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カテゴリ:社会全般( 42 )

主権者として思考するための〜『感情天皇論』

●大塚英志著『感情天皇論 』/筑摩書房/2019年4月発行

b0072887_09201701.jpg 天皇について考えることを日本人はサボタージュしてきた。冒頭で本書の核心的な認識が提示される。思考する代わりに感情の共感をもってやり過ごす──これが明仁天皇の「お気持ち」発言以降の国民の処し方であった。もちろん大塚英志は本書を通して、自己批判を混じえつつそのことを厳しく糾弾する。

 大塚は明仁天皇に「感情労働」を見出す。これはなかなかの卓見ではないか。

「感情労働」とは身体やモノやテキストに物理的、あるいは情報処理的に作用する労働(身体労働、あるいは頭脳労働)ではなく、文字通り相手の「感情」に作用し、同時にそのために自分の感情を用いる「労働」を言う。(p20)

 明仁天皇が自身の高齢化によって「国事行為や、その象徴としての行為」に充全に対処しきれないと語る時、「象徴としての行為」こそが「感情労働」の領域なのである。

 そのような「感情天皇制」成立のプロセスや構造、あるいはその終焉への予兆を、文学や映画の作品をとおして浮かび上がらせるのが本書の狙いである。一九六〇年前後に発表された「不敬文学」、映画『シン・ゴジラ』、古市憲寿の『平成くん、さようなら』などが俎上に載せられる。

 ここでいう「不敬文学」なる表現は渡部直己からの引用だが、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、小山いと子らのテキストを詳細に分析する論考は知的刺激に満ちている。

 それに続く『シン・ゴジラ』論も秀逸。ゴジラを天皇制に基づいた貴種流離譚の一種として読み解いていく見方には納得させられた。

……『シン・ゴジラ』の中に貴種流離譚の枠組を的確に読みとったのは職業的批評家の中にではなく観客の側にいた。「ゴジラそのものがヒルコ、カグツチ、スサノオなど「僕たちイザナギにネグレクトされました!」っていう古事記の父なし児ぜんぶを合わせたような感じなんだよなぁ」(甘粕試金/現在はアカウント削除)というツイートはその代表だろう。
「シン・ゴジラ」がオタマジャクシの後ろ足が生えたような姿で這うように当初現われ、それが立ち上がり手が生える、という展開をこれも映画を見る前にスマホで最初に読んだ時、ああ、つまりは蛭子なのだな、と納得した。それで、誰かそういうことを言っていないかな、と検索したらこのツイートが最初に引っかかった。この人がどういう人か知りもしないが、これは短いが良い批評だ。(p219)

 この解釈からは当然ながらゴジラが向かおうとした先は皇居だということになるだろう。しかし皇居を前にしてゴジラは凍結させられる。いわば貴種流離譚という説話装置は停止させられる。シン・ゴジラの世界は、天皇制を忌避したのではなく、確信犯的に天皇制の存在しない世界を選びとったというのが大塚の見方である。

 そのような結論を導くにあたっては先行する不敬文学や原一男=奥崎謙三の『ゆきゆきて、神軍』を比較対照している。そのことで論旨をより鮮明にすることに成功していると思う。

 ちなみに、加藤典洋はゴジラが再び動き始めた時「サスペンスフル」な行き先として「米軍基地」や「福島第一原発の原子炉」を挙げているのだが、そのような批評に対して大塚は「批評家の劣化」をみてとっていて、なかなか手厳しい。

 古市憲寿の『平成くん、さようなら』をめぐる論考は古市自身の数々の「炎上」案件を批判しながらも、天皇論の見地から一定の評価を与える読解は大塚の懐の深さが窺われるもので、納得させられた。

 そのような批評的考察を行なった後に、あらためて提示される天皇制の現状への批判は辛辣である。それは昨今提起されている数多の天皇制論の中でも最も根元的な思考に基づく言説のひとつだろう。

……今回の退位に最も問題があったとぼくが考えるのは、「国民の総意」でこれからも天皇を退位させられる前例ができたことだ。今や左派がリベラルな天皇を以って政権の暴挙を牽制しようとしているが、こういう二重権力は、パブリックなものの形成を損なうだけでなく世論の形を借りて政権の気に入らない天皇を退位させることを可能にする。権力の暴走抑止は三権分立の仕組みと選挙によってのみなされるべきである。天皇という三権の外側に抑止機能を求めてはいけない。(p328〜329)

by syunpo | 2019-06-01 19:30 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

答えることは終点じゃない!?〜『無目的な思索の応答』

●又吉直樹、武田砂鉄著『無目的な思索の応答 往復書簡』/朝日出版社/2019年3月発行

b0072887_19130610.jpg 又吉直樹と武田砂鉄。二人の立場は一見したところ対極にある。片やコントや小説など何もないところから何かを創り出すのが仕事。一方は、それを受けとめて批評することを生業としている。そんな二人が「往復書簡」という形で言葉を交わした。付かず離れずの絶妙の距離を保って交換されるやりとりは、スラスラと読めてしまう内容だが、時に意味深長な箴言めいた言葉が放たれたりするから油断ならない。

 基本的には二人が日常生活でおぼえた違和感を取り出してきて、それを転がしながら社会批評的な次元にまで持ち上げていくパターンに本書の持ち味が出ているように思う。たとえば明るくなりすぎた現代社会に対する違和感をベースにした一連の対話はなかなか秀逸である。

「どこまでも明るい状態を維持したがる社会が、どれほど豊かな闇を剥奪しているか」を告発した書物について武田が言及すると、又吉が「不確かなものを凝視する時にも暗闇は役立ちます」と応じる。そこからさらに「心の闇」といった紋切型表現への違和感へと話は展開していく。あるいは自分の性格の暗さについての述懐が始まったりもする。

 当然、ささやかな緊張感が走る場面もある。又吉の新著『劇場』に関して、武田は「面白く読みました」と好意的な感想を述べた後に「長期間共に暮らしている男女」を描きながら、性描写を一切入れなかったのは「時折、不自然に感じました」と率直に伝える。それに対して又吉は、主人公の性格を考慮した旨、冷静に応答しているのが印象的だ。

 文字どおり無目的なやりとりのなかに、言葉の世界に生きる二人の才気や矜持が感じられる、そんな本である。

by syunpo | 2019-05-15 21:00 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

家族関係にもメンテナンスが必要〜『子育てが終わらない』

●小島貴子、斎藤環著『子育てが終わらない 「30歳成人」時代の家族論 新装版』/青土社/2019年3月発行

b0072887_19104696.jpg 本書刊行後の二〇一九年三月、内閣府は四〇〜六四歳の「ひきこもり」が全国で六一万人いるという推計値を公表した。「ひきこもりは若者特有の現象ではない」ことがあらためてお役所的にも確認されたわけである。ひきこもりの長期化・高齢化は今や日本社会の深刻な社会問題といえるだろう。

 行政や教育の現場で就労困難な人々の支援活動を行なってきた小島貴子。「社会的ひきこもり」を日本ではじめて世に訴えた精神科医の斎藤環。二人がひきこもりをめぐってあるべき親子関係や夫婦関係を考えていく。結果、ひきこもっている人たちだけでなく、あらゆる人々にとっての人間関係の構築に深い示唆を与えてくれる対話となった。

 人の成熟が遅れているのは世界に共通する必然的な流れだと斎藤はいう。先進国であるほど教育期間が延びている。精神医学的にはモラトリアムが延長するということだが、自己決定をしなくてよい期間が教育期間とほぼパラレルに延びているのが今の状況だ。

 かつてのように子どもがすぐ労働人口に組み込まれる時代であれば、成熟の遅れなどとは言っていられなかったわけですけれども、豊かな社会になってきて、社会的なインフラが整備されていきますと、急いで成熟しなくてもよくなる。社会心理学者のマスグローブは、「青年期は蒸気機関とともに発明された」と指摘しています。いわゆる成熟社会とは、社会のインフラが整備されて、ハンデがある人でもひとりで生きていきやすい社会のことでもあります。未成熟さもハンデのひとつと考えるなら、成熟社会は未成熟に対して寛容な社会とも言えます。(斎藤、p22)

 斎藤はひとまずそうした社会変化を肯定したうえで、ひきこもりの高齢化を一種の「副作用」と見なすのである。この基本認識は決定的に重要だ。そのような歴史的条件を踏まえて具体的な傾向と対策を探っていく。この種の論題につきまとう凡庸な精神論など入り込む余地はない。

 最も印象に残ったのは、夫婦関係を見直さない限り、親子関係の問題は解決しないことが繰り返し強調されている点だ。

 日本の家庭は「母子密着+父親疎外」が一般的な形態である。そのような状態で定年期を迎えるときに夫婦二人きりになる息苦しさを想像して「子どもたちにはもう少し家にいてほしい」とつい願ってしまうことがある。その願望は子どもにも伝わる。

 これでは子どもの自立がなかなかできないのは当然で、母親の無意識的な欲望が、子どもを縛ってしまうわけです。
 これを断ち切るためには、やはり夫婦関係が最大の鍵を握っていると私は考えていて、とくに熟年期を迎えて以降の夫婦関係を見直すということが大切だと考えています。(小山、p70)

 また相手に対する肯定の大切さを説いていることも本書全体を貫くキーコンプの一つ。具体的には「あいさつ」「誘いかけ」「相談事」「教わる」といったコミュニーケーションのあり方が相手への肯定を示すことになるという。

 不勉強で恥ずかしながら「レジリアンス」という言葉を本書で初めて知った。斎藤の説明は以下のようなものである。

 いま精神医学では「レジリアンス」という言葉がたいへん流行っています。同じストレスを受けて傷つく経験をしても、そのストレスで病気になる人と、あるいはそのストレスを糧にしてより成長する人と2通りいます。この違いをレジリアンスと言うんですね。病気に対抗する力のことで、「抗病力」などとも訳されます。
 このレジリアンスの強さを決める条件のひとつが、子ども時代の、親からの無条件の肯定であるということがよく言われています。(斎藤、p87〜88)

 この話の流れで「以心伝心」的な会話は親子関係においては否定的な評価がくだされる。斎藤によれば「親子関係の間では以心伝心がはじまってしまうと子どもはどんどん退行していきます。子どもが幼児化してしまうということですね」。

 このほか問題解決のさいにコミュニーケーション不全を起こすものとして「決めつけ」「分担」「威圧」「提案」などのパターンも回避すべきものという。

 斎藤は子どもの自立のための一案として、思春期を迎えた段階で、いつまで面倒を見るのかというタイムリミットを伝えることを提案している。また小島は、一定の枠内でお小遣いをどう使うかを考えさせるなど、子どもの経済的自立を助けることも大切だと指摘する。

 予期せぬネガティブな出来事を予防しすぎないことも重要である。そのような出来事もまたひとつの学習の機会になる可能性があるからだ。

 学校教育との関連では、斎藤が、成績評価が全人的評価になったことの弊害を指摘している点もなるほどと思う。知識・技能よりも関心・意欲・態度を重くみる「新学力観」という評価方法だが、これにより、子どもたちは以前に比べ素直になったと言われている。

 ほんらい自信というものは、そういった評価とは別のところで確保してほしいんですが、いまの子どもは、自信の獲得と評価がセットになった狭い回路に閉じこめられてしまっている。(斎藤、p153)

 自信のなさはひきこもりやニートに多く見られる傾向であることはいうまでもないが、教育現場における評価基準の変革がひきこもり予防には役立ちそうにないのは残念というほかない。

 いずれにせよ、二人の対話はとくにひきこもりの問題を離れても読める内容で、人が家庭や社会で豊かな人間関係を築いていくうえできわめて示唆に富むものである。副題にもあるように、現代社会に向けた現場からの家族論といえる。

by syunpo | 2019-05-07 21:18 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

社会学者の意外な一面を読む〜『ひとりの午後に』

●上野千鶴子著『ひとりの午後に』/NHK出版/2010年4月発行

b0072887_18533114.jpg 社会学者・上野千鶴子の一味違ったエッセイ集とでもいえばいいか。版元の謳い文句は「『けんかの達人』と呼ばれるフェミニストの意外な一面」。食べ物のことや余暇の過ごし方、好きな音楽、花鳥風月にまつわる雑感などなど、肩のこらない随想が多く含まれる。NHK出版の雑誌「おしゃれ工房」に連載した文章を書籍化したものである。

 洛北にある和菓子屋の季節限定の栗かのこの美味しさを熱く語り、かすていらの来歴を振り返って日本のお家芸であるアレンジ文化にさりげなく言及する。

 夕陽を見ることのできる土地に住むのが夢だったと書いた後にこれまで世界各地で見てきた夕陽を挙げていく文章も読ませる。インド・ムンバイでの揺らめきながら燃え立つような日輪。バンクーバーのゆっくり沈んでいく夕陽。アイルランド・ドネガルで突風を浴びながら見た大西洋に落ちていく夕陽……。「夕陽は誰にも属さないし、ひとり占めもできない。いくらでもほかのひとたちと分かち合うことができる」。

 浅川マキを語る口調にも熱が帯びる。女を歌う演歌の御都合主義に毒づき、フォーク歌手の感傷には辟易し、ニューミュージックの能天気ぶりをあげつらう。そして浅川マキの「かもめ」を聴いたときの思いを想起する。「浅川マキの歌では、女はかもめのように自由だった」と。

 もちろん研究者としての面が色濃く滲み出た文章もある。〈本棚〉の題した一文には「にんげんのアタマのなかは、九九パーセントまで他人のことばとアイディアの借用で成り立っている。オリジナルは残りのわずかな部分だけ」というフレーズが出てきて瞬時に同感する。自分のアタマで考えることの重要性を説く声が喧しいが、自分のアタマと他人のアタマの区別はさほど自明ではないと私は常々思っている。

 家族持ちではないが「人持ち」であることの楽しさ、あるいは「ひとりが苦にならないひとはひとりでいたらよい」と述べているのはいかにも上野らしい。もっとも「おひとりさま」の増加は日本社会の趨勢であって、本書でもその事実を意識した文章がいくつか収められている。

「アーティストや作家という職業と、社会学者というダサい職業であることの決定的な違いは、想像力よりも現実の方が豊かだと思うかどうかだと思っています」と上野は『思想をかたちにする』のなかで語っている。上野の社会学者としての矜持はその言葉に凝縮されているように思う。

 何はともあれ、本書は上野社会学を理解するうえでも示唆に富む一冊に違いない。なお本書は二〇一三年に文藝春秋によって文庫化されている。

by syunpo | 2019-05-05 08:56 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

懐疑主義から離脱しよう〜『「学歴エリート」は暴走する』

●安冨歩著『「学歴エリート」は暴走する 「東大話法」が蝕む日本人の魂』/講談社/2013年6月発行

b0072887_18421976.jpg 本書は安冨歩による「東大話法」研究の第四作目にあたる本である。東大話法とは安富が命名したもので、現代社会を支配する学歴エリートたちが得意とする話法。それは欺瞞と無責任を旨とする。

「自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」
「自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する」
「都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事する」

……などなど東大話法に関する二十項目のルールはなるほど昨今のニュースに接したときに思い当たるようなことばかり。当然ながら本書では批判の対象となる。

 安富によれば、原発の崩壊も高速道路など社会的インフラの老朽化に伴う事故も、学歴エリートたちが高度経済成長期より積み上げてきた「東大話法社会」の崩壊を象徴する出来事である。

 ところでルールの第一にある「自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」態度を安富は「立場主義」と呼ぶ。ほぼすべての学歴エリートは「立場主義」に毒されているというのが本書の見立てである。

 立場主義には三原則がある。

「役を果たすためには何でもやらなくてはいけない」
「立場を守るためには何をしてもいい」
「人の立場を脅かしてはならない」

……の三つである。しかし考えてみるまでもなく、これは学歴エリートだけでなくすべての日本人にあてはまるものと考えられる。すなわち社会全体に蔓延している日本の社会病理のようなものと認識すべきなのである。

 東大話法や立場主義を象徴する共同体として「原子力ムラ」をみればわかりやすい。電力会社幹部、政治家、専門家、官僚という学歴エリートたちは互いの「立場」を尊重し、「東大話法」で物事をうやむやにしながら原子力行政をつくりあげてきた。そこには個人の見識や良心などが入りこむ余地はない。ムラの人々が外部に向かって何事かを発信するとき、そこに彼らの肉声がこもっていることはほとんどない。

 安富はこのような「東大話法」や「立場主義」を分析するにあたっては、近現代の歴史的視点を導入する。つまり歴史的に形成され継承されてきたものとしてそれらをとらえるのである。

 たとえば、戦時中の陸軍参謀は作戦が失敗しても責任を問われることはなかった。参謀に責任を負わせてしまうと萎縮して自由な発想ができなくなるからという理由である。
 国民の税金を無駄に使ったところで個々の責任を問われず、エリート街道をすすむ高級官僚の源流を、安富はこの参謀に見出している。

 戦前戦中の社会のあり方や人々の発想は、戦後社会にもアナロジカルにあてはまる。それは陸軍参謀から官僚に至る系譜だけではない。
 高度経済成長期に専業主婦が劇的に増えた背景についても、安富は戦時中の「銃後の守り」「靖国の母」が、戦後の経済戦争にもそのまま踏襲されたという見方を採る。

 では、そのような日本社会の病理的なあり方を修正し、あるべきすがたに変えていくにはどうすればいいのだろうか。

 安富は「懐疑主義からの離脱」を提唱する。会社や共同体のなかで革新的な取り組みがはじまった時、「本当に大丈夫なのか」と一見冷静な態度をとる人が多い。しかしそれは方法的懐疑の堕落した姿だと安富はいう。ラッセルを引用して、方法的懐疑主義は成立せずニヒリズムへと堕落してしまうことを指摘しているくだりはやや大味な理路をたどるが、内容は明快である。

 さらにマイケル・ポランニーの「コミットメント」を援用して処方箋を補強する。ここにいうコミットメントとは「『自分』というものすらも忘れて、すべてを『信じる』ことそのものに投げ出してしまう」ことを意味する。この投げ出すところに真の意味での責任が生じるというわけである。立場主義においては守られるのは立場だけであって、それでは人間が真の責任を負うことにはならない。

 戦前からの連続性を指摘する日本社会論は今では珍しくはない。本書の認識はこれと同時期に刊行された白井聡の『永続敗戦論』と相通じるものがあるように思われる。白井の現代史論の核心にあるのは「敗戦の否認」という概念だが、安富の議論はそれと重なり合う部分もある。たとえば「もはや戦後ではない」という有名な官僚の言葉に戦争(敗戦)に対する忌避感を見出している点だ。その言葉の裏側に込められた含意は、第二次世界大戦の敗北は速く忘却したい、できればなかったことにしたい、ということにほかならない。

 むろん日本社会全体に浸透している立場主義や東大話法からの脱却は「言うは易く行うは難し」かもしれない。けれども私たちが罹っている異常事態を自覚し、向かうべき方向を議論することはそれだけでも意義のあることだろう。

 本書に出てくるキーワードのなかでも、とりわけ「立場主義」なる概念はもっと広く参照されてもいいのではないかと思う。地位の変化と同時に発言内容もすっかり変化させてしまうエリートの姿を私たちはこれまで数多目撃してきた。そのような光景に辟易している国民も多いはずである。克服すべき病理的現象を概念化するだけでも、私たちの視界は晴れるだろう。
by syunpo | 2018-12-23 18:45 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

〈予測誤差〉がもたらす刺激〜『快楽上等!』

●上野千鶴子、湯山玲子著『快楽上等! 3・11以降を生きる』/幻冬舎/2012年10月発行

b0072887_19115941.jpg 東日本大震災とそれに伴う原発事故は、その前後で私たちの政治意識や言論空間の様相を大きく変えてしまった。上野千鶴子と湯山玲子の対談記録である本書もまたサブタイトルにあるように「三・一一」が一つのキーポイントになったことを隠さずに始められる。

 様々なことが論じられているが、最も印象に残ったのは、震災後によく言われるようになった「最強の社会関係資本は地縁と血縁」は本当かを議論するくだり。

 地縁・血縁の強さは個人に恩恵をもたらすが、デメリットもある。上野は「絆」を「縛り合い」と言い換えることもできると指摘している。とくに同調圧力の強い日本の社会ではそのような負の側面を実感することが少なくないだろう。

 基本的に都市生活者というのは、プライバシーのない生活から逃げてきた人たちである。密接な近隣関係を持つ生活を好まない。保守的な人間が「昔はよかった」「近隣との絆のある生活を」と言ったところで、その種の古き良き時代の共同体的な生活に戻れるはずもない。

 そこで浮上するのは上野のいう「選択縁」である。自分が選びとった仲間との交流には地縁血縁にはない魅力があるだろう。上野が、選択縁による死の看取りまでを見通した実例を挙げていて、湯山もそれに共感を示している。
 死んでいく人に何をしてあげても見返りは期待できない。それでも「お世話したい」という無償の気持ちを持った人たちがいるという事例は、なるほどひとつの可能性を感じさせるものだ。

 もちろん選択縁の構築にはそれなりの能力が求められる。選択縁が貧しいからこそ最後は地縁血縁に頼らざるをえないという人は少なくないはずだ。が、それを差し引いても、これまであまりに強固だった地縁血縁のイデオロギーを相対化するという意味では選択縁が意義深いものであることは確かだろう。

 医学用語の「予測誤差」もキーワードの一つになっていて、自己完結的な行動よりも他者との関わりを繰り返し推奨している点も印象的である。予測誤差の快楽を体験するためには秘境探検に出かける必要はなく、広く他者との交流を深めるべしというわけだ。
 もっともよくよく考えればこれは言葉が物珍しいだけで、話の内容は至極当たり前のことを言っているだけのようにも感じられた。

 随所でおじさん社会のダメっぷりが指摘されていて、とりわけ女性読者には痛快に感じられる対談本かもしれない。
by syunpo | 2018-12-20 19:19 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

一番近くて遠い存在〜『家族という病』

●下重暁子著『家族という病』/幻冬舎/2015年3月発行

b0072887_19531856.jpg 挑発的なタイトルが付けられているが、内容的にはごく常識的なものではないかと思う。家族を必要以上に美化する世の風潮に対して違和感を表明しつつ、家族以外の結びつきをもっと評価して多様なライフスタイルを互いに尊重し合おうというのがこのエッセイの趣旨である。

 家族だけの楽しみの空間が時に排他的になるという指摘はそのとおりだと思うし、親と子の相互依存関係がもたらす弊害はすでに社会学でもおなじみのテーマ。さほど親しく交際しているわけでもない知り合いからの家族写真入りの年賀状は「幸せの押し売りのように思える」というのも同意だ。

 同じように独居老人や孤独死に言及しながら、それを必ずしも不幸と決めつけないのは、本書の翌年に刊行された山折哲雄の『「ひとり」の哲学』と同じスタンスといえる。

 ただし山折が鎌倉時代の仏教人を持ち出して高踏的な「哲学」に向かうのに対して、下重はそのような御大層な理論武装はしない。ただ周囲の人たちのことをあれこれ想起しつつ、自身の死生観を率直に述べるまでである。「その人らしい死に方なら、それで十分だと思えるのだが」と。ひとり暮らしや孤独に対するステレオタイプな悪評を相対化する姿勢としてどちらにより共感するかといえば、もちろん私は後者だと答える。

 ところが、挑発的な標題と書きぶりが保守的な家族観をもった読者を刺激したのか、本書への酷評は感情的なものが多い。なるほどそうした反応にこそ本邦における「家族という病」の根深さが露呈しているともいえようか。

 もっとも下重の態度は患者を診断する医師のような高見に立ったものではないことも特筆しておこう。興味深いのは、下重自身が家族を理解しようと悪戦苦闘したことをそれなりに率直に記していることである。最初から理解のための努力を放棄するという冷徹な選択をしたわけではないことは重要だ。さまざまな試行錯誤の末に「家族という病」を自覚するに至った著者自身もまた「家族という病」に罹患していたのだ。人の子である以上、それは当然のことである。
by syunpo | 2018-06-11 20:01 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

単独者ぶるオッサンたちの欺瞞〜『おひとりさまvs.ひとりの哲学』

●山折哲雄、上野千鶴子著『おひとりさまvs.ひとりの哲学』/朝日新聞出版/2018年1月発行

b0072887_19145814.jpg『おひとりさま』シリーズで知られる社会学者の上野千鶴子と『「ひとり」の哲学』がベストセラーになった宗教学者・山折哲雄の対談集。「ひとり」をめぐって熱い対論が交わされるのだが、上野が一方的に山折につっこむ展開で、山折の対応がまったく冴えないのが残念。

 上野は、日本の思想史に連綿とつづいている「単独者の系譜」に終始厳しい見方を示す。世間から背を向ける世捨て人、流れ者、放浪者たちのことだ。西行、鴨長明、松尾芭蕉、尾崎放哉、種田山頭火といった固有名が挙げられている。彼らの営みと山折の『「ひとり」の哲学』(の読者)とは、上野のなかでは重なりあう。

「家族はあてにしていませんよ」「最期は野垂れ死にですよ」というのは、決まって男たち。彼らは鴨長明や漂泊の俳人たちに憧れるふりをしているが、絶対に実行はしないし、実行しようにも自分ひとりの身の回りの始末さえできない。上野は男たちのそのような欺瞞を徹底的に批判するのである。

 山折から説得力のある反論は最後まで聞かれない。山折が傾倒している一遍の話が出てくるが、一遍の魅力を再認識するまでにはいたらない。また江戸時代の歌舞伎芸能で使われるようになったという「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というフレーズを持ち出すのもかえって議論を混乱させている。どう考えても「ひとりの哲学」とは相容れないものだと思われるから。

 そんなこんなで上野の独演会状態が続く。男の身勝手さが炙り出されるという点では興味深い内容かもしれないが、言葉の交歓によって「界面作用」が生まれるという対談の醍醐味が感じられる場面はほとんどなかった。
by syunpo | 2018-05-19 19:15 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

翻訳と土着化の重要性を説く〜『英語化は愚民化』

●施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』/集英社/2015年7月発行

b0072887_18294485.jpg 昨今、日本では国策レベルで英語を重視する動きが目立つようになってきた。公用語を英語とする英語特区をつくるという提言、小学校における英語教育の早期化などの動きはその極端な実例といえる。本書ではそのような動向全般を「英語化」と大括りにして批判的に検討する。著者の施光恒は政治理論、政治哲学を専攻する研究者である。

 英語化の根底にあるのは「グローバル化史観」である。その史観に基づけば、英語化はビジネス上の要請のみならず「平和で安定した世界を築くため、政治的・文化的統合を進める」うえでの必須だという。そのためには今や世界標準となっている英語を積極的に導入すべきだというわけである。

 しかし実態はどうであろうか。
「効果が疑わしく公正さにも欠ける新自由主義的な経済政策を無批判に信奉し、子供たちを外需奪取競争の一兵卒とするために英語偏重の教育改革に躍起になっている」のが実情ではないか。

 また国家戦略特区構想のなかには、海外投資家を意識したサービスが多い。政策的に「資本を持ち込んでくれる海外投資家がビジネスを展開しやすい環境を作る」ことも同時に目指されている。
「単一言語使用の誤謬」「母語話者の誤謬」が広まった原因についても、著者は、英米の各種業者のビジネスのうえでのうまみを受け入れたもの、つまり「商業上の理由」にすぎないと断じる。

 そのような実態を覆い隠す役割を果たしているのが「グローバル史観」であり、およびその言語版としての「英語化史観」だというわけである。

「グルローバル史観」に基づく英語偏重政策に対する批判は、さらに歴史的な観点や国際政治的な見地からもおこなわれている。そのような検討を加えることによって本書の記述はより立体的・説得的になっているように思われる。

 歴史的な考察では宗教改革に始まるラテン語と各国の国語との関連を考える。かつては宗教・学術的にはラテン語がヨーロッパの共通語だった。そこでは知識人と一般庶民の断絶があった。しかし宗教改革によってラテン語で書かれていた聖書がドイツ語やフランス語などの土着語に翻訳されるようになり、そのことを通して土着語は国語へと発展した。自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた言語で、知識を得ることが容易にできるようになったことは歴史上、画期的なことである。ヨーロッパ近代の民主化への道はそうして開かれたのである。

 ひるがえって日本ではどうだったのか。近代化の初期においては、森有礼らによる英語公用語化論が提起された一方、翻訳の努力によって日本語を豊かにし、近代国家の基盤たる国語を整備していく道も示された。明治日本が選択したのは後者である。明治の近代化成功のカギは日本語の発展にあったといっていい。

 ちなみに、科学技術立国を支えてきたのは日本語で高等教育を受けることが可能だったからという見解は、本書とほぼ同時期に刊行された松尾義之の『日本語の科学が世界を変える』の基本認識と重なりあうものだろう。

 国際政治的な考察では、グローバル化史観に基づく政治的統合の象徴とみられるEUの問題が検討に付される。EUに対する疑義の代表的なものは、加盟各国の民主主義を危うくするというものである。エリート層と一般庶民との分断が強化されるのだ。

 EUのように国際的な共同体を動かす人々は英語に習熟したエリート層だけに限定されていく傾向にある。ウィル・キムリッカは、欧州の言語上の小国デンマークを例に挙げ、使用者の少ない言語を母語とする人々がEUのなかで不利な立場に置かれていることを指摘している。もしEUの「民主化」が徹底されるとデンマーク国民は他のあらゆる国の国民と議論する必要が生まれるが、それは困難なことである。つまり「選挙制の欧州議会を通じてEUの直接的な民主的責任を拡大することはかえって、最終的に民主主義的シティズンシップを掘り崩してしまう結果となってしまう」。

 そこでEUの失敗は「リベラル・ナショナリズム」理論の台頭を促すことになった。すなわち「国民意識やその共有がもたらす国民相互の連帯意識、ナショナルな言語や文化、それらへの愛着(愛国心)などが、実は自由民主主義の政治枠組みを成り立たせるために大いに必要なのではないか」とする考え方である。そのようなリベラル・ナショナリズムは本書が批判するグローバル化史観と相容れないことはいうまでもない。

 また英語の世界標準語化は「自然な流れ」ではなく、人為的なものである、とする指摘も重要。英米が植民地を手放す際、国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち推進するよう努めてきたことは周知の事実だろう。

 実際、イギリスの文化戦略を事実上担っている機関「ブリティッシュ・カウンシル」が発行した『英語の未来』という書籍には英語の国際戦略が堂々と示されている。「世界の人々が、母語で教育を受け、生活する権利、つまり『言語権』の考え方に目覚めたり、言語的多様性の保護に意識的になったりすることに、イギリスとしては警戒しなければならない」とディヴィッド・グラッドルは書き、イギリス英語のブランドイメージを慎重に守っていく必要性を主張しているのだ。

 以上のような議論を総合すれば、日本で現在進行中の英語化に対してはおのずと「否」という結論に至る。本来なら国家百年の計として重視されるべき教育までビジネスの道具と見てしまう新自由主義的な「英語化」路線は、子供たちから質の高い教育を受ける機会を奪い、日本人の愚民化を進めることだろう。英語化の行き着く先には「誰も望まない未来」が待っている。それが本書の結論である。

 ただし、筆が走り過ぎている箇所も散見されるのが少し気になった。たとえば「言語が異なれば、連帯意識の醸成が難しく、民主国家の運営は困難を極めると言ってよい」というのはやや粗雑な議論ではないか。多言語国家は今も世界中にいくらでもあるし、カナダのように日本以上に民主制を機能させている国もある。肯定的に引用されている鈴木孝夫のいう「タタミゼ効果」(日本語を学ぶと性格が温和になるとする仮説)にしてもかなり主観的なもので、それを英語化愚民論につなげるのは強引な気がする。

 とはいえ、新自由主義的な英語化に代わる世界のあり方として「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」を目指すべきとする主張に反対する理由はない。たとえ月並みな理念であったとしても実現されていない理念はいつだって新しい、との至言をここで想起するのも意義深いことだろう。
by syunpo | 2018-05-12 18:50 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

健全な個人主義の確立を〜『個人を幸福にしない日本の組織』

●太田肇著『個人を幸福にしない日本の組織』/新潮社/2016年2月発行

b0072887_18201566.jpg 組織を崇め、組織を畏怖する。日本人の一種の「組織信仰」がしばしば現実を見る目を曇らせる。太田肇は本書の冒頭にそのように記している。そこで「いま求められているのは、これまで無批判に受け入れてきた組織の論理を疑い、個人の視点から組織の間違いやウソ、偽善を暴く」ことであり、本書では「それに代わる新しい理論と改革の具体策」を提示する。これは秀逸な日本組織論といえるだろう。著者は組織論を専門とする研究者。

 日本人はチームワークがよい。
 日本人は愛社精神が旺盛である。……。

 日本人自身が信奉している日本人にまつわる神話にはいろいろあるが、それらを一つひとつ検討すると眉唾的なものが少なくない。本書ではそのような日本人神話を容赦なく解体していく。また組織を運営するうえで日本人が正しいと考えてきた原則のあれこれについても考察を加えていく。

 たとえば「日本人は愛社精神があるとか帰属意識が強い」という認識に対しては「辞めても移るところがないから会社に帰属しているのを、気に入って帰属しているのと勘違いしているのである」と喝破する。
「日本企業は、見せかけの勤勉さと裏腹に、実は会社に対して不満をもっている人、前向きな意欲のない人を大量に抱えている」。

 そのような会社と社員との関係を「家を出るに出られない反抗期の子が、親に反発するのと似たような感情」と喩えているのはなるほどと思う。

 メンバー同士の関係も一見すると仲が良さそうだが、実態はそうでもない。日本と欧米のホワイトカラーを対象にした調査によると、日本人は欧米人と比較して同僚を信頼できないし、仲間と助け合わないし、情報の共有もすすんでいないという結果が出ているという。

 これ以外にも企業組織の課題に関しては、年功制の弊害を指摘しているほか、管理強化がかえって不祥事を増やしてしまう陥穽について論じているくだりも説得力を感じた。

 人を選ぶことの現代的な困難に関連して、大学の入学試験に抽選を導入せよという提案には賛否両論ありそうだが、一つの見識を示すものではあるだろう。また昨今は憲法学の分野でも盛んに議論されているPTAや町内会に関して各人の自由参加にすべきと訴えている点は私も同感である。

 地方分権も組織論の観点を導入すると従来の議論とは一味違ったものになる。地方分権を積極的に肯定する人はリベラリズムの陣営にも多数いるが、個人と組織との関係から考える場合、デメリットも多い。

 たとえば地方分権を徹底すると、当然、地方によるサービスの格差は拡大する。具体的に認可保育所の月額保育料や水道・下水道料金を比較した場合、大きな格差の存在することがわかる。
 それでも地方分権の大合唱が起きているのは、首長の権限が大きくなり、彼らの政治的野心をくすぐるという点も見逃せない。「地方」とひと口にいっても為政者と住民との利害はしばしば異なる。そうした関係は「国/地方」という単純な政治学的二分法からは見えにくい。

 たしかに産業政策やまちづくり、観光などは地域が知恵を絞って魅力を競い合ったらよいだろう。しかし、個人の基本的な権利や競争条件にかかわる部分で個人の責任によらない格差が広がるような政策は望ましくない。そもそも市場原理、競争原理になじまないところをカバーするのが政治や行政の役割である。(p157)

 以上のように、本書が論じる組織は、国家の政府から地方自治体、企業から地域の自治組織、学校組織まで多岐にわたっている。そのため論点も一見拡散しているようにみえるが、「組織の論理の肥大化」が健全な個人主義の観点からみて弊害が多いという点で論旨は一貫している。
 日本の組織を考えるうえで、避けて通ることができない問題が提議されているという意味で、本書は一読の価値があるといっておこう。
by syunpo | 2018-04-23 18:27 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)