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ブックラバー宣言

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カテゴリ:社会全般( 36 )

一番近くて遠い存在〜『家族という病』

●下重暁子著『家族という病』/幻冬舎/2015年3月発行

b0072887_19531856.jpg 挑発的なタイトルが付けられているが、内容的にはごく常識的なものではないかと思う。家族を必要以上に美化する世の風潮に対して違和感を表明しつつ、家族以外の結びつきをもっと評価して多様なライフスタイルを互いに尊重し合おうというのがこのエッセイの趣旨である。

 家族だけの楽しみの空間が時に排他的になるという指摘はそのとおりだと思うし、親と子の相互依存関係がもたらす弊害はすでに社会学でもおなじみのテーマ。さほど親しく交際しているわけでもない知り合いからの家族写真入りの年賀状は「幸せの押し売りのように思える」というのも同意だ。

 同じように独居老人や孤独死に言及しながら、それを必ずしも不幸と決めつけないのは、本書の翌年に刊行された山折哲雄の『「ひとり」の哲学』と同じスタンスといえる。

 ただし山折が鎌倉時代の仏教人を持ち出して高踏的な「哲学」に向かうのに対して、下重はそのような御大層な理論武装はしない。ただ周囲の人たちのことをあれこれ想起しつつ、自身の死生観を率直に述べるまでである。「その人らしい死に方なら、それで十分だと思えるのだが」と。ひとり暮らしや孤独に対するステレオタイプな悪評を相対化する姿勢としてどちらにより共感するかといえば、もちろん私は後者だと答える。

 ところが、挑発的な標題と書きぶりが保守的な家族観をもった読者を刺激したのか、本書への酷評は感情的なものが多い。なるほどそうした反応にこそ本邦における「家族という病」の根深さが露呈しているともいえようか。

 もっとも下重の態度は患者を診断する医師のような高見に立ったものではないことも特筆しておこう。興味深いのは、下重自身が家族を理解しようと悪戦苦闘したことをそれなりに率直に記していることである。最初から理解しようと務めないという冷徹な選択をしたわけではないことは重要だ。さまざまな試行錯誤の末に「家族という病」を自覚するに至った著者自身もまた「家族という病」に罹患していたのだ。人の子である以上、それは当然のことである。
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by syunpo | 2018-06-11 20:01 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

単独者ぶるオッサンたちの欺瞞〜『おひとりさまvs.ひとりの哲学』

●山折哲雄、上野千鶴子著『おひとりさまvs.ひとりの哲学』/朝日新聞出版/2018年1月発行

b0072887_19145814.jpg『おひとりさま』シリーズで知られる社会学者の上野千鶴子と『「ひとり」の哲学』がベストセラーになった宗教学者・山折哲雄の対談集。「ひとり」をめぐって熱い対論が交わされるのだが、上野が一方的に山折につっこむ展開で、山折の対応がまったく冴えないのが残念。

 上野は、日本の思想史に連綿とつづいている「単独者の系譜」に終始厳しい見方を示す。世間から背を向ける世捨て人、流れ者、放浪者たちのことだ。西行、鴨長明、松尾芭蕉、尾崎放哉、種田山頭火といった固有名が挙げられている。彼らの営みと山折の『「ひとり」の哲学』(の読者)とは、上野のなかでは重なりあう。

「家族はあてにしていませんよ」「最期は野垂れ死にですよ」というのは、決まって男たち。彼らは鴨長明や漂泊の俳人たちに憧れるふりをしているが、絶対に実行はしないし、実行しようにも自分ひとりの身の回りの始末さえできない。上野は男たちのそのような欺瞞を徹底的に批判するのである。

 山折から説得力のある反論は最後まで聞かれない。山折が傾倒している一遍の話が出てくるが、一遍の魅力を再認識するまでにはいたらない。また江戸時代の歌舞伎芸能で使われるようになったという「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というフレーズを持ち出すのもかえって議論を混乱させている。どう考えても「ひとりの哲学」とは相容れないものだと思われるから。

 そんなこんなで上野の独演会状態が続く。男の身勝手さが炙り出されるという点では興味深い内容かもしれないが、言葉の交歓によって「界面作用」が生まれるという対談の醍醐味が感じられる場面はほとんどなかった。
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by syunpo | 2018-05-19 19:15 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

翻訳と土着化の重要性を説く〜『英語化は愚民化』

●施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』/集英社/2015年7月発行

b0072887_18294485.jpg 昨今、日本では国策レベルで英語を重視する動きが目立つようになってきた。公用語を英語とする英語特区をつくるという提言、小学校における英語教育の早期化などの動きはその極端な実例といえる。本書ではそのような動向全般を「英語化」と大括りにして批判的に検討する。著者の施光恒は政治理論、政治哲学を専攻する研究者である。

 英語化の根底にあるのは「グローバル化史観」である。その史観に基づけば、英語化はビジネス上の要請のみならず「平和で安定した世界を築くため、政治的・文化的統合を進める」うえでの必須だという。そのためには今や世界標準となっている英語を積極的に導入すべきだというわけである。

 しかし実態はどうであろうか。
「効果が疑わしく公正さにも欠ける新自由主義的な経済政策を無批判に信奉し、子供たちを外需奪取競争の一兵卒とするために英語偏重の教育改革に躍起になっている」のが実情ではないか。

 また国家戦略特区構想のなかには、海外投資家を意識したサービスが多い。政策的に「資本を持ち込んでくれる海外投資家がビジネスを展開しやすい環境を作る」ことも同時に目指されている。
「単一言語使用の誤謬」「母語話者の誤謬」が広まった原因についても、著者は、英米の各種業者のビジネスのうえでのうまみを受け入れたもの、つまり「商業上の理由」にすぎないと断じる。

 そのような実態を覆い隠す役割を果たしているのが「グローバル史観」であり、およびその言語版としての「英語化史観」だというわけである。

「グルローバル史観」に基づく英語偏重政策に対する批判は、さらに歴史的な観点や国際政治的な見地からもおこなわれている。そのような検討を加えることによって本書の記述はより立体的・説得的になっているように思われる。

 歴史的な考察では宗教改革に始まるラテン語と各国の国語との関連を考える。かつては宗教・学術的にはラテン語がヨーロッパの共通語だった。そこでは知識人と一般庶民の断絶があった。しかし宗教改革によってラテン語で書かれていた聖書がドイツ語やフランス語などの土着語に翻訳されるようになり、そのことを通して土着語は国語へと発展した。自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた言語で、知識を得ることが容易にできるようになったことは歴史上、画期的なことである。ヨーロッパ近代の民主化への道はそうして開かれたのである。

 ひるがえって日本ではどうだったのか。近代化の初期においては、森有礼らによる英語公用語化論が提起された一方、翻訳の努力によって日本語を豊かにし、近代国家の基盤たる国語を整備していく道も示された。明治日本が選択したのは後者である。明治の近代化成功のカギは日本語の発展にあったといっていい。

 ちなみに、科学技術立国を支えてきたのは日本語で高等教育を受けることが可能だったからという見解は、本書とほぼ同時期に刊行された松尾義之の『日本語の科学が世界を変える』の基本認識と重なりあうものだろう。

 国際政治的な考察では、グローバル化史観に基づく政治的統合の象徴とみられるEUの問題が検討に付される。EUに対する疑義の代表的なものは、加盟各国の民主主義を危うくするというものである。エリート層と一般庶民との分断が強化されるのだ。

 EUのように国際的な共同体を動かす人々は英語に習熟したエリート層だけに限定されていく傾向にある。ウィル・キムリッカは、欧州の言語上の小国デンマークを例に挙げ、使用者の少ない言語を母語とする人々がEUのなかで不利な立場に置かれていることを指摘している。もしEUの「民主化」が徹底されるとデンマーク国民は他のあらゆる国の国民と議論する必要が生まれるが、それは困難なことである。つまり「選挙制の欧州議会を通じてEUの直接的な民主的責任を拡大することはかえって、最終的に民主主義的シティズンシップを掘り崩してしまう結果となってしまう」。

 そこでEUの失敗は「リベラル・ナショナリズム」理論の台頭を促すことになった。すなわち「国民意識やその共有がもたらす国民相互の連帯意識、ナショナルな言語や文化、それらへの愛着(愛国心)などが、実は自由民主主義の政治枠組みを成り立たせるために大いに必要なのではないか」とする考え方である。そのようなリベラル・ナショナリズムは本書が批判するグローバル化史観と相容れないことはいうまでもない。

 また英語の世界標準語化は「自然な流れ」ではなく、人為的なものである、とする指摘も重要。英米が植民地を手放す際、国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち推進するよう努めてきたことは周知の事実だろう。

 実際、イギリスの文化戦略を事実上担っている機関「ブリティッシュ・カウンシル」が発行した『英語の未来』という書籍には英語の国際戦略が堂々と示されている。「世界の人々が、母語で教育を受け、生活する権利、つまり『言語権』の考え方に目覚めたり、言語的多様性の保護に意識的になったりすることに、イギリスとしては警戒しなければならない」とディヴィッド・グラッドルは書き、イギリス英語のブランドイメージを慎重に守っていく必要性を主張しているのだ。

 以上のような議論を総合すれば、日本で現在進行中の英語化に対してはおのずと「否」という結論に至る。本来なら国家百年の計として重視されるべき教育までビジネスの道具と見てしまう新自由主義的な「英語化」路線は、子供たちから質の高い教育を受ける機会を奪い、日本人の愚民化を進めることだろう。英語化の行き着く先には「誰も望まない未来」が待っている。それが本書の結論である。

 ただし、筆が走り過ぎている箇所も散見されるのが少し気になった。たとえば「言語が異なれば、連帯意識の醸成が難しく、民主国家の運営は困難を極めると言ってよい」というのはやや粗雑な議論ではないか。多言語国家は今も世界中にいくらでもあるし、カナダのように日本以上に民主制を機能させている国もある。肯定的に引用されている鈴木孝夫のいう「タタミゼ効果」(日本語を学ぶと性格が温和になるとする仮説)にしてもかなり主観的なもので、それを英語化愚民論につなげるのは強引な気がする。

 とはいえ、新自由主義的な英語化に代わる世界のあり方として「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」を目指すべきとする主張に反対する理由はない。たとえ月並みな理念であったとしても実現されていない理念はいつだって新しい、との至言をここで想起するのも意義深いことだろう。
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by syunpo | 2018-05-12 18:50 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

健全な個人主義の確立を〜『個人を幸福にしない日本の組織』

●太田肇著『個人を幸福にしない日本の組織』/新潮社/2016年2月発行

b0072887_18201566.jpg 組織を崇め、組織を畏怖する。日本人の一種の「組織信仰」がしばしば現実を見る目を曇らせる。太田肇は本書の冒頭にそのように記している。そこで「いま求められているのは、これまで無批判に受け入れてきた組織の論理を疑い、個人の視点から組織の間違いやウソ、偽善を暴く」ことであり、本書では「それに代わる新しい理論と改革の具体策」を提示する。これは秀逸な日本組織論といえるだろう。著者は組織論を専門とする研究者。

 日本人はチームワークがよい。
 日本人は愛社精神が旺盛である。……。

 日本人自身が信奉している日本人にまつわる神話にはいろいろあるが、それらを一つひとつ検討すると眉唾的なものが少なくない。本書ではそのような日本人神話を容赦なく解体していく。また組織を運営するうえで日本人が正しいと考えてきた原則のあれこれについても考察を加えていく。

 たとえば「日本人は愛社精神があるとか帰属意識が強い」という認識に対しては「辞めても移るところがないから会社に帰属しているのを、気に入って帰属しているのと勘違いしているのである」と喝破する。
「日本企業は、見せかけの勤勉さと裏腹に、実は会社に対して不満をもっている人、前向きな意欲のない人を大量に抱えている」。

 そのような会社と社員との関係を「家を出るに出られない反抗期の子が、親に反発するのと似たような感情」と喩えているのはなるほどと思う。

 メンバー同士の関係も一見すると仲が良さそうだが、実態はそうでもない。日本と欧米のホワイトカラーを対象にした調査によると、日本人は欧米人と比較して同僚を信頼できないし、仲間と助け合わないし、情報の共有もすすんでいないという結果が出ているという。

 これ以外にも企業組織の課題に関しては、年功制の弊害を指摘しているほか、管理強化がかえって不祥事を増やしてしまう陥穽について論じているくだりも説得力を感じた。

 人を選ぶことの現代的な困難に関連して、大学の入学試験に抽選を導入せよという提案には賛否両論ありそうだが、一つの見識を示すものではあるだろう。また昨今は憲法学の分野でも盛んに議論されているPTAや町内会に関して各人の自由参加にすべきと訴えている点は私も同感である。

 地方分権も組織論の観点を導入すると従来の議論とは一味違ったものになる。地方分権を積極的に肯定する人はリベラリズムの陣営にも多数いるが、個人と組織との関係から考える場合、デメリットも多い。

 たとえば地方分権を徹底すると、当然、地方によるサービスの格差は拡大する。具体的に認可保育所の月額保育料や水道・下水道料金を比較した場合、大きな格差の存在することがわかる。
 それでも地方分権の大合唱が起きているのは、首長の権限が大きくなり、彼らの政治的野心をくすぐるという点も見逃せない。「地方」とひと口にいっても為政者と住民との利害はしばしば異なる。そうした関係は「国/地方」という単純な政治学的二分法からは見えにくい。

 たしかに産業政策やまちづくり、観光などは地域が知恵を絞って魅力を競い合ったらよいだろう。しかし、個人の基本的な権利や競争条件にかかわる部分で個人の責任によらない格差が広がるような政策は望ましくない。そもそも市場原理、競争原理になじまないところをカバーするのが政治や行政の役割である。(p157)

 以上のように、本書が論じる組織は、国家の政府から地方自治体、企業から地域の自治組織、学校組織まで多岐にわたっている。そのため論点も一見拡散しているようにみえるが、「組織の論理の肥大化」が健全な個人主義の観点からみて弊害が多いという点で論旨は一貫している。
 日本の組織を考えるうえで、避けて通ることができない問題が提議されているという意味で、本書は一読の価値があるといっておこう。
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by syunpo | 2018-04-23 18:27 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

現場の活動と憲法をつなげる〜『子どもの人権をまもるために』

●木村草太編『子どもの人権をまもるために』/晶文社/2018年2月発行

b0072887_9512064.jpg 子どもの人権は本当に守られているのか。「子どものため」と言いながら、大人にとっての「管理の都合」ばかりが優先されているのではないか。本書ではそうした一見シンプルな問いを投げかけて、子どもの人権をめぐる問題を様々な角度から検証していく。そのうえで、子どもの人権を保障するための具体的な対策を提議する。

 寄稿しているのは、おもに子どもたちと常日頃から関わっている現場の人たちなので、記述内容はおしなべて具体的。〈家庭〉〈学校〉〈法律・制度〉の三部に分けられた構成は初学者にもアプローチしやすいものといえるだろう。

 まず、家庭に関わる問題として、虐待、貧困、保育、十代の居場所、障害、離婚・再婚の問題が論じられる。

 精神科医の宮田雄吾は、児童虐待には身体的な暴力以外にもネグレクトや心理的虐待のように目立たないが「残虐さが上手に隠され」ているものもあるという。また虐待を受けた子どもが社会へ出て行こうとした際、社会参加へのハードルの高さが大きな敵となるという指摘も重要。彼らに就ける仕事は限られている。つまり生活の困難という難題が控えているのだ。「貧困対策はそのまま虐待を受けた子どもへの支援となる事」を私たちは知っておく必要がありそうだ。

 専門社会調査士の山野良一は「子どもの貧困」という概念が「貧困家庭」から家庭を除くことで強いインパクトをもたらしたことを認めながらも、子どもの貧困を解決するには「子育てや生活に困った苦しい境遇にある人たちすべてに応答的である社会」を作ることの重要性を訴えて説得的である。

 保育の問題を論じる駒崎弘樹は、保育の概念を「養護」と「教育」の二つの視点から定義する。近年の研究では、乳幼児教育が集中力や自制心、共感能力といった非認知的スキルの形成に役立つことがわかってきた。保育の不足は子どもの「教育を受ける権利」の制限でもあるという認識は社会的にもっと共有されるべきだと思った。

 中高生世代の女子を中心に孤立・困窮状態にある青少年を支える活動を行なっている仁藤夢乃は、児童相談所の開所時間が平日の日中のみに限られていることを批判的に指摘する。児童の権利を保障するためには、子どもの保護のための窓口を広げていくことが必須であるという意見は当然のものではないだろうか。

 障害を持つ子どもについて論じる熊谷晋一郎は暴力の観点からその問題にアプローチする。障害児から暴力の被害をなくすためには、開放的・重層的なシステムを作ることで、支援者を分散することが重要となる。またその前提として言葉の問題にも言及している点には蒙を啓かされた。

 建物が健常者向けにデザインされているのと同様、一般に流通している日常言語の語彙や語用は、健常者の経験を表現しやすいようにデザインされており、認知特性の異なる少数派は、既存の言語の中に、自分の経験をうまく言い当てる語彙や語用を見つけられない状況におかれやすい。すると、問題行動や症状と呼ばれるような振る舞いを通じて、コミュニケーションをとるしかなくなる。(p108)

 以上を踏まえて、言語のバリアーフリー化ともいうべき取り組みが不可欠であるという主張には大いに納得した。

 親の離婚・再婚がもたらす子どもへの人権侵害はふだん話題にされることが少ないだけに、その問題に論及する大塚玲子の論考にも教えられるところ大であった。大塚は離婚や再婚の過程で子どもが経緯を知ることができずに不安や不信を感じることを繰り返し指摘する。それは子どもにとってたしかに重要な問題に相違ない。「子どもの意思を尊重する」こと。それが実体を伴ったものであることが必要である。

 学校に関係するテーマとしては、体育・部活動、指導死、不登校、道徳教育、保健室、学校の全体主義が取り上げられている。

 教育社会学者の内田良は、教育あるいは学校という概念が出てくると、安全と健康への権利の保障のレベルが大きく切り下がる状況を告発する。たとえば市民社会では「傷害」や「暴行」になる行為が「体罰」として正当化されるといったことだ。内田の処方箋はいたって簡明である。「子どもには安全に生きる権利がある」ことを再確認して制度や教育内容を組み立て直すこと。大人の側のやる気がそこで問われることになる。

 大貫隆志は「指導死」なる概念を立てることで、子どもの最大の人権侵害である生命への危機を守ろうとします。学校の指導における「適正手続き」の確保を提案しているのはまさに正論だろう。

 不登校について報告する大原榮子は、再登校よりも自立の支援の重要性を訴える示唆的な論考を寄せている。その実践例として学生ボランティアの協力をもとに実施している「メンタルフレンド」の実践を紹介する。大学生ボランティアが週に何度か派遣され、不登校の子どもたちと一緒に遊ぶという活動だ。そこから人間関係づくりの回復、創出、育成をめざすという試みはもっと注目されてよいと思った。

 道徳教育と子どもの人権について考察しているのは、前川喜平。教育勅語への再評価が政治家たちによって口にされることも珍しくなくなった昨今、戦後民主主義や立憲主義の観点から厳しく批判するのは当然のことだろう。また道徳の教科化に対する対抗策を論じているくだりもおもしろい。教育課程特例校制度を使えば道徳科に代えて「市民科」などの独自の教科を設けることもできるらしい。元官僚らしい実務的な提言である。

 白濵洋子は養護教諭としての体験を通して保健室の人間模様について論じている。保健室は学校で唯一評価と無縁の空間であり、それゆえに子どもたちを安心させ避難所となっているという事実はきわめて示唆に富む。

 社会学者の内藤朝雄は学校の全体主義について論じる。学校教育をややデフォルメしたような論考は本書のなかでは少し浮いたような印象を受けなくもないが、小気味良い切れ味を感じさせる文章で、それなりに興味深く読んだ。

 法律・制度に関しては、児童相談所・子どもの代理人、里親制度、LGBT、世界の子どもがテーマとなっている。

 家庭を失った子どもを施設と制度の両面から論じた弁護士の山下敏雅は、児童相談所の実態を報告したうえで子どもの代理人制度の充実を訴える。里親・施設・代理人が協力し、子どもに多様な選択肢を広げることが重要だという意見はもっともなものだと思う。

 社会福祉士でライターの村田和木の論考は里親制度に関するもの。日本では何らかの事情で社会が養育しなければならなくなった子どもについては施設に収用するのが一般的だが、他の先進国では里親に養育を委託することが多いらしい。里親制度は、うまく運用できれば、子どもが家庭のなかでの継続的な愛着関係を形成できるメリットがあるという。

 弁護士の南和行は自身の体験をまじえながら性的少数者の子どもの問題について論じている。子どものなかには、同性愛を自覚したり、性自認と割り当てられた性別のギャップに悩んだりする子もいます。何よりもLGBTの概念を知らされないことが、そうした子どもたちを追い詰めることになるという。マイノリティが自分の状況を適切に理解できる環境をつくること。彼らの苦しみをやわらげる第一歩はそれである。

 土井香苗は、国際人権NPOヒューマン・ライツ・ウォッチが世界各地で行ってきた現地調査をもとに、子どもの人権侵害の実態を報告している。身体の自由、中等教育を受ける権利などの侵害のほか、学校の軍事利用や児童婚の問題なども検証している。幼いうちの結婚は、女性から教育機会を奪い、家庭内での種々の暴力にあうリスクを高めるなど、深刻な悪影響のあることが議論されていて海外の状況を知るうえでは勉強になった。

 以上をまとめた木村の総括的な論考も、憲法学者らしく理路整然としたものである。同時に国際条約の重要性について自省をまじえつつ指摘しているくだりは木村の研究者としての誠実さを感じさせるもので好感を抱いた。子どもの人権問題を考えるうえでは必読の一冊といっていいだろう。
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by syunpo | 2018-04-15 09:53 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

社会の深くて暗い荒野を旅する対話〜『差別と日本人』

●野中広務、辛淑玉著『差別と日本人』/角川書店/2009年6月発行

b0072887_1845178.jpg 被差別部落出身の元自民党政治家・野中広務と在日コリアンの辛淑玉との対談集である。差別という機微に触れるテーマだけに随所に披瀝される具体的な挿話は生々しい。読むほどに息苦しくなってくるが、人間社会のあり方を考えるときには避けて通れない問題であることは確かである。

 京都に生まれ育った野中が共産党や組合活動への批判にも熱がこもるのは想像されたことであるが、それ以上に麻生太郎や小泉純一郎など身内の政治家に対して厳しい批判をしているのが印象に残った。とりわけ麻生はみずからの差別意識を党の集まりでも隠そうとしなかったらしい。

 何より胸が痛むのは、自分の出自をカミングアウトすることによって、あるいは広く世間に知られるようになって、周囲の家族も無傷では済まなくなるということ。この苦しみは当事者にしかわからないものだろう。

 対話のあいだに辛淑玉の解説を頻繁に挿入する編集には話の流れを遮られるような違和感が残るものの、正面から語られることの少ない差別の問題を扱った対論として貴重な一冊ではないかと思う。
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by syunpo | 2018-02-19 18:46 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

様々な角度からのアプローチ〜『日本の右傾化』

●塚田穂高編著『徹底検証 日本の右傾化』/筑摩書房/2017年3月発行

b0072887_2027929.jpg 日本社会の右傾化について論じられることが多くなった。その動向を主導したとされる政治団体の内情を調査した本や、政権与党を軸にみた右傾化論など、関連書籍は数多く刊行されている。

 宗教社会学者の塚田穂高が編者となっている本書では、日本における右傾化を様々な角度から検証する。ただし全体を貫く右傾化の定義は行なわれていない。

「日本の右傾化」と大きく括られているそれを、いったん限られたテーマに分解・細分化する。それぞれの領域の専門家が自身のフィールドについて、信頼できるデータと資料を駆使しながら検討し、それを幾重にも重ね合わせる。その作業が必要であり、本書が目指すのはそれである。(p10)

 こうして本書は〈壊れる社会〉〈政治と市民〉〈国家と教育〉〈家族と女性〉〈言論と報道〉〈蠢動する宗教〉と題した六つのセクションに仕分けられている。それぞれに三〜五篇の論考を配するという構成で、寄稿者は二十一名。

〈壊れる社会〉では、新自由主義と結託した新保守主義やレイシズム、ヘイトスピーチに関する昨今の社会状況が概括されている。
 そのなかでは、在日コリアンに対するレイシズムのあり方と日本の右傾化との関係を検証した高史明の論考を興味深く読んだ。高は「ある側面ではリベラルな方向への変化がありながら、他の側面では右傾化が進行している状態である」との認識を示している。後者の側面の一つとして在日コリアンに対する不寛容性の問題があるとみる。

〈政治と市民〉は、サブタイトルにうたうとおり「右傾化はどこで起こっているのか」を検討する。社会学者の樋口直人は「右傾化とは、近隣諸国への敵意や歴史修正主義を指す」と規定したうえで「全体としては今世紀に入って右傾化が進んだといってよいだろう」と結論している。ただし「市民社会は外国人排斥の動きを容認せず、政治から持ち込まれた右傾化に抗してきた」とみて、そこに可能性の胚胎を見出している。

〈国家と教育〉では、宗教社会学者のマーク・R・マリンズが外国人として唯一本書に寄稿しているのが注目されよう。マリンズは震災後の日本における愛国心教育の復活に象徴されるような政治的動向を、それ以前からの文脈で捉え、懸念を示す。自民党の改憲案は政教分離の原則を逸脱するものであり「宗教的マイノリティへの公的な抑圧につながる可能性がある」と警鐘を鳴らすのである。

 女性執筆陣による〈家族と女性〉に関する右傾化の検証は、改憲論の隠れたテーマともいえる重要な問題でいずれも教えられるところが多かった。
 清末愛紗の憲法二四条に焦点を定めた考察が鋭い。二四条改憲論者が「利己主義」「個人主義」への非難という常套表現を使って主張していることは、煎じ詰めれば「男女平等はやだ」「戦前みたいに男が威張れる社会に戻したい」ってことに要約されるのではないかと思われる。いわばオッサンの利己主義復古宣言とでもいえばいいか。

 斉藤正美は「少子化対策に名を借りた婚活支援政策は、結婚、妊娠、出産支援などを通して、国家による家庭への介入を強めることに寄与している」と述べ、官製婚活の展開を戦中の「結婚報国」や「産児報国」に準えて警戒感を示しているのが印象に残った。

 堀内京子は税制面から右傾化をとらえるもので、話が具体的であるだけにこちらも説得力を感じさせる。たとえば「夫婦控除」の問題。「法律的に結婚している」人だけが減税対象になると、独身者やLGBT、事実婚カップル、離婚者、シングルマザーなどは対象外になるわけで、それは結果として「ペナルティ」となり、多様な生き方が否定されているということになるだろう。

〈言論と報道〉では、「日本スゴイ」という国民の物語を批判的に検証した早川タダノリ、歴史戦の決戦兵器「WGIP」論の欺瞞を指摘する能川元一など、いずれも持ち味を発揮した一文を寄せている。能川元一によると「『洗脳』という語は中国帰還者連絡会(中帰連)のメンバーが行ってきた旧日本軍の戦争犯罪に関する証言を、右派が否認する際の決まり文句だったのである」。そのような洗脳を支えるのが「WGIP」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)論。それは右派論客にとっては応用範囲の広い「理論」といえるので注意が必要だ。

〈蠢動する宗教〉では、神道(政治連盟)、創価学会、統一教会=勝共連合、幸福の科学の動向があとづけられている。なかでも藤田庄市による公明党の自民党「内棲」化論が秀逸。章全体を総括する形で編者の塚田穂高による論考が最後に収められていて、宗教を類型的に把握しようとする考察は問題を整理するのに良い。

 物足りないところがあるとすれば、官僚機構における右傾化の動きについてまったく言及されていない点だろうか。なお巻末には「日本の右傾化」を考えるためのブックガイドを掲載しており読者への便益をはかっている。
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by syunpo | 2017-09-19 20:31 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

ズルい人ほど道徳を利用する!?〜『みんなの道徳解体新書』

●パオロ・マッツァリーノ著『みんなの道徳解体新書』/筑摩書房/2016年11月発行

b0072887_2147566.jpg「日本人の道徳心の低下」を嘆く声はいつの時代にもある紋切型言説の典型である。だから道徳教育を強化しなければならない。とつづくのもお決まりのパターン。パオロ・マッツァリーノは一九五〇年代にもみられたそのような意見を引いて「人間って、いつの時代もおんなじことをいってるんですね。とどのつまりが、少なくともこの六〇年間、日本人の道徳心にはほとんど変化がなかったということです」と述べている。

 戦後の民主主義的自由教育のせいで自由とわがままをはき違えた人間が増え、その結果日本人の道徳心が劣化したとする意見には、何ら根拠のないことは少し考えればわかることだろう。戦後民主主義以前の人々の方が現代よりも道徳心が高かったといえそうな統計調査や研究報告などどこを探してもないのだから。
 現代人が寛容さを失ったという、これまた昨今よく聞かれる声にも当然ながら首肯することはできない。

 現代人は寛容さを失ったとする説には矛盾が多すぎます。そこで私はこう考えました。むかしの人は寛容だったのではなく、鈍感だっただけなのだと。鈍感だったから自分が傷つくこともあまりなかったし、他人を傷つけても平気だったのだ、と説明したほうが腑に落ちます。(p28)

 通常、学問は進歩と改革を目的としている。ところが「道徳」は「なぜ」という疑問を許さない。それは「道徳」が進歩と改革を目的としていないからである。すでに正解が決っている善悪の基準をこどもたちに押しつけて、基準をブレさせないようにすることが「道徳」教育の目的とされてきたのではないか。「なぜ?」を禁止することでオトナたちはメンツを守ってきただけではないのか。あるいは道徳教育の強化を主張するオトナたちは、何らかのズルをして利益をあげるために道徳を方便に使っているだけではないのか。

 そのように冒頭でブチ上げた著者が学校で使用されている道徳副読本を読んでバッサバッサと斬っていくところは本書の読みどころの一つ。ちょいと無理やりなツッコミもなくはないが、おしなべて痛快な切れ味をみせている。

 たとえば、教育出版4年生用副読本で「新聞を読もう!」と呼びかけているのに対して、何故新聞を読まなくてはいけないのかと真っ向から疑義を呈する。一昔前のニュース源といえば新聞しかなかった、テレビでもたいしたニュース番組はなかった、しかし今はニュースを知る手段はいくらでもある。「現代人はニュースで溺れる寸前です。このうえ新聞まで読め? もうかんべんしてください」。

 あるマンションで、ピアノを練習する音をめぐって隣人同士がもめ始めた。そこで管理組合の理事長があいだに入って互いのいいぶんを聞き、ピアノの置き場所を変えて、練習時間にも配慮することで両者ともに納得。その結果、以前よりもなかよくなれた。理事長はこの経験から、同じ音を立てても、仲のよい同士なら気にならないのだなあと考えて、マンション内でクリスマス会やバス旅行などのイベントを企画することにした……。

 ……以上は東京書籍6年生用の副読本に収録されている話。この話に対する著者の見解はふるっている。「もめているおとなりさん双方から話を聞いて、どちらも納得するような条件を模索する」までは「素晴らしい話」としながらも、後半は「ヘンテコな理屈」で、せっかくの成功体験から「誤った方程式を導き出してしまった」という。

 どんなに仲良くなっても、うるさいものはうるさいですよ。こどもが真夜中にデカい声で歌を歌ったら、普段仲のいい親でも「うるさい!」と怒るでしょう。
 相手に文句をいわないのは、仲がいいのではなく、相手に気をつかってるだけです。
 気軽に文句をいいあえる間柄を、本当の仲良しというのです。(p68)

 さらに著者は道徳の副読本に関して共通している問題点として「理想の家族しか登場しない」「樹木信仰」「歴史や数学を無視している」ことに加え、「自分の身を犠牲にしてだれかを助ける」ことを賞賛することにも批判を加えている。

 他人をしあわせにする代わりに自分がいのちを落とす自己犠牲を勧めるのが道徳的だとは、私には思えません。それはむしろ不道徳。
 自分を殺し他人を生かすのはあくまで次善の策、窮余の策にすぎません。他人を殺し自分を生かすのはもっと悪い。他人も自分も死ぬのは最悪です。
 他人も生かし自分も生きよ。これこそが正しい道徳です。
 どのみち道徳などというものは、おしなべて理想論にすぎません。だったら、最高の理想を教えるべきでしょう。(p145)


 一時期世間を騒がせた若者の「なぜ人を殺してはいけないか」という質問をめぐる考察なども下手な哲学的考察よりもよほど知的な感じで読み応えがあった。著者の道徳観に全面的に納得・共感できるわけではないけれど、おもしろい本であることは確かである。
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by syunpo | 2017-05-29 21:56 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

現実を直視しない人たちの言葉〜『ポエムに万歳!』

●小田嶋隆著『ポエムに万歳!』/新潮社/2013年12月発行

b0072887_1915692.jpg 本書は月刊誌《新潮45》に連載した文章を中心に四つの章立てで構成されている。そのなかではやはりタイトルに採ったⅠ章の〈ポエムに万歳!〉が良くも悪しくも著者の批評精神の特質を示しているように思う。雑誌に発表されたあとの反響も大きかったらしい。

 ポエム。詩ではない。それでは何なのか。本書の定義はこうである。「ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その『何か』になりきれなかったところのものだ」。

 ここでもっぱら考察対象となるのは、そのうちでも「本来なら硬質の文体を持ちこたえていてしかるべきテキストが、中学生の卒業文集の如き湿った抒情をうたいあげている」ようなポエムである。そのような出来損ないの文章は、放っておけば淘汰されて人の目に触れなくなると思いきや、そうではないらしい。「ポエムは、大衆受けする」からだ。

 現実を直視したくない人たち同士を埋める言葉というのは、ポエムしかないわけです。逆に、それは直視しないという約束で成り立つんです。(p210)

 かくしてポエム化はいたるところですすんでいる。ニュース番組のポエム化。新聞のポエム化。もちろん詩を書こうとして詩になりきれなかったものとしてのポエム化もある。名だたる女優のブログやツイートなどもポエムの実例として俎上にのせられている。そのようなポエム化を推進している書き手=ポエマーは当然ながら由緒正しいポエットとは異なる存在だ。

 ポエムの安っぽい抒情性への違和感やシラケ気分は私も共有するところがおおいにある。が、話はそこで終わらない。私がさらに興味深く感じたのは、上に記したようなポエムの分析じたいがポエム化していくところにある。その過程を惜しげもなく見せているのだ。

 小田嶋は書く。「(ニュース原稿のポエム化を)定着させた元凶は、誰でもない、古舘伊知郎その人だと思っている」。「彼の芸風は、元来、実況ポエムだった」というのだ。これは冒頭に紹介したポエムの定義からはかなり逸脱した認識ではなかろうか。古舘の話芸を「何かになりきれなかった」未完成品と決めつけるのはいかにも無理がある。好き嫌いは別にして、テレビ文化における一つの完成品ではあるだろう。だからこそプロレス実況からニュース番組のキャスターまで幅広く重宝されたのだ。つまりここにいたって、ポエムにまつわる小田嶋の定義や分析は拡散してしまい、何でもありになっている。小田嶋の文章じたいが「何か」になりきれていない気配が濃厚なのだ。むろん小田嶋はそのことを自覚している。

 ポエマーの相対化を試みんとする小田嶋隆その人もポエマーに限りなく近づいてしまう。そうなのだ。ポエムの世界とは、それを論じる者さえ引きずり込もうとする、底の深い油断ならない世界なのだろう。けれども最後にそれは「優しい社会なのかもしれない」と示唆されてもいる。本書はポエム化した社会を批判的に吟味しながらも、それが必ずしも否定されるべきものではないことを教示してくれる不思議にポエムな本なのである。
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by syunpo | 2016-09-20 19:05 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

対策には包括的な制度構築を〜『ヘイトスピーチとは何か』

●師岡康子著『ヘイトスピーチとは何か』/岩波書店/2013年12月発行

b0072887_20431014.jpg 二〇一六年五月、わが国においてもヘイトスピーチ対策法が成立した。本書はそれに先立つ二〇一三年末に刊行された本である。ヘイトスピーチに対する法規制は必要との立場から、日本のヘイトスピーチ被害の実態、国際機関の取り組み、諸外国の法制度などを紹介して、あるべき法規制のあり方を提示するという趣旨である。たいへん勉強になった。

 ヘイトスピーチを法規制するに際して最も問題となるのは、言論・表現の自由との兼ね合いであろう。著者もその点についてはかなり紙幅を割いていており慎重な議論を呼びかけているが、「副作用があるからといって研究しない、治療しないのはおかしい」と言い切り、敢然と法規制の必要性を説くのである。

 公権力が一定の言論内容を「悪い」「不適切な」表現と認定し規制することは危険との意見はリベラルとみられる研究者の間にも根強いものがある。師岡の反論は次のようなものである。

 しかし、表現の自由は無制約ではない。……日本の現行法でも、脅迫や名誉毀損などの場合、その内容が他人の人権を侵害することを理由として制約が認められている。ならば、ヘイトスピーチも、マイノリティの尊厳を傷つけ、平等権を侵害し、黙らせ、差別と暴力を社会に蔓延させ、多民族虐殺や戦争に導くという深刻な害悪があるのだから、制約を認められるべきではないか。(p150〜151)

 ヘイトスピーチを規制すると、正当な議論まで萎縮させる危険があるという指摘に対してはどうか。「どのような表現規制でも、萎縮効果がありうることは事実」と認めながらも、深刻な法益侵害がある以上、萎縮効果を最小限にする工夫をしつつ、規制する方法を探るべきと述べる。

 いうまでもなくヘイトスピーチ規制は「対症療法」にすぎない。それだけでヘイトスピーチを根絶することはできないのはいうまでもないことだろう。「ヘイトスピーチは歴史的に形成された差別構造の中の一つ」だから「その差別構造をなくす取り組みが必要であり、法規制は差別撤廃の取り組みの中に位置づけられるべきである」と師岡はいう。

 ヘイトスピーチ対策法は理念法であり罰則規定はない。日本での本格的な対策は緒についたばかり。今後も官民一体となった粘り強い取り組みが必要だろう。
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by syunpo | 2016-09-16 20:46 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)