識を示した。いうまでもなく白井の考察もそれに即したものである。ただし「本当の主権の所在」は公然と論じられることはなかった。GHQの占領時代が終了しても事情は本質的に変わらなかった。白井のいう永続敗戦レジームを支えているのは、そのような欺瞞的な態度である。

 いずれにせよ、天皇制を維持することは米国側が早い段階から決めていたことである。象徴天皇制とはとりもなおさず「大枠としての対米従属構造の一部を成すものとして設計されたものだった」。

 ところで日本人が対米従属構造を受け入れるにあたっては、ひとつの物語が必要だった。それは「天皇を理解し敬意を持ったアメリカ」という観念である。白井はその観念にこそ、日本の対米従属の特殊性の原点を見出す。

 対米従属国家は無数に存在するが、「アメリカは我国を愛してくれているから従属するのだ(だからこれは別に従属ではない)」などという観念を抱きながら従属している国・国民など、ただのひとつもあるまい。(p127~128)

 戦後の国体は具体的には日米安全保障条約とそれに付随する日米地位協定によって固定化された。その文脈で重要なのは砂川事件判決である。一審では「日米安全保障条約は憲法違反である」との判断がくだされる。伊達判決といわれるものである。しかし最高裁は伊達判決を完全に否定し、統治行為論をもって「違憲かどうかを司法が判断することはできない」と主張した。注目すべきは、この判決が出される過程で米国側が最高裁長官にも圧力をかけたという事実である。
 これにより日本の法秩序は、長谷川正安のいう日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。

 かくして、ポツダム宣言受諾から占領、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約を通じて、主権の放棄と引き換えに、国体護持が得られたのである。もっとも、日本人の主観において国体が護持されたにすぎないのだが。

 いうまでもないことだが、東西冷戦が終結した現代では対米従属レジームはその歴史的意義を失った。本来ならば日本がそうした構造に執着する理由はないはずである。しかし安倍政権はむしろ愚直にもその強化に務めている。存在根拠を失ってなお生き延びるところに「国体」の「国体」たる所以があると白井は説く。

 二〇一六年八月の今上天皇の「お言葉」は、本書にあってはそのような戦後の国体の崩壊過程における危機という文脈で解釈される。端的にいって、それは「天皇による天皇制批判」として読むことも可能だという。

「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。(p338)

 ただ、そのような解釈は天皇の言動に政治性を読み込むことであり、ある種の霊的権威を認めることでもあるだろう。白井はそのことを否定しない。「かかる解釈をあえて公表する最大の動機は、今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意である」とさえいう。

 天皇の「お言葉」がもつ潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である」という結びの言葉は簡潔だが、本書の読者には、それ以上の処方的な提題はむしろ蛇足というべきかもしれない。

『永続敗戦論』から『国体論』へ──。日本政治に関する白井の考察は本書によって新たなステージに入ったといえる。むろん「国体」概念をもって近代日本を串刺しにする見方は必ずしも白井の創見というわけではない。「天皇にとって安保体制こそが戦後の『国体』として位置づけられたはずなのである」との認識を示したのは豊下楢彦だった。また戦後の文化全般における米国のプレゼンスの強さについては、吉見俊哉の著作が参照されている。それにしても、戦後死語化したと考えられてきた国体なる用語をもって日本近代の奇態を照らし出した本書の意義はいくら強調してもしすぎることはないだろう。
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by syunpo | 2018-05-30 20:55 | 政治 | Comments(0)

国民を監視する公権力を監視する必要性〜『スノーデン 日本への警告』

●エドワード・スノーデン、青木理、井桁大介、金昌浩、ベン・ワイズナー、マリコ・ヒロセ、宮下紘著『スノーデン 日本への警告』/集英社/2017年4月発行

b0072887_21191948.jpg アメリカ中央情報局(CIA)、アメリカ国家安全保障局(NSA)などの元情報局員だったエドワード・スノーデン。二〇一三年に米国政府が無差別監視をしている実態をリークし、世界を震え上がらせたことは未だ記憶に新しい。その後はロシアに滞在し、二〇一四年には米国のNPO「報道の自由基金」理事に就任した。

 本書は二〇一六年にスノーデンの来日にあわせ東京大学で行なわれた公益社団法人自由人権協会七〇周年プレシンポジウムでの議論をベースに、詳細な注釈と追加取材を付して書籍化したものである。

 スノーデンの発言にとくに新味は感じられないものの、民主主義の理念を強調する姿勢には大いに賛同できる。「……法律に反しても政府の関係者であれば免責されるということになれば、自由社会にとって回復できない打撃になるでしょう」との発言はなるほど今の日本にふさわしい警句といえよう。

 それ以外のパネラーの発言にも少なからず学ぶべき点があった。とりわけ複数のパネラーがメディアの重要性を力説している点は凡庸といえば凡庸かもしれないが、スノーデン・リークがジャーナリストの協力なくしてはありえなかったこを考えればやはり重みを感じさせる忠言といえる。

 米国で行なわれていた監視は、主に軍事的な組織を対象とする従来型のターゲット・サーベイランスに加え、網羅的なマス・サーベイランスであることがわかっている。海外の政治家たちの通信を盗聴していたことも暴露された。通信情報技術の進歩が昔に比べ低コストで簡単にそうした監視を行なうことを可能ならしめたのだ。とはいえ、そうした行為が基本的人権だけでなく他の国家主権とも真正面から衝突するものであることはいうまでもない。

 本書を読んで一番に痛感したことは、国家権力による監視に対して先進国のなかでは日本が最も抵抗力が弱いのではないか、しかもそのことについて国民的な危機感がきわめて希薄ではないか、ということである。

 米国ではスノーデン・リークを契機に、司法が働き、いくつかの点で改善がすすんだという。当時のオバマ大統領は当初はスノーデンに対して批判的な言明を発したものの、その後は発言内容に変化がみられたことは注目に値する。

 オバマ政権下で独立委員会(PCLOB)が発足し、マス・サーベイランス・プログラムの検証を行ない、プログラムは違法であって終わらせるべきだという結論を出した。さらに、十年近くにわたり全米国民と世界中の通信情報を法的手続きを経ずに収集しながら、ひとつのテロをも防止できなかったことも報告している。

 EUでは、包括的なマス・サーベイランスを可能にするデータ保持についての指針を撤回した。すなわち米国との間で情報の移転を認めるために結んだセーフハーバー協定が基本的人権を侵害すると判断し、無効化を宣言したのである。

 ひるがえって日本の対応は遅れていると言わざるをえない。日本でも米国政府による盗聴が行なわれていたことが明らかになったが、抗議は例によって形だけのものだった。また、日本国内においても公権力が国民を監視することに対する監視の制度が形骸化し、それを求める国民の声も弱いものである。

 これに関して、青木理は一例として公安委員会制度の充実化を提案しているのは現実的な提案かもしれない。ただし議論が深められる前に別の話題に移ってしまったのは残念。

 さらにいえば、日本では民間企業や大学が公権力の監視行動に対して安易に協力しているのも問題。青木によれば、警視庁第三課によるムスリム監視に関して、都内の複数の大学が自分の学校に留学にきているムスリムのデータを提供したことが明らかになっている。

 日本における警察性善説にたった治安維持・捜査当局に対する無批判な協力ぶりは、それ自体が一つの議論のテーマとなるべきものではないだろうか。国家権力が国民を監視するにはハイテクノロジーの進展が多大な貢献を果たしていることは本書でもたびたび言及されているが、日本社会では技術以前の問題が大きく横たわっているように思われる。
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by syunpo | 2018-04-09 21:23 | 政治 | Comments(0)

近代国家における立法の重要性〜『日本一やさしい「政治の教科書」できました。』

●木村草太、津田大介、加藤玲奈、向井地美音、茂木忍著『日本一やさしい「政治の教科書」できました。』/朝日新聞出版/2017年7月発行

b0072887_12531137.jpg 憲法学者の木村草太とジャーナリストの津田大介がAKB48の三人を相手に政治の授業をするという趣向の本。標題どおり初学者向けの入門書で、それ以上でもそれ以下でもない内容だが、ただ一点、木村の授業できわめて含蓄に富むくだりがあるように私には感じられた。以下、変則的ながらその点に絞って記してみたい。

 私が興味深く感じたのは三権分立を解説した箇所である。
「行政」「司法」「立法」の三権は昔から並び立っていわたけではない。このうち最も遅れて概念化されたのは「立法」である。木村の既刊書『テレビが伝えない憲法の話』でも力説していることだが、本書でもかなりの紙幅を割いて噛み砕いた説明をしている。

 行政と司法の二つは、人間の生活に欠かせないものなので昔からあった。古代ローマ帝国も漢や秦など古代中国の国家もこの二つの機能を備えていた。これに対して立法は比較的最近出てきた考え方なのだ。

 では、昔は必要なかったのに、なぜ近代国家では立法の機能が必要になったのか。このように問題提起して次の授業でその解答を提示していく。

 昔は「公平性を守る」ためには、優れた人が王様や裁判官などの権力者になればよいという考え方が支配的だった。ところが近代になって「どんな人が権力者になろうとも、公平なルールが実現するようにと、法律に基いて権力を行使しようという発想になった」のである。

 つまり建前上は誰もが権力者になる可能性のある時代になったからこそ「立法」という機能が必要になったと考えられる。立法が遅れて概念化された権力であることは、政治社会の近代化と大いに関連しているわけだ。近代民主主義には欠かせない〈国民主権〉や〈法の支配〉を実現するために必要になった国家作用。木村はそこまで踏み込んだ解説をしているわけではないけれど、日本国憲法では立法府こそが「国権の最高機関」と規定されていることは何度でも思い返す必要があると思う。

 今日、日本では行政府の暴走が目立ち、国会は以前にもまして形骸化したといわれる。それはすなわち民主主義の形骸化と言っても過言ではない。私たち国民は裁判官や官僚を選ぶことはできないが、国会議員については直接選挙で選ぶことができる。近代になって「立法」という概念が発明されたことの意味を私たちはよく噛みしめる必要があるのではないだろうか。本書を読んであらためてそのようなことに思いを致した次第である。
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by syunpo | 2018-03-31 12:53 | 政治 | Comments(0)

「理性の政治/政治の理性」を重視しよう〜『なぜ政治はわかりにくいのか』

●西田亮介著『なぜ政治はわかりにくいのか 社会と民主主義をとらえなおす』/春秋社/2018年1月発行

b0072887_1924489.jpg なぜ政治はわかりにくいのか。本書は一見素朴なそのような疑問から出発する。なぜ政治はわかりにくいのか。西田亮介はその問いに対して二つの次元から答えを導き出そうとする。

 ①政治そのものに起因する問題②政治の外部に起因する問題──という仕分けである。

 ①に関しては、第一に、昭和から平成時代にかけて政治と社会それぞれが大きく変化したことが大きい。また、戦後の期間を通して「保守」「リベラル」などの現実政治を分析する概念装置の使われ方が反転し、従来から論争的であった概念装置そのものの自明性がますます不透明なものになったことも政治のわかりにくさの一つの要因になっているのではないか。西田はそのように指摘する。

 ②については、政治の外部すなわちメディア、教育と政治との関係が考察の対象となる。

 まず政治とメディアとの関係はどうだろうか。インターネットが普及する一方で、伝統的マスメディアにおいて重要な役割を果たしていた新聞が存在感を失いつつある。また政治家の側がメディアを通した情報発信の手法を改善し、生活者によい印象を与えるべく資源を投入した始めた。そこでは虚実ないまぜの情報が飛び交う。西田は現代の政治とメディアの関係を「慣れ親しみ」の関係から「対立・コントロール」の関係へと変化する移行期にあると見る。移行期における混乱が、私たちに政治をわかりにくくしている一つの原因とみるのである。

 ネットで得た情報の真偽をネットで調べてみたところで、それが本当に信頼できるかどうかはよくわからない。個人のメディア・リテラシーを期待しても、現実的にはむずかしいという。ではどうすればよいのか。

 西田は「暫定的な解」をやはりジャーナリズムに求める。「権力監視がジャーナリズムの本業であり存在理由だからです」。
 新旧のメディアが浸透しあって相互に影響する状態を維持しながら、権力監視の機能を強化して政治を少しでも国民に近づけていくしかないということだろう。

 さらにもう一つ義務教育を中心とした政治教育が十分に機能していないことも「政治のわかりにくさ」に関係している。義務教育の現場では、政治的中立性が強く意識される一方で、政治に対する批判的視線や権力監視について学べているとはいえない。学習してきた理論から大きく離れた事態を目にして、いきなり「投票してください」と言われても困るというわけだ。今後は真の意味での主権者教育の充実化が望まれる。

 私たちの情に訴えるアプローチはすでにあふれかえっている。人間の認知には限界があるとしても「それでもなお」理性の政治/政治の理性を重視すべきだという本書の結語は平凡といえば平凡だが、ここで奇を衒った処方を叫ぶような学者の方こそ信用できない気がする。

 同じ宮台真司門下の堀内進之介は『感情で釣られる人々』のなかで「理性的過ぎることが問題になるほど人類が理性的であったことは一度もない。理性それ自体への批判は重要だが、それは、いまだ十分に理性的でないことへの批判であるべきではないだろうか」と述べている。
「理性の政治/政治の理性」が未だ不充分ならば、その充実化を目指すほかない。
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by syunpo | 2018-03-06 19:28 | 政治 | Comments(0)

英国にみる「政府の失敗」とその改革〜『議院内閣制』

●高安健将著『議院内閣制──変貌する英国モデル』/中央公論新社/2018年1月発行

b0072887_2211576.jpg 日本の統治機構が英国の議院内閣制をモデルとしてきたことはよく知られている。また一九九〇年代に行なわれた政治改革ももっぱら英国に範を求めたものだった。

 では実際に英国の議院内閣制は日本が見習うべき模範的なものとして機能してきたのだろうか。当然といえば当然だが、万能的な政治システムなどこの世には存在しない。制度が宿命的に孕みもつ欠陥もあった。簡潔にいえば「英国の議院内閣制のもとでは、総選挙での敗北や議会による不信任決議が、政権の全面否定を意味し、きわめて強力なコントロールとなる一方で、個々の政策判断についてのコントロールの術は不足していた」という。

 そうした制度のもとで政治が一定の成果を得るためにはそれなりの条件があったということだ。二大政党制が機能して政党間競争が行われ、それを受けた政治エリートたちが自己抑制することによって初めて政策のパフォーマンスも向上するというわけである。

 逆にいえば、二大政党制が空洞化し政治エリートへの信頼が低下した場合には、強すぎる政府をコントロールすることが喫緊の課題となる。実際、英国ではそうした国民の不満を背景にして、近年、国家構造改革が進められてきた。

 その改革の具体的な中身として、特別委員会などの議会改革、スコットランドやウェールズへの権限委譲改革、法典化改革、司法改革などが挙げられている。

 一連の国家構造改革は、英国の議院内閣制が拠って立ってきた、政治エリートに対する信頼を基礎とした多数代表的で集権的なシステムとは異なる論理を内包している。それは、政治不信を前提に、一般の法律とは異なる上位の法をもち、権力を分散させ、透明性と手続きの明確化を志向する改革となっている。(p249)

 本書では以上のような改革を(多数支配的デモクラシーと対比させて)マディソン主義的デモクラシーと表現して、一定の評価を与えている。

 日本では、九〇年代の政治改革においては集権化を伴ういくつもの改革が行なわれた。そうした「政治改革」の結果、政権交代も一時的に実現したが、民主党政権が倒れた後は、やはり内閣や政権与党の強権化が過大になり批判を浴びるようになった。その意味では国家構造改革に着手する前の英国と共通する問題に直面している。

 日本の統治機構は、もちろん英国の議院内閣制とは異なる。大きな違いは同じように二院制を採ってはいても、日本の場合は内閣を作りだす機能を直接に有しない参議院もまた選挙によって議員を選出している点だ。さらには日本国憲法に基づく立憲主義、司法、地方分権なども想起されよう。英国とは違い「日本は、制度的に権力分立制をもともと憲法に組み込んでいた」といえる。むろん、それを活かすも殺すも「適切な政党間競争」や「政権交代の可能性」次第といえるのだが。

 いずれにせよ、英国がすすめてきた一連の国家構造改革をコピーせよというわけではないし、すべきでもない。「モデル探しをするのでも、真似るのでもなく、自省の材料を求めること」と著者は冒頭に述べている。まさにそのような作業に向けたものとして本書の考察は意義深いものといえるだろう。
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by syunpo | 2018-02-17 22:18 | 政治 | Comments(0)

三・一一の教訓を生かすための〜『原子力規制委員会』

●新藤宗幸著『原子力規制委員会──独立・中立という幻想』/岩波書店/2017年12月発行

b0072887_20175351.jpg 福島第一原発の悲惨な事故によって原発規制行政は刷新された。事故以前は、原子力安全・保安院と原子力安全委員会によるダブルチェック体制が敷かれていたのだが、民主党政権下で原子力規制委員会に一元化されたのは最も大きな制度的改革といえる。原子力規制委員会は環境省の外局としての行政委員会であり、その事務局として原子力規制庁が設置された。規制委員会は「世界一厳しい」と称する新規制基準を作り、再稼働や老朽原発の運転延長の審査を行なっている。

 けれども実態はどうだろうか。本書は行政学者の新藤宗幸が詳しくそれを検証するものである。すでにマスコミでも断片的に報じられているように、組織の構成も審査の中身もかなり怪しげなものだ。

 原子力基本法は原子力規制委員会設置法附則第一二条によって改正され、原子力利用の安全確保については「我が国の安全保障に資する」なる文言が加えられた。これは常識的な読みをすれば核兵器への転用を視野に入れたものと解釈せざるを得ない。

 委員は相変わらず原子力ムラに属する人物が大半を占めている。新たに作られた規制基準も地震や津波の想定に関して過小評価の可能性が指摘されるなど不備が多い。老朽原発の再稼働をめぐっても「四十年ルール」に例外を認めたために運転延長が可能になった。さらに新規制基準には地域防災計画の評価という観点も抜け落ちているのも問題。とにもかくにも問題だらけといえる。

 それらに加えて、安全ならぬ暗然とさせられたのは、原子力規制庁の初代長官および原子力地域安全総括官として公安畑の警察官僚を起用している点である。原発と警察官僚? それは一体どういう関連性をもつのか。
「彼らのキャリアパスを活用して警察庁との連携を図り、脱・反原発市民運動の動向把握や情報収集をすることが目的ではないのか」と新藤は推察している。実際それ以外の狙いがあるとは考えにくい。

 あれやこれやと制度改革のドサクサに紛れて焼け太りのようなことが平然と行なわれているのが実態である。

 以上のように原子力規制委員会の欠陥を指摘して、現行の組織における独立性や中立性は幻想にすぎないと本書は結論づける。そのうえで新藤はあるべき規制行政のあり方を具体的に提案する。

 その基本は「政治的かつ経済的圧力に左右されない独立性の高い組織構造を備えること」であることはいうまでもない。その方策として設置法に基づき法律的には「内閣の所轄の下」におくことを提案しているのが注目されよう。「内閣の所轄の下」というのは素人にはわかりづらい表現ではあるものの、そのような既存の組織として会計検査院や人事院がある。詳細は省くが「ここでいう『内閣の所轄の下に』は、その字面から受ける印象とは逆に、内閣からの高度の独立性をしめしている」のだという。

 さらに、委員選定の欠格事項をより厳格なものにすることが重要である。利益相反が疑われるような人物の起用は許してはならないのは当然。そのうえで国会同意人事案件の審議過程も透明化される必要があるだろう。

 それだけではない。新藤は司法や国会の役割の重要性を指摘することも忘れない。司法判断の多くが国策に沿ったものであることは周知の事実だが、主体的な判断を促していくためには、人事管理の改革や各級裁判所の裁判官会議の復権、裁判所情報公開法の制定などの制度改革が必要だという。
また国会については、原子力安全規制のための専門調査組織の発足などを提案している。

 学者らしい手堅い筆致でいささかかったるい読み味の本ではあるけれど、これからの原発規制のあり方を考えるうえでは有益な本ではないかと思う。
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by syunpo | 2018-02-09 20:20 | 政治 | Comments(0)

誰もが受益者になる〜『財政から読みとく日本社会』

●井手英策著『財政から読みとく日本社会 君たちの未来のために』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_1954865.jpg 若年層向けの岩波ジュニア新書のなかの一冊。タイトルどおり財政から日本社会の構造を分析し、これからの社会のあり方を探究するという財政社会学の入門書である。

 日本社会を財政の観点からみると、どのような特色をもっているのか。小さな政府。福祉国家をささえてきた女性への負担。公共事業に依存した財政。……などなど諸外国と比較した場合にいくつかの特徴を見出すことができるという。

 本書の特徴はまず現代の日本社会の構造を分析するにあたって、戦後の歴史を振り返っている点にある。何故今のような社会ができあがったのか。その過程を歴史的な視野で点検していく。「私たちの財政には、私たちの社会の歴史と特質とがはっきりと刻みこまれている」と考えるからである。

 ……日本の小さな政府をささえていたのは、勤労という、自己責任、自助努力を重んじる考え方でした。これと「総額に気をつかう財政」とが結びついて、政府に頼らず、自分ではたらき、自分の生活を自分で何とかする自己責任の社会ができあがったのでした。(p45)

 勤労とは、戦時中に広く普及したことばである。戦争遂行のために総動員体制が敷かれ、「勤労奉仕」「勤労動員」なるスローガンが叫ばれるようになった。戦後もニュアンスは異なるものの勤労の大切さを説く声は受け継がれ、高度経済成長期には「勤労する人たちのための政策」が財政の中心にすえられた。
 また「総額に気をつかう財政」は、戦前の「高橋財政」によってインフレを防ぐために予算の総額をコントロールすることが提唱され、その流れが今日にいたるまで続いているのだ。

 井手は勤労を重視する日本の福祉国家のあり方を「勤労国家」と呼ぶ。それは本書の重要なキーワードの一つである。

 ただしこれからも日本社会が「勤労国家」としてやっていくことは難しい。それにはひとつの前提条件があった。経済成長である。成長することによって個人の所得も増大して貯蓄にまわし、自分たちの責任で生きていくという基本スタイルである。

 逆にいえば、経済成長が停滞し始めると、とたんに人びとの生活の危機が訪れるのが「勤労国家」社会の宿命。今後は経済成長なしでも回っていくような別の社会を構想する必要がある。

 それはどのような社会なのか?──増税によって誰もが受益者になるような財政。井手の答えを簡潔にまとめるとそのようになる。自助努力や自己責任が重視される社会ではなく、国民すべてのニーズに対応するためにみんなで公平に負担するような社会である。一部の人だけを受益者にすると、受益感にとぼしく負担だけを求められる中間層や富裕層の賛同を得られないというのがその理由だ。

 具体的には「人間に共通のニーズをみたすため、社会のメンバー全員を現物給付の受益者にする」という財政をめざすことになる。現物給付とは現金給付ではなく、子育て・教育・介護などの現物で給付されるサービスをいう。

 もっとも生活保護などの貧困対策を完全に否定するわけではない。その点では、国と地方での役割分担を提唱しているのが注目される。「国の税金を使って困っている人たちをささえるやさしさは、身近な社会での共感の先にあると思いませんか」という問いかけに井手の考え方が凝縮されているようにも思われる。

 ちなみに以上のような結論を導くにあたって、井手は小田原市の例を引いている。被災した熊本城再建のために小田原城のイベントでの天守閣入場料を全額寄付した事例を一つのヒントとしているのだが、災害時の単発的な慈善と継続的な租税負担とはまったく別次元の話ではないだろうか。

 本書の結論に対しても諸手を挙げて賛成するというわけにはいかないけれど、繰り返し教育の重要性を力説している点には共感する。財政の基礎知識を学び、その望ましいあり方を考えるための叩き台としては格好の一冊といえるだろう。
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by syunpo | 2018-01-09 19:15 | 政治 | Comments(0)

「世の中をよくする」ための提言〜『不安な個人、立ちすくむ国家』

●経済産業省若手プロジェクト著『不安な個人、立ちすくむ国家』/文藝春秋/2017年11月発行

b0072887_1258254.jpg 経済産業省の次官・若手プロジェクトが二〇一七年五月に公開したレポート〈不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜〉はネットを中心にたいへんな反響を呼んだらしい。本書はそのレポートをもとに、三人の有識者を迎え座談会を行ない、あわせてプロジェクトのメンバー六人のインタビューを収録して書籍化したものである。

 レポートでは「ある年齢で区切って一律に『高齢者=弱者』として扱い、個人に十分な選択の機会が与えられていない」ことを批判的に指摘し、母子家庭やこどもの貧困を「自己責任」と断じる風潮に警鐘を鳴らしている。また「勤労世代が高齢者を支えるという」考え方から「子どもを大人が支える」という考え方への転換を提案しているのも興味深い。

 ただ、このレポートをもとに交わした三つの座談は全然おもしろくない。養老孟司、冨山和彦、東浩紀という顔ぶれをみればおおよその察しはつくというものだが、本にするならもう少し相手を選んだ方がよかっただろう。

 またシルバー民主主義への懐疑や社会保障の基本的な考え方など経産省が直接所掌していない問題についての提起はそれなりに踏み込んだものだが、原発など批判の多い電力問題についてはレポートのなかではまったく触れられていない。電力の供給をどうするか、今後も核廃棄物を出し続けるのか、という問題は日本の将来にとって最重要課題の一つだと思うのだが。厳しい自己批判を迫られるような所管の難題については俎上にのせるのを周到に回避したという印象である。

 ともあれ経産省というエリート官庁の若手官僚の問題意識を知ることができるという点では興味深い本といえる。
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by syunpo | 2018-01-03 12:59 | 政治 | Comments(0)

選挙権に免許は必要か!?〜『ブラック・デモクラシー』

●藤井聡編『ブラック・デモクラシー 民主主義の罠』/晶文社/2015年11月発行

b0072887_19383774.jpg 橋下徹と大阪維新の会を題材に民主政治のあり方を考えるという趣旨の本である。デモクラシーはつねに独裁政治へと転落する可能性をはらんでいるが、そのような悪しき民主政の状態を本書では「ブラック・デモクラシー」と呼び、それを避けるための方策を模索していく。藤井聡、適菜収、中野剛志、薬師院仁志の論考のほか、湯浅誠+中野剛志の対談が収録されている。

 おしなべて粗っぽい議論が展開されているなかで、末尾に収められている薬師院仁志の〈ブラック・デモクラシーと一筋の光明〉はそれなりに面白く読んだ。ここではその論考について触れておきたい。

 薬師院は、呉智英が提唱する「選挙権免許制度」について言及している。呉は、危険物の取り扱いや自動車の運転に免許が必要であるならば「使い方を誤って最も危険なのは権力」である以上、「こんな極限の危険物の運転に免許がなくていいはずはない」と主張しているのだ。「公正な試験による免許制度だけが、公平で合理的な権力暴走抑制装置だ」。

 もっとも呉の提案はとくに目新しい着想というわけでもないらしい。J・S・ミルも同じような趣旨のことを著作に書き残している。「民衆世論における知性の度が低いこと」を「代議制民主政治に付随する危険」だと言明したのである。そこで彼は登録のために出頭したすべての人に簡単な読み書きや演算の試験の必要性を唱えた。

 そもそも間接民主主義はルソー的にいえば「選挙による貴族政」である。ミルはそれを「代議制民主主義」と言い換えたが内実は同じものだと薬師院はいう。貴族=賢明な人々による統治を目指す以上は、投票者の「知性の度」を確保すべきだという発想はむしろ自然ともいえる。

 しかし考えてみれば、薬師院がいうようにこれはもう少し複雑な問題であろう。そもそも民衆世論というものは自然発生的に生じるという以上に、人為的に形成される面も否定できない。選挙権の資格試験を平然とパスするような高度な「知性」の持ち主たちこそが、ブラック・デモクラシーの使徒となって民衆を誘導する仕事に勤しむのが通例だからだ。

 薬師院は選挙権免許制度に対しては「知識を持つ者に見識や判断力がある保証はない」という表現で斥けてはいるものの、その提案の背後にある衆愚政治的な現象に対しては呉やミルと同様の問題意識を共有しているように思われる。それは直接民主主義のツールとも考えられる住民投票への懐疑的態度にもあらわれている。

 大阪維新の会をはじめとするポピュリズム政党は一般的に住民投票という手法を好む傾向にある。歴史的にみても「住民投票や国民投票による直接表決には、政治を担うエリート層への批判という側面があった」。
 今日の欧州諸国では、住民投票に対する賛否が、民主主義が抱えるジレンマとして理解されることが多い。すなわち「人民による政治」と「人民のための政治」が、実際には両立しないという板挟み状態である。

 そこで薬師院は次のように述べている。

 ……はっきり言ってしまえば、経験的事実に照らす限り、「人民のための政治」を実現して来たのは、「人民による政治」ではなく、むしろエリート主義に立つ代議制民主政治なのである。(p217)

 ……直接投票による表決は、今日の日本で想像されているほど“民主的”な手法ではないのである。極端な話、択一式の多数派争いに負けた側にとって、その表決は、絶対君主による一方的な命令と同じことなのだ。そこには、勝敗しかない。だが、ケルゼンが指摘する通り、「対立する集団の利害を調整して妥協させることができなければ、民主制は成立しえない」のである。(p218)


 対立する集団の利害を調整するためには、議論や熟議が重要になってくることはいうまでもない。本書に収録されている対談のなかで湯浅誠が強調している「面倒くさい民主主義」というのもそういう意味を含む。

 たしかに「民衆世論における知性の度が低いこと」は「代議制民主政治に付随する危険」かもしれない。ゆえに「国民の知識水準の向上を図ることは、国家にとって必須の課題であるに違いない」と薬師院も言う。だが重要なのはその認識をもとに、私たちはどのように振る舞うべきかということだ。

 ……正しい情報や知識の普及を軽視するような社会で民主政治が発展するわけはないだろう。ならば、「民衆世論における知性の度が低いこと」を非難する前に、しなければならないことがある。言うまでもなく、正しい情報や知識を、広く的確に伝えることだ。(p224)

 むろん民主政治に先立って国民全体への啓蒙が必要だという構想には限界があるだろう。熟議民主主義を提唱する研究者ならば、ここで「民主主義が民主主義を鍛えるのだ」と言うのかもしれない。議論をつうじて国民が学び主権者として鍛えられていくというビジョンである。

 その点、薬師院のまとめ方はいささか凡庸で尻すぼみの印象は拭えないし、主権者を方向づけるエリートの立場を重視するような議論にも異論はありうるだろう。が、それもこれも自身の態度表明と理解すべきなのかもしれない。いずれにせよ、政治混迷の今の時期に誰もが目を輝かせるような処方箋があるくらいなら何の苦労もない。代議制民主主義の意義を再検討する一つの契機として薬師院の論考は示唆的な一文ではないだろうか。
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by syunpo | 2017-06-05 19:45 | 政治 | Comments(0)